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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


白銀の……

 聖堂。
 十字架の上から全てを見守る父の子と、その横で穏やかに微笑む子の母と。
 白い大理石の聖像に見守られた空間には、甘い紅茶の香りが満ち溢れていた。しかしそこに、父なる神へと祈りを捧げる者は、誰もいない。そこにいるのは、長椅子に腰掛け、難しい顔で各々考え込む、合計で一○人にも満たない男女であった。
「……で」
 唐突に、ティーカップのソーサに置かれる音が、ことんっ、と響き渡った。
 声の主は、ユリウス・アレッサンドロ。この教会に所属する神父であり、その地位は枢機卿にあるカトリックの聖職者であった。
 彼は眼鏡を押し上げると、珍しく誤魔化し笑いを浮かべることも無く、至極まじめな声音で問いを投げかける。
「どうしましょうか」
 ――長い、長い話であった。
 それは、突如として東京に発生した、『白銀の姫』の異界にまつわる話。そこで起こった、神父・ジェロニモ・フラウィウスと、シスター・アンナに関する話。
 ユリウスはたった今先ほど、この現実世界に帰って来たばかりであった。帰って来たというよりも、異界とこの『現実世界』を結ぶ『アヴァロン』から、強制的に追い出されたと言った方が正しいのだが。
 紅茶をすする一同に対して言うユリウスの手には、金色の細長い鍵が握られている。
 テウタテスの聖鍵。ユリウスを含めた一同がこの世界へとジェロニモによって強制的に送り返された時に、シスター・アンナによって投げ渡された物。
 ジェロニモは、現実世界、つまりは東京へ対する復讐と、この世界が消滅してしまえば共に消えてしまう自分達が、なおも生き残る方法を探していた。その方法が、白銀の姫の世界を現実化することであり、自分達の存在をも現実化してしまうことであった。そうして、同時に、東京の上に白銀の姫の世界を上書きすることによって、東京を壊滅させることであった。
 しかしそのためには、この聖なる鍵が必要なのである。鍵がこちらの手にある限り、おそらくジェロニモは、東京を滅亡させることはできないであろう。この鍵が無ければ、ジェロニモはゲームの創造主に会うことができない、つまりは、彼にプログラムの書き換えをさせることは、できないのだから。
 どうやらジェロニモは、創造主にプログラムを書き換えさせることによって、白銀の姫の世界を現実化させようとしていたらしい。しかし今となっては、ジェロニモにとっては、その望みも叶わぬものとなってしまったのだ。
「はっきりと申し上げましてね。私の仕事は、もう終わってしまっているわけです」
 ユリウスの使命は、東京壊滅を目論むジェロニモを止めることであった。そのような意味では、もはや彼の任務は終了してしまっている。
 だが、しかし、
「しかし、私は皆さんに、判断を委ねようかと思います」
 このままでは、アンナもジェロニモも、救われはしないのだ。あの世界がこのまま消滅することは、すなわち、彼等の存在が消滅してしまうことをも指している。
 或いは、それを阻止する方法はあるのだ。この聖鍵を持って、再びアヴァロンへと向かう。そうして、創造主に会い、二人のプログラムを書き換えてもらえば良い。そうすれば二人は、この現実世界で生きていくことができるかも知れない。
 ただしそれには、いくつかの問題があった。
 一つ、聖鍵を再びジェロニモに奪われれば、東京の存在が危うくなるかも知れないということ。
 二つ、ジェロニモはおそらく、このゲームの製作者――浅葱 孝太郎(あさぎ こうたろう)に取り憑かれてしまっているのではないか、ということ。果たしてあれが孝太郎本人の魂なのか、果たしてその残留思念のようなものであるのかははっきりしなかったが、ジェロニモはもはや、アンナと自分との現実化ではなく、あの世界を愛する者として、あの世界そのものの現実化を望んでいる。
 ユリウスは鍵を紅茶の横に置き添えると、静かに溜息を吐いた。
 加えて、或いは、もはやジェロニモも、ジェロニモではないのかも知れない。孝太郎の操り人形にされている可能性もある。もしくは、彼は元々、ジェロニモの姿をとった、ジェロニモではない人物であったのかも知れない。そんな彼を助けたところで、アンナは本当に幸せになることができるのかどうかすらもわからない。
 何がどうなっているのか。その事実関係すら、はっきりとはしないのだ。状況がここまで緊迫していながらも、決断を下すための材料には恵まれていないような気がして仕方が無い。そもそも思い返せば、アンナの存在も、かつて二人が現実世界にいた頃にジェロニモが愛していた『アンナ』ではないのだ。アンナは、異界に取り込まれたジェロニモの意思によって造り出された、『アンナ・響(ひびき)』の生き写しのような存在であったのだから。
 二人を助けるべく、東京を天秤にかけることは正しいことであるのだろうか。それとも、東京のために、二人を見捨てる≠アとが正しいことなのであろうか。そもそも夢の世界≠ノ取り込まれてしまった存在は、もはや現実の存在とは別だと考えて、全てを時の流れに任せておくことが、正しいことなのであろうか。
 ユリウスが、ゆっくりと周囲を見回した。
 ――確かに、思えば思うほど、わからないことが多すぎる。しかしとりあえず決断しなければならないのは、
 まあまずは、二人を助けに行くか、行かないか、ですよね。
「私達は、」
 さあ、どうしなくてはならないとお思いになりますか? 皆さん。
 片手はテーブルについたままで、片手を広げてやんわりと、しかし硬い問いかけを一同へと投げかける。
「私達は、二人を助けに行くべきなのか。それとも、このまま事件を終わらせてしまうのか――ですね」



