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逃亡者 〜緑の栞〜
司法局セントラルビルの一角にあるその部屋の前で司法局特務執行部所属高野千尋は足を止めた。
透明な強化プラスティックを一枚隔てた向こうから、青い髪の男が椅子に座ってこちらを見つめている。彼のアイスブルーの瞳が全てを吸い込んでしまいそうな程深くて、千尋は無意識に息を呑んでいた。
「待っていたよ、ゆき」
向こう側とこちら側を繋ぐ音声スピーカーから彼のくぐもった声が聞こえてきた。
「空野彼方……いや、朱」
そう呼びかけて千尋は反射的に目を閉じていた。その名に敬愛の念がこもってしまうのを隠し切れなくて、その事がまるで禁忌のように奥歯を噛む。
きっかり一秒、間をあけて返ってきた空野彼方、いや朱の声は驚きを微かに含んでいた。
「嬉しいな。僕の名前ちゃんと覚えててくれたんだ」
「何故……?」
千尋は問いかけた。
「青い絵本を空野彼方に渡してはいけない。ここを開けてくれるね、ゆき」
◇◇◇
この世には不思議な色の絵本があった。
『白い絵本』は、その日見た夢を映す。
『黒い絵本』は、心の闇を映す。
『赤い絵本』は、血に飢え生き血を啜る。
『青い絵本』は、天を翔る。
◇◇◇
司法局セントラルビルの二階にあるカフェテラスで、のんびりとランチを楽しんでいた司法局特務執行部オペレータ藤堂愛梨は、突然のエマージェンシーコールに頬張っていたナポリタンを噴出しかけた。
何事かと慌てて立ち上がりながら通信機開く。
液晶画面には事務的な一行。
『空野彼方脱走』
12時17分の事であった。
愛梨がオペレーションルームに戻り詳細を聞かされたのは、それから更に10分後の事である。内容は愛梨を愕然とさせるものであった。
空野彼方脱走には手を貸した者がいる。
それは監視カメラから高野千尋と断定された。
手を貸した者が司法局員であるという一点に於いて、司法局はC4ISRの導入を先送りにした。それは単に、司法局の汚名は司法局自らが雪がなければならない、というくだらないプライドによるものだった。だが、手を貸したのは司法局が誇る特殊部隊の人間である。一般の者達の手に負える相手ではない。それ故に、捕縛にあたる者達は細心の注意をもって選ばれた。
司法局特務執行部所属仁枝冬也が司法局に呼び出しを受けたのは13時3分の事であった。事件発生からこれだけの時間が開いたのには、いくつもの理由があったが、その最大の理由は官僚システムによるものだろう。
そしてもう一つ、彼が今回の作戦に選ばれるにあたり危惧される事があったからだ。
「今回の件は、司法局の恥である。何としても止めねばならん。恐らく奴らは封印された『青い絵本』の奪還に向かう筈だ。高野の生死は問わん。何としても奴らをCITYから出すな!」
それが司法局が彼に下した命令であった。
「せ……生死は問わないですって!?」
驚いたように声をあげたのは愛梨だった。冬也をゆっくり振り返る。
上司の顔をまっすぐに見返す彼の顔からは、何の感情も読み取れない。
「そんな、だって高野くんは……」
愛梨はそのままやるせない気持ちで言葉を詰まらせた。
千尋は冬也の親友でもあり、幼馴染でもあるのだ。
「わかりました」
冬也が静かに頭を下げてその部屋を出て行ったのは13時17分の事であった。
「どうして!?」
「彼にしか高野くんは止められないからね」
納得のいかない顔で愛梨が上司に詰め寄ろうとした時、彼女の背後から宥めるような声が届いた。
冬也が出て行った扉の前でその男は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま軽い笑顔をつくっている。
見知った男の顔に愛梨は眉間に皺を寄せて嫌そうにその軽薄そうな顔を睨み付けた。
「どうして警察付きの観察医がこんなところにいるのよ?」
TOKYO−CITY衛生局医療計画部医療計画課監察医務院勤務の監察医、瑞城東亜は愛梨の視線に困惑げに肩を竦めて見せる。
「ゆうべ、NATで変死体が見つかってね」
「珍しくもないでしょ」
そっけなく切り捨てる愛梨に、東亜はやれやれと頭を掻く。
「それがどうも俺の見立てだと、空野彼方の仕業なんじゃないかと思うんだ」
「なっ!? ……どういう事?」
「そういう事」
東亜はそう言って説明するのも面倒げに踵を返した。彼の言葉に何か心当たるものがあったのか、愛梨は慌てて自分の席に戻るとオペレータコンソールのパネルをたたき始める。
「さて、俺はウェストゲートにでも行きますか。予想が当たってれば、高野君は仁枝君にも止められないだろうけどね。事の顛末ぐらいは見届けましょう――いや、顛末ではなく幕開けとでも呼ぶべきか」
東亜がそうして司法局セントラルビルのロビーをのんびりと横切ったのは13時23分の事である。
【起承転結の起】 本はただ物語をつむぎ続ける
■133501■
『ま、単なる予定調和だよ』
あの時、空野彼方はそう言って空の絵本を手に肩を竦めて嗤っていた。
予定調和とはどういう事なのだろう。どうしてもその言葉が気にかかって、既に彼は捕らえられ現在取調べ中であるにもかかわらず、胸騒ぎのようなものを覚えてシュライン・エマは仕事の合間を縫うように、その都立図書館に訪れた。
