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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


おろしてください!

 雫は今日もサイトの管理に忙しい。というより、それにテンションを上げることに忙しい。
 素敵な記事が沢山書き込まれているので、不謹慎と分かっていても、世の中にはこんなに怪奇現象があるんだわっ!等とはしゃいでしまう。
「今日はこれくらいにしようかな…この後約束あるし」
 そう思ってインターネットのウィンドウを閉じようとした瞬間に、新着書き込みを知らせる音が鳴った。

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件名:おろしてください! ハンドルネーム:おりられない女

内容:誰か助けてください!
どこからも何からもおろす(おりる)ことが出来なくなりました。本当に困っています。
私は二十三歳の会社員です。しかし、おりられないせいでもう一ヶ月ほど会社には行けていません。
本当におりられないんです。
電車からも降りられないし、貯金を下ろすことも出来ないし、階段を下りることもできません。
「降りる」「下ろす」こと全てが出来ません。助けてください。
こうなってしまったのは、一ヶ月前の彼氏の言葉からでした。彼氏とは三年くらい付き合っています。
丁度その頃、妊娠が発覚したのですが、私はまだ結婚も子育ても考えられず、全く予想外のことでした。
幸い貯金もありましたし、健康にも自信がありましたので、その子供を堕ろすことにしました。
ところが、てっきり賛成してくれると思った彼がそうではなかったのです。
彼は、私に生んで欲しいと言い、中絶に反対しました。何日も話し合いが続き、彼は私に毎回、堕ろすな、堕ろさないでくれ、と言いました。
しかし私は彼の反対を押し切って、中絶しました。お腹の子には本当に悪いことをしました。ベッドの上で何度も泣きながら謝りました。
彼に堕胎したことを伝えると、「あれほど堕ろすなって言ったのに…」と言いつつも、何とか私の言葉を分かってくれました。
ところがその翌日から私はおりられなくなりました。

私がおりようとすると必ずおりられないように邪魔が入るのです。
階段を下りようとすれば足が攣って落ちてしまい、預金を引き出そうとすると窓口が臨時休業、ATMは故障中、電車に乗ると居眠りして降りる駅を通り過ぎる、乗車する人の波に押されて降りられない(結局終点まで乗ってしまって駅員に「降ろされる」状態)……。
最初は偶然かと思いましたが、もう一ヶ月こんな状態が続いています。
私の家は幸いアパートの一階にあるので、出る時に階段は下りなくてすむのですが、通勤路には長い階段があるんです。一日目は足が攣って下りられなくなり、二日目は工事中で迂回させられて、工事が終わった直後は近所の建築家の大学生がこの階段について早朝抗議を受けていました。

階段は回り道すればなんとかなるのですが、会社までには交通機関を使わなければなりません。
電車はさっき書いたとおりの状態で、タクシーを使う時に限って財布に手持ちの金がなくてパニックになり運転手に「降りてくれ」と言われて銀行の前で降ろされます。そしてお金を下ろそうとすると…やっぱり駄目なのです。
タクシーには振り込みという形でお金をお渡ししました。
何とか会社に行けてもエレベーター、階段、仕事内容、とにかく「おろす」「おりる」ことが有りすぎて、その度に邪魔が入ったり、失敗して、もう散々です。

彼氏はこの話を信じてくれません。
でも私は彼の「堕ろすなって言ったのに」が原因に思えて仕方ないんです。こんなことってありますか?
今ではすっかり家近所くらいにしか足を出せなくなりました。
出歩くときも身体障害者のように段差がないか注意しています。
こんな状態では今後も滅茶苦茶になってしまいます。
誰か助けてください。
助けてくださる方がいましたらメールください。
お願いします。

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「うわあ…何もかも降りられないって不便だろうなあ…真相が気になる!……けど今から出なきゃだし…」
 雫は少し考えてから、そうだ、と携帯電話を取り出した。
「誰かに頼んで後から報告してもらえば良いのよね!」