I

「そぉれは、むりなそうだんなのでぇすよ?」
 会話が、止まった。その次に、一同からの視線を受けて、胸元からぶら下がる金の懐中時計に手をあてる、小さな小さな影があった。
 露樹 八重(つゆき やえ)。身長はわずか二つ折りの携帯電話ほどしかない、赤い瞳の愛らしい少女。
 彼女は、テーブルの上にあったチョコレートケーキから視線を逸らすと、
「じかんはつねに、うごいているのでぇす。やりなおすことなんて、できないんでぇすよ」
 傍にいた少女から差し出されたハンカチで、口元をごしごしと拭った。
「やっぱり、無理……ですよね」
 返されたハンカチを丁寧に畳み直した少女――初瀬 日和(はつせ ひより)が、悲し気な色で瞳を曇らせる。
 そういえば八重さんには、時間を動かす力がおありなんですよね?
 誰かが訊いた言葉に、小さな希望が見えたような気がした。だが、
「そんな解決方法が、あるわけ、ありませんよね」
「ゆかにぢゅーすをこぼしても、それがこっぷのなかにもどることはないのでぇすよ。それに、たとえば、ここにあるけぇきのじかんだけもどにもどすことはできないのでぇすよ」
 そうしたら、もっとたくさんけーきをたべられるんでぇすけどね?
 えへへ、と笑った八重の言葉で、話は元の位置へと戻る。
 元の位置――さて、自分達は、ジェロニモとアンナとを助けに戻るべきなのか否か、という話だ。
「……では、それで構わない、ですね?」
 一同に向けて問いを投げかけたのは、セレスティ・カーニンガムであった。
 海の色と同じ髪を、するり、と長く肩の後ろへ流すと、
「エゴ、かも知れないとも思います。でも、私は、生きる権利は全ての人に平等に与えられているものなのだとも、思います」
「構わないわ。私はこのまま、あの二人を見捨てておこうとは思わないもの」
 強い意志で述べたのは、シュライン・エマであった。
 切れ長の青い瞳で、金色の鍵を見つめる。それは先日、アスガルドからこの世界へと戻された時に、シュラインがシスター・アンナから託されたものであった。
「俺も賛成ですね。このままでは、本当の意味で、この事件が解決したとは思えませんから」
 そこで初めて紅茶に手をつけたのは、田中 裕介(たなか ゆうすけ)――ユリウスを先生、と仰ぐ、この教会とは縁深い青年であった。
 裕介は、冷めていた紅茶を一気に飲み干すと、
「セレスティさんの、言うとおりだと思います。ジェロニモさんにもアンナさんにも、生きる権利はあると思うんです」
「たった二人、いいえ、たった三人、なのかも知れません」
 その言葉を引き継いだのは、日和であった。
 確かに。東京には、それに比べれば数え切れないほどの人が住んでいる。その中には、日和のよく知る人々も含まれている。
 けれど――、
 確かにそんなに沢山の人々と、三人の命とを、天秤にかけるべきでは、ないのかも知れませんけれど。
「やっぱり、私には、できないんです。たった数人の命だからって、見捨てることなんて、できないんです」
 胸に手をあて、ぽつり、ぽつり、と言葉を紡ぐ。
「誰かを大切に想っているからこそ、護りたいと思っているからこそ。こんなことに巻き込まれてしまったジェロニモ神父様や、……アンナさんを、責めることはできないんです」
 彼は確かに、至る所に対する加害者なのかも知れない。しかし、彼が加害者となる前に、彼は被害者であったのだ。
 彼のみが悪いとは、日和には考えることができないことであった。
「私だって。私がもし、ジェロニモ神父様の立場にあったら。こんなことをしないだなんて、言い切れることではありませんから……」
 無謀かも知れない。けれどもし、自分からあのような形で、大切な人が奪われてしまったとしたら? その人を取り戻すための可能性が、どんなに小さなものであれ、傍に転がっていたとしたら?
 私だってきっと、ジェロニモ神父様と、同じ行動をとってしまう……。
 けれどもし、そのような時に。自分の痛みを、少しでも分かってくれる人がいたとするならば。
「ジェロニモ神父様の気持ちなんて、きっと私にはわからない。わからないけれど、もし私がそうなってしまった時、誰かに傍にいてもらえたら、想いを分かち合ってもらえたのなら。きっと、少しでも、楽になれるような気がするんです――」
 確かに、自分は無力かも知れない。戦う能力も、彼等を説得できるだけの話術も持ち合わせてはいないのだから。
 それでも、
「一緒に泣いてもらえると、嬉しいと思いませんか? 悲しい時、辛い時に、誰かが傍にいてくれる……直接的な救いにはならないかも知れません。もし彼等を救うことができなかったとしたら、そんなこと、何の意味も成さないかも知れません。でも……――、」
「だいじなことでぇすよ? にんげんひとりでいきているわけじゃあないのでぇす♪」
 上手くは言い表せないのですけれど……と、俯いた日和に、八重がテーブルの上からにっこりと笑いかける。
「あたしも、じぇろにもしゃんやあんなしゃんだけのじかんをもとにもどしてあげることはできませんけぇれど、よりよいみらいをつくるおてつだいならできるかもしれないのでぇす♪」
 これ、むいてくださいなのでぇす。
 立派な意思を述べた――次の瞬間には、両手で、きつくラッピングされたクッキーをユリウスへと差し出してみせる。
 ユリウスは、それを苦笑気味に受け取ると、
「やれ、やっぱり皆さん、そうなさりますか。……それでは私は、見物人として。今回はのんびりと、旅行を楽しませていただきましょうかねぇ」
 それは事実上、この結論を容認する台詞。
「先生」
「私の仕事は、もう終わっているんですよ? 終わったものを、ごちゃごちゃと掻きまわす必要はありませんでしょう――ですから、今回は高みの見物です」
「全く、先生らし――、」
「みみみ、やっぱりゆりうすしゃんは、ほんとおおうにはらぐろしゃんなんでぇすねぇ」
 裕介の言葉を遮り、八重がユリウスの耳元へとよじ登る。
「すなおにいったらどうでぇすか? わたしもみなさんとおなじきもちでぇすよって」
「……おや」
 耳元での囁きに、ユリウスも声色を落とす。
「私一人だったら、お二人を助けに行こうとは思いませんよ?」
 生前のジェロニモとは、親友の関係にあったわけでもない。まして、東京を天秤にかけて、もしも、のことがあった時に、自分では到底、その責任を負いきれはしないであろう。
 ですから、もし皆さんがここにいなければ、私は平気で、彼等を見捨てていたでしょうね。
 否、見捨てていた、という気にも、なってはいなかったでしょうね。
「私は、面倒ごとは嫌いなんです。ですから、一度終わってしまったこの事件の更なる顛末がどうなるのか。自分の興味に従って、見に行くだけですよ」
「そういうことばっかりいってるから、いろいろなひとからからかわれてあそばれるんでぇすよ?」
 ゆりうすしゃんって、もしかして、つんでれ?
 にやぁ、と囁いた八重に、ユリウスはクッキーを半分手渡してから、首を横に振って見せる。
「それは、違います。所謂ツンデレというのは、ですね」
 ああいう人のことを、言うんですよ。
 ユリウスが付け加え、クッキーの半分を口に咥えた頃には、ばたん! と、静寂の空間には似つかわしくない騒音をたてて、聖堂の扉が開かれていた。
 驚いて振り返った一同の視線の先に立っていたのは、
「……田中さん、ちょっと」
 肩で息を荒げる、この教会のシスター――星月 麗花(ほしづく れいか)であった。


 教会の、一室で。
 あの二人はどこに行ったの? と。
 問うシュラインの声音には、悪戯っ気のようなものが含まれていた。
 事情を知るセレスは、けれども深くは言わずに穏やかに微笑むと、シュラインの持ってきた今回の事件に関する資料へと手をあてる。
 流れ込んでくる情報。白銀の姫のゲームの情報から、創造主、つまりは、浅葱 孝太郎の情報まで、色々なものが感じ取られる。
「ところで、」
 やおら、セレスがシュラインへと問いを投げかける。
 振向いたシュラインは、セレスの雰囲気から何を感じ取ったのか、
「ログアウトしてから実体が無かったとしたら、意味が無いもの。白銀の姫のプログラムを書き換えたところで、そのプログラム法則が、現実にも当てはまるかどうかはわからないわ。だって、この問いに対する答えが必要な時点では、東京は救われているのだもの」
 白銀の姫と東京との繋がりが強まっている今の時点では、二人のプログラムを書き換えれば――彼等のプログラム構造が自分達と同じ、現実から来た勇者だ、という風に書き換えれば、彼等はこの世界に具現化するのかも知れない。
 しかし、それでは、東京が救われた時に二人がどうなるかはわからないのだ。白銀の姫と東京との繋がりが薄れた時、二人の存在がどうなるかはわからないのだ。
「妥当、かも知れませんね。そうすれば……あの世界を異界として安定させることができれば。あの二人も、別の世界で新たなる生を受けたことになる、ような気がします」
 先ほどまでここにいたユリウスにも、シュラインからはそう提案してあった。ユリウス曰く、あなた方に一任しますよ、とのことではあったが、シュラインもセレスも、白銀の姫の世界からバグを取り除き、異界として安定させる、という方向で話を進めたいところであった。
 シュラインもセレスも、確かにアンナとジェロニモとを助けたいと思っている。思っているのと同時に、話には出さなかったが、白銀の姫の世界の人々の存在をも、護りたいと考えているのだ。あの世界を異界として安定させれば、その想いも共に成就されることとなる。
 と――。
「しゅらいんしゃん」
「何かしら?」
 セレスの読み取り終わった資料を、日和と共にぼーっと眺めていた八重が、みみみぃ……と、文字の上に屈みこむ。
「こうたろうしゃんって、おともだちすくなかったんでぇすか?」
「可能性は無くはないわね。いつも研究室にこもりっきりだった、という話もあるし、あまり人と一緒にいるところを見かけられていない、という話も、あることには、あるもの」
「ふぅん……」
 八重の一言に、無言のまま、日和の意識が八重と同じ資料の上に留められる。
 ――そろそろ、灯りを点けましょうか。
 暗くなったことに気がつき、誰かがそう呟いたのは、それから暫く後のことであった。