CITYが目的だったなら彼はCITYに入ってから絵本を開けば良かった筈だ。だが、彼はそれをしなかった。それが予定調和だというなら……。
本や栞については綾和泉汐耶の方が詳しいだろうか。だが受付で所在を尋ねると彼女は今日は休みという答えが返ってきた。残念だとは思ったが仕方が無い。シュラインは閲覧コーナーの机の上に持ってきた紙束を置いた。絵本が起こした事件、或いは絵本の存在は表沙汰にならないまでも何か関係していそうな事件、そして空野彼方が関わっていそうな事件をパソコンで検索して書き出したものだ。
図書館で、その事件に関する新聞や雑誌の記事を拾っていく。
目に止まったのは数年前に起きたという事件。
謎の台風到来にCITYが大混乱し、水没までした事件だ。表向きはシステムの故障と発表されている。しかし、あの時の千尋の言葉が本当なら、この裏には絵本と、そして空野彼方が関わっていたことになる。シュラインは新聞のページを捲った。この時はCITY内に進入してから本を開いているらしい。NATでの気象情報は連日晴れ。いや、むしろそうであったからCITY内だけの異常=システムの故障とかたずけられたのだろう。
「だけど、随分と局地的なものだったのね」
シュラインはぼんやり呟いた。五年前なら自分も多少は記憶に残っている筈だがあまり覚えが無い。記事も随分と小さかった。一部の区が水没した被害状況が簡単に書かれ、片隅に気象庁のシステム異常に関するお詫びが添えられているだけだ。区がまるごと水没して、これであるのは、他に別の大きな事件で紙面を埋められている……だけのせいではあるまい。もみ消しがあったのか。
シュラインは更に記事を探した。
しかし、それ以上これといった記事は見当たらない。空野彼方の名前すらどこにも出てはこなかった。
五年前の一事をもってS級犯罪者か。それはありえないように思われる。
第一……。
そこでふとシュラインは思考を途切れさせた。
目の前を今日は休みと聞いていた汐耶が高野千尋と並んで歩いていたからだ。
シュラインは立ち上がると、二人の方へ歩み寄った。
あの時、千尋を空野彼方は親しげに「ゆき」と呼んでいた。彼らは旧知だったのか。それは追う者と追われる者という関係からくるものだけとも思えなくて。いずれにせよ、彼はこの事件の詳細を知っている筈だった。
■1334001■
結局、図書館に足が向いてしまう自分に、汐耶は苦笑と溜息を滲ませた。
今日は休みなのである。しかし休みの日だからこそ客として一日読書を満喫出来るというものかもしれない。そんな事を考えて汐耶はこの日、都立図書館の門をくぐった。とはいえそのまま一般客立ち入り禁止の要申請特別閲覧室に足を運んでしまうのは職権濫用というものだろうか。
受付で同僚に声をかけると、来客があったらしい事を告げられた。
誰だろうとフロアを見渡していると、肩を叩かれる。
「こんにちは。貴女がいてくださってよかった」
「あら、確か……」
振り返った先に、迷彩服の上下にカーキ色のブルゾンを羽織った男が、人懐こい笑みを向けていた。
「司法局特務執行部所属高野千尋です。手前の失態を晒すようでお恥ずかしいのですが、事態は急を要していまして……」
千尋は困ったように頭を掻いた。
「何かあったの?」
きょとんと、半ば不審げに汐耶が彼を見返してしまったのは、口ほどに態度が急を要しているようには見えなかったせいだろう。
千尋はふと顔をこわばらせて汐耶の耳に口寄せると低い声で囁いた。
「空野彼方が脱走しました」
「何ですって!?」
思わず声を荒げてしまう汐耶に、千尋は人差し指を口元にあてる。
「恐らく、奴は絵本を狙ってここへ来る」
その言葉を自分の中でゆっくり反芻して汐耶は息を吐いた。
「わかったわ。ひとまず絵本は最地下の門外不出の部屋へ移動させましょう」
「お願いします。僕も護衛を兼ね、同行させて下さい」
「えぇ」
そうして二人は足早に特別閲覧室に向けて歩き出した。
「ところで、空野彼方って何者なの?」
汐耶が尋ねた。
「司法局管轄のS級犯罪者です」
どこか素っ気無い調子で千尋が答える。
「本名……じゃないわよね」
「えぇ。彼の本名は誰も知りませんから」
「そう……」
「称号のようなものです」
「どういう事?」
「空の絵本と太陽の栞を持つ者にのみ与えられる名前とでもいいますか」
「空の絵本……」
汐耶はそこに違和感のようなものを感じて俯いた。何かがひっかるのだが、何がひっかかるのかわからない。ただ、その答えが得られないまま汐耶は別の事を尋ねていた。
「そういえば、高野さんは彼と知り合いのなの?」
「さて?」
千尋がとぼけたように首を傾げてみせる。
「高野……さん?」
【起承転結の承】 栞抜き取り本開かば物語りは続き
■140001■
情報化時代の落とし穴。それはハードウェアとソフトウェアの進化の速度にあった。古いディスクは最新のハードと繋がらず、古いデータは最新のソフトで読み取れない。もう数十年も前から問題になっている事だった。過去の大量の電子データは、それを読み取る術が最早無いのだ。ハード・ソフトの進化に古いデータは取り残されるしかなかった。
司法局の監視下におかれたのか、人気の無い図書館でササキビ・クミノはページを捲りながら溜息を吐いた。
こうなると、過去のデータを紐解く最も有効な手段は紙しかない。結局のところ、人間の最先端とはアナクロでアナログという事になるのだろうか。
