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想いの形は淡雪の欠片。
バルトの住む屋敷内は秘密が多い。
北風に乗り遅れてしまったという理由から、雪の精霊であるエリザベート・ノースは吸血鬼であるバルト――ヴァハルヤムト・エヴィヒゼーレの屋敷で居候する形となってしまった。
それなりに月日が過ぎ、エリザベートも彼の屋敷内での生活が慣れてくると気になるものも増えてくる。
それらは全て、バルトに屋敷内を案内してもらった当時から、気になっていた事だ。
生活感の薄い広大な造りの洋館。当然、たくさんの部屋もあるがその大半に鍵がかかり、エリザベートは近づくことを許されないでいた。
それは雪の精霊である彼女の身体を気遣った、バルトの配慮からくるものだった。
自分の留守中も、決して鍵の掛かっている扉には近づいてはならないと。
だが、生命あるものは全て、禁じられたものに触れたがる習性がある。人間であろうが、夜の眷属であろうが、精霊であろうが――それは共通するものだ。
「…………」
人気の全くない長い廊下を一人、エリザベートは歩いていた。
永遠かと思われるような壁に、いくつかの扉はある。だがそれらは全て開かずの扉だ。
開けてみたいと思いつつも、バルトの厳しい表情を思い出すとそれ以上を踏み出すことができない。
それと同時に、彼の顔を思い出すと自分の心が落ち着かなくなる。
冷たいと身体に灯された、一筋の小さな温かい光。
あの赤い瞳を見た瞬間からずっと、その光は消えることなく灯されたまま。
エリザベートは立ち止まり、自分の胸を両手で包み込むようにして押さえた。鼓動が高鳴ってきたのを抑えるためだ。
彼女は誰もいない空間であるにもかかわらず、辺りを気にしてきょろきょろと見回す。
家主であるバルトは、出かけているというのに。
だから寂しさを紛らわすために、屋敷内をうろうろとしていたのに。
「不思議な、ひと……」
自分の心をかき乱す。
だがそれを彼に言えるわけもない。
ゆっくりと歩みを進め、ひとつの扉の前で足を止めたエリザベートは、そこで一つため息を吐いた。
いつの間にか廊下を抜けていた彼女は、目の前にある扉の取っ手に思わず手をかけた。その扉も、以前バルトに入ってはならないと言われた。だから当然、鍵が掛かっていると解っての行動だった。
「あら……? 開いてる……」
エリザベートが手にかけたそれは何の抵抗もなく、くるりと回る。ガラス張りの大きな扉。
いけないと思いつつも、彼女は沸きあがってくる好奇心から扉を静かに開けた。
重いその扉を両手で押し開けると、その先からほわりと感じ取れるものは緩やかな温気。
「……あ……」
扉の向こうは、様々な植物が広がる温室だったのだ。
見る者の心を和ます花たち。だがエリザベートにとっては適さない場だ。
ここから立ち去らなくては。そう思ったときに、彼女の身体は前へとぐらついた。
「あっ……」
扉を全身の力で開けていた為に、重心が前へと傾いてしまったのだ。
そのまま倒れこむようにエリザベートは温室の中へと入り込んでしまう。
直後、扉が重く閉まる音が背後で響いた。
「いけない……」
慌てて起き上がり、温室から出ようとするエリザベート。しかし重い扉は動かない。
この扉は内側からは開かないような仕組みになっているのか、びくともしなかった。
じわり、と温気が彼女を包み込み始める。
雪の精霊であるエリザベートには、地獄にも等しい場。
何度か扉を叩いてはみるが、留守の家主には届くはずも無い。
「…………」
上昇する室温とともに、急速に削り取られていく自分の体力。
彼女は扉にもたれかかるようにして、がくりと膝を突いた。
「バルトさ……」
小さな口唇から漏れるのは、家主の名。
生命の危機を感じながらも、エリザベートは脳裏に浮かぶ影の名を呼び続けていた。
身に覚えの無いような胸騒ぎ。
自分に届く微かな風の揺らめき。
こういう時の悪い予感というものは当たるもので、外出を早めに切り上げたバルトは屋敷に着くなり愕然とした。
エリザベートの姿が見当たらないのだ。
大体の想像はつく。彼女は自分の言いつけを破り、禁忌としていた部屋のどれかに紛れ込んでしまったのだろうと。
「エリザベート?」
呼びかけてみるが、当然のように返事は無い。
解りきっていた事だが、思わずため息が漏れてしまう。
この広大な屋敷内で彼女に許している場は限られている。必要最低限の生活に使われる部屋以外は立ち入ってはならないと伝えていた。
それらの部屋には気配は感じられない。
だとすれば端から端まで探さねばならない。彼女にとって危険である場は無数にあるのだから。
バルトは歩みを止めて、エリザベートの気配を探る。
残り香を辿っているのだろうか、再び歩き出した彼は長い廊下へと進み始めた。
多くの扉があるが、ほぼ開かずの間だ。鍵は彼が持ち歩いているし、ここ数ヶ月彼自身も触れてもいない。ようするにこの空間の部屋に彼女が入り込むということ自体有り得ない。
だとすれば、後残された場は廊下を抜けた先の離れ。
建物の半分は温室として使っている空間だ。エリザベートが近づくとは考えにくいが温室が存在するということは教えてはいない。
「…………」
口元に手をやり、一瞬何かを考えながらバルトはそのまま廊下を突き進んだ。
離れに近づくにつれ、小さな音が聞こえ始めた。
カリカリ……と、何かを爪で引っかくようなそんな音だ。
それを自分の耳で受け止めたバルトは、眉根をしかめる。
次の瞬間には、彼の歩みは小走りに変わっていた。
目に飛び込んでくるのはガラス張りの温室。そして、その中で崩れているのは――。
「……エリザベート!!」