 別に、何か用事があるわけでもなかった。――だからこそ、性質が、悪い。
 話しかけて、失敗した。しかも、聖堂まで押しかけて……と、麗花が思った頃には、もう手遅れな状態であった。裕介を呼び出したまではよかったが、その先どうするかは、全く考えていなかったのだ。
 だから。
 流行のカフェで、適当な話をした。本当にくだらない話を、延々と数時間。よくもまあ、裕介が付き合ってくれたものだとも思う。
 思いつつも、夕の過ぎた帰り道。誰もいない小さな公園を突っ切りながら、ついに話題を無くした麗花が、黙って裕介の隣を歩いていた時のことであった。
「そんなに、心配でした?」
「何がよ」
「だから、わざわざ呼んでくれたんですよね?――俺が、わかってないとでも?」
「……別に。田中さんのことなんて、心配じゃないです。田中さんがアスガルドだろうがアヴァロンだろうがどこに行こうとも、別に私には関係な……、」
「誰が、その話だって言いました?」
「――ぁ」
 しまった、と、思った瞬間には、
「田中さ……っ、」
 抱きこまれて、再び言葉を失ってしまっていた。
 正直。
 正直、或いは明日、このぬくもりを失ってしまうかと思うだけで、麗花は怖くて怖くて、たまらなくなるのだ。
 体の震えが、止まらない。
「私……、」
 私、何?
 声音まで伝わった震えは、思考までもを鈍らせる。
 怖い。
 このまま明日が明後日が、明々後日が、来なければいい。確かに今は幸せな瞬間でも何でもないけれど、
 ――この人を失ってしまうかも知れないのなら、明日なんて、来なくてもいい。
 例えそれが、我らが天主の意思に反することであったとしても。
「ぃや……」
 この人のいない世界になんて。生きていても、仕方が無いような気がする。
 好きなのだ。決して口にはしなかったが、掠め取られる口付けにも、さり気なくとられる手の暖かさにも、いつも、動けなくなるほどの甘い痺れを覚えていた。
 ここまで誰かを好きになることなど、できはしないと思っていた。その性分こそが、自分に与えられた召命だとさえ思っていた。
 なのに。
 裕介のシャツが、きゅっと歪んだ。
 しがみつく麗花の手が、不安を露にする。
 いやだ、とも。行かないで、とも。言うことは、できなかった。
 できなかったが、他の言葉も見つからなかった。だからこそ、言葉を失って黙してしまう。
 時間の流れさえ、酷く億劫に感じられた。
「約束する」
 どこか他人事のように、その言葉を聞いている自分がいる。
「絶対、戻ってくる」
 絶対? 戻ってくる? どうしてよ。そんな保障は、どこにあるっていうのよ。
 二人きりの場所。誰にも見られていないからこそ、ますます我侭になってしまう。
 麗花が、自分を落ち着かせるかのように、一つ大きく息を吐く。
 そんな彼女を、裕介がしっかりと抱きしめる。まるで決意を、もう一度新たにするかのようにして。
「俺が、護らなくちゃならないから。そのためには、戻ってこなきゃいけないだろう……?」
 そんなこと、当たり前のこと過ぎる。
 気持ちなら、今までに何度も伝えてきた。素直な反応こそなかなか戻ってはこなかったが、彼女の気持ちも、わかっているつもりであった。
 自惚れかも知れない。しかし、同時に絶対にそうではないと思う。
 本当の意味で、麗花を護れるのは俺だけだ。
 だから、俺は必ず、
「――絶対に、戻ってくるから」
 麗花さんの所に。
 麗花の首筋に、そっと口付けを落とす。
 彼女の首元では、中心に誕生石の添えられた小さなペンダントトップが揺れていた。
 裕介さん、と、囁く声が、どこか弱々し気で。珍しく弱気な麗花を、裕介はその囁きごと捕らえて離そうとはしなかった。
 風が、二人の熱を穏やかにしていった。



II

 Log-in.
 あれから数日後、教会のパソコンを入り口に、一同はあっと言う間に、ゲームの世界の住人となる。
 現実とは違う服装。違う香り。
 白銀の姫の世界独特の雰囲気には、時折誰もが、飲み込まれて戻れなくなってしまうのではないか――という錯覚を覚えてしまう。このままこの世界にいれば、いずれ自分はゲームの世界の住人となって、現実のことなど、全て忘れてしまうのではなかろうか、と。
「……ここ、は」
 呟いたのは、誰であったのだろうか。
 一同が目を開ければ、そこには青暗い水辺の光景が広がっていた。
 セレスやシュライン、裕介やユリウスには、見覚えのある水辺。
「『霧の湖』……?」
 アヴァロンへ繋がる、門のある場所。そうして、今自分達のいる場所は――、
「うわぁああああい、おおきいのでぇえす」
 陽気な叫び声は、一同の頭の上から聞こえた。
 ただ一人八重だけが、その他の人よりも高い所に座っていた。
 少しだけざらり、とした手触り。緑色のような、青のような色をした肌。ここに来たことのある者にとっては、見覚えのある大きな生物――この湖に住む首長竜は、八重を頭に、その他の者を背に乗せたまま、海のような水面を、ゆるゆると、どこかに向けて泳いでいた。
 八重が両手を広げても、その大きさを表現することなどできはしないほど巨大な竜は、つぶらな瞳を真っ直ぐ正面に向け、目的地へと急いで行く。
 静かな水面。水の流れる音に、霧と光の踊る音さえ聞こえてくるかのような空間。時折水面を覗き込んでいる木々が垂れている以外は何も無い場所で、
「……りくなのでぇす! しまがあるでぇすよ!」
 初めに異変を見つけたのは、八重であった。
「どうやら私達は、呼ばれているようですね」
 それに続いて、セレスがぽつり、と呟く。
 気配が、する。水の気配が、ひやりと心地良い。高貴な香りが、強くなる。
「『ダム・ド・ラック』?」
「おそらくは、そうでしょうね。それも、以前お会いした方と同じ――ね」
 セレスがシュラインの問いに頷いたその頃、突然竜が、湖の中へと沈み始める。
 気がつけば着いていた陸へと、慌てて皆が上陸する。
 声は、休む間もなくかけられた。
「お行きに、なるのでしょう?」
 そこに立っていたのは、セレスの予想通りの影であった。
 全身、水と同じ色をした、繊細な硝子細工のような貴婦人。彼女こそがこの湖の守護者であり、アヴァロンへの扉を開く存在であった。
 裕介は、一応の挨拶を送った後、
「俺達は、行くことに決めました。ジェロニモさんとアンナさんを、このまま放っておくつもりはありませんから」
「で、しょうね。あなた方ならそうなさるでしょうと、思っておりましたわ」
 止めはしませんわ、と、女性は微笑む。
 ついでにいくつか教えて差し上げましょう、と、珍しく自分から、自分の知ることを口にする。
「全ては、あなたたちの推論どおりですわ。あの神父には、この世界の創造主様の、負の想いが取り憑いている――」
 歌うように、言葉を続けた。
「お二人の気持ちが、色々なところで混ざり合ってしまったのでしょうね。シスターに対する想いと、この世界に対する想い。大切な人を殺された悲しみと、この世界を未完成のまま置き去りにしなくてはならなかった未練。事件が風化していく無念さと、この世界があまり知られずに忘れられていくという現実……、」
「だからといって、どうして彼は『この世界の創造主になる』と考える必要があるのです?」
 問うセレスへと、
「本当は、薄々感づいていらっしゃるのでしょう? 創造主様はこの世界そのもの、ですわ。創造主様が死んでしまえば、この世界も滅んでしまう。けれども、あの神父に憑いている存在もまた、創造主様ですもの。この世界を担う存在に、なることができましてよ」
「墓の中の創造主と、ジェロニモ神父に憑いている創造主とは、区別されるが、分離されない――そのような感じですね?」
「ですわね。創造主様は、創造主様ですわ。けれど、創造主様と創造主様は、同じでありながらも、もはや別々の人格をもつ存在として区別されて然るべきですのよ」
「もしジェロニモ神父の策略が成功したとすれば。起こる現象としては、霊核の心だけが入れ替わってしまうようなものですね? 孝太郎さんが孝太郎さんでありながらも、孝太郎さんではなくなってしまう……」
 異界の存在そのものを支える霊核には、変化が無い。しかし、その本質は変わらなくとも、まるで元々そうであったかのように、霊核の心だけが変わってしまう。
 セレスの確認に、女性はええ、と頷くと、
「この世界を変える権限は、創造主様にしか、ありませんでしてよ。……いいえ、まどろっこしいことはやめに致しましょう。あなた方の世界の言葉で説明をさせていただきますとね」
 溜息を吐くと、
「プログラム変更に必要なパスワードや権限は、この先のアヴァロンにお眠りになっている、創造主様しかご存知ありません。いくら神父に憑いている創造主様が創造主様であったとしても、彼はそれをご存知ではありませんことよ」
 やれ……と、長い髪をかき上げる。
 話のわかりそうな人が、自分の話についてきていることを一瞥して確認し、話を続ける。
「でも、彼は本質的には創造主様ですもの。……あぁ、よくあるお話と一緒ですわ。創造主様と彼とは、同じ肉体を共有することのできる二つの魂のようなものですわ。彼は創造主様の中から、創造主様の魂を追い出して、自分が創造主様になろうとなさっているのですわ。そうして創造主様の肉体をのっとれば、プログラムの書き換えも、何もかも、自由におできになりましてよ」
「でも、もしそうだとしたら、浅葱さんと、ジェロニモさんとは、同じ人物でありながら全く違うことを考えている……ということ、ですよね?」
「創造主様は、この世界を造った時のままの創造主様ですもの。けれど彼は、創造主様の無念さが生み出した創造主様ですもの。この世界にあまりにも執着しすぎていらっしゃるのでしょうね。彼にとっては、東京なんてどうでもいい。この世界こそが、全てなんですのよ」
 貴婦人は、日和へとやわらかく答えを返す。
「でも……、どうしてそんなに、狂ってしまうほどに、この世界に執着する必要が……、」
 少しだけ、納得いきません、と言わんばかりに、日和が言葉を濁らせる。
 貴婦人は、彼女の言葉の続きを悟ってしまう。
 だからこそ、
「その答えは、きっともうすぐわかることでしょう」
「へ?」
「さあ、お行きなさい」
 やおら、すっと天に向かって腕を挙げた。
 ここからどこか遠くへと続く光の道が、現れる。霧が身を隠し、湖が明るく煌めいた。
「わたくしから言えるのは、それだけですわ。後は自分達で、道をお開きなさい」
 貴婦人が、微笑んで一同を道の向こうに促した。
それにおとなしく従い、思い思いの挨拶を残し、皆はその道の向こうへと消えて行く。
 だから。
「これで宜しいのでしょう? テウタテス」
 その道が消え、アヴァロンへの扉が閉ざされた頃。囁いた女性が霧の中へと消えて行ったことは、誰も知らないことであった。
「創造主様のことも、この世界の行く末も、これであの方々に、託したことになりましてよ」