一体どれほどの時間がかかるのだろうと慣れぬ事に半ば滅入っていたクミノは、そこでふと何かに気づいたように資料から顔をあげた。
椅子から立ち上がり窓の方へと歩み寄る。そこから見える高層ビル郡の一つ。その屋上を凝視した。
彼女は胸ポケットから眼鏡を取り出す。それは、ただの眼鏡ではない。フレームの脇についた小さな螺子のようなものをまわしていくと、レンズは倍率を徐々にあげていく。
距離にして500mといったところか。そこに仁枝冬也と高野千尋がいた。
千尋の手が冬也に向けて伸ばされている。
彼の吐き出す言葉を読み取るように目を細めていたクミノは半ば呆然と呟いた。
「まさかトラッカードッグの名は、司法局の狗という蔑称ではなく、本当にハンドラーが……?」
一緒に行こう、と誘いかける千尋に、明らかに冬也の様子がおかしい。何か見えない力に抗っているのような。千尋がハンドラーなのか、或いは司法局にそれがあるのか。
いずれにせよ誘いかけるという事は、千尋は冬也を手駒にしたいと考えているのか。
反射的にクミノは召喚した半自動ライフルの引鉄を引いていた。
千尋が図書館ではなく冬也の元にあるという事実から考えても、彼を囮にする事は出来る。押さえておくに越した事はない。しかし、果たして彼らの関係とは一体……。
そこで、クミノは思考を一旦中断させた。
絵本奪還に彼らが図書館に訪れる事を見越して走らせておいた、半自動重/軽機関銃が発砲したのを感知したからだ。
千尋の傍に空野彼方がいる様子は無い。とすれば空野彼方は単独で図書館に入りこんでいたのか。場所はどうやら関係者立ち入り禁止区域。一瞬クミノは逡巡して、結局そちらへは向かわなかった。
ただ、窓の外の図書館から帰っていく人の波と逆行して歩く一人の女を見つけて、クミノは出入口へと歩き出したのだった。
■140003■
「こんにちは。お休みって聞いたんだけど、何かあったの?」
要申請特別閲覧室へと続く扉の前でシュラインが肩を叩くと、振り返った汐耶は千客万来ね、と肩をすくめてみせた。
「今日はお客のつもりで来たんだけど……」
そう言って千尋を振り返ったのは、今の状況をどこまで話していいものか、考えあぐねたからである。
千尋はやれやれと笑みをこぼして、それでも隠し立て出来ぬと感じたのだろう、極秘ですよ、と念を押して言った。
「空野彼方が脱走したんです」
「え?」
驚くシュラインに汐耶は要申請特別閲覧室へと続く扉を開きながら続けた。
「それで絵本を別の場所に移す事にしたの」
そうして一歩を踏み出した汐耶とそれに続く千尋に、シュラインは呆然と呟いた。
「……あなた……高野くんよね?」
シュラインが尋ねると千尋は破顔一笑してみせた。
「何言ってるんですか、俺は俺ですよ」
千尋は溜息を一つ吐き出す。シュラインは辺りを見渡した。別段世界が変わったようには見えなかったが、確かにいくつかの音が消えたような気がする。
「やれやれ。あなたはとても耳がいいらしい」
「彼らは?」
シュラインが尋ねた。
彼女は、ではなく、彼ら。
目の前の男からは、最早呼吸音も衣擦れの音も聞こえない。
「絵本を取りに行きました」
千尋が言った。
「…………」
「あなたはその間、ここでゆっくりお寛ぎください」
恭しく一礼してみせる千尋にシュラインは肩を竦めて歩き出す。だが、空間が捩れているのか、一向に前に進む気配がない。
「冗談……」
「そう簡単には破れませんよ」
確かに彼の言う通りのようで、シュラインは諦めたように息を吐いた。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
「何なりと」
「あなたは一体誰?」
「空野、彼方」
その答えに、やっぱりという思いが滲む。千尋の姿をしているが、彼の足音は自分の記憶していたそれと確かに違っていたからだ。
ならば、聞いてみたい事がある。
「予定調和ってどういう事?」
「何の話だい?」
「あなたは言ったわ。何故嵐を起こすのかと尋ねた時、それは単なる予定調和だと」
「神の定めたもうた秩序に、人は抗えない、という事だよ」
「嵐を起こす事が神の定めた調和ですって? 冗談」
「なるべくして、なった。それだけの事さ」
「つまり、貴方が起こそうとして起きたわけではないって事ね」
シュラインの言葉にハッとした様に彼方は口を噤んだ。
「……あまり、首を突っ込まない方がいい」
「何を今更……え……?」
刹那、一発の銃声と共に千尋のこめかみを、まっすぐに弾が抜けていった。だが、彼の体は傾ぐでもなく掻き消えた。
シュラインは全身を強張らせながらも身構えた。それ以上の発砲もそれらしい何かもない。
そこにはただ静寂だけが満ちている。
けれど雑音が確かにシュラインの耳に戻っていた。
「今のは一体……? ま、どちらにしても助かったというべきかしらね。もっと聞きたい事もあったけど」
呟いてシュラインは要申請特別閲覧室への扉に飛び込んだ。
■141002■
「待ちなさい!!」
汐耶が意識を手放しそうになった瞬間、それを繋ぎとめようとするような声と共にその部屋の扉が開かれた。
「…………」
汐耶は霞む視界を移ろわせ、扉の方を見やる。
そこにシュラインが立っていた。
「おや、早かったんですね」
彼方はゆっくりと汐耶の首から手を離した。
そこに腰砕けたように座り込んだ汐耶は、突然気道に入り込んだ大量の空気に咽て咳き込む。彼女を庇うようにしてシュラインはその傍らに立った。
