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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


逃亡者 〜緑の栞〜




 司法局セントラルビルの一角にあるその部屋の前で司法局特務執行部所属高野千尋は足を止めた。
 透明な強化プラスティックを一枚隔てた向こうから、青い髪の男が椅子に座ってこちらを見つめている。彼のアイスブルーの瞳が全てを吸い込んでしまいそうな程深くて、千尋は無意識に息を呑んでいた。
「待っていたよ、ゆき」
 向こう側とこちら側を繋ぐ音声スピーカーから彼のくぐもった声が聞こえてきた。
「空野彼方……いや、朱」
 そう呼びかけて千尋は反射的に目を閉じていた。その名に敬愛の念がこもってしまうのを隠し切れなくて、その事がまるで禁忌のように奥歯を噛む。
 きっかり一秒、間をあけて返ってきた空野彼方、いや朱の声は驚きを微かに含んでいた。
「嬉しいな。僕の名前ちゃんと覚えててくれたんだ」
「何故……?」
 千尋は問いかけた。
「青い絵本を空野彼方に渡してはいけない。ここを開けてくれるね、ゆき」



 ◇◇◇



 この世には不思議な色の絵本があった。

 『白い絵本』は、その日見た夢を映す。
 『黒い絵本』は、心の闇を映す。
 『赤い絵本』は、血に飢え生き血を啜る。
 『青い絵本』は、天を翔る。



 ◇◇◇



 司法局セントラルビルの二階にあるカフェテラスで、のんびりとランチを楽しんでいた司法局特務執行部オペレータ藤堂愛梨は、突然のエマージェンシーコールに頬張っていたナポリタンを噴出しかけた。
 何事かと慌てて立ち上がりながら通信機開く。
 液晶画面には事務的な一行。
『空野彼方脱走』
 12時17分の事であった。

 愛梨がオペレーションルームに戻り詳細を聞かされたのは、それから更に10分後の事である。内容は愛梨を愕然とさせるものであった。
 空野彼方脱走には手を貸した者がいる。
 それは監視カメラから高野千尋と断定された。

 手を貸した者が司法局員であるという一点に於いて、司法局はC4ISRの導入を先送りにした。それは単に、司法局の汚名は司法局自らが雪がなければならない、というくだらないプライドによるものだった。だが、手を貸したのは司法局が誇る特殊部隊の人間である。一般の者達の手に負える相手ではない。それ故に、捕縛にあたる者達は細心の注意をもって選ばれた。

 司法局特務執行部所属仁枝冬也が司法局に呼び出しを受けたのは13時3分の事であった。事件発生からこれだけの時間が開いたのには、いくつもの理由があったが、その最大の理由は官僚システムによるものだろう。
 そしてもう一つ、彼が今回の作戦に選ばれるにあたり危惧される事があったからだ。

「今回の件は、司法局の恥である。何としても止めねばならん。恐らく奴らは封印された『青い絵本』の奪還に向かう筈だ。高野の生死は問わん。何としても奴らをCITYから出すな!」

 それが司法局が彼に下した命令であった。

「せ……生死は問わないですって!?」
 驚いたように声をあげたのは愛梨だった。冬也をゆっくり振り返る。
 上司の顔をまっすぐに見返す彼の顔からは、何の感情も読み取れない。
「そんな、だって高野くんは……」
 愛梨はそのままやるせない気持ちで言葉を詰まらせた。
 千尋は冬也の親友でもあり、幼馴染でもあるのだ。

「わかりました」
 冬也が静かに頭を下げてその部屋を出て行ったのは13時17分の事であった。

「どうして!?」
「彼にしか高野くんは止められないからね」
 納得のいかない顔で愛梨が上司に詰め寄ろうとした時、彼女の背後から宥めるような声が届いた。
 冬也が出て行った扉の前でその男は両手を白衣のポケットに突っ込んだまま軽い笑顔をつくっている。
 見知った男の顔に愛梨は眉間に皺を寄せて嫌そうにその軽薄そうな顔を睨み付けた。
「どうして警察付きの観察医がこんなところにいるのよ?」
 TOKYO−CITY衛生局医療計画部医療計画課監察医務院勤務の監察医、瑞城東亜は愛梨の視線に困惑げに肩を竦めて見せる。
「ゆうべ、NATで変死体が見つかってね」
「珍しくもないでしょ」
 そっけなく切り捨てる愛梨に、東亜はやれやれと頭を掻く。
「それがどうも俺の見立てだと、空野彼方の仕業なんじゃないかと思うんだ」
「なっ!? ……どういう事?」
「そういう事」
 東亜はそう言って説明するのも面倒げに踵を返した。彼の言葉に何か心当たるものがあったのか、愛梨は慌てて自分の席に戻るとオペレータコンソールのパネルをたたき始める。
「さて、俺はウェストゲートにでも行きますか。予想が当たってれば、高野君は仁枝君にも止められないだろうけどね。事の顛末ぐらいは見届けましょう――いや、顛末ではなく幕開けとでも呼ぶべきか」
 東亜がそうして司法局セントラルビルのロビーをのんびりと横切ったのは13時23分の事である。






【起承転結の起】 本はただ物語をつむぎ続ける

 ■133002■

 ササキビ・クミノの元にその情報が入ってきたのは、彼女自身が経営するネットカフェ、モナスの一番奥にあるテーブルで少し遅いランチを取っている時だった。
 司法局管轄S級犯罪者空野彼方を逃がした、というのは司法局にはありうべからざる大失態であろう。その証拠にこの情報化時代に於いてインターネットでもテレビでもかのニュースは流れてはいなかった。もしかしたら、警察さえ知らない事実かもしれない。ここまで隠蔽するのは別段司法局には珍しい事でもなかったが。
「そんな危険なもの、CITY内に野放しにしておかないでよね」
 クミノは小さく溜息を吐いて、傍らのクラブハウスサンドの最後の一切れを口の中に放り込むと立ち上がった。
 空野彼方脱走。司法局内部に脱獄幇助した者がある。
 クミノはカフェの上の階にある自宅へ戻るとパソコンを開いた。
 液晶画面に走るのは緑色の電光サイン。

 System Login...