 おかしい。
 そうとはわかっていても、誰もがそれを口にしようとはしなかった。
 おそらく嵌められている。
 そんなことは、わかっていた。わかってはいたが、あえて嵌められてやることも、時には必要なような気がした。
 アヴァロン――その、大草原。その奥に建てられた、ぼろぼろの古城。数日前にジェロニモと対峙した場所をあっさりと抜け、一同は、その中に入って行く。
 嵐の前の静けさと言うべきなのか、蝙蝠一匹すら襲ってこない、濡れた香りの暗い廊下。突き進めば、あっと言う間にそれらしき所へ、ついてしまった。
 裏をかかれているのであれば、その裏をかけばいい。
 そう言い聞かせて、一同は聖廟へと鍵を翳した。ただそれだけであっけ無く、創造主は目覚めてしまったのだ。
「君達、誰? そんなファンタジックな格好をして……今日は仮装パーティでしたっけ?」
「まず自分の格好をご覧になった方がいいと思いますよ、浅葱さん」
「うわ、なんで僕の名前を知って……あ、本当だっ?! 何だろ、この変な鎧みたいなの……!」
 その墓の奥に眠っていたのは、このゲームを製作した張本人である浅葱 孝太郎、つまりは、この世界の創造主であった。
 孝太郎は、裕介に指摘され、あたふたと自分の格好を確かめるなり、
「誰か僕のこと脱がせたんでしょうっ?! あぁ、折角魔法使いまであと五年――、」
「そういう話は別のところでやってください」
 ぴしゃり、と裕介に制されると、悲し気な面持ちでしゅん、と視線を落とした。
 溜息を、一つ。
 それにしても……、と孝太郎が諦めたように、周囲をぐるりと見回す。
 かび臭い、地下のような場所。――に、ある、やたらと立派な墓のような場所。に、座る自分。
 状況が、よく理解できなかった。ただ、酷く長い間、眠っていたような気はする。
 思った途端、出てきた欠伸を噛み殺し、
「で、君達は、誰なんですか?」
「むむぅ、どこからせつめいすればいいんでぇすかぁねえ」
 日和の上から、いきなり事実を突きつけたのは、八重であった。
「ここは、こうたろうしゃんのつくったせかいのなかでぇすよ」
「は?」
「はくぎんのひめのせかいでぇすよ。こうたろうしゃんはいま、こうたろうしゃんのつくったせかいのなかにいるのでぇす」
「白銀の姫?」
 そんな馬鹿な。
 その瞬間、あぁ、ここは夢の中なのか、と、そんなことを認識する。第一ここが現実であれば、人形のような少女が口を開くはずはないのだから。
 ここが夢なのであれば、その登場人物に一言聞いてみようと、孝太郎が傾げていた首を元に戻す。
「あぁ、でももし、君達の言っていることが、本当だとするのなら……、」
 事情も知らず、無邪気に微笑むと、
「素晴らしい世界だと、思いませんでした? 未だかつて、こんなに素晴らしい世界は存在しなかったはずです。細部にまでこだわったグラフィック。伝統的、かつ斬新な世界観。ユーザーがこの世界の中で生活しているかのような演出。ストーリィだって悪くない。これでこのゲームが、世の中に認められないはずがない」
 まあ、流石に某社の技術には敵いませんでしたけれども?
 でも僕は、素人ですよ。
「僕の人生の、集大成です。十分にご満悦いただけました? でも、こんなんじゃあ駄目ですね。もっと多くの人にこのゲームを知ってもらって、僕を認めてもらわなくちゃ。……ねえ、もし、」
 もし、
「もし君達の言っている事が本当で、今僕達がいる場所がゲームの世界の中なのだとしたら。絶好の、チャンスだと思いませんか? このゲームの中に皆に来てもらって、その凄さを知ってもらえばいい」
「暢気なものですね……」
 裕介が、ぽつり、と呟いた。
 霊核でさえなければ。この人が、この異界を支える存在でさえなければ。そうしてこの人が、全ての事情を知っていたとするならば。
 この場で彼を一発くらい、殴ってやりたい気分であった。
「あなたは、もう死んでいるんですよ」
「田中さんっ!」
 止めに入った日和の声音は聞かぬふりで、裕介は言葉を続ける。
「事情は説明しなくてはなりませんでしょう? 浅葱さん。あなたは、交通事故で死んでいるんです」
「笑い話ですか? 僕はこうして、ぴんぴん生きているのに?」
「じゃあ、あなたが今立っている場所を、どう説明してくれるというんですか? 東京に、こんな場所があると思います?」
「遊園地とか、夢の国にはあるのではありませんか? それか……新手のシチュエーション喫茶とか?」
「ではどうしてあなたが、今、そんな場所にいるんですか? ここは東京じゃあない。あなたの造った世界の中だと、八重さんが説明したとおりですよ。それ自体、不思議な現象だと思いませんか? だとすれば、あなたが死んでいたとして、何かおかしいことがあると思います?」
 駄目だ。
 言いながら、心の中で裕介が呟く。
 そんなこと、唐突に孝太郎につきつけても、わかってくれるはずがない。しかも、ここにいる孝太郎に、果たして今回の事件の非があるのかどうかなど、まだわかってはいないのだ。
 そうとわかってはいても、言葉はどうしても鋭くなってしまう。ここに来るまで、長かったのだ。
 それに――。
 麗花のことが、思い浮かんでならなかったのだ。この事件を軽んじるような彼の口調に――尤も、彼がこの事件を知らないのだから、それは当たり前のことだとわかってはいても――、東京の、そうして、そこに住む麗花の命が、軽んじられているような気がしてならなかったのだ。
 裕介も、孝太郎も、言葉を失った。
 そこに、
「場所を、変えませんか?」
 控えめに響き渡ったのは、甘やかな日和の声音であった。
 日和は努めて温かく、
「こんな暗い所では、皆さんの気分まで暗くなってしまうでしょうから……」
 場を和めるかのように、微笑んで見せた。