「あまり手荒な真似はしたくなかったんですが」
彼方はそう言って左手をゆっくり掲げてみせる。その肘から先に炎が巻き起こった。
「!?」
「封印を解いてくださらないなら仕方ない。この図書館を焼き払ってしまいましょうか」
柔らかい口調で、どこか楽しげに彼方が言った。
「なんで……すって……?」
汐耶は彼方を睨みつける。ここには何万もの貴重な本が納められているのだ。
「二者択一ですよ」
静かに返答を促す彼に、シュラインが汐耶の動揺を断ち切るように言い放つ。
「幻影に惑わされちゃダメ!」
彼が今その左腕に纏わせた炎は彼が作り出した幻影だ。
「…………」
彼方は汐耶の動揺の色がその顔から消えてしまったのに小さく息を吐き出して左手を握った。刹那、炎の幻影も立ち消える。
「執行猶予をあげますよ。よく考えておく事です」
そう言って、彼は扉に向かって歩き出した。
「ま…待ちなさい!」
シュラインの制止の声は、しかし彼の立ち去る扉を叩いただけで、彼を止める事は出来なかった。
シュラインはそこで膝を付いている汐耶の傍らにしゃがみこむ。
「大丈夫?」
「本を……燃やすですって……?」
汐耶のそれは困惑や動揺といったものではなく、怒りに満ちていた。
「絵本の封印を解いて、CITY内が水没しても同じ事。封印を解いても、本を燃やさない保障もないわよね」
尋ねた汐耶にシュラインが頷く。
「えぇ」
汐耶は立ち上がると、一つ深呼吸した。
「行かなきゃ」
■143001■
図書館が一望出来る高層ビルの屋上――。
「それ、返してもらえないかな」
千尋は自分の胸にピタリと照準の合わせられたリオン・ベルティーニのワルサーには目もくれず、一色千鳥の傍らに倒れている冬也を指差して言った。
「それ?」
物か何かのように言ってのけた千尋に不快感を募らせながら、千鳥は彼との間合いをはかるように手の平を彼の方へ突き出した。
「その前にお聞きしたい事があるんですが」
「何?」
「彼は、本当に空野彼方だったのでしょうか」
千鳥の問いに千尋は困ったように首を傾げて言った。
「……空野彼方は空の絵本を持つ者に与えられるいわば称号のようなものだよ。そして、今までで空の絵本が出現したのは、後にも先にもただの一度、五年前だけだ」
「…………」
「もう、いい? それ、返してくれる?」
「お断りします」
即答してみせた千鳥に、千尋がムッとしたように一歩を踏み出した。しかし互いにそれ以上の動きはない。ただ相手の隙を伺うように身構えているだけだ。
彼らの間に一触即発の空気が漂った。
それを断ち切るかのようにビルから屋上へと続く扉が勢いよく開く。
「お待たせ、ゆき」
そこから顔を出したのは、青い絵本を持った彼方であった。
千鳥がそちらを振り返る。
「行こうか」
千尋が彼方の方へ歩み寄ろうとした足元に、銃弾が穿たれた。
千尋はリオンを睨みつける。
リオンの銃口が千尋の心臓を向いた。
「参ったねぇ」
彼方の方が千尋に歩み寄ろうとした。
リオンが牽制するように引鉄を引く。わざとはずした筈の弾がそこに赤い花を咲きほころばせた。
「なっ……!?」
冬也が彼方を庇うように立っているのに、リオンは我が目を疑って驚いたように何度も目を瞬かせた。気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。血に染まった胸を押さえながら倒れる冬也の体に、感情を押し殺した冷たい視線を注いだ。
千鳥はただ、息を呑んでいた。
と、再び大きな音を立てて、扉が開いた。
「まだ話が途中よ、空野彼方!」
まるでそこにあった空間を壊すかのように。
飛び出してきたのは、シュラインと汐耶だった。
その後に、セレスティ・カーニンガムも続く。
千尋の傍らに彼方が立ち、冬也は千鳥の足元に倒れていた。
「また、幻覚か……」
呟いたリオンのこめかみに汗が滲む。千尋がそれまでに見せていた幻覚とは質量が全く違うような気がしたからだ。
今のは、彼方がやったのか。
「うるさいおばさんだな」
彼はめんどくさそうに髪を掻きあげてみせた。
「なっ……」
いきり立つ汐耶とシュラインに彼方が楽しそうに指を弾く。
「じゃぁ、こんな幻影はどうですか?」
「え……!?」
刹那、シュラインと汐耶は固まった。
特にシュラインは大きく目を見開いて硬直してしまった。
そこに、やたらテカテカとした茶色の羽を持つ体長3cmくらいの虫がいたからだ。
シュラインは生唾を飲み込みながら何度も何度も自分に言い聞かせた。
これは幻覚。これは幻覚。これは幻覚。
けれども恐怖の方が勝るのか、幻覚でも嫌なものは嫌なのか、それは一向に視界から消える気配がない。
本物だったらどうしよう。
目を閉じてもカサカサと音がする。
そんな音は実際にはしていないのだが、頭でわかっていても、全身がその存在を捉えてしまうのをどうしようもない。
幽霊だろうが、妖怪だろうが、モンスターだろうが物怖じしない彼女である。
しかし、これだけはダメなのだ。
全身全霊をこめて忌み嫌う存在なのだ。
その名を言葉にするのもおぞましい。イニシャルにしてG。想像しただけで全身が総毛立つ。
これは幻覚。これは幻覚。これは幻覚……。
お願いだから、消えて! と内心で叫んでみた。
しかし消えてはくれない。
カサカサカサカサ。
自分のもとへ大群で押し寄せてくる。
一匹でもおぞましいのに!!
