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空の向こうへ
空の向こうに、いくつもの人影。
分厚い雲の中に隠れて、天使の王女、ミリューフェア・アトランスは愛しい人を抱く腕に力を込めた。
「ごめんなさい……」
腕が、血に染まる。
ミリューフェアのものではなく、愛しい人、何より守りたい人の血。
彼一人ならば、このくらいの囲みを突破するのもとても簡単なことなのに。どうして、自分はこんなにも無力なのだろうと哀しくなる。
「そんな顔しないでよ。俺は大丈夫だからさ」
言うとおり。表情は明るく、口調は軽い。自分を深く信じる瞳で、笑ってくれた。
致命傷ではないけれど、決して軽くはない怪我だ。こうしている今も、痛みはあるだろうに、彼は、笑う。
だがその笑顔がただの強がりではないことだけは、ミリューフィアにもよくわかった。だって、本当に、幸せそうに笑ったのだ。
これから在る、二人の未来を信じて疑わない。
「はい。エディアスさんがそう仰るなら……わたくしは、貴方を信じますわ」
彼が笑ってくれるから、ミリューフェアも笑うことができる。
人影はまだ、雲に隠れているこちらを見つけてはいないらしい。もう少し、ここで休むことができるだろう。
傷ついた彼に治癒を施しながら……ミリューフェアは、この逃避行の始まりを思い出していた。
あの時もこの人は、ミリューフェアと幸せになるのだと。幸せにしてみせると……強く、信じる――安心させてくれる、強い瞳の光を宿していた。
◆◆◆
出会いは、まったくの偶然だった。
争い続く天使と魔族、それぞれの種族の領域の、境の地。
自らここを訪れる者がまったくいないわけではない。けれど、そう多いわけでもない。
敵に見つかれば戦闘になることは必至だし、ましてや二人は――この二人は、両陣営の王女と王子。
だからこの出会いはまさに、奇跡とも言える偶然だった。
城を抜け出した二人が同じ日、同じ時間にそこで顔を合わせたこと。
戦闘ではない状態で出会った『敵』に。けれど二人はお互い、相手を敵だなんて思えなかった。
人目を忍んでの逢瀬。
相手の立場、互いの種族の対立。
決して望まれない、歓迎されない感情であることはわかっていた。
だが、動き出してしまった心を抑えることは、もう、できない。
出会う前に戻ることなどできはしない。
……出会ってから、幾月かの時が過ぎた頃。
魔界の王子、エディアス・アルファードはひとつの決意を固めて告げのだ。
お互い感じていたけれど、それまで言葉にならなかった想い。
「人間界に行こう。ここでは俺たちは……幸せになれない」
敵対する種族の王子と王女の恋が、歓迎されるはずもない。
好きだと。
目が離せなくなる、まっすぐな瞳で告げたエディアスは、ミリューフェアに手を差し出した。
この手をとれば、一緒に行ける。この、生まれ故郷から遠く離れて――二度と帰ってこれないかもしれない――それでも、躊躇はなかった。
「はい」
躊躇わなかった理由のひとつには、元来から人間のことが好きだったということもある。
でも、もし、行き先がまったく知らない場所だったとしても……きっと、頷いた。
◆◆◆
翼の羽ばたく音が近づいてきたような気がして、ミリューフェアははっと顔を上げた。
天使たちは、ミリューフェアをさらった――本人の同意があるのだから実際には誘拐などではないのだが、天使たちはその事実を認めなかった――エディアスを罪人(つみびと)として、追っ手をかけてきたのだ。
「大丈夫ですか?」
怪我はずいぶんと治っているが、それでも、完治したわけではない。
募る心配に思わず抱く力を込めたミリューフェアの手をそっと緩めて、エディアスが笑う。
「大丈夫だよ。人間界まで降りれば、向こうもそう手荒なことはできないし……もう少しだから」
そう。人間界まではもう少し。
ここさえ乗り越えれば、人間界は目と鼻の先なのだ。
微笑みあい、二人は、雲の中から飛び出した。
途端に叫ぶ声が空に響き、天使たちが追ってくる。
「そう何度も、同じ手を食う俺じゃないよ?」
さっきは。
四方から襲ってくる天使の剣からミリューフェアを守るために、自らの身を盾にした。
けれど今は、彼らとエディアスの間には充分な距離がある。剣の間合いでは到底届かない――エディアスの炎の魔法ならば効果範囲内の距離。
エディアスの手から炎が舞い、青い空の一角を夕焼けよりなお濃い紅(あか)に染めて天使たちの足を止めた。
熱気と炎に天使たちが怯んだその隙を狙って、エディアスがミリューフェアの手を引いた。
「ミリア、今のうちに行こう」
「はい」
空が、雲が。遠く、彼方へ離れていく。
目前に迫る地上はさまざまな色に満ちていた。
たくさんの人が行き交う、賑やかな街。
その、人目につかない場所に降り、二人はそっと手を取り合った。
ここには、誰も、いない。
自分たちを知っている者が誰もいない――それはつまり、追われることもないと同時に、頼れる者もいないということ。
けれど。
たった一人。
彼が――彼女が、隣にいれば。
それだけで、どんな苦難でも乗り越えられる力になる。
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