 古城を背に、伸びをする。
 緑の輝きを攫って、風が爽やかな香りを茂らせていた。
「僕にはよく、わかんないなぁ」
 のほほーん、と、言い放ったのは、一同から全ての事情を言い聞かされた、孝太郎であった。
 この世界の成り立ちについても聞いた。自分の存在についても聞いた。不正終了のことについても色々と聞いた。
 でも、
 その全てを、信じろって?
「でも、ですよ」
 こんなに空は綺麗で、ぽかぽかなのに?
 ……そんなこと、
「そんなこと、信じろって言うんですか? 要は、世界が滅びるってことですよね? この世界のせいで? 冗談、いい加減にしてくださいよ」
 けろり、と笑い飛ばす。
 ――どうやら、創造主は、
「本当に何も、ご存じなかったようですね」
 今の今まで、本当に、今の状況を、全く知ってはいないようであった。
 溜息混じりに、セレスが問う。
「では、今のお話で、どこまで信じていただけたのでしょう? と申しましても、信じろと言う方が無理なのはわかってはいるのですけれども」
「うううーん……そりゃあ、ですよ」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、
「とりあえず、ここが東京じゃない、ということは、イヤでも認識せざるを得ないですよねえ。僕が事故で死んだ、とかいうのはともあれ……、だって今僕が見ているものは、明らかに僕がプログラミングしたものですよ? この古城も、この草原もそう。この空だって、この草原には雨が降らないように設定してあるからです。でも、草木は青々としているでしょう?」
 でもねえ。言うのは簡単ですけどね。
「大変だったんですよ? 中々僕の意図した通りにはならなくて。色々パッチファイルをあてたりだとか、何だとかで、ようやくこの様子ですよ。いや、実物を見たのは初めてだけどね……まあ、よくできてるんじゃないですか? 自分で自分の実力に惚れ惚れしてしまいま、」
「パッチ」
 自分に酔いだした孝太郎の台詞から、ある単語だけを拾い上げたのは、日和であった。
「浅葱さんは、この世界を造ったプログラマーさんなんですよね?」
「じゃないと、こんなものは造れませんよ。一体そのために、僕があの大学院でどれだけ勉強してきたことか……僕は何せ、あの私立神聖都学園大学部電子工学科大学院の院生ですよ? 僕は? 確かに名前が長いのは気に食いませんけれどもね、うちの大学院っていったら、全国、いや、世界でもトップクラスの――、」
「私には、難しい話はよくわからないんです……でも!」
 パッチ。
 日和はそんな単語すら、この事件に関わるまでは、その意味をよく知らなかったのだ。
 けれど今は、おそらくそれこそが、この事件の本当の意味での解決に必要なことはわかっている。ゲームの本体プログラムに、孝太郎の造ったパッチをあてる。そうすれば、このゲームの世界を、おそらく安定させることができる。
「浅葱さん。今度は、浅葱さんが勇者さんになる番です。――この世界と、東京とを、救ってください!」
 この世界の不正終了を防ぐパッチを、造ってもらう。それと、もう一つ、
「あなたも望んでいるのでしょう? このゲームを、完成させたい……最後のイベントが不正終了で終わってこの世界が消滅してしまうだなんて、浅葱さんも、そんなことは望んでいないのでしょう? 私達はね、そのパッチと、」
 それから、
「この世界と東京とが繋がる道を、ログイン、ログアウト用のみにするパッチと、この世界を異界として安定させるためのパッチ。それをあなたに要求するわ」
 シュラインが、日和の横に並ぶ。
 その厳しい視線に、孝太郎が言い訳がましく、消滅? 異界? 安定? それにパッチっていったって、そう簡単に造れるものじゃあ……と、色々と理屈を並べようとした、
 ……その時であった。
「ご苦労様」
 空の上から降ってきたのは、太陽の光のみではなく、
「――ジェロニモさん!」
 裕介が、身構える。
 逸早く異変を察した彼の視界では、ジェロニモの黒い神父服がふわふわと風に揺れていた。まるで全てから、腕に抱えるアンナを隠すかのようにして。