幻だとわかっていても気が遠くなってきた。
その内の一匹と目が合ってしまったような気がする。
恐怖はあっという間に臨界点に達した。
「キッ……キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
彼女の悲鳴が屋上に響き渡り、誰もが咄嗟に耳を塞いだ。
殆ど壊れかけているシュラインが発する悲鳴はまるで超音波となって辺りのものをなぎ倒した。
周りにいた者達もそうであったのだから、彼女の正面にいた者はその比ではなかっただろう。
千尋と彼方の二人が欄干の向こう側へ飛ばされた。
やがてGの幻覚も完全に消失した頃、シュラインの悲鳴がやっと止まる。
「…………」
暫くその場に沈黙が横たわった。皆、耳が麻痺してしまって、もう誰の声も聞き取れない感じである。
リオンが体を起こして欄干から下をのぞいた。
一台の車が二人をのせて走り出すのが見えた。
「ちっ……」
舌打ちしてリオンはそこに落ちていた冬也のライフルを拾いあげた。
照準を合わせる。
引鉄を引いた。
弾はテールランプの片側を穿っただけだった。
スコープの照準が合っていないのだ。当たり前か。図書館までの距離500mに調整されているだろうから。リオンは素早くエレベーション・タレットを2回転させてスコープを覗くと先ほど撃った弾の軌道から風向きを算出して補正をかける。狙撃は専門分野ではないが、何とか一矢報いたい。
引鉄を引く。
車の後部座席の扉を穿った。
もう一度補正。
赤信号に停車していたその車の車高が下がった。
パンクしたのである。
「これで少しは時間稼ぎになるだろ。どうせ奴らはウェストゲートに向かう」
リオンはライフルを下ろして言った。
「現時点で絵本は開かないようですね」
セレスティが尋ねる。
「えぇ。まだ封印は解いていないから本の位置は大体わかるわ。たとえ、別のゲートに向かったとしても」
汐耶が答えた。
「くっ……Gの恨み晴らしてやるっ!」
シュラインが拳を握る。
「ウェストゲートには直江さんが先に待機してくれています」
千鳥の言葉に皆、扉に向かいかけて、そこに横たわっている冬也に足を止めた。
「彼は……?」
そこへ一人の女が現れた。
「私が見ます」
長い髪を一つ束ね、バレッタでまとめあげた女が立っている。
見知った顔にシュラインが笑みを零した。
「……お願いね」
「はい」
藤堂愛梨が頭を下げた。
【起承転結の転】 開かずとも本は他人を巻き込みて
■145001■
セレスティのリムジンの後部座席は対面型で六人乗れるになっている。そこに、セレスティ、汐耶、シュライン、リオン、千鳥が順に乗り込んだ。
「直江さん。そちらに向かいました」
通信用マイクに向かってセレスティが声をかける。ここからゲートまで約18km。ギリギリか。
スピーカーから直江の声が返ってきた。
『了解しました』
「彼方は、青い絵本を持っていますが、絵本の封印はまだ解けていません。幻覚に気をつけてください」
『わかりました』
「お願いします」
そこで一旦通信を切って、セレスティは一同を振り返った。
「腑に落ちない事があるの」
シュラインが口火を切った。
「まず、空野彼方がS級犯罪者であるという事」
五年前の事件でも警察の管轄ではなく司法局の扱いだった。だが、それより遡った空野彼方の犯罪履歴が何もない。犯罪者は警察から司法の手に移って初めて司法局管轄になる筈だ。どんな犯罪者でも一番最初に関わるのは警察の筈である。勿論、これは全てに於いてそうというわけではなかった。NATが警察の管轄区域から外れているからだ。しかし、五年前に起きた事件はCITY内の、警察の管轄区域内の出来事である。
「二つ目、彼は何故CITYに入る前に本を開いたのか?」
「それは私も疑問でした」
シュラインの言葉にセレスティも頷く。
「高野さんの、空の絵本が出現したのは五年前のただ一度、というのも気になります。彼の言った事が本当なら、あの時捕まえた男はやはり空野彼方ではないという事に」
千鳥が言った。
「それを裏付けるように高野さんは彼の脱走を幇助していますし」
「彼が空野彼方本人でなかったとするなら、彼はどうやって絵本を?」
「そう言えば、彼は台風を意図的に起こそうとしたわけではなかったみたい。不可抗力ってやつかしら」
シュラインが言う。
汐耶は思案げに腕を組んだ。
「これは推測の域を出ないんだけどもしかして……別の栞を使ったんじゃないかしら?」
「別の?」
「例えば緑の栞」
「!?」
「絵本には対応した栞がある。青い絵本には太陽の――橙の栞。赤い絵本には緑の栞。なら例えば緑の栞で青い絵本を開いたらどうなるのかしら」
汐耶の言葉にシュラインが答える。
「制御できない」
「それでも絵本の栞である以上、それなりの効力はあるかもしれない」
「もしかして彼は絵本を閉じたかったのかしら。開かれてしまった絵本を緑の栞では閉じる事が出来なくて」
「では、何故、彼は絵本を開いたのでしょうか? 実験? それとも別に理由が?」
「…………」
千鳥の疑問に沈黙が流れた。
その答えを導き出す為の材料は、まだ足りないのか。
「そもそも、空野彼方って誰なんだ」
リオンが言った。
「橙の栞を持つ者?」
汐耶が首を傾げる。
「段々ややこしくなってきたわね。この前捕まえた男を仮にAとする。現在栞を持っているのはBとしましょう」