自分でも驚くほどの声音。だが今はそれを気に留めている場合ではない。
焦る内心を抑えつつ、駆け寄ったバルトは扉に手をかけた。
だが、その取っ手は動かない。
「室温を保つために……自ら閉ざしたか」
それは、扉へと語りかける言葉。
まるで命あるものへと投げかけたかのような声音だった。
温室内の植物達は外気を酷く嫌う性質のものばかりだ。エリザベートがその扉を開けてしまったことにより入り込んだ空気を拒絶すると、この扉は勝手に閉まってしまう。こうなってしまうと主であるバルトでも目の前の扉を開けるのは困難なのだ。
だが、躊躇っている場合ではない。
扉の向こうのエリザベートは、体力を失ってぴくりとも動かない。もう、一刻の猶予さえも許されない状態だ。
半ば無理矢理に、硬く閉じた扉を押すとその分の抵抗がバルトに帰ってくる。だからといって諦めるわけには行かない。
何度か力を込め、扉を押し感覚をつかんだ彼は次の瞬間には一押しで扉を開くことが出来た。
大きく開いた扉が閉まる前に、中で倒れているエリザベートを連れ出し抱きかかえる。
いいだけ温室の空気に『侵された』彼女は、全身が火照り身動きすら出来ずにいた。
「エリザ、しっかりするんだ」
「…………バ、ルト……さ……?」
バルトの腕の中でしっかりと抱きかかえられたエリザベートは、彼の声にうっすらと反応を返した。
だがそれ以上の言葉を返すことは出来ずに、ぐったりとしたままでバルトに身体を預ける。
そろり、と持ち上げられた腕はバルトに届くことなく元の位置へと戻された。
「無理をするな……」
瞳を閉じるエリザベートに向かい、バルトは静かに言葉を降らせた。
そして彼女をしっかりと抱きなおし、離れを後にする。
向かう先はエリザベートに与えている部屋。何より今は彼女を休ませることが第一だ。
バルトは言葉なく、歩みを進めた。
部屋の中には、暖房設備がない。
エリザベートには必要がないからだ。
その、冷え切った部屋の中で大きなベッドに寝かされている彼女。傍に椅子を置き静かに腰を下ろしているのはバルトだ。
眠り続けるエリザベートの表情を見ながら、彼は自責の念に駆られていた。
開かずの間に近寄るなと言ったのは自分。なんらかの手違いで施錠がされていなかった温室の扉。
エリザベートが悪いのではなく、注意を怠った自分が悪かったのだと。
そう思いながら、祈るように彼女の回復をバルトは待ち続ける。
普段、雪のように白い肌のエリザベートは、長い間温室の空気に晒され頬は紅潮し一時は苦しげにしていたが時間が経った今ではその苦痛の表情も和らぎつつある。
峠は越したと見ても平気なのだろう。
自身で張り詰めた空気を作り上げていたバルトは、そこでそれを解くかのように深いため息を吐く。
すると、合わせたかのようにエリザベートは静かに瞳を開いた。
「――気がついたか」
「バルト……さん……」
ゆらり、と瞳を動かすとそこには屋敷の主がいた。
エリザベートはほっとした面持ちで彼を見上げて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「気分はどうだ?」
そう言いながら、バルトは自然に彼女の頬へと手を触れた。
深い意味は――ないはずであった。
「……大丈夫、です」
過剰な反応を見せたのはエリザベートだった。
バルトの指先が頬に触れた瞬間に、彼女は瞳を見開いた。そして紅潮していく頬を隠すかのように彼から顔を背ける。
その態度に、バルトも戸惑う。直後、ちくり、と痛んだ胸の奥。
差し出した手のひらを引き、バルトは小さくため息を漏らした。
「すまなかったな」
気落ちしたような、声音。
それを耳にした彼女は、バルトへと向き直り困ったように瞳を揺らめかせた。
「あの、ご迷惑を……勝手にうろついたりして……ごめんなさい」
「過ぎたことだ。それに確認を怠った私も悪かった。……君が無事でよかった」
「…………」
バルトの紅い瞳が、宝石のようにゆらゆらと輝く。
それを見上げながら、エリザベートはさらに頬を赤らめる。
「エリザ?」
「なんでも……ないです。その……もう少しだけ、眠らせてください」
薄い上掛けを引きながら、エリザベートは自分の顔を隠すようにしてバルトの言葉に答える。
愛称のような名前の呼ばれ方に、ドキリとしながら。
会話を切られた形になってしまったバルトは、そこで自分の口を閉じる。
少しの間を置き、彼は静かに立ち上がった。
「ゆっくり休むといい。必要になったら呼んでくれ」
穏やかな口調。だが、心なしか寂しく響き渡る。
エリザベートは上掛けの隙間から彼の姿を覗き見した。丁度、自分へと背を向け扉へと足を向けているところだ。何かを言わなければと思うのだが、彼を止める術をまだ彼女は知らない。
足りない言葉。
追いつかない想い。
二人の距離は、近いようでまだ遠い。
始まったばかりの二人は、これから多くの感情を育てていくのだ。
ゆっくりと、時間をかけて。
-了-
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エリザベート・ノースさま&ヴァハルヤムト・エヴィヒゼーレさま
初めまして、この度はご指名いただき有難うございます。
始まったばかりの恋愛系という事でしたが、如何でしたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけましたら、幸いに思います。
今回は本当に有難うございました。
またの機会がありますときにはよろしくお願いいたします。
朱園ハルヒ。
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