III

 一同が、言葉も視線も交わさずに、その配置を変えた。
 全員で、孝太郎を護るようにして壁を作る。今や奪われてならないものは、テウタテスの聖鍵などではない。ここにいる創造主の、命≠ナあった。
「……何が、どうなってるんです?」
「そういえば、誰も説明なさっていませんでしたねえ。……あなたは、命を狙われているんですよ。まあ、この言い方には色々と語弊がありますけれどもね」
 一変した雰囲気の中に取り残された孝太郎へと、ユリウスが暢気に説明を加える。
「あそこにいらっしゃる方はね、あなたを殺して、この世界の新しい創造主になろうとしているんですよ。それから、この世界のプログラムを書き換えて、東京、つまりは、あなたがこのゲームを作成していたあの現実、神聖都学園のあるあの東京の上に、この世界を上書きしようとしているんです」
 おわかりになります? と、微笑むユリウスへと、孝太郎がさも笑い流すかのようにして返す。
「何を仰ってるんです? 東京にこの世界を上書きだとか、そんな夢みたいな話……それに、プログラムの書き換えなんて、そんなことは、できっこありませんよ。この世界のプログラムは、とても複雑なんです。それに、書き換えに必要なパスワードだとか、その他の権限だとか、構成だとか、そういうのは僕しか知らな――、」
「だからこそ、彼はあなたの体をのっとろうとしているんですよ。まあこの言い方にも、語弊がありますが」
「は?」
「ばかげた話だとお思いでしょう? あなたは、あなたです。けれども、あなたとは別に、現実世界に未練を残したあなたがいらっしゃる。だから、あそこにいるのもあなたなんです。彼があなただからこそ、彼は今、あなたの中にいるあなたと入れ替わって、本当のあなたになろうとしているんですよ」
「そんな馬鹿な」
「あなたの中にあるこのゲームに対する執着心が、あまりにも強すぎたんです。その想いだけがあなたから離れてしまって、自分と似た気持ちを持った魂、つまりは、ジェロニモさんと重なり合ってしまった……だから今、こういう状況になってしまっているんですよ」
 もはや、正気の沙汰とは言えないところまで、きてしまっているんですよ。
 冷静に考えれば、色々とおかしい点も出てくるに違いない。だが、ジェロニモと孝太郎との気持ちは、今や一番短絡的かつわかり易い方法に向かうことで、ようやく爆発を抑えられているような状況なのであろう。
「ほおら、アンナ」
 遠くのやり取りが、風に乗って孝太郎の耳にも届けられる。
 孝太郎の視線はいつの間にか、そこに釘付けになっていた。まるで、今まで見ないようにしていた現実を、突きつけられているかのようにして。
「やっぱり、来てくれただろ?」
 ジェロニモの問いを受けても、アンナは、応えようとはしなかった。ただ、シュラインへと、物言いた気な視線を向けるのみであった。
 ――ねえ、どうして。
「……もうすぐよ。もうすぐあなたを、助けてみせる」
 シュラインには、彼女の言いたいことがわかってしまった。わかってしまったからこそ、決意を新たにする。
 あの日、この場所から一同が現実世界へと強制的に送り返されたあの日、アンナはシュラインへと、テウタテスの聖鍵を投げ渡していたのだ。それはきっと、アンナの決意と一緒に託されたものであったのであろう。
 ねえ、どうしてここへ、戻ってきたの? あれできっと、東京を救えたと思ったのに。……神父様に、酷いことをさせなくてすんだと思ったのに。これできっと、私の好きな神父様でいてもらえるって、思ったのに。
「アンナちゃん」
 聞こえるように名前を呼べば、アンナは視線を逸らしてしまう。
 シュラインは、自分の決意は行動で示す、と言わんばかりに、ジェロニモへと向きを変えた。
「ジェロニモさん。話くらい聞いてもらえるわよね?」
「それで何か、いいことがあるのだったらね」
 笑うジェロニモの視線は、孝太郎から離れてはいなかった。
「俺としては、あんた達がここに、創造主を連れてきてくれたことだけで、もう満足なのだけど」
 ねっとりと笑う。
「でもその苦労を買って、ちょっとくらいなら、話を聞いてあげてもかまわないけれど」
 前よりも随分と、変わってしまったような印象。まるで、体内に入り込んだ毒が、じわじわと効いてきているかのような――、そんな印象。
 ジェロニモが、ジェロニモでなくなっているのかも知れない。そう感じたシュラインの横で、日和が、震える。
「怖い」
 冷え切ったあの視線を受けるだけで、体が固まってしまいそうになる。
 日和が話に聞いていたジェロニモは、アンナからのであれその他の人からのであれ、このような印象をもつ人ではなかった。日和はジェロニモに会ったことがなかったが、まさか彼が、こんな人だとは思ってもみなかった。
「だいじょうぶでぇすか?」
 肩の上から八重に問われ、どうにか正気を取り戻す。
「……ありがとうございます。私は、大丈夫です」
 世界がくらり、と、揺らいだような気がした。
 自分の存在をそこに引き留めるかのように、日和は強く静かに、祈りを口にする。
 でも、
「きっと、大丈夫ですよね」
「ひよりしゃん?」
「絶対に大丈夫だって、信じています。……だって、ジェロニモ神父様と浅葱さんがこうなってしまったのは、決して悪い理由からじゃないですから」
 どんなに沢山の実を結ぶ種でも、岩地や茨の中に落ちてしまっては、その美しさを開花させることはできないのだ。むしろその種に心があれば、自分の境遇を呪いさえするかも知れない。
 けれどもし、その種が良い土地に落ちていたとするのなら。
「だから、大丈夫です」
 種は生え出で、一○○倍の実を結ぶに違いない。それと同じく、彼等の心を取り巻く環境さえ整えば、彼等は幸せな道を歩むことができるはずなのだ。
 八重が、そんな日和の肩の上から身を乗り出した。
 そうしている間にも、シュラインやジェロニモやアンナのやり取りは続いていた。
「ねえ、アンナ。この世界は、美しいだろう?」
 ジェロニモがアンナへと、いつかと同じ質問を繰り返す。
 ジェロニモは、くすり、と微笑むと、
「こんな素晴らしい世界が、誰にも知られずに滅んでいくのは許せない。だったら簡単だろう? この世界の中に、皆を取り込んであげればいい。そうすれば皆は、この世界の住人となって、永遠にこの中で生きていくことになるんだ。ようやく皆、僕≠認めざるを得なくなるんだよ」
 するり、と、顔の輪郭に、冷たい指先が巻きついてくる。
 アンナが、ぎくりと身を震わせた。
「違う」
 まるで、自分に言い聞かせるかのようにして、呟いた。
 アンナの首の後ろで、彼女のペンダントの鎖が外される。
 クンツァイトの入った、十字架のペンダントトップ。かつてジェロニモがアンナに贈った、小さな贈り物。
「私の好きな、神父様は……!」
 震えるアンナが、声を荒げた。
「そんな人じゃないっ!」
 私の好きな神父様は、こんな人じゃないっ!!
 アンナが、ジェロニモを突き飛ばす――それを待っていました、とばかりに、セレスの造り出した水の鎖が、ジェロニモの仰け反った先に待ち構えていた。
 水の鎖に絡まれた衝撃に、ペンダントがジェロニモの手から零れ落ちる。
「こっちです! アンナさん!」
 それをアンナの心残りと共に拾い上げたのは、刹那駆け出していた、裕介であった。
 いつの間にか裕介に抱きかかえられ、ジェロニモからは遠い場所へと運ばれるアンナの不安を察し、裕介が言う。
「大丈夫です」
 その手に、十字架を握らせて、
「ジェロニモさんも、大丈夫です……すぐに、終わります」
「くそっ――! 油断したっ……?!」
 セレスの操る水は、ジェロニモを決して捕らえて離さない。
 あがくジェロニモ。裕介は日和をシュラインへと託すと、素早くユリウスの背を押した。
「黙って見てないで先生も手伝ってください! ほら! 聖水瓶ですっ」
「やれ、忘れてきたから私の出る幕は無いと思っておりましたのに。でも私言いましたでしょう? 今回は高見の見――、」
「麗花さんにちくりますよ!」
「……すぐそればっかりなんですから」
 仕方無しに瓶の栓を抜いたユリウスの手によって、水の鎖は二つとなる。
 ほぼ完全に動けなくなったジェロニモから、それでも震えるアンナをかばうようにして、シュラインが声音を高くした。
「わかっているんじゃないの?」
 日和の言葉が、思い出される。シュラインもまた、彼女と同じ気持ちになる。
 彼等の痛みを、その気持ちを、わかってあげられるわけじゃない。でも、
「本当は、恨みの矛先が判り易い方向に向かっているだけなんじゃないかって。それじゃあ、何も解決できないって、わかっているんじゃないの?」
 誰かを愛することは、決して悪いことじゃないわ。
 その純粋な気持ちが故に、道を踏み違えようとしている人を、
 私は――放っておこうとは、思わない。
 できる限りなら、幸せになってほしい。幸せになってほしいからこそ、そのまま突っ走ってほしくはない。
「ジェロニモさん。あなたがこの世界に来てから、一番最初にしたことは何だったの?」
 凛、と問いかける。
 アンナが、はっとして顔を上げる。
 シュラインはそれに振り返りもせずに、ただただじっと、ジェロニモを真正面から見据えていた。
 思い出して。それがあなたの、一番望んだことではなかったの?
「言われなくても、わかるでしょう?!」
 まるで、悟りの悪い子供を叱り付けるかのように、シュラインは少しだけ声を荒げた。
 それだけ、わかってほしかったのだ。否、わかってほしい、ではない。
 思い出して。
 思い出して、ほしかったのだ。今の彼はおそらく、一番大切なことを忘れてしまっている。一番大切なことを成し遂げようとするが故に、一番大切なことを忘れてしまっている。
 あなたは、アンナちゃんを護りたいんでしょう? 彼女を悲しませたいんじゃない。彼女に、笑っていてほしいんでしょう?
「――護りたいのでしょう? ジェロニモ神父。あなたは、アンナさんを護りたい……そうですよね?」
 穏やかに、けれどもしっかりと、セレスがシュラインの想いを引き継いだ。
 とん……、と、大地に錫杖をつく。
 真っ直ぐな視線は、見えないはずのジェロニモの表情を、しっかりと捉えているかのようであった。
「生きてさえいてもらえれば、それで構わないのですか?」
 この世界を、東京に上書きする。
 確かにそうすれば、アンナの命は、助かるかも知れない。
 けれど、
「あなたは、アンナさんの幸せを望んでいるわけでは、ないのですか?」
 例えアンナの心を殺したとしても。単に生きてさえいてもらえれば、それであなたは満足なのですか?
 考えてもみてください、と、セレスが錫杖に力をかける。
 きっと、……いいえ、絶対に。アンナさんは、そのようなことを望んでいらっしゃりませんよ。
「わかりますか。あなたの行為は、アンナさんから最も大切な存在を奪うことと等しい。アンナさんの好きなジェロニモ神父を、アンナさんから奪うことになるのですよ」
 それは、彼女から至福を奪うことと、同義なのだ。アンナにとってはきっと、ジェロニモ≠アそが全てなのだから。
 永き時を生きてきたのだ。セレスもそれを、よく知っている。人は時に、変わってしまう。それこそ、別人のようになってしまうことがある。
 もしジェロニモが事を成し遂げれば。きっと彼は、アンナの愛したジェロニモではいられなくなる。アンナの愛する彼は、この世からいなくなってしまう。
 けれど、今ならまだ、間に合います。
 だからどうか、気がついて。……アンナさんの愛したあなたの心を、取り戻して。
 二人の突きつけた事実が、ゆっくりとジェロニモの心を揺らしてゆく。
 彼の見ていた現実が、真実の篩にかけられる。わざと見ようとしなかったものが、取り分けられてゆく。網の上に、何か別のものが取り残される。
 そこにシュラインが、最後の揺すりをかけた。
「一緒じゃないの……そんなの、響さんを殺した人達と変わらないわ。あなたは知っているのでしょう? 一番大切な存在を奪われることが、それほど辛いことかって……! その気持ちを、アンナちゃんにも強いるつもりなの?!」
 その、途端。
「アン……ナ――?」
「神父様っ!」
 アンナの手の届かない所で、かくんっ、とジェロニモが意識を失った。
 刹那、
(追い出されたっ……?! くそっ、たかが神父に……! まあいい!)
 空が、黒くなった。雨が降る……しかし、誰かのその認識は、すぐにかき消される。
 力無く地面に倒れ伏したジェロニモから、真っ黒な影が生え出でていた。人の形を思わせる、意思を持った闇色の影。
「あれは……?!」
「孝太郎さん……の、影?」
 裕介が、身構える。
 答えたセレスも、魔力を増幅すべく、手に持つ錫杖に力を込めた。
「あれを倒せば……!」
(倒す? 無駄なことを――! この神父には頼らせてもらったけれどもね。そういえば、もう用済みではありませんか……だって僕≠ヘ、そこにいるんですからね!)
「させませんっ!」
 黒い影が、大きくなる。
 全てを包み込まんとするかのような侵食を、裕介とセレスとが、辛うじて振り払ってゆく。
 それを見つめながら、日和がぽつり、と呟いた。
「私、あの時。ダム・ド・ラックさんに、訊こうとしたんです」
 あの時、ダム・ド・ラックに問おうと思ったことがある。
 でも……、でももし、ジェロニモ神父様、いいえ、浅葱さんの目的が、この世界を崩壊させないことにあるとするのでしたら。どうして浅葱さんは、この世界を、東京の上に上書きしようとしているのでしょうか……。
「どうして浅葱さんは、この世界を東京に上書きすることにこだわっているのでしょう、って。でも、」
「ひよりしゃんの、おもっているとおりでぇすよ。みとめられたいんでぇすよ。……そうなんでしょう? こうたろうしゃん?」
「――僕?」
 ぼーっとして、まるで何かを考え込むかのように状況を見守っていた孝太郎が、はっとして顔を上げる。
 八重は日和の肩の上から、じぃ、と孝太郎を真っ直ぐに見据えると、
「あそこにいるこうたろうしゃんは、こうたろうしゃんなんでぇすよ? ほんねなんでしょう? じぇろにもしゃんのいってたことは、こうたろうしゃんのほんねなんでしょう?」
 区別されるが、分離されない。
 セレスの言葉の通りだ。確かにあそこにいる孝太郎とここにいる孝太郎とは、区別されるが、分離はされない。つまり、あそこにいる孝太郎の行動は、ある意味、ここにいる孝太郎の心を反映してのものなのだ。
 人の感情を全てばらばらにして、ある特定の感情だけ等身大にしてしまったようなもの。あそこにいる孝太郎は、ここにいる孝太郎の強い想いを反映した存在なのだ。
「ほんとうは、このげーむのそんざいをみんなにしってもらって、ちやほやされたかったんでしょう? わー、こうたろうしゃんはすごいね、すごいねって」
 孝太郎の瞳に、少しだけ憂いの色が過ぎったような気がした。
「こころのどこかで、すべてがこのせかいにとりこまれれば、じぶんのすごさをみとめてもらえるのになぁ、っておもっているんじゃあないでぇすか? でもね、しゅらいんしゃんがいってました」
 両手をぱっと広げると、
「このせかいが、せっかくこうたろうしゃんがつくったさくひんが、こわれてしまってもいいんでぇすか?」
「……壊れる?」
「このせかいがもしげんじつになったら、このせかいをげぇむとしてたのしんでくれるひとはいなくなるんでぇすよ? こうたろうしゃを、くりえーたーや、ぷろぐらまぁとしてみとめてくれるひとはいなくなるんでぇすよ?」
「でも、」
「みとめられたいなぁら、」
 なおも何かを言いかけた孝太郎へ、八重はちちち、と、一つの模範解答を与えるかのように、言葉を続けた。
「だったら。もしこうたろうしゃん、ちやほやされたいんなぁら、このせかいをへんにおわらせなければいいんでぇす」
 寂しがり屋、の、孝太郎。何となく八重には、そんな気がしてならなかった。
 認められたい。そんな気持ちの、強い人。
「ひねくれてみても、だれもみとめてなんてくれましぇんよ?」
 にこお、と笑う。
 そうして突然、戦況は一変した。
 八重の言葉を受け、孝太郎に生まれた戸惑いが、孝太郎≠フ動きを鈍らせる。
 そこに、隙が生まれた。
 裕介が真っ直ぐに、そこに飛び込んでゆく。
 ……あまりにも、あっけない最期であった。
 裕介からの一撃を受け、その影はほとんど音も無く、散り散りになってどこかへと消えて行く。
 息を切らす裕介が、音も無く闇を打ち破った拳をじっと見つめた。
 彼を打ち破った感覚など、無かったような気がする。
 むしろ先ほどの一瞬の出来事は、夢であったと思う方が、簡単であるような気さえした。