シュラインが言った。
「高野さんは知っていたのかしら?」
「何となくですが、高野さんはAがBでない事を知っていたような気がします。しかし仁枝さんは知らなかったのではないですか」
「知っていれば、それこそ高野さんに手を貸したでしょうね」
シュラインが疲れたように息を吐く。
「しかし、あのトラッカードッグが人違いねぇ」
リオンが肩を竦めた。彼が人違いというのも考えられなかったのだ。
「それなら私に一人心当たりがあるんですが」
セレスティが手を挙げた。
「え?」
「ですが、これは五十年前の話で、しかも彼は三十年ほど前に忽然と消息を絶っています」
「誰?」
「蒼」
「蒼? それは名前? 苗字?」
「わかりません。ただ、蒼、と」
セレスティの言葉に一同が不可解げな視線を送る。
「しかし、もしその蒼が空野さんの正体なら、この前捕まえた彼は彼方ではないと断言できます」
「どういう事?」
「もしあれが蒼なら私たちは今生きていないでしょうから」
セレスティの言葉に皆、無意識に息を呑んだ。
「……それは……」
「彼はそういう人物なんです。元司法局特務執行部にありながら、大量虐殺を繰り返し、人を虫けらのように無造作に切り捨てたS級犯罪者」
「…………」
「そして、蒼と間違えた彼が、朱ではないかと」
「朱?」
「元司法局特務執行部員にして、蒼の双子の弟です」
だから冬也は間違えたというのか。
「だが、双子と言っても、彼が見分けるのはもっと霊的な部分の筈じゃ」
首を傾げたリオンにセレスティが頷いた。
「えぇ。ですから二人はただの一卵性双生児ではないんです。シャム双生児だったんですよ」
「シャム双生児?」
体の半身を共有して生まれてくるシャム双生児。それ故に魂もより近いところにあったという事か。霊視しても見分けられぬ程にそれらは酷似していたと。
「それ故に彼らは互いの半身をサイバノイド化しています」
「サイバノイド化ですって!?」
「えぇ」
あの日、便宜上Aの空野彼方を捕らえた時、恭一郎によって切り落とされた彼の腕はサイバノイド化されていた。
「朱はずっと蒼を追っていた。そして三十年ほど前二人が忽然と姿を消した事で相打ったと思われていました。もし、彼らがその二人であるなら、まだ決着はついていなかったという事でしょう。だとするなら絵本は蒼をおびき出す為に開かれたのかもしれません」
「だからCITYの外で開いたの?」
他人を巻き込まない為に。司法局がいつも使う手だ。けれど、蒼がそれほど危険な人物なら確かにCITYには絶対に呼び込んではならないだろう。
絵本を早くCITYの外へ……。
「急いで!!」
「すみません……渋滞で……」
運転手が困惑げに振り返った。
シュラインが通信マイクに手を伸ばす。
「直江さん!」
『あぁ、どうやら、おいでのようですよ』
「あのね……」
言いかけたシュラインの言葉を断ち切るように、そこで通信が一方的に切られた。
「!? 直江さん! 待ってちょうだい! 直江さん!!」
シュラインはマイクに向かって怒鳴ったが一向に返事はない。
「ダメだわ。彼らともう、遭遇してしまったみたい……こうなったら、とにかくゲートに急いで!!」
【起承転結の結】 ただ物語をつむぎ続けり
■151501■
クラクションをいくら鳴らしても無理なものは無理であった。
この渋滞では避けて進む事も出来ない。そんな事は百も承知でそれでも押したい衝動にかられるのは、苛々を持て余してしまっているせいだろう。
工事渋滞に車線変更を強いられる。
前に車を入れるのさえムカつくほど気持ちばかりが焦っていた一同は、苛々と足を踏み鳴らしたり、忙しなく肘掛を指で叩いたりなどしていた。
「ウェストゲートまで後どれくらい?」
シュラインが誰とはなしに尋ねた。
「距離にして5kmってとこじゃないですか?」
千鳥が答える。
「5000m。走れば30分くらいかしら」
「現役の頃なら」
リオンが肩を竦めてみせた。
「走るわ」
言うが早いかシュラインがドアを開ける。
「え……」
呆気に取られるリオンを他所に、セレスティがシュラインに声をかけた。
「私はこんな足ですから車に残りますよ」
「えぇ」
シュラインが頷く。
「私も車に残るわ。万一、本が別のゲートに向かった場合も考えて」
汐耶がインカムをシュラインに手渡しながら言った。
「わかったわ」
「では、私も走りますか」
千鳥が続いて車をおりる。
「体力にはあんまり自信がないんだけどね」
リオンは肩を竦めながら不承不承後に続いた。
「何としても事情を聞きだす。そして止めなきゃ」
「我々は幸い司法局の人間ではありませんからね。彼が空野彼方でないなら彼らを追う理由は目下のところ我々にはありませんし」
「場合によっては手を貸すわよ」
■151502■
今、この段階で彼らが恭一郎と交戦している事から考えて、恐らく彼らは恭一郎の張った呪符結界を抜けられない事は容易に想像される事だった。
下手な戦闘は時間稼ぎにしかならない。
彼らを追ってくる者達もいるのだ。
一気に抜けようとするなら、自分を殺すのが一番てっとり早い。しかし、彼らからはそういった殺気が感じられなかった。
気のせいだろうか。
幻覚の名残なのか、それとも――。
彼方の蹴りが鳩尾に食い込み、そこで恭一郎の思考は強制的に停止させられた。
「けほっ……」
鳩尾を押さえながら恭一郎が数歩後ろへよろめく。
