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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


淡く積もりし花弁雪

 それは彼、守崎・啓斗(もりさき・けいと)にとって非常に大切な事であった。
 目の前の報告書の数々は始め新雪のように白く、自分の出来る所までを必死で埋めていくが結局、横で見ているだけの貧乏探偵草間・武彦の依頼報告書は彼のやる気と同じ程度には白い。つまりはこの興信所の所長のやる気は限りなくゼロに近いという事である。

「そろそろ仕事分は終わりだ」
 指にペンだこが出来そうなほどに書いた報告書の数は多い。
 それでも啓斗の指の一本にもそんな状態が見られないのはこの貧乏過ぎる興信所で金と言える金額すら貰えるのかも謎である、その金銭の少しをも家計簿の足しにしているせいだろう。
 啓斗の血の滲む様な家計簿に対する努力はペンだこをも凌ぐほどなのだから。
「おー、ご苦労さん」
「お疲れ様、だろう。 じゃあ、帰る」
 ご苦労とは上の者が下の者に言う言葉。
 確かに雇われているようなものだが武彦と啓斗の間に年齢差や金銭のやりとりがあろうとも、結局一生懸命動いている方と煙草の煙だけを糧に生きている人間とは立場がほぼ同等なのである。
「わかったよ、じゃお疲れさん。 また今日も買い出しか?」
 今日も、明日も明後日も。その日や週の食料の買出しに出かける啓斗にくわえ煙草を落としそうな程までにふらふらと揺らせながら武彦は言う。
 貧乏興信所。それでも新聞くらいはとっているから、報告書を書くその合間の休憩にしっかり広告で安売りの品はチェック済みだ。
「今日は味噌と鰯が安いからな、タイムサービスだ」
「はっ、夕餉の買出しか。 新妻だな」
 至極当たり前だと言う様に真顔で味噌の話をされるとなんだか可笑しくなってしまう。
 そんな意味合いと、ある種のからかいを混じらせ武彦は自分よりまだ歳のいかぬ少年に言ってやるが、返ってくる言葉はただ一つ。

「鰯が旬だしサービスにも時間があるからな、帰る」

 まったく、啓斗にはボキャブラリーというカテゴリーや恋愛事についての知識のなんたるかは無いのだろうか。
 無表情を変えずにそう言い放った啓斗に武彦は苦笑を漏らし、手をひらひらと玄関へ向けて投げかける。じゃあな、の代わりなのだがそれでも何も言わずに帰る後姿は矢張り。
「色気が無いな…」
 紙を整理する音が途絶え、武彦の煙草を吐く息だけが残った興信所でぽつりと、三十路の所長は呟くのだった。



 守崎家にも新聞くらいはある。ただしいつも受けるような依頼によって読む時間と、啓斗の弟である北斗(ほくと)の大食らいが食べ物の広告を見ているその横で何が食べたいだのと言わなければもう少し自宅でもサービス品や旬の品のチェックも出来るだろう。
 が、世の中、というよりは守崎家はそこまで甘くは無い。
「今年こそは黒字…だからな…」
 東京の商店街でも安いと言われている通りで一人、誰にも聞こえないようにそうごちる。
 いつも、いつも北斗のブラックホールが内臓された胃袋に消えていった食料はつまり、元はお金で買っているもので二人暮らしの兄弟は何故か兄の啓斗だけが戦時中とまでは行かないが金銭的に切ない思いをしているのだから、今年こそは家計簿を切り詰め総黒字。兄の自由ももう少し利かせたいものだ。

 だからこそ、午後のタイムサービスに旬の鰯、狙うはそれだけ、とまるで戦場に向かう者のように啓斗は行く。
 けれどその途中、賑やかな場所から零れ落ちるようにして出た桃色の紙に可愛らしい文字で象られた広告は早歩きで品物をレジへと運ぶ足を一瞬止める事となる。
「バレンタインデー…」
 そういえばそういう時期だったかと、啓斗は思う。
 何しろ一応は男の戸籍を持っているものだからあまり何日も前から気にするような行事では無かったのだ。いや、例え性別がどうのという制約が無くとも元々あまり気にしないであろう朴念仁の脳に多少なりともこの広告が目に留まったのは食べ物が大好きな北斗の笑顔が浮かんだからなのかもしれない。
「チョコレート…ケーキ…か」
 高速で脳裏に浮かぶのは自らはあまり好きではない甘いものの類。
 けれどチョコレートケーキならばまだ習った経験もあるし食べられない事もないだろうと、北斗も喜ぶならとここだけは小さく考えながら調理に必要な最低限の材料を頭の中で組み立てていく。
(ケーキの型がないな…)
 いくら習った事があるとはいえ、全て完全に覚えているかといえば違う。確かに限りなく全てではあるが、念の為バレンタインデーフェアという少しだけ洒落た飾りつけのある店で家計簿的にはギリギリの品を用意し、百円均一で十分な金物はそこで調達した。