 それから、暫く。
「おわ、ったの……?」
 ぽつり、と呟いたシュラインの横で、唐突にアンナが異変を見せる。
「神父様っ! しっかり……」
 眠っていた青年が、ゆっくりと目を開ける。そこにはもう、かつてのジェロニモに見られた、混じり気のある光は見受けられなかった。
「こ、こは……?」
 震えるアンナが、まるで導くかのように、ぼんやりとした意識の中で戸惑うジェロニモの手をとった。
「お帰りなさい、神父様」
「アンナ――? アンナ、君がどうしてここに? それから、俺は一体、」
 何を、していたんだ?
 問われたアンナが、静かに首を横に振る。
 ねえ、お願い。
 ジェロニモの手の甲に落ちる涙が、暖かく訴えかける。
 神父様、今は何も、言わないで。
「お帰りなさい、神父様」
「アンナ?……どうしたんだい? 君は……」
 言葉は、甘い香りに遮られる。
 ぎゅっと抱きついてきたアンナをもてあますジェロニモを見つめる視線は、どれもこれもがぬくもりに満ちたものであった。――ただし、一対の視線を除いては、であったが。
「ちやほやされたいんなら、この世界を変に終わらせなければいい、ですか」
 苦笑気味に、けれども陽気に空を仰ぎ見ていたのは、孝太郎であった。今までの事実が全て嘘であったかのような風を思わせる、あまりにも青すぎる、ゲームの世界の晴れた日を。
「――いやぁ、参ったな」
「こうたろうしゃんは、よかったなぁっておもわないんでぇすか?」
 少しだけ含みのある声音に振り返ると、そこには、涙を堪える日和の肩に仁王立ちになっている八重の姿があった。
「じぇろにもしゃんもあんなしゃんもよかったでぇすけど、こうたろうしゃんだって、よかったよかった、でしょう?」
「何が、です?」
「わかったんでぇしょう? うしろむきなのは、よくないでぇすって。これからはまえむきにいきていくきになりましたぁか?」
「前向きに、ねぇ」
 あはは、と笑い、ぽつり、と付け加える。
 何もかも、見透かされているような気がしてならなかった。自分の弱さも、本当は心の中に抱いていた暗い心も。
 確かに、八重から受けた指摘は全て事実であった。自分はある意味、このゲームの製作に人生の全てを賭けていたのだ。自分が認められるためであったら、何でもする。そういう気になりかけていたのは、事実であった。
 このゲームの素晴らしささえ、世間に知られれば。
 誰かに、構ってほしかったのかもしれない。そういう想いが、自分の知らない所で勝手に暴走していたのかも知れない。
「やれ、一見ただのボケキャラ見えて、実はひどくしっかり者だなんて。新手の萌えだね、萌え」
 君には、勉強させられたよ。
 無駄口で、本音を誤魔化す。
「うしろむきなのは、よくないでぇす」
 そういうキャラも、悪くはないですね。
 付け加えた孝太郎の声音には気づかぬ八重が、ちょこり、と小さな人差し指を孝太郎へと突きつける。
「で、やくそくしてくれまぁすか?」
「何をです?」
「むむむっ、さっしのわるいひとでぇすねぇ? これからのことでぇすよ」
 心の奥底を読み取るかのような、真っ直ぐな瞳。
「ちゃぁんとみんなのいけんをきいて、さぎょうしてくれるでぇすか?」
「それも、悪くないかもね」
「やくそくでぇすよ? やくそくしてくれまぁすか?」
「でも、約束すると何かいいことでもあるんですか?」
「さぎょうはみんなでやれば、たのしいんでぇすよ。それに、」
 その言葉に、何かしらの意図を読み取った孝太郎は、まだ知らないのだ。
「やくそくしてくれたぁら、さぎょうがどんどんすすむように、じかんをゆうこうにつかわせてあげるでぇすよ?」
 八重が、小さな小さな、時間の妖精であることを。
 見目は小さくとも、その首からぶら下げる金時計の秘められた力が、実はあまりにも強大過ぎる、ということを――。



IV

 アルカナ。
 小さな都市の中にある、大きな聖堂。その庭に、黒い尼僧服姿の女性を見つけ、日和がこんにちは、と微笑みかける。
 あれから、数日の時が経っていた。この世界でも、東京でも。まるで何事も無かったかのように、毎日、穏やかな時が流れて行く。
 日和は、摘んだ花を抱えるアンナの横に屈みこむと、
「練習は、してきました」
「私も、ばっちりです!――多分」
 顔を見合わせて、笑いあう。
 今や二人は、同じ楽譜を共有する仲であった。ピアノとチェロ行われる旋律の掛け合いは、素朴ながらにも美しい音色で、そこにいる人々を魅了してやまなかった。
「何か変わったような感じはありました?」
 そういえば、と、口に手をあてた後、問うてきた日和の方を、
「いいえ、何も。この世界は、相変わらずです」
 再び花を摘みはじめていたシスターが振り返る。
 いつもの生活。いつも通りの毎日。
 幸せそうに微笑んだアンナは、日和へと一輪の花をそっと贈る。
 その香りを、沢山吸い込んで、
「実は先日、パッチを、あて終わったんです。この世界は、もう――不正終了の憂き目に遭ったり、東京を壊滅させたりすることは、なくなったんです」
 幸せを告げた日和へと、アンナは黙って抱きついた。
 日和の告げた通り、全ては上手くいったのだ。今回の事件から色々と学ぶことがあったのか、孝太郎は協力的な態度でパッチを作成し、一同へとそれを託してくれた。パッチをあてるに際して、確かにゲームサーバのあるコンピュータに近づくこと等には苦労したものの、それももう、全ては過去の話でしかないのだ。
「ありがとうございます……」
 日和が、アンナを抱きしめかえす。
 花の香りが、全てに春を告げているかのようであった。