多勢に無勢は分が悪い。
考えてる余裕などなかった。
思いやる余裕もない。
「もう殺しは廃業したんだがな」
自嘲が滲む。
相手に殺気が感じられなくとも、その気がないとも限らない。
恭一郎は腰に佩いていた脇差を鞘ごと掴んだ。
ゆっくりと息を吐き出し地を蹴る。
先ほどよりはるかにスピードの増した動きに彼らの反応が遅れたのか。
恭一郎は一気に彼方との間合いを詰めると、彼に届いた瞬間脇差を抜いた。
まっすぐに彼方を狙う銀閃に千尋が咄嗟に割り込んでくる。
刃は千尋の脇腹を抉った。
「ゆき!?」
動揺したのは彼方の方だろうか。
千尋はそれに一瞬視線を馳せたが、脇差を掴んだままの恭一郎の手首をしっかりと掴んで、まっすぐ恭一郎を睨み据えている。
場数を踏んでいるのだろう、大して動じた風もない。もし今、彼自らが飛び込んできたように見えたのが気のせいでないなら、恐らくこの一撃で彼の内臓は傷ついていない。
恭一郎は柄から手を離して側転した。捩れる腕に千尋が咄嗟に手を離す。恭一郎は淡々とした足取りで間合いを開けると、次の攻勢を仕掛ける機をうかがった。
「やっぱり……結界を破るには術者を殺るのが一番手っ取り早いかな」
脇差を刺したまま千尋が身構える。抜けば返って出血が酷くなるだろうから、今は抜かない方がいいだろう。とすればこれはいい判断だ、というべきか。
恭一郎はそれで気を緩めるでもなく蹴りを繰り出した。
両手でクロスブロックして、千尋が叫んだ。
「走れ、朱!!」
「朱?」
その名に恭一郎が一瞬、隙をつくる。
千尋はそこに掌底を叩き込んで一歩退くと胸ポケットに手を突っ込む。
銃か、ナイフか、それとも――――。
――来る!
刹那、二つの結界が壊れた。
「二重結界なんて初めて見たわ」
どこか呆れたような物言いで、クミノは手にしていた銃を下ろした。コルトパイソン.357マグナムの2.5インチモデルは彼女の手の中にコンパクトにおさまっている。恭一郎の呪符が一枚、黒く焼け焦げていた。
恭一郎は不審に眉を顰めた。呪符がたとえ効力を弱めていたとしても、そう簡単に物理的手段で破られるものではない。彼女の力を推し量るように見つめやる。
「お前……は?」
「子供の出る幕ではないと思うよ」
彼方がやれやれと溜息を吐くその傍らで、どこか気が緩んだように膝をついた千尋が思い出したように笑顔を向けた。
「君は確か……その切は、うちの冬也が世話になったね」
「これだから司法局は嫌いよ。その事なかれ主義がね」
クミノは心底嫌そうに吐き捨てて、彼方を見据えて言った。
「空野彼方……いえ、朱」
その名前に恭一郎が反応する。朱。先ほど、千尋も彼をそう呼んでいた。
「やれやれ、とんでもないお嬢ちゃんだな」
「誰も巻き込みたくない。ご立派だとは思うけど傲慢ね」
恭一郎は内心でクミノの言葉を反芻する。まだ状況がうまく把握出来ていなかった。
彼は空野彼方ではないのか。恭一郎の疑問に、だが気づいた風もなくクミノは淡々と続ける。
「本物の空野彼方をおびき出す為とはいえ」
「なっ……」
数週間前、朱は、空野彼方――橙の栞を持つ者をおびき出す為、青い絵本を開いた。
彼がその後、あっさり司法局に掴まってみせたのは絵本を閉じてもらう為である。それと、そこに千尋がいたからだろう。千尋は朱のディジタルボックスを継承している。朱としては手ごまが欲しかったのだ。
そして千尋は彼が朱だと知りながら空野彼方として捕らえた。彼が朱を捕らえたのは彼が絵本を開いた理由に思い当たるものがあったからだった。
今、橙の栞を持っているのは、朱ではなく、その双子の兄、蒼。
蒼が、絵本の回収に図書館を襲う事は容易に想像がつく。そして彼は、何の躊躇いもなくそこにある邪魔なものを全て消し去ろうとする事も。
絵本をCITYの中に置いておく事は、最も危険な事であったろう。
それが今回の逃亡劇。
「それに、司法局は貴方たちの抹殺命令を出している」
クミノが言った。
「…………」
恭一郎は二人を見やる。その表情からは何を考えているのか読み取れない。ただ、千尋は脇腹の傷に限界が近いのか、顔を蒼褪めさせていたが。
「誤認逮捕に脱走、脱走幇助。今回の一連の不祥事をなかったものにするためにね」
思えば、それだけで抹殺命令と言うのも乱暴な話ではなかったか。
クミノは更に続けた。
「でも、実態はもっと根が深いんじゃないの?」
事情を話して絵本を取り封印も解いて貰った上でCITYの外に出る手段もあった。汐耶らとて、事情がわかれば無理に止めようとする事もあるまい。
だが、敢えて彼らはこの逃亡劇を選んだのだ。
「…………」
「可愛い飼い犬を殺されたくなければ、もう、あなたが死ぬしかないんじゃないの?」
クミノは疲れたように息を吐く。
「どういう事だ?」
彼女の言葉の真意を理解し損ねて、恭一郎が目を見開く。
「直江さん! 待って! 違うのよ! もしかしたら彼は朱かもしれない……」
そこへシュライン達が駆けてきた。
クミノがシュラインを振り返る。
「あなた……」
思いがけない人物にシュラインが絶句していると、クミノはにこりともせず言った。
「もしかしなくても予想通りよ」
その言葉にシュラインが千尋と朱を見やる。
「やはり、そういう事でしたか」
千鳥が呆れたように溜息を吐いた。
「なら、止める理由はないな」
「でも、力づくで止めて欲しい理由があるんじゃない?」
クミノが千尋に尋ねる。
「ああ。確かに……君の言う通りだよ」
千尋はどこか困ったような笑みを零した。
「朱……俺は必ず後を追う。だから先に…行ってくれ」
「…………」
朱は一つ頷いて踵を返した。ゲートに向かって走りだす。誰もその背を追わなかった。
その背がゲートの向こうに消えるのを見送って、千尋は彼らを振り返る。
「せっかくの…迫真の演技が…台無しじゃないか。これ以上…巻き込みたく…なかったのに……」
「!?」
そうして千尋は自分の脇腹に刺さっていた脇差をゆっくり引き抜いた。
鮮血があふれ出す。
「救急車を!」
傾ぐ千尋の身体に、シュラインが慌てたように駆け寄った。
「必要ない!」
地面に仰向けに倒れた千尋の脇腹を圧迫しながら止血を試みるシュラインの背を男の声が叩く。
そこに白衣の男が駆けてきた。
シュラインの手をどけて止血の応急処置を始める男に、千鳥が眉を顰める。
「あなたは?」
恭一郎がここへ訪れる前からここにいた人物だ。
「通りすがりの監察医」
「……救急車が必要ないとは」
「こいつは死んだ」
監察医と言った男はそこで一旦手を休め、千尋から顔をあげると千鳥を見やった。
「という事にしておいてくれ」
そうして、再び処置に戻る。
「そういう事ね」
クミノがそれまで張り詰めていた緊張を解いたように息を吐き出した。
「どういう事」
シュラインが尋ねる。
「この秘密裏の任務が失敗すれば処断されるのは彼を追ってきた司法局員……要するに、この事件の黒幕には司法局が絡んでるって事でしょう」
「死んだ事にしておいた方が、この先都合がいいというわけか」
リオンが小さく肩を竦める。
「…………」
そこへ一台のリムジンが止まった。
中から、汐耶とセレスティが下りてくる。
汐耶は倒れている千尋に息を呑んだ。
「間に合わなかったの?」
「救急車を……」
慌ててリムジンに戻ろうとするセレスティの肩をリオンが掴んで首を横に振った。
「どういう事ですか?」
尋ねたセレスティに、リオンが簡潔に事情を話す。
予想はほぼ当たっていた。そして――。
「絵本はNATに持ち出されたのね。封印は解くべきなのかしら」
首を傾げた汐耶に、傀儡符から開放されたCASLL・TOが声をかけた。
「あ……あの、今の状況があまりよくわかっていないのですが、朱さんは『急いで解かないと、この事が奴に知れたら術者が危ない』って言ってましたよ」
「奴って、蒼の事かしら」
呟くシュラインに汐耶が頷く。
「……そうね」
「仁枝さんにも話してあげた方がいいのかしら」
「きっと、怒るんじゃないですか? 私たちも、何となく腹立たしいですし」
「ちゃんと、話してくれれば良かったのに」
何ともやるせない気分で、六人はウェストゲートの巨大な扉をを見上げたのだった。
CASLLが顔に似合わず懇切丁寧な挨拶をして、大型バイクで帰っていった。
セレスティが送ってくれるという申し出を辞退したクミノが、リムジンに乗り込む六人に声をかけた。
「彼はあなたたちを巻き込みたくなくて事情を話さなかった。だけど、納得がいかないのなら『赤い絵本』を探してみたら?」
「え?」
「朱が持っているのは緑の栞」
「あ……」
「再び彼らに交わるかもしれないわ」
■END■
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【3453/CASLL・TO/男/36/悪役俳優】
【3359/リオン・ベルティーニ/男/24/喫茶店店主兼国連配下暗殺者】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4471/一色・千鳥/男/26/小料理屋主人】
【5228/直江・恭一郎/男/27/元御庭番】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23/都立図書館司書】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】
【NPC/仁枝・冬也/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/高野・千尋/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/藤堂・愛梨/女/22/司法局特務執行部オペレータ】
【NPC/瑞城・東亜/男/25/監察医】
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■ ライター通信 ■
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ありがとうございました、斎藤晃です。
逃亡者にご参加いただきありがとうございました。
章番号の上4桁は時間です。
また、5桁目はシリアルナンバになっています。
章番号を参考に、機会があれば他の章を読んでみると、
その時、他の方々がどういう状況であったのかがわかって、
いいかもしれません。
楽しんでいただけていれば幸いです。
ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。
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