 彼女が独自に持る情報ネットワークから当該情報を呼び出す。それは司法局自身のデータもいくつか含まれていた。
 そこに流れる文字列と画像を無表情に見つめながら、クミノはふと眉を顰める。
 空野彼方脱走時の監視カメラ映像。画像は撮れているが音が入っていない。スーパーやコンビニならいざ知らず、司法局内部の、しかも取り調べ兼留置室の前の廊下の監視カメラである。音がないなど――いや、音が無いのではない。マイクが事前に切られていると考えるべきか。だからこそ首を傾げるのである。マイクが切れるなら、カメラも切れる筈だ。
 考えられる可能性は二つ。
 脱走幇助した者は最初から幇助するつもりはなく、内密の話をしたかっただけ。或いは、自分が幇助した事を誰かに知らせたかった?
 クミノは粗い監視カメラの映像を拡大した。残念ながらそこに空野彼方の姿はなかったが、脱走幇助した人物――高野千尋が映っている。
 言葉をつむぐ彼の口元を更に拡大して、クミノは何度もそれをリピートした。読唇術に文字を拾う。
「ソ…ラ…ノ……カ…ナ…タ……イ…ヤ……」
 時を同じくして、それは司法局特務執行部オペレーションルームでも同じ事が行われていた。
 何度も再生されるそれを見ながら、奇しくも愛梨と同じ言葉をクミノは呟く事になる。
「空野彼方――いや、朱」



■133501■

『ま、単なる予定調和だよ』
 あの時、空野彼方はそう言って空の絵本を手に肩を竦めて嗤っていた。
 予定調和とはどういう事なのだろう。どうしてもその言葉が気にかかって、既に彼は捕らえられ現在取調べ中であるにもかかわらず、胸騒ぎのようなものを覚えてシュライン・エマは仕事の合間を縫うように、その都立図書館に訪れた。
 CITYが目的だったなら彼はCITYに入ってから絵本を開けば良かった筈だ。だが、彼はそれをしなかった。それが予定調和だというなら……。
 本や栞については綾和泉汐耶の方が詳しいだろうか。だが受付で所在を尋ねると彼女は今日は休みという答えが返ってきた。残念だとは思ったが仕方が無い。シュラインは閲覧コーナーの机の上に持ってきた紙束を置いた。絵本が起こした事件、或いは絵本の存在は表沙汰にならないまでも何か関係していそうな事件、そして空野彼方が関わっていそうな事件をパソコンで検索して書き出したものだ。
 図書館で、その事件に関する新聞や雑誌の記事を拾っていく。
 目に止まったのは数年前に起きたという事件。
 謎の台風到来にCITYが大混乱し、水没までした事件だ。表向きはシステムの故障と発表されている。しかし、あの時の千尋の言葉が本当なら、この裏には絵本と、そして空野彼方が関わっていたことになる。シュラインは新聞のページを捲った。この時はCITY内に進入してから本を開いているらしい。NATでの気象情報は連日晴れ。いや、むしろそうであったからCITY内だけの異常=システムの故障とかたずけられたのだろう。
「だけど、随分と局地的なものだったのね」
 シュラインはぼんやり呟いた。五年前なら自分も多少は記憶に残っている筈だがあまり覚えが無い。記事も随分と小さかった。一部の区が水没した被害状況が簡単に書かれ、片隅に気象庁のシステム異常に関するお詫びが添えられているだけだ。区がまるごと水没して、これであるのは、他に別の大きな事件で紙面を埋められている……だけのせいではあるまい。もみ消しがあったのか。
 シュラインは更に記事を探した。
 しかし、それ以上これといった記事は見当たらない。空野彼方の名前すらどこにも出てはこなかった。
 五年前の一事をもってS級犯罪者か。それはありえないように思われる。
 第一……。
 そこでふとシュラインは思考を途切れさせた。
 目の前を今日は休みと聞いていた汐耶が高野千尋と並んで歩いていたからだ。
 シュラインは立ち上がると、二人の方へ歩み寄った。
 あの時、千尋を空野彼方は親しげに「ゆき」と呼んでいた。彼らは旧知だったのか。それは追う者と追われる者という関係からくるものだけとも思えなくて。いずれにせよ、彼はこの事件の詳細を知っている筈だった。






【起承転結の承】 栞抜き取り本開かば物語りは続き

 ■140001■

 情報化時代の落とし穴。それはハードウェアとソフトウェアの進化の速度にあった。古いディスクは最新のハードと繋がらず、古いデータは最新のソフトで読み取れない。もう数十年も前から問題になっている事だった。過去の大量の電子データは、それを読み取る術が最早無いのだ。ハード・ソフトの進化に古いデータは取り残されるしかなかった。
 司法局の監視下におかれたのか、人気の無い図書館でクミノはページを捲りながら溜息を吐いた。
 こうなると、過去のデータを紐解く最も有効な手段は紙しかない。結局のところ、人間の最先端とはアナクロでアナログという事になるのだろうか。
 一体どれほどの時間がかかるのだろうと慣れぬ事に半ば滅入っていたクミノは、そこでふと何かに気づいたように資料から顔をあげた。
 椅子から立ち上がり窓の方へと歩み寄る。そこから見える高層ビル郡の一つ。その屋上を凝視した。
 彼女は胸ポケットから眼鏡を取り出す。それは、ただの眼鏡ではない。フレームの脇についた小さな螺子のようなものをまわしていくと、レンズは倍率を徐々にあげていく。
 距離にして500mといったところか。そこに仁枝冬也と高野千尋がいた。
 千尋の手が冬也に向けて伸ばされている。
 彼の吐き出す言葉を読み取るように目を細めていたクミノは半ば呆然と呟いた。
「まさかトラッカードッグの名は、司法局の狗という蔑称ではなく、本当にハンドラーが……?」
 一緒に行こう、と誘いかける千尋に、明らかに冬也の様子がおかしい。何か見えない力に抗っているのような。千尋がハンドラーなのか、或いは司法局にそれがあるのか。
 いずれにせよ誘いかけるという事は、千尋は冬也を手駒にしたいと考えているのか。
 反射的にクミノは召喚した半自動ライフルの引鉄を引いていた。
 千尋が図書館ではなく冬也の元にあるという事実から考えても、彼を囮にする事は出来る。押さえておくに越した事はない。しかし、果たして彼らの関係とは一体……。
 そこで、クミノは思考を一旦中断させた。
 絵本奪還に彼らが図書館に訪れる事を見越して走らせておいた、半自動重/軽機関銃が発砲したのを感知したからだ。
 千尋の傍に空野彼方がいる様子は無い。とすれば空野彼方は単独で図書館に入りこんでいたのか。場所はどうやら関係者立ち入り禁止区域。一瞬クミノは逡巡して、結局そちらへは向かわなかった。
 ただ、窓の外の図書館から帰っていく人の波と逆行して歩く一人の女を見つけて、クミノは出入口へと歩き出したのだった。



 ■140002■

 双眼鏡を覗いていたリオンは、ふと背後に気配を感じて剣呑と振り返った。そこに、青い髪に青い目をした男が立っている。空野彼方と特徴が一致していた。
「お久しぶり……と、初めまして」
 愛想よく笑う男にリオンは身構える。
 冬也と一緒にいれば向こうから出向いてくるのでは、とふんでいた彼は、自分の予想が当たった事に満足しながら問答無用でワルサーの引鉄を引いていた。
 銃声は二つ。ダブルタップは基本中の基本だ。
 よもやこの至近距離ではずすまい。だが、確かに彼方の太ももを狙ったそれはどちらも手ごたえがなかった。
「はずれ」
 おどけたように彼方が両手の平を肩の高さで空に向ける。
「…………」
 リオンは不満げに眉をしかめた。
「じゃぁ、今度はこっちの番」
「!?」
 彼方が指を弾いた。
 空気の弾丸がリオンを襲うのを彼はぎりぎりで躱が、かまいたちが走ったように彼の頬からうっすらと血が滲んでいた。リオンは頬を伝うそれを舌で舐め取ってゆっくり銃口を移す。
 今ので、彼の位置がわかった、とでもいう風に。
 今見えている彼とは全く別の、貯水タンクの上へ向けて再度引鉄を引いた。
「当たり。でも、ちょっと惜しかったね」
 そこに姿を現した彼方が、よく出来ました、と嗤う。
「ちっ」
 リオンは舌打ちしながら走りだした。
 彼方はタンクを軽やかに飛び降りると地面を蹴る。
 それに銃声が二つ重なった。
 互いの動きは止まらない。
 更に銃声が続く。
「はい。また、はずれ。弾は後二発かな? 大事に使わないとね。こんな見通しのいいところで弾を装填する暇ができると思ったら大間違いだし」
 人の神経を逆なでするかのような笑顔を貼り付けた彼方の言葉にリオンは、何をやってるんだ、という面持ちで冬也を振り返った。
 彼は手を出すつもりもないのか、そこにただ突っ立っている。
 まさかこの期に及んでまだ、手を組まないなどと言い張るつもりなのだろうか。
 そんな一瞬の隙に彼方の攻撃が割り込んでくる。
 避ける暇もなく反射的にリオンは引鉄を引いた。
 攻撃を自らの弾で相殺して、更に目を凝らしその向こうの彼方を狙う。
 弾は彼の胸の中に消えた。
「!?」
 幻影を貫いた弾にリオンは舌を出す。
 彼方の本体は目の前にいた。
「これで、The End」
 嗤う彼方にリオンは生唾を飲み込んで、冬也を振り返っていた。
「……おい。おーい。仁枝くーん」
 彼方もその視線を追いかける。
「おーい」
 しかし、冬也はチラリともリオンを振り返らなかった。
 ただ、彼方を呆然と見つめている。
 彼方が冬也の正面に歩いた。
 距離にして十歩分といったところか。
「千尋……」
 冬也がその名を呼んだ。
「やっぱり冬也は誤魔化せないね」
 そう言って首を傾げる彼方の青い髪は茶色に、その瞳は紫に変わっていく。
「へ?」
 呆気に取られたように見つめるリオンを他所に冬也が声を絞り出した。
「何故だ?」
「…………」
 冬也の問いかけに、千尋は無言を返すだけだった。
「答えろ千尋っっ!!」
 怒号はどこか悲鳴にも似て、屋上に響いた。
 きっかり十秒、二人は睨みあったままで蚊帳の外に置かれた、リオンはただ無意識に息を呑む。
「……答えたら、冬也は俺を見逃してくれんの?」
 千尋の問いに今度は冬也が沈黙を返した。
「ま、いいや。行くよ、冬也」
 まるで仕切りなおすように。
「なっ……」
「さぁ」
 促すように手を伸ばしてくる千尋に冬也は半歩後退った。
「どういう事だ、千尋」
 戸惑うような冬也の様子にリオンは二人を交互に見やる。明らかに冬也の様子はおかしい。勿論、リオンは冬也と旧知というわけではなかったが、噂に聞く彼とは違っているように見えたからだ。トラッカードッグ。彼の異名はその冷徹なまでの職務遂行ぶりに所以しているわけではないのか。何故、それに戸惑ったり、躊躇ったりするする必要がある。彼と千尋が親友であったとしても、彼の逡巡は別のところにあるような気がした。まるで、どこかからプレッシャーでも受けているかのような。
「冬也、一緒に行こう」
 千尋の誘いに抗うように後退る彼の顔が見る見るうちに蒼褪めていく。
「何を…言ってる?」
「お前が追ってくる事はわかってた……」
 千尋が一歩踏み出した。
「一緒に行こう」
 突然、冬也の体が傾ぐ。
「はぁ…はぁ…」
 荒い息を吐きながら、彼は膝を付いていた。
「冬也」
「何言ってんだあんた」
 リオンが慌てて二人の間に割って入った。
 刹那、一発の銃声と共に、千尋の頬を何かが掠めた。
 別段景色が変わったわけではなかったが、何かが壊れたようにふとその場の空気が軽くなる。
 まるで緊張の糸が切れたような唐突さで冬也がその場にくずおれた。
「あ…お、おい!?」
 千尋の顎を紅い珠が伝っていた。彼の視線は図書館を睨みつけている。
「邪魔を……するか」
 呟いた千尋が冬也の元へ歩み寄ろうとした。
 リオンが冬也を背に庇うように身構えている。
 彼の足がふと止まった。
「!?」
 冬也の体が一瞬闇に解けたからだ。
 そこに倒れていた筈の彼がいなくて、千尋は瞼をわずか伏せ、ゆっくりと辺りを見渡した。
 そこに、冬也が倒れている。
 その傍らに千鳥が立っていた。
「セレスティさんの予想通りでしたね」