 そんなことはいけない、と。聖堂で飲食は厳禁、と言われても、そうすることが好きな教会もある。
 人が来ない時間を見計らって。或いは、知り合いや、想いを神に告げる人と共に、神の居ます聖堂で、心の落ち着く、少し静かな、けれども楽しい茶会を開く。
 かつて人であった主なる神の御子は、きっと二○○○年前と同じように、その穏やかな時間を、神の子なる人々と分かち合ってくれるに違いない――。
「悪いね。いつも紅茶の準備ばっかりさせて……お疲れ様、アンナ」
 労う司祭。少しだけ照れるシスター。そんな平和な光景は、数日前まではここに存在しないものであった。
 そんな二人を見守るのは、あの日の人達。穏やかな時間に溶け込む一同は、まるであの日までのこととは無縁であったかのように、平和な時間の中で微笑んでいた。
「あ、これ……そういえば、麗花さんからのお土産です」
「あぁ、あのユリウスさんの教会のシスターさんの?」
 茶会の準備を終えたアンナが座ろうとした所で、裕介が小さな箱を差し出した。
「すみません。本当は準備の前に出しておけば良かったのでしょうけれども、タイミングを逃してしまって」
 横開きの箱の中身を確かめたアンナが、いいえ、と満面の笑みを浮かべる。
 そこに入っていたのは、大きめのホールケーキであった。とても素人の手作りとは思えないほど、立派な装丁の。
「じゃあ、私、こっちも準備してきますね!」
 修道服を翻して、ケーキの箱を抱えたアンナが駆けて行く。
「あ、待ってください。私もお手伝いしますっ」
「あたしもいくのでぇす! いいかおりがするんでぇすねえ」
 その背を追って、日和と、その肩に乗った八重とが聖堂を後にした。
 それを、暖かい視線で見送って、
「それにしても、本当に平和ですね」
 長椅子に深く身を沈め、シュラインが呟く。
 神に遠慮するかのように、細く入り込んでくるのみの陽の光。そこから感じられるのは、優しい時間の流れであった。
「ええ、おかげさまで」
 瞳を細めるジェロニモが見つめる祭壇には、先ほどアンナが摘んできた花が飾られている。
 その甘い香りが、ここまで届いてくるかのようであった。
 その香りを心に沢山吸い込んで、先ほどアンナが来る前まで話していた話を再開する。
「いつから俺が孝太郎さんに憑かれていたのか。記憶には無いんです。正確に覚えているわけじゃあない。でも――、」
 先ほどセレスに指摘されたとおり、自覚、というか、そういうものはあったのだ。
 仮にも俺も、エクソシストだしね。
 段々と、自分の中で何かが変化しているような感覚。よくわからない声を聞き、それを追い出そうと必死になることもあった。
 しかし、いつの間にか、このままでは勝てないと、何となく直感的にわかっていた。
 わかっていたからこそ、
「だからアンナに、色々と教えておいたんです。この世界の話や、俺がきっと行くであろう場所の話。自分の意識がしっかりしている内に、アンナには、できる限りのことを教えておいたんです」
 そうすれば或いは、状況が好転する手立てとなるかも知れないから。
「まあ、他人任せになってしまいましたけれどもね」
 苦笑気味に、呟いた。
 セレスはそれに、静かに首を横に振って見せると、
「おかげで色々と、助かりましたよ。もし私達が始めてアンナさんに出会った時、アンナさんが何もご存知無かったとしたら。私達はいきなり、八方塞になっていたでしょうから」
「情けないですよ。今度こそアンナを幸せにできると思ったのに、結局は自分の中にある邪な気持ちに負けてしまったんです。もし俺がもっとしっかりしていれば、彼≠ノ気持ちをのっとられることなんて、無かったでしょうに」
「まあいいじゃないですか。済んだ話ですよ」
 裕介が、肩を落としたジェロニモへと言う。
「ジェロニモさんにその気持ちがあれば、アンナさんだって幸せでいられるはずです」
「……俺はこれからも、アンナをアンナとして、大切にしていくつもりです」
 その言葉に、シュラインとセレスとが顔を見合わせ、穏やかさを交わした。
 そこに、賑やかな少女達が戻ってくる。
「お待たせしましたっ。ケーキ、切ってきましたっ」
「あー!! ゆりうすしゃん、だめなのでぇすよ!! そのいちばんおおきぃけぇきはあたしのなのでぇす!!」
「いいじゃないですか、ねえ? 日和さん? 八重さんより私の方が大きいんです。必要になるカロリーの量が違いましてね……」
「ユリウスさん、ジャンケンか何かでお決めになってはいかがですか……?」
 ケーキを配るアンナ。取り合いをする八重とユリウス。それを窘める日和。
 その横で、白い指先が、砂糖入れへと伸ばされる。
 その蓋を開けるなり、セレスはやわらかな声音で、
「今日も日和さんとアンナさんが、音楽を聴かせてくださるのですよね?」
「「あっ、はいっ」」
 二人の声音が、見事に調和する。
 あまりにもぽかん、と振り返った二人の様子がおかしくて、聖堂が、暖かな笑いに包まれた。
 そうして。
 和やかな雰囲気が、平和を告げる。
 やがて始まった茶会に、ピアノとチェロとの音が添えられたのは、もう暫く後の話であった。

finis.



 ■□ I caratteri. 〜登場人物  □■ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。
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<PC>

★ 初瀬 日和 〈Hiyori Hatsuse〉
整理番号:3524 性別:女 年齢:16歳
職業:高校生

★ セレスティ・カーニンガム
整理番号:1883 性別:男 年齢:725歳
職業:財閥総帥・占い師・水霊使い

★ シュラン・エマ
整理番号:0086 性別:女 年齢:26歳
職業:翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト

★ 露樹 八重 〈Yae Tsuyuki〉
整理番号:1009 性別:女 年齢:910歳
職業:時計屋主人兼マスコット

★ 田中 裕介 〈Yusuke Tanaka〉
整理番号:1098 性別:男 年齢:18歳 
職業:孤児院のお手伝い兼何でも屋


<NPC>

☆ ユリウス・アレッサンドロ
性別:男 年齢:27歳
職業:枢機卿兼教皇庁公認エクソシスト

☆ 星月 麗花 〈Reika Hoshizuku〉
性別:女 年齢:19歳 
職業:見習いシスター兼死霊使い(ネクロマンサー)

☆ シスター・アンナ
性別:女 年齢:23歳
職業:シスター

☆ ジェロニモ・フラウィウス
性別:男 年齢:28歳
職業:司祭

☆ 湖の貴婦人



 ■□ Dalla scrivente. 〜ライター通信 □■ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。。°† ゜。。
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 まずは長々と、本当にお疲れ様でございました。
 こんばんは、今宵はいかがお過ごしでしょうか。いつもお世話になっております、と申しますか、何だか最近沈没気味であった海月 里奈でございます。
早速ですが、今回は依頼の受注が予定よりも大幅に遅れてしまった上、本気で大変大変お原稿の提出が遅れてしまいまして、申し訳ございませんでした。この場を借りて深くお詫び申し上げます。

 遅くなりましたが、これでジェロニモ神父とシスター・アンナに関するお話は(多分)お終いです。色々とまだ解決していない部分もあるような気は致しますが、それでもこれで大筋の部分では解決したことになっております。多分。
 要するに、今回の一連の流れを簡単に申し上げますと、
1.孝太郎には引篭もりの気があり、あまり友人と呼べる存在がいませんでした。
2.従って、八重の指摘通りひねくれかけていたわけですが、『白銀の姫』を完成させることで、世間から一目置かれようとしていました。
3.しかし事故死してしまったため、孝太郎本人は異界の核として『アヴァロン』で眠ってしまいました。しかし、このゲームに対する執着心のみが孝太郎から分離し、丁度その頃事故死したジェロニモの魂に目をつけました。
4.孝太郎≠ヘ時間をかけて、ジェロニモの心の『負』の部分に訴えかけ、彼と同一化しようしました。そうすることによってジェロニモの存在を借りて孝太郎に近づき、彼の魂と自分とを入れ替えようと目論んでいました。
5.ということで、事件が起こってしまいました。
 という流れみたいです。何だか創造主が影で糸引きまくっておりますが、「あんたそれは展開的に急すぎるよ」と言われてしまっても仕方ないような気がします。ので、実はあたしも、結構反省していたりするわけでございます。
 ただ、皆様からいただけたプレイングで、かなり話の展開が変わっていったのは事実でございます。実はあたしは、最初はアンナもジェロニモも助からない方向で話を進めていくつもりでおりました。しかし、皆様の真摯な気持ちを見ておりますと、やっぱり二人には生きてもらわないと、ということになりまして……。

 ともあれ。
 総計九万字くらいこのお話を綴らせていただきましたが、中には矛盾点や意味不明な点、支離滅裂な点も多く存在していることと存じます。そこは海月の実力不足でございます。大変申し訳ございません。
 量だけあって質は全く駄目であったような気も致しますが、それでも、少しでも皆様には、楽しんでいただけていたら幸いでございます。

 それでは、またご縁がありましたら、お付き合いいただけますと幸いでございます。
 皆様本当に、ありがとうございました。

 この場を借りて、今回の連載に関わってくださった全ての人への感謝を捧げつつ……。


27 marzo 2006
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki