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前夜 ―The Starter Night―
いつか出逢う誰かのため。
いつか出遭う運命のため。
いつか損なう宿命のため。
いつか――愛するきみのため。
*
新幹線を降りて、浅葱漣はぼんやりとした瞳で駅を見回した。
ここ東京が、今日から自分の居場所、だ。
地図を持って歩くと目立ってしまうので、それはやめておいた。
地理を把握するために漣はあちこちを彷徨う。
さすがに夜だけあってか、人が集まる場所や明るいところから離れれば人はほとんど見当たらなかった。それもそうだ。娯楽のない場所に人が集まることはない。ただでさえ物騒なのだし。
誰も居ない大通りを眺めて歩く。足音がやけに大きく響いた。
まるでそう……この世にだれもいないのだと、錯覚させる。
いいや漣にとってはいつもと同じだ。
漣は自分などどうでもいいと思っていた。こんな……こんな自分が誰かを守れるのなら、それだけでもいいほうだと思っていた。
どうせあと……。
「おまえが東京に来るってことは…………人生捨てに来たか?」
漣は漆黒の眼で正面に立つ男を見据えた。
対峙するように彼らは立っている。
漣は見知っていた。
「草薙……秋水……」
自分の名を象る漣の口を見遣り、秋水は苦笑する。
秋水の言っていることは漣にはよくわかる。そう言われるのも当然だと知っていた。
残された道など、これしかなかったから。
(俺は死ぬ)
二年という短い歳月。漣に残された『終焉』まではそれだけしかない。
短いようで、長く。永いようで、みじかい。
訪れる死の足音など……漣にとってはどうでもいいことだった。
それが自分の運命だ。死ぬことが運命だ。それがどうした。それがどうした? 生き物は必ず死ぬんだ。だから……『全然おかしくない』。
家が下した命令だから従う。それだけだ。
未来になにがあるという? なにもない。
二年の間になにが起こるという? いつもと同じだ。
だがあと二年で死ぬというなら……この身体にも使い道はある。誰かの盾になることだ。
秋水が顔を不快そうにしかめる。この男はよく顔に感情が出るな、と漣は静かに思った。
「なんだそのツラ……」
怒りを滲ませる秋水。
何かを言いかける秋水はぐっと言葉を呑み込んだ。そして違うことを口に出す。
「……おまえが助かる手段を、俺は知ってる」
そんな言葉を聞いても漣の心にはなんの波紋も広がらない。
凍結した湖のような感情のままで、ただ秋水を眺めた。
「だが……今のおまえを救っても、面白くもなんともねぇ……。昔の『あいつ』みてぇな顔しやがって」
吐き捨てるように言う秋水。
誰のことを言っているのか漣にはわからない。だが、なんとなく思う。
(知人……友人……?)
いいや違うだろう。
ここまで感情を込めるのだから……。
漣は僅かに眉根を寄せる。
(失礼なヤツ、だ)
誰がおまえなどに助けを求めるか。
助けなど求めていない。今の自分に不満はないのだから。
まるで自分のほうが『上』にいるような言い方をする……!
(神になったような言い方をするものだ……)
人が人を救えるとは思えない。
そんなに人助けがしたいなら、自分ではなく、もっと困っているヤツを見つければいい。
救いを求めて手を伸ばす者はいくらでも……掃いて捨てるほどいる。
自分のそんな、一方的な正義感を満たすなら……なにも漣を選ぶ必要などない。
だから――――だ。
(嫌いだ)
こいつ、嫌いだ。
不愉快になる。
わかったようなふりをする、偽善者だ。
自分の思い通りにしようとする……傲慢。
だれもがみな、『おまえ』と同じではないのだ。
『救ってやる』なんて、軽々しく言えるその高慢さが、不愉快にさせる。
だが気になることがあった。
浅葱と草薙は犬猿の仲だというのに……なぜコイツはわざわざ自分のところまで来た?
(物好き。暇人。…………どうでもいいか)
そんなことを思っていると、じっと黙っている漣に秋水は背を向けた。
やっと帰るのか。なにしに来たんだこいつは。
もう二度と、目の前を、うろつかないで、ほしい。
「もし」
秋水は歩き出した足を止めた。
漣は動かない。
「おまえが心の底から生きたくなったら…………俺を探せ」
「…………誰が探すか」
冷たく漣が言い放つ。
秋水が小さく笑った声が聞こえた。なにが可笑しい? 可笑しいことなど、言っていない。
「懐かしいっていうのも変な話だな……」
「早々に去れ。俺がおまえに救いを求めるなど、万に一つもない」
「……そうだろうな」
苦笑する秋水に漣はますます不快になった。
なにを悟ったような……!
怒りに瞳を揺らす漣などお構いなしに、秋水は思い出したように振り向く。
「そうだ。夜中に鈴の音が聞こえたら…………もしもだけどな。もしも聞こえたら、その正体を探ってみな。今のおまえには丁度いい薬だろうよ」
「は? なにを言っている?」
「いや……最近まで鳴らしてたヤツは俺が捕まえたっていうか、俺が捕まったというか…………まあそのへんはいい。
聞こえることが万一あったら探してみろって言ったんだよ」
なぜか照れつつ後頭部を掻いている秋水に、漣は冷たい目を向けた。
わけのわからないことを言う男だ。
「そんな言い方でわかるか。なにが狙いだ……?」
「おまえなんて狙ってどうする。そこまで俺はヒマじゃねーんだ。あいつが帰ってくるまでに色々と家の中を片付けたりしないといけないんだし……部屋もなぁ、どうしよう……」
ぶつぶつと言う秋水に、とうとう漣は疑問符を浮かべた。
わけがわからない……なんなんだこいつは。なにがしたいんだ……?
馬鹿に……されているのか……もしかして。
「あんたは……俺を怒らせるためにここに来たのか……?」
怒りを押し込めた低い声で言うと、秋水は肩をすくめる。
「とにかくだ。そういうことがあったら暇潰しに正体を探せ。まあ……おまえにそんな奇跡が起こるかわからないがな」
奇跡?
なにが奇跡だ。馬鹿馬鹿しい。
「そんなもの、誰がいるか……」
そんなものはない。奇跡なんてものは、存在しない。
今の『自分』を、奇跡だと、みな言う。
だがそんなものは奇跡でもなんでもない。異形だ、ただの。
秋水は嘆息して苦笑する。そして彼はそこから去った。
*
月を抱くきみを想う――。
秋水は漣の前から立ち去り、やれやれと肩をすくめた。
「既視感すげぇ感じた……」
ど、っと疲労してしまったような気分だ。
とても……なつかしい。
昔の彼女と同じ瞳だった。
死ぬことなど、そんな運命など歯牙にもかけない。自分を疎かにする人種特有の眼だ。
死に向けてただ疾走する。それが他人にどう見えているかなど、まるで関係ないように。
お節介など……元々するつもりはなかった。
けれども漣の運命に嫌な……気持ち悪さを感じたのだ。
生きる方法を知らないのではないかと。
希望を持っていないのではないかと。
携帯の着信音が響いて秋水はでる。
「どうかしたか?」
相手の声に彼は微笑む。
誰が見ても……電話の相手は恋人だろうことは一目瞭然だった。
「いや、心配はいつもしてるって。…………あのさ」
あのさ。
秋水は眼を細める。
「おまえ、一度もこっちに帰ってきてないよな? …………だよな。うん、いや、確認しただけだ」
秋水は噂を耳にしていたのだ。鈴の音を響かせて現れるという少女のことを。
上海に居る彼女かと最初は思ったが……彼女は帰国した様子がないのだ。
「とにかく仕事頑張れよ。うん……うん。無理するな」
月を抱くきみを――想う。
*
太陽に嘆くきみに祈る――。
秋水が去ったあと、漣はきびすを返して歩き出した。
なんなんだあいつは。なにが言いたかったのかさっぱりわからない。
(なにが鈴だ。そんなもの、どこにでもあるだろうが)
土産物屋にだって、ある。
どこにだってあるものだ。
夜中に聞こえたらだと?
徘徊している者のことだろうか? 鞄か何かにつけているものとか……?
考えれば考えるほど、漣は混乱した。
忘れよう。
深く考えることじゃない。
忘れればいい。
いつものように……ただ流されるように生きればいい。
いつ死ぬかわからない自分なんて、どうでも良かった。
浅葱の家が、打つ手がないのだと言ったのだ。それを、あの男がどうにかできるなんて信じ難い。
希みがあれば、それだけ落胆が大きくなる。漣はそれを知っていた。
期待するだけ無駄だ。
最初から期待しなければ……誰も自分を気にしないし、自分も考えることもない。
(鈴……)
忘れればいい。どうせくだらないことだ。
だが、秋水の言葉が耳に残っている。
今のままでも漣は満足しているので、あの男の世話になるつもりはない。今後もないだろう。
奇跡が起これば、とあの男は言っていた。
「奇跡…………くだらないな」
鈴に正体もなにもないだろう。
いや……もしかしたら、その鈴が妖魔の類いなのかもしれない。
そんな馬鹿な。あの男がわざわざそんなことを言うわけがない。
*
いつか出逢う誰かのため。
いつか出遭う運命のため。
いつか損なう宿命のため。
いつか――愛するきみのため。
月を抱くきみを想う。
太陽に嘆くきみに祈る。
心ない己を哀れと罵り、蔑んでほしい。
きみに罰してもらうため。
きみに壊してもらうため。
もしかしたら……いまの私はあったのかもしれない。
ぱたんと漣は本を閉じた。
本屋の店内では閉店時間間際を知らせる曲が流れ始めていた。
(帰るか……)
秋水のせいで苛々したので、漣は地図や色々なものを物色するために遅くまで開いている本屋に来ていた。
帰ろうとして、自分が今まで読んでいた詩の本を見下ろす。
詩が少し気に入った。
「太陽に嘆く……か」
まあ自分とは程遠い男のことを謳う詩だ。
漣は誰かと出会うことなど期待していないし、まして…………愛するなんてことあるわけないと思っていた。
「心ない己を哀れと……罵り、蔑み……罰して、壊して欲しい……か」
丁度いい薬だ。
秋水のその言葉を思い出して漣はムッとし、本を棚に戻した。そしてすぐさま店をあとにする。
漣はすぐにその言葉の意味を実感することになる。だがそれはまた――――――べつの物語。
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