 ■140003■

「こんにちは。お休みって聞いたんだけど、何かあったの?」
 要申請特別閲覧室へと続く扉の前でシュラインが肩を叩くと、振り返った汐耶は千客万来ね、と肩をすくめてみせた。
「今日はお客のつもりで来たんだけど……」
 そう言って千尋を振り返ったのは、今の状況をどこまで話していいものか、考えあぐねたからである。
 千尋はやれやれと笑みをこぼして、それでも隠し立て出来ぬと感じたのだろう、極秘ですよ、と念を押して言った。
「空野彼方が脱走したんです」
「え?」
 驚くシュラインに汐耶は要申請特別閲覧室へと続く扉を開きながら続けた。
「それで絵本を別の場所に移す事にしたの」
 そうして一歩を踏み出した汐耶とそれに続く千尋に、シュラインは呆然と呟いた。
「……あなた……高野くんよね?」
 シュラインが尋ねると千尋は破顔一笑してみせた。
「何言ってるんですか、俺は俺ですよ」
 千尋は溜息を一つ吐き出す。シュラインは辺りを見渡した。別段世界が変わったようには見えなかったが、確かにいくつかの音が消えたような気がする。
「やれやれ。あなたはとても耳がいいらしい」
「彼らは?」
 シュラインが尋ねた。
 彼女は、ではなく、彼ら。
 目の前の男からは、最早呼吸音も衣擦れの音も聞こえない。
「絵本を取りに行きました」
 千尋が言った。
「…………」
「あなたはその間、ここでゆっくりお寛ぎください」
 恭しく一礼してみせる千尋にシュラインは肩を竦めて歩き出す。だが、空間が捩れているのか、一向に前に進む気配がない。
「冗談……」
「そう簡単には破れませんよ」
 確かに彼の言う通りのようで、シュラインは諦めたように息を吐いた。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
「何なりと」
「あなたは一体誰?」
「空野、彼方」
 その答えに、やっぱりという思いが滲む。千尋の姿をしているが、彼の足音は自分の記憶していたそれと確かに違っていたからだ。
 ならば、聞いてみたい事がある。
「予定調和ってどういう事?」
「何の話だい?」
「あなたは言ったわ。何故嵐を起こすのかと尋ねた時、それは単なる予定調和だと」
「神の定めたもうた秩序に、人は抗えない、という事だよ」
「嵐を起こす事が神の定めた調和ですって? 冗談」
「なるべくして、なった。それだけの事さ」
「つまり、貴方が起こそうとして起きたわけではないって事ね」
 シュラインの言葉にハッとした様に彼方は口を噤んだ。
「……あまり、首を突っ込まない方がいい」
「何を今更……え……?」
 刹那、一発の銃声と共に千尋のこめかみを、まっすぐに弾が抜けていった。だが、彼の体は傾ぐでもなく掻き消えた。
 シュラインは全身を強張らせながらも身構えた。それ以上の発砲もそれらしい何かもない。
 そこにはただ静寂だけが満ちている。
 けれど雑音が確かにシュラインの耳に戻っていた。
「今のは一体……? ま、どちらにしても助かったというべきかしらね。もっと聞きたい事もあったけど」
 呟いてシュラインは要申請特別閲覧室への扉に飛び込んだ。



 ■141001■

「司法局特務執行部オペレータ藤堂愛梨。説明、願えるかしら」
 図書館へと続く並木道を少女がおもむろに遮ったのに、愛梨は足を止めて見知らぬ少女を見返した。
 ただの少女ではあるまい。自分のプロフィールを知って声をかけたのだ。説明とは、さて何の事であろうか。
「あなたは?」
 問いかける愛梨に、しかし少女――クミノは別の言葉を返した。
「空野彼方――いや、朱」
 それが、まるで合言葉であるかのように。
 愛梨が驚いたように目を見開く。
「朱とは誰?」
 クミノが尋ねた。
 愛梨はどこか観念したように一つ息を吐き出して言葉を継いだ。
「元司法局特務執行部員です」
「では、空野彼方は」
「空の絵本を持つ者にのみ与えられる名前です」
「なら、絵本を手に取るまで彼が名乗っていたのは?」
「わかりません」
 愛梨は俯いて小さく首を振った。
「ただ、『彼』が朱と呼ばれていた事から浮かび上がるのは、蒼と呼ばれる人物です」
「蒼?」
 クミノはその名に首を傾げながら記憶の糸を手繰った。どこかで聞いた事があるような気がしたからだ。
 だが、その糸の先に辿り着く前に愛梨が言った。
「司法局特務執行部員でありながら、大量殺戮を繰り返したS級犯罪者です。三十年前、彼を追っていた朱と共に忽然と姿を消した事で、両者は相打ったとされていました」
 それで思い出した。先ほど見ていた過去の犯罪履歴にそんな名前があったからだ。
「朱と高野の関係は?」
「高野が使っているディジタルボックスは朱の遺品です。いえ、今となっては遺品とは呼べないかもしれませんね……」
 高野はその遺品を果たしてどういった経緯で受け取ったのだろう。ぼんやり考えながら、クミノは更に別の事を尋ねる。
「高野と仁枝の関係は?」
「幼馴染だと聞いています」
「それ以外には?」
「え?」
 重ねて尋ねたクミノに愛梨が目を見開いた。
 その様子にクミノは溜息を吐く。
「知らないならいいわ。で、朱と蒼の関係は?」
「朱は、蒼の双子の弟です」
「そう。もう、いいわ」
 彼女が持っている情報ではこれが限界だろうと察して、クミノはそこで話を終えた。
 これでほぼ、パズルを解く為の鍵は手に入れられたともいえる。後は直接本人たちに尋ねた方が早そうだ。
 クミノは愛梨に手を振ってウェストゲートへ歩き出した。
「あの……」
 その背を愛梨が呼び止める。
「仁枝ならあのビルの屋上よ」
 その言葉に、踵を返して愛梨は走りだした。
 その背を見送りながらクミノは小さく溜息を吐き出す。
「……これだから、司法局は……」






【起承転結の転】 開かずとも本は他人を巻き込みて

 ■150001■

 大型トラックどころかジェット機一台簡単に通過できるほど大きな扉がある。TOKYO−CITYの最西端にあるウェストゲート。勿論、その脇には歩行者専用の小さな扉も用意されている。23区TOKYO−CITYと、23区外――通称NATを分かつ場所。
 そのゲート前にある入出管理用室で、直江恭一郎はぼんやり彼らの訪れを待っていた。
 10分ほど前に彼らがこちらに向かったという情報が入っている。通信機の範囲から計算して、車ならそろそろ来る頃だろうか。
『直江さん!』
 耳元でシュラインの声がして、恭一郎はインカムに手を重ねた。
 遠目にそれらしい影が見える。
「あぁ、どうやら、おいでのようですよ」
 少しだけ腹に力を入れたのは、耳元の声が女性だったからだろうか。だが、そのまま通信を切ったのは、五感を澄ませる為である。
 インカムを投げ捨て身構えた恭一郎はゲートに向けて猛スピードで走ってくる大型バイクに溜息を吐いた。
「おいおい。二人じゃなかったのか……」
 強面の運転手にバイクの後ろには二人の計三人が乗っている。
 既にこのゲートには彼の呪符が張り巡らされていた。
 自分のいわばテリトリーとも言える空間にバイクが突っ込んで、初めて恭一郎は彼が一人であることに気がついた。視覚的には確かにバイクの後部座席に二人乗っている。しかしこの呪符結界の中にいる人間は自分を含めて二人。いや、正確には三人いたが、内一人は自分が来る前からこの場にいたから、数に入れる必要もあるまい。
 つまり、あれは彼方と千尋の幻覚。
 二人はまだこの結界の外にいる。
 恭一郎は小さく舌打ちしてバイクに向かって走りだした。
 罠がバレた、とは思えない。恐らくこれは囮。ここに巡らした罠をあぶりだす為の。
 ならば恭一郎にはこいつの相手をしてやる義理はない。相手をしている間に、千尋らがゲートを抜けようとする可能性が高いからだ。とはいえゲート全域に結界を施してある。彼らがこの呪符結界を通らずにゲートを抜けるのは不可能。
 むしろ、彼をやり過ごす方が、逆に彼らを警戒させかねない。
 一瞬の迷いが事態を分かつ。
 ここは勘に頼るか。
 わざと彼らの策に嵌ってみせるのはフェイク。幻覚などこの結界内では無に等しい。見たところバイクの男はそれほどのつわものとも思えなかった。怖いのは顔だけだ。
 恭一郎は消していた気配を敢えて見せると一気に跳躍した。
 突然飛び出してきた人影にバイクが急ブレーキをかけ、タイヤはコンクリートとの摩擦に悲鳴をあげる。
 恭一郎が飛び出したとほぼ同時に、バイクの後部座席にいた二人がバイクから飛び降りた。
 ハンドルを切って横転したバイクに運転していたCASLL・TOが横滑った。砂埃が巻き上がった。
 恭一郎の右後方に力を殺すように受身を取って転がった千尋が上体を起こして肩膝を付く。
 右後方には彼方が立っていた。
 正面にはCASLLの巨体がギターケースを抱えている。
「高野さん達は行ってください!」
 CASLLが大声で言った。
 あくまでそこに二人がいるかのように演じているのか。
 それとも、本気でこの幻影を本物だと思っているのか。
 恭一郎は後ろにも隙を作らず身構える。
 とんだ茶番だったが、おびき出すには仕方がない。
 CASLLがギターケースを開いた。中から取り出したのはチェーンソー。一体、どうやって収納されていたのか。
 CASLLがボソリと呟いた。
「アクション……」
 刹那、彼の気配が変わった。
 相変わらずそこに殺気は感じられなかったが、それに近いものを感じて恭一郎は反射的に地面を蹴る。
 モーター音を響かせて、CASLLが猛然と突進してきた。チェーンソーを軽々と振るい、恭一郎がたった今いた場所を切り裂く。その巨躯に反して意外と動きは素早い。
 バク転で退いた恭一郎は着地と同時に三方向にナイフを投げた。
 CASLLはそれをチェーンソーで弾き飛ばす。
 千尋は無造作にナイフを避けた。
 朱は、ただ足を止めて二人の攻防を見守っていた。
 恭一郎がCASLLとの間合いを一気に詰める。
 結界内の気が揺らいだ。
 ――来たか。
 言葉に出さず内心で呟いて恭一郎は一枚の符を取り出すと大きくジャンプしながら2m近くあるCASLLの頭上を飛び越え、その額に符を貼り付けた。
 ――傀儡符。
 戦闘の邪魔をさせない為に。
 突然金縛りにあったようにCASLLの動きが止まった。意識はあるのか、力任せに束縛を立ちきろうともがいている。
 それを尻目に着地した恭一郎はゆっくりとそちらを振り返った。
「お見事。その腕、惜しいな」
「…………!?」
 恭一郎の顔が曇る。何故彼らはこの結界内で動き続ける事が出来るのか。
「君が何か陣を敷いているようだったから、上から覆うようにして陣を敷いてみたんだ。どのくらい中和されるのかよくわからないけど」
 朱が種を明かす。
「こっちの幻覚も効かないみたいだし、まいったね」
 千尋は肩をすくめてみせた。
「…………」
「通して欲しいんだけど」
「断る」
「そう言うと思った」
 千尋が走りだす。
 恭一郎はナイフを走らせた。
 避けるのは勿論計算づくで彼の着地点に蹴りを叩き込む。
「こっちも忘れないでね」
 彼方が恭一郎の背を取った。
 恭一郎は蹴り出していた足を強引に方向転換して、軸足を回すと、彼方の一撃を喰らう前に飛んだ。
 地面に手を付いて二人との間合いを取ると、小さく意を吐く。
「だから、手加減出来る相手じゃないって……」
 独りごちて走りだした。
 二人が辛辣に歪める顔に多少の違和感を感じながら。






【起承転結の結】 ただ物語をつむぎ続けり

 ■151501■

 千尋たちを追ってウェストゲートへ向かうリムジン――。
 クラクションをいくら鳴らしても無理なものは無理であった。
 この渋滞では避けて進む事も出来ない。そんな事は百も承知でそれでも押したい衝動にかられるのは、苛々を持て余してしまっているせいだろう。
 工事渋滞に車線変更を強いられる。
 前に車を入れるのさえムカつくほど気持ちばかりが焦っていた一同は、苛々と足を踏み鳴らしたり、忙しなく肘掛を指で叩いたりなどしていた。
「ウェストゲートまで後どれくらい?」
 シュラインが誰とはなしに尋ねた。
「距離にして5kmってとこじゃないですか?」
 千鳥が答える。
「5000m。走れば30分くらいかしら」
「現役の頃なら」
 リオンが肩を竦めてみせた。
「走るわ」
 言うが早いかシュラインがドアを開ける。
「え……」
 呆気に取られるリオンを他所に、セレスティがシュラインに声をかけた。
「私はこんな足ですから車に残りますよ」
「えぇ」
 シュラインが頷く。
「私も車に残るわ。万一、本が別のゲートに向かった場合も考えて」
 汐耶がインカムをシュラインに手渡しながら言った。
「わかったわ」
「では、私も走りますか」
 千鳥が続いて車をおりる。
「体力にはあんまり自信がないんだけどね」
 リオンは肩を竦めながら不承不承後に続いた。
「何としても事情を聞きだす。そして止めなきゃ」
「我々は幸い司法局の人間ではありませんからね。彼が空野彼方でないなら彼らを追う理由は目下のところ我々にはありませんし」
「場合によっては手を貸すわよ」



 ■151502■

 今、この段階で彼らが恭一郎と交戦している事から考えて、恐らく彼らは恭一郎の張った呪符結界を抜けられない事は容易に想像される事だった。
 下手な戦闘は時間稼ぎにしかならない。
 彼らを追ってくる者達もいるのだ。
 一気に抜けようとするなら、自分を殺すのが一番てっとり早い。しかし、彼らからはそういった殺気が感じられなかった。
 気のせいだろうか。
 幻覚の名残なのか、それとも――。
 彼方の蹴りが鳩尾に食い込み、そこで恭一郎の思考は強制的に停止させられた。
「けほっ……」
 鳩尾を押さえながら恭一郎が数歩後ろへよろめく。
 多勢に無勢は分が悪い。
 考えてる余裕などなかった。
 思いやる余裕もない。
「もう殺しは廃業したんだがな」
 自嘲が滲む。
 相手に殺気が感じられなくとも、その気がないとも限らない。
 恭一郎は腰に佩いていた脇差を鞘ごと掴んだ。
 ゆっくりと息を吐き出し地を蹴る。
 先ほどよりはるかにスピードの増した動きに彼らの反応が遅れたのか。
 恭一郎は一気に彼方との間合いを詰めると、彼に届いた瞬間脇差を抜いた。
 まっすぐに彼方を狙う銀閃に千尋が咄嗟に割り込んでくる。
 刃は千尋の脇腹を抉った。
「ゆき!?」
 動揺したのは彼方の方だろうか。
 千尋はそれに一瞬視線を馳せたが、脇差を掴んだままの恭一郎の手首をしっかりと掴んで、まっすぐ恭一郎を睨み据えている。
 場数を踏んでいるのだろう、大して動じた風もない。もし今、彼自らが飛び込んできたように見えたのが気のせいでないなら、恐らくこの一撃で彼の内臓は傷ついていない。
 恭一郎は柄から手を離して側転した。捩れる腕に千尋が咄嗟に手を離す。恭一郎は淡々とした足取りで間合いを開けると、次の攻勢を仕掛ける機をうかがった。
「やっぱり……結界を破るには術者を殺るのが一番手っ取り早いかな」
 脇差を刺したまま千尋が身構える。抜けば返って出血が酷くなるだろうから、今は抜かない方がいいだろう。とすればこれはいい判断だ、というべきか。
 恭一郎はそれで気を緩めるでもなく蹴りを繰り出した。
 両手でクロスブロックして、千尋が叫んだ。
「走れ、朱!!」
「朱?」
 その名に恭一郎が一瞬、隙をつくる。
 千尋はそこに掌底を叩き込んで一歩退くと胸ポケットに手を突っ込む。
 銃か、ナイフか、それとも――――。

 ――来る!

 刹那、二つの結界が壊れた。


「二重結界なんて初めて見たわ」
 どこか呆れたような物言いで、クミノは手にしていた銃を下ろした。コルトパイソン.357マグナムの2.5インチモデルは彼女の手の中にコンパクトにおさまっている。恭一郎の呪符が一枚、黒く焼け焦げていた。
 恭一郎は不審に眉を顰めた。呪符がたとえ効力を弱めていたとしても、そう簡単に物理的手段で破られるものではない。彼女の力を推し量るように見つめやる。
「お前……は?」
「子供の出る幕ではないと思うよ」
 彼方がやれやれと溜息を吐くその傍らで、どこか気が緩んだように膝をついた千尋が思い出したように笑顔を向けた。
「君は確か……その切は、うちの冬也が世話になったね」
「これだから司法局は嫌いよ。その事なかれ主義がね」
 クミノは心底嫌そうに吐き捨てて、彼方を見据えて言った。
「空野彼方……いえ、朱」
 その名前に恭一郎が反応する。朱。先ほど、千尋も彼をそう呼んでいた。
「やれやれ、とんでもないお嬢ちゃんだな」
「誰も巻き込みたくない。ご立派だとは思うけど傲慢ね」
 恭一郎は内心でクミノの言葉を反芻する。まだ状況がうまく把握出来ていなかった。
 彼は空野彼方ではないのか。恭一郎の疑問に、だが気づいた風もなくクミノは淡々と続ける。
「本物の空野彼方をおびき出す為とはいえ」
「なっ……」

 数週間前、朱は、空野彼方――橙の栞を持つ者をおびき出す為、青い絵本を開いた。
 彼がその後、あっさり司法局に掴まってみせたのは絵本を閉じてもらう為である。それと、そこに千尋がいたからだろう。千尋は朱のディジタルボックスを継承している。朱としては手ごまが欲しかったのだ。
 そして千尋は彼が朱だと知りながら空野彼方として捕らえた。彼が朱を捕らえたのは彼が絵本を開いた理由に思い当たるものがあったからだった。
 今、橙の栞を持っているのは、朱ではなく、その双子の兄、蒼。
 蒼が、絵本の回収に図書館を襲う事は容易に想像がつく。そして彼は、何の躊躇いもなくそこにある邪魔なものを全て消し去ろうとする事も。
 絵本をCITYの中に置いておく事は、最も危険な事であったろう。
 それが今回の逃亡劇。

「それに、司法局は貴方たちの抹殺命令を出している」
 クミノが言った。
「…………」
 恭一郎は二人を見やる。その表情からは何を考えているのか読み取れない。ただ、千尋は脇腹の傷に限界が近いのか、顔を蒼褪めさせていたが。
「誤認逮捕に脱走、脱走幇助。今回の一連の不祥事をなかったものにするためにね」
 思えば、それだけで抹殺命令と言うのも乱暴な話ではなかったか。
 クミノは更に続けた。
「でも、実態はもっと根が深いんじゃないの?」
 事情を話して絵本を取り封印も解いて貰った上でCITYの外に出る手段もあった。汐耶らとて、事情がわかれば無理に止めようとする事もあるまい。
 だが、敢えて彼らはこの逃亡劇を選んだのだ。
「…………」
「可愛い飼い犬を殺されたくなければ、もう、あなたが死ぬしかないんじゃないの?」
 クミノは疲れたように息を吐く。
「どういう事だ?」
 彼女の言葉の真意を理解し損ねて、恭一郎が目を見開く。
「直江さん! 待って! 違うのよ! もしかしたら彼は朱かもしれない……」
 そこへシュライン達が駆けてきた。
 クミノがシュラインを振り返る。
「あなた……」
 思いがけない人物にシュラインが絶句していると、クミノはにこりともせず言った。
「もしかしなくても予想通りよ」
 その言葉にシュラインが千尋と朱を見やる。
「やはり、そういう事でしたか」
 千鳥が呆れたように溜息を吐いた。
「なら、止める理由はないな」
「でも、力づくで止めて欲しい理由があるんじゃない?」
 クミノが千尋に尋ねる。
「ああ。確かに……君の言う通りだよ」
 千尋はどこか困ったような笑みを零した。
「朱……俺は必ず後を追う。だから先に…行ってくれ」
「…………」
 朱は一つ頷いて踵を返した。ゲートに向かって走りだす。誰もその背を追わなかった。
 その背がゲートの向こうに消えるのを見送って、千尋は彼らを振り返る。
「せっかくの…迫真の演技が…台無しじゃないか。これ以上…巻き込みたく…なかったのに……」
「!?」
 そうして千尋は自分の脇腹に刺さっていた脇差をゆっくり引き抜いた。
 鮮血があふれ出す。
「救急車を!」
 傾ぐ千尋の身体に、シュラインが慌てたように駆け寄った。
「必要ない!」
 地面に仰向けに倒れた千尋の脇腹を圧迫しながら止血を試みるシュラインの背を男の声が叩く。
 そこに白衣の男が駆けてきた。
 シュラインの手をどけて止血の応急処置を始める男に、千鳥が眉を顰める。
「あなたは?」
 恭一郎がここへ訪れる前からここにいた人物だ。
「通りすがりの監察医」
「……救急車が必要ないとは」
「こいつは死んだ」
 監察医と言った男はそこで一旦手を休め、千尋から顔をあげると千鳥を見やった。
「という事にしておいてくれ」
 そうして、再び処置に戻る。
「そういう事ね」
 クミノがそれまで張り詰めていた緊張を解いたように息を吐き出した。
「どういう事」
 シュラインが尋ねる。
「この秘密裏の任務が失敗すれば処断されるのは彼を追ってきた司法局員……要するに、この事件の黒幕には司法局が絡んでるって事でしょう」
「死んだ事にしておいた方が、この先都合がいいというわけか」
 リオンが小さく肩を竦める。
「…………」
 そこへ一台のリムジンが止まった。
 中から、汐耶とセレスティが下りてくる。
 汐耶は倒れている千尋に息を呑んだ。
「間に合わなかったの?」
「救急車を……」
 慌ててリムジンに戻ろうとするセレスティの肩をリオンが掴んで首を横に振った。
「どういう事ですか?」
 尋ねたセレスティに、リオンが簡潔に事情を話す。
 予想はほぼ当たっていた。そして――。

「絵本はNATに持ち出されたのね。封印は解くべきなのかしら」
 首を傾げた汐耶に、傀儡符から開放されたCASLLが声をかけた。
「あ……あの、今の状況があまりよくわかっていないのですが、朱さんは『急いで解かないと、この事が奴に知れたら術者が危ない』って言ってましたよ」
「奴って、蒼の事かしら」
 呟くシュラインに汐耶が頷く。
「……そうね」
「仁枝さんにも話してあげた方がいいのかしら」
「きっと、怒るんじゃないですか? 私たちも、何となく腹立たしいですし」
「ちゃんと、話してくれれば良かったのに」
 何ともやるせない気分で、六人はウェストゲートの巨大な扉をを見上げたのだった。


 CASLLが顔に似合わず懇切丁寧な挨拶をして、大型バイクで帰っていった。
 セレスティが送ってくれるという申し出を辞退したクミノが、リムジンに乗り込む六人に声をかけた。
「彼はあなたたちを巻き込みたくなくて事情を話さなかった。だけど、納得がいかないのなら『赤い絵本』を探してみたら?」
「え?」
「朱が持っているのは緑の栞」
「あ……」
「再び彼らに交わるかもしれないわ」





■END■



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3453/CASLL・TO/男/36/悪役俳優】
【3359/リオン・ベルティーニ/男/24/喫茶店店主兼国連配下暗殺者】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【4471/一色・千鳥/男/26/小料理屋主人】
【5228/直江・恭一郎/男/27/元御庭番】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23/都立図書館司書】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】


【NPC/仁枝・冬也/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/高野・千尋/男/28/司法局特務執行部】
【NPC/藤堂・愛梨/女/22/司法局特務執行部オペレータ】
【NPC/瑞城・東亜/男/25/監察医】

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■         ライター通信          ■
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 逃亡者にご参加いただきありがとうございました。

 章番号の上4桁は時間です。
 また、5桁目はシリアルナンバになっています。
 章番号を参考に、機会があれば他の章を読んでみると、
 その時、他の方々がどういう状況であったのかがわかって、
 いいかもしれません。

 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。