「こんなものか…」
 甘いチョコレートの香りやスポンジケーキの元目の前で顔色一つ変えずに立つ啓斗。
 その光景は日本家屋に洋菓子があるという妙な雰囲気以上に、見るものが見れば気味が悪い光景であろう。だが、それだけ啓斗にとっては真剣勝負なのだ。
(北斗が帰るまであと…あまり無いな)
 もし弟が帰ってきたならばチョコレートケーキではなく、焼く前のホットケーキよろしくドロドロの元を食べる小学生並の事をしなければならない。
 兎に角、待つという言葉を北斗は知らないのだ。折角喜ぶかと思って作るケーキもそんな風に食べられてはたまったものではなく、エプロンと学生服のシャツを捲くった啓斗はいざ甘い戦場に行かんと息を呑んだ。

 泡立つチョコレート、スポンジになるとは思えない素を目の前にするまで冷凍野菜とまで言われる顔に珍しく表情を作って―――呆然とするまでは。

(何故だ…)
 計算外だった。スポンジケーキの素は焼けばふっくらする筈でべっとりする事は無く、チョコレートは綺麗に溶け一定の温度を見ればこんな風に酷い泡を出さないはずだ。
 だというのに、その計算外の全てが啓斗の目の前で自分を嘲笑うかのように並べられていて、一生懸命台所を立ち回りした本人の肩は切なさに震えてくる。
「たっだいまー! お、良い匂いー!」
「!? 北斗!」
 追い討ちをかけるように弟の帰宅の音が玄関から慌しく聞こえてきた。
 生まれてからまるで当たり前のようにある北斗の固有能力のような、食べ物の匂いを嗅ぎ分ける習性のようなものを発しながらくんくんと台所に直行する足音。
 まずい。これはかなりまずい状況だ。
 ケーキにする前に食べられては困る。その一心で啓斗はいつもの何倍以上かのスピードで散らかった材料を隠そうとする。背後からは何倍もの移動速度で迫ってくる北斗から逃げるようにスポンジケーキの素が入った容器を持って。
「チョコレート見っけー!」
「ま、待て北斗!!」
 その時の啓斗は珍しく慌てた表情をしていただろう。ただし、それを北斗が気付いていればの話であるが。
 啓斗の持ったスポンジケーキの素は北斗が見つけたドロドロとしたチョコレートを飲み干すような恐ろしい食欲の速度を止めに入る拍子に零れ、台所のまわりに散らばり哀れ使い物にはならない姿をさらし、メインのチョコレートは既に弟の胃の中へと綺麗に消えていった。
「―――…ん、兄貴なんか言ったか?」
 今更何を。そう言ってやりたい。
 北斗は今まで趣味のバイクを乗り回していたのだろう、白いジャケットが少しだけチョコレートで汚れてしまってい、今までよく自分を叱り無表情を形にしたような兄の、こちらに手を伸ばし肩をふるふると振るわせるその姿に奇妙なものを感じ、決して怒られないようにと小声で言葉だけはかける。

「馬鹿野郎ぅっ!!」

 それは素晴らしい右ストレート。
 北斗の顔に綺麗に直撃したエプロン姿の啓斗の拳。そうやって弟が一度意識を失う最後に見たものは兄の天然記念物並の涙を浮かべた一生懸命な顔であったのだ。



 悪かった、それで済めば警察は。いや、家計簿の赤字マークはいらない。
「悪かったよ兄貴…」
 それでも、ストレートパンチを繰り出して意識を失った北斗がようやく目を覚まし見たものは矢張り肩を落とした啓斗であり、何を作ろうとしていたのかようやく理解した弟はひたすらそのエプロン姿の背中を撫でた。
「どうせ上手く出来なかったからな…別に…いい」
「よくねぇじゃん」
 こんなに肩を落として、頑張ってくれていた啓斗に酷い事をしてしまったと今更ながら思い、切り詰めに切り詰めて渡されるお小遣いの入った自分の財布を見ればとりあえず駄目にした材料の少しは買えるだけの金額が残っていて。
「また材料買ってきてさ、一緒に作ろうぜ?」
 啓斗はそれでも動かない。ここで蹴りなりを食らわないという事は無言の肯定か、或いはショックが抜け切っていないのか。ただ少し伏せた翡翠色の瞳がそうしても構わないと告げていた。


 ケーキの材料は啓斗が零したものから北斗が飲み干したチョコレートまで意外と多い。
 北斗のバイクを飛ばしてもそろそろ店が閉まっていくという時間帯、少ない金額で買える量は少なく、きっと最初に啓斗が購入し作ろうとしたケーキよりは随分小さな物になってしまいそうだったがそれでも、商店街のチョコレートフェアに並ぶ洒落た綺麗な甘い装飾は二人の心を暖めるのには十分で。
「兄貴、寒くねぇ?」
「…? いや」
 本来後ろに人を乗せるのは良い事ではない。が、ケーキの材料を知っているのは啓斗、バイクを走らせるのに慣れているのは北斗と役割は別れているものだからぴったりと背中にくっついた兄を落とさないように、購入したケーキの材料も安全であるように考慮しながら買い物を済ませ、守崎家の門をくぐると時は既に夜の帳は降り、月がその姿を見せ始めていた。

 古典的な日本家屋の床を子供のように駆けて辿り着く先には台所。
 啓斗は少しだけ機嫌を取り戻したのか、北斗と共に買った材料を並べながらケーキ作りに不似合いな和紙に書いた作り方のメモを弟に見せる。が。
「でさ、兄貴。 ケーキつくんのにこんなめんどーな事してたワケ?」
「これが正しい作り方だ」
 確かに、ケーキというものは本格的な物になると面倒と思って当然の手順を踏まなければならない。
「…あのな、こんなの一人で出来るわけねーだろ…」
 そうなのだ、啓斗の敗因は結局の所一番はそこにある。
 食のブラックホール北斗の帰りを気にしながら短時間で本格的なケーキを作ろうと、どの作業も全てやりながら動き回った結果酷い惨事になったのだ。
「ならお前は黙ってケーキが出来るまで待っていられたか?」
「うっ…それは言いっこなしだろ」
 北斗がチョコレートを飲み干したという大元の原因はさておいて。

「とりあえず、だ。 一緒に作ろうぜ」
 少ない材料、まだあまり惨事の跡が片付いていない台所。でも、珍しく食べ物を目の前にしてすぐに食す事をせずに腕まくりをしてにこりと屈託の無い笑みを見せた北斗に啓斗は目を丸くする。
「途中で食うなよ」
「疑い深いなぁ…」
 それでも、またエプロンをして文句を言いながらチョコレートを、スポンジケーキの素を北斗に渡した啓斗の顔は少しだけ赤く、案外満足しているようにも見えた。
 小さなケーキの為に協力する兄弟。いつもは正反対の二人が珍しく戦闘や依頼以外で共同の作業をするというのは珍しく、どちらともなく少し恥ずかしい。だからなのか、啓斗のチョコレートは少し甘すぎる位になってしまったし北斗のスポンジケーキは少しいびつで、結局の所香りからして味の保障はまあまあ出来そうではあるが見た目は店で売っているケーキに全く及ばない程奇妙な山のような形になってしまった。
「兄貴、これってさ…」
「…」
 美味いだろう、味は。けれどケーキというより甘い山。そんな表現が良く似合う食べ物は一応、バレンタインの表記がしてある市販のチョコレートも乗っけてみたもののどうもフォークで食する物とは言いがたい。
「味は、まぁいいんじゃないか…?」
「兄貴?」
 フォークはこの際無しにしよう。
 寒い縁側で空を見ながらとはいかないが、畳のある部屋で机の上に甘い山を置いた啓斗は包丁で取り分けてほんの少し口に入れ感想を漏らした。
「食わないのか、北斗?」
 その言葉は全部食べてしまうぞ、というよりもどちらかというと一緒に食べないかという相変わらずの無表情だが一緒にバレンタインを過ごそうというお誘いの文句である事が今までこの兄と生活してきた北斗には理解できる。
「いや、食う!」
 目を伏せたまま月明かりと節電されて薄暗い明かりの中、同じ茶の髪を覗き見るようにして一瞬その嬉しさを伝えて、北斗はまた豪快に取り分けられた甘い山を手づかみで口に運ぶ。
「―――っ! 北斗、意地汚いぞ!」
 甘くて美味しい、それだけで十分な北斗は手づかみで次々と元から少ないケーキを平らげていくから啓斗の文句も止まらない。かと言って、矢張りこの食べ物はフォークで食すような物にも見えずだからと言って箸というのもおかしいからと、同じように手掴みで口元に運ぶ時だけ上品な兄は。
「いいじゃん、美味いんだしすぐ無くなっちまうんだしさ。 ―――それより兄貴のも食わないんだったらもらっていーか?」
 一見して無神経な北斗のムードもへったくれも無い食べ方にため息をつく。
 もしかしたら、本当に無神経なだけで今まで少し啓斗に気を遣ったのもまぐれだったのかもしれない。けれど、作ったケーキが美味しいとそれだけでこんなに暖かな気持ちになるのもやっぱり珍しかったから、気付かれない程度にその口を綻ばせてもう一口、ケーキを食べる。

「甘い」
 にやりと今度は新しい弟苛めを思いついたように笑って、手に持った啓斗のケーキがべちりと北斗の口の中に無理な大きさで入っていったのは幸せな事か、或いは苦しい愛情だったのか。
 それは、年月と共にふり積もっていく花弁雪のみが知る事であろう。