■■■


 社美紀は元来どうも気にしすぎるきらいがあった。
 曲がったことは許せなかった。一度決めたことは覆したくなかった。
 他に、例えば本棚の本の並びでも、背の高い順に本が並んでないと嫌だとか、人の言動に敏感に反応するとか、財布の中の小銭は一円玉四枚、五円玉三枚、十円玉四枚…と、どんな小銭事情にも困らないように”装備”している。
 友達に「気にしすぎよ」と言われたら、それも気にした。どうすればいいのか何が悪かったのか、気にして考え込んだ挙げ句道をずれてしまう。
 たった今書き込んだこの記事を読み返して、もしかしたら自分のこの性格のせいかもしれないと思った。
 昨夜少し酒をあおって感情が高ぶったままに書き込んでしまった、と今からこの記事のレスに書いたところで事実は変わりそうにない。
 とうとう今朝はベッドを出ることすら躊躇われた。もっともそれは美紀がベッドを下りた後だったのだけど。
 朝目が覚めて体を起こして、さあ足を床に下ろす―その瞬間に姿勢を崩してベッドから「落ちて」しまった。
 美紀のベッドは下に収納箱が置けるようになっているので少し高さがあった。だから美紀の中ではベッドは「出る」ものではなく「下りる」ものになっていたのだった。勿論これは彼女の考察の結果。
「今日から床に布団敷こう」
 美紀はベッドから布団を下ろそうとして腕を止め、クローゼットの中から来客用の布団を出してきた。
 もうすぐ来客がある。
 この部屋を見たらびっくりされるかもしれないと思った。
 何せあらゆるものが床に置いてある。
 しょっちゅう使う皿、箸、フォーク、テレビのリモコンから雑誌から、全部床に置いてあって、どこぞから「下ろさなくても」良いようにしてあるのだ。
 座って箸を使って食事をすれば、食べ終わると食器を持ったままシンクで洗い物を済ませて、やはり持ったまま、元のテーブルに座り、食器と箸を床に置く。これだと何も起こらなかった。
 モノについては「下ろす」のではなく「置く」ことで何とか解決するようだった。
 美紀はパソコンの液晶画面を見ながら、洗い終わったばかりの平皿を拭いて、床に丁寧に置いた。
 そこでインターホンが鳴る。




 門屋は部屋に入ってぎょっとした。
 あらゆるモノが床に置いてある。
 服も食器も本も何もかもが、フローリングの床に整然と置かれているのだ。
 例えば引っ越し直後の荷解き段階のように全てのモノが雑然と散らかっている状態ならまた違う印象なのだろうが、この部屋の床に置いてあるモノといったら、全部綺麗に整頓されていて、一種不気味さを感じるくらいであった。
「…これは、つまり、対策かな?」
 門屋は挨拶の後に部屋をぐるりと見回して聞いた。
「そうなんです。おかしな部屋で吃驚しますよね」
 美紀が申し訳なさそうに肩をすぼめると、門屋は驚きを隠さず素直に、確かにこれは驚く、と返事した。
 案内されたテーブルは床に置くタイプのもので、美紀の正面に門屋は座ると、もう一度目だけで部屋を見回した。
「あの、おかしな書き込みに反応下さってありがとうございました。メールを頂いたときはすごく嬉しかったです」
「そりゃあ、”助けて”なんて堂々と書いてあったら助けたくもなるよ」
 まず自分から口を開いた美紀は挨拶のように言ったのを受けて門屋も答えた。
 門屋の「部屋で話を聞きたい」というメールに美紀は戸惑っていた。
 確かに部屋なら安全ではあるけれど、何せこの部屋の異様さといったら、少し前も彼氏―隆司―に呆れられたのだから。
「後から彼氏がくるんだっけ」
「はい」
「もう一度ネット上と同じことを聞くけど、彼氏は本当に中絶に関して分かってくれたんだよな?」
「勿論です。……少なくとも私は確信しています。……私は」
 美紀は念を押すように繰り返した。
「そうか。もしかして、自分が確信しているだけで、もしかしたら彼氏自身は本当のところでは分かってくれていないかもしれないって思っていることはないか?深層心理でそう思うことで無意識に自分に行動規制がかかってしまうのはよくあることだけど」
  門屋が少し専門分野らしい話をすると、美紀はちょっと目を泳がせた。
「違うって言い切れないみたいだね」
「そうですね。違うって言い切ってしまったら、それは逆に深層心理じゃないってことになると思います」
 でも、と美紀は続ける。
「それにしたって、身の危険が迫るようなことにまで繋がるのはおかしいって思うんです」
「うん、確かにそうだ。偶然にしては重なりすぎてる部分も多いもんな」
 門屋が言い分に賛同すると、美紀はほっとしたようだった。もう一度部屋を、今度は大袈裟に見回して、門屋は言った。
「困ったな、ここまでとは思ってなかった。手持ちの書類が心許ないかもしれない」
 床に置かれているあらゆるモノを見てから、今度はテーブルの脇に置いてあるノートパソコンに目をやった。
「このパソコンはネットには繋げる?」
「はい、勿論です。掲示板への書き込みもここからでしたから」
 美紀はそう言うとさっき閉めた画面を再び押し上げて開く。すると、スリープ状態から無理矢理たたき起こされたことに不満を言うみたいに、パソコンはブウンと嫌な音を立てた。
「随分長時間使ってるんだな」
「ええ、使うというか、電源が落とせないものですから」
「なるほど、一度落としてみて分かったこと?」
「いいえ。色んなものがおろせないって分かってからです。偶然その時にこれが着いていて、それ以来一度つけたら電池切れで落ちるまでは自分で落としません」
「”落とす”ことも出来ないのか」
「できたら少しは楽になったこともあるでしょうね」
 美紀はブラウザを開いてから言った。
「ちょっと借りて良いかな。さっきも言ったように、ここまでとは思ってなかったから、緊急で必要な資料を見たいんだ」
「ええ、どうぞ」
 ノートパソコンが門屋の方へ向けられる。ホーム画面の大手検索サイトが色鮮やかに映っていた。
「専門のサイトですか?」
「そうだよ」
 いつも使うものより一回り小さくて、扱いにくいマウスを繰る門屋の前で美紀が間を埋めるように当たり前の質問をしてきた。
 キーボードをカチカチ打って、一度マウスに手を伸ばし、クリックする。更にカーソルを移動させてクリックを続ける。
「あ」
 門屋はポケットに手を伸ばして一声。
「そうだ、電話が来る予定だったんだ。途中で悪いけど出ないといけない。これをクリックするだけでいいんだけど頼めるかな」
「ええ、難しくないのなら」
 ノートパソコンを再び美紀に向けててマウスを渡すと、テーブルから立ち上がって携帯電話を開くと玄関へ歩き、そのまま靴を履いて一旦外へ出た。
 背後から何も声がかからないのを確認すると、静かに扉を閉めて、それにもたれかかる。
 開いた携帯電話の画面はメール受信ボックスだった。
 送信元は門屋のパソコンのアドレスになっていて、本文は自動で書き足される門屋のメールアドレスと診療所の住所、電話番号を記号で囲った署名だけが入っていた。
 さて…と口の中で呟く。
「あなたは…誰ですか?」
 突然横からかかった声に、門屋は背中をドアから離してギクッとした。
 声の主は男だった。門屋より少し背の低い、真面目そうな男性……の横には、金髪で緑の目の女性が一人。対照的な二人だった。
「臨床心理士の門屋と言います。ここの、社美紀さんの相談に伺っています。あなた方は?」
「社美紀は僕の彼女です」
 男は門屋の質問に合わない答え方だったが、それで十分だった。
 一方金髪の女性は、さも自分こそがと言わんばかりの態度。
「レイベル・ラブ。私も社美紀の書き込みを見た者だ」


■■

 門屋がドアから離れると、隆司はドアのインターホンを押そうとした。
「待った。良いんだ、今は俺が彼女の部屋から出てるから、鳴らさなくても」
「…そうですか」
 隆司はやや不審そうな顔で間をおいて答えると、門屋より先にドアを開けて中に入ってしまった。
 その背中を見ながらレイベルと門屋も後に続いた。
 先にどんどん中へ入ってしまう隆司の後ろでレイベルは声を潜めて言う。
「あいつ、ちょっとおかしい。普通じゃない」
「……見たところそっちもあまり普通とは言えないようだけど」
「お互い様だろう」
「そう警戒するなよ、同じ依頼者を助けるんだから」
「別に警戒なんて…」
「してるよ。沈黙の中で焦って先に口火を切る奴ほど相手に対して警戒心が強い証拠だ」
 レイベルは初対面の相手に警戒しない奴なんているもんか、と言いたかったが、奥から聞こえた会話でそれは叶わなかった。
「美紀、何やってるんだ?」
「門屋さんのお手伝いよ。といってもクリックしただけだけど」
「手伝いって何を…」
 まずい、と門屋はレイベルを追い越して急ぎ足でパソコンのある部屋へ入った。
 レイベルは靴を脱いでから改めてその部屋を見回していた。日常生活品の何もかもを、どこからか「下ろさなくていい」ように床に敷き詰められたその様はまるでテレビのニュースで”犯人から押収した物品”の映像を思わせた。乱雑に散らかっていない様子から、部屋の主、つまり美紀が几帳面な性格であることが分かる。
 床に置かれたあらゆるモノを見ながら、三人のいる部屋へ入った。
「これは何の資料ですか?」
 パソコンの前に座った美紀が開口一番そう言ったことで門屋は胸をなで下ろした。
「単なる境界性人格障害の考察。君の”おろせない”事情とは何の関係もないものだ」
「そんなものをダウンロードして何になるって言うんですか?関係ない資料なんて意味がないでしょう」
 隆司が言った。
「ああ、これで半分謎解きができたわけか」
「レイベルさん、どういうことですか?」
 レイベルがやっとか、という雰囲気で言った言葉に、隆司はこの部屋に来るまでの慣れもあってか真っ先に問うた。
「資料だの何だのは関係ない。これが見れたこと自体にキーワードがあるんだろう?臨床心理士?」
 レイベルは揶揄のように門屋を見た。
「そう。これを”ダウンロード”できたことが鍵なんだ。今来たばかりの二人のためにももう一度説明するけど、俺は急遽必要になった資料を見たいと言って、彼女からパソコンを借りた。その途中で携帯電話が鳴って俺は部屋の外に出たのが流れとしての事実だ。 実際は最初にパソコンを借りたときにネット上からでもアクセスできるフリーメールのトップに飛んでそこから自分の携帯に空メールを送って、こっちの携帯に受信させる。そして後一歩で資料が見れる段階、つまりダウンロードOKのボタンを押すことだけを彼女に任せて俺はこの部屋から出た。勿論本人にはクリックするとダウンロード…データを”落とす”ことになるとは言ってない。途中で何か聞かれて、”落としている”事実を言わないために俺は外に出た。そこでこの二人と会ったってことなんだけど」
 門屋はそこで一旦話を切った。そして美紀を見る。
「……じゃあ、今私”落とした”んですね?」
 信じられないという顔で一言。しかし傍にいた隆司は得心いかぬままだった。
「待ってくれよ、じゃあつまり結局のところ自覚の問題だろう?美紀がこれをダウンロードだって知ってたら回線が切れるだの何だので失敗するって、そういうことなんじゃないのか?それはちょっとでたらめ過ぎるんじゃないのか?ダウンロードだって知ってたら上手くいかなかったって、そういうことだろ?」
 回答を先回りして隆司は門屋に詰め寄った。
「確かに、今までのことを考えると、そういうことになるな」
 門屋もまた、隆司と同じ得心いかない顔で答える。
「そうね、私これがダウンロードって知らなかった。このアイコンもただののマーク…。変わったダイアログが出てきたけど、ダウンロードなんて言葉は何処にも出てこなかったし……あ、これフラッシュの画面だわ」
 なるほど、フラッシュなら見ている本人に分からないように、読み込んでいる途中の画像を改変することも出来るだろう。
 ふむふむと自己解析する美紀にレイベルが言った。
「もう一度、ダウンロードしてみると良い」
「そうだな、次は多分失敗する」
 続けて門屋も言った。
 そして言われたとおりに美紀は一度ブラウザを閉じてサイド開き、履歴からそのアドレスを探して(この手順すら彼女の利発さを思わせる)、ダウンロードのアイコンをクリックした。
 すると、アイコンを押した途端に隆司が言ったように回線が切れてしまい、ダウンロードは失敗してしまった。
 四人は溜息を吐いた。
「やっぱり私の認識の問題なのね。落とす、下ろす、下りることを認識してしまうと失敗するんだわ」
 肩を落として落胆の色を隠せない美紀。
「確かに意識せずに下りてた、下ろしてた、落としてたことはあったでしょうね」
「そうだな、最初に君がここでネットに繋いだ時にちゃんとホームサイトの画像が全部表示された。インターネットのあらゆる情報は基本的に読み込んだりダウンロードすることで得られるものなんだ。画像の一つでさえ、ちゃんとこの機械の中に一旦ダウンロードされてから表示される。君が見たいと思って開いたサイトの画像がちゃんと見れていたのは、君の”ダウンロードしている自覚”がなかったからだ」
「…”おりられない”ことが分かってから、ネット上で見つけた配信はすべて失敗していたのですけど、それは多分私がダウンロードって分かってたからなんですね」
 顔を俯かせたまま、美紀は門屋の言葉に同意した。
 そこで隆司が口開いた。
「とにかく認識の問題なんだろう?ことを自覚したら失敗するのはよく分かったよ。最初は…その、半信半疑だったけど…でもこのネットの件は良いよ。他のことはどうするんだ?下りる、下ろすって自覚しないとできないことなんて山ほどある。階段、バス、電車、銀行の引き出し!こういうのって自分でしっかり自覚しないと出来ないことだろう?!」
 段々語調が強くなる隆司を制止したのはレイベルだった。
「もう半分はそこなんだ」
 隆司の声に反してレイベルの口調は落ち着いていた。
「外に出ないか。この部屋は空気が重すぎる」
 レイベルは少し声のトーンをあげて三人を促した。


■■

 なるべく美紀以外の三人で先の道を歩いて、危険な場所…つまり下るような道がないことを確かめながら、四人は階段の前に来た。
 美紀がことごとく下りることに失敗しているあの階段だった。
「あなたがこの階段を下りられなかった理由に大学生の抗議があったけれど、それはどういうこと?」
 レイベルが下へ続く階段を見下ろしながら美紀に問うた。
「どういうことも何も、本当にただの講義です。大勢学生が集まって先生がこの階段について、話をしていましたよ。私みたいな一般人にはそう珍しいものでもないと思うけど、建築学科にとっては珍しいこともあるんだろうと思います。学生の一人に何をしているのか聞いてそれが講義だと知って、それで、下りられないなと思ったんです」
「………」
「………」
 レイベルは頭の中を整理した。そして、言葉とはややこしいものだとも思った。
「それを聞いて、僕は気のせいだって、言ったんです」
 隆司が付け加えた。今度は少し反省するような言い方だった。
「確かに、半分は解決したようだけど、もう半分は俺の分野じゃないな」
 門屋は一人別のことを言った。が、別のことだと思ったのは美紀と隆司だけで、レイベルはその意図が分かっているようだった。
「そうか、あなたの分野は違うのか」
「ああ。違う」
「じゃあこれは、ここにいる者の中では私の分野ということだ」
 門屋はレイベルの積極的な態度を見て、階段の両端から伸びる柵に体をもたれさせた。
 レイベルはそれを、身を引いたとすぐに理解した。そして訳が分からないという顔をしたまま立っている二人に向き直ると、さっきと同じ冷静な声で言った。
「あのね」
 普段の物言いよりすこし、普通の女性らしささえ感じさせる口調で。
「あなた達二人が日常的に使う言葉というものは意味と音で成り立つものなんだ。勿論私も、そこにいる門屋も使う。だけど、見たところ――」
 そこで言葉を切って、レイベルは少し首を傾げ、目線を上にして考えるようなそぶりを見せた。
「何ですか?」
 美紀が聞く。
 レイベルは至極優しげに微笑んだ。
「二人とも、”馬鹿みたい”とか”死ね”とか、あんまり言ったことがないだろう?」
 二人は黙った。沈黙は答えなり。
 門屋も、物言わず―ただ、柵にもたれかかってレイベルの言葉を注意深く聞いていた。
「意味と音はどちらも、科学の及ばない世界ではとても貴重で強いものなんだ。それが合わさって成り立つ言葉はもっと強い。それを繰る人間はもっともっと強い。私はそのことを身をもって体験しているんだから間違いない。言葉という、ある種の魔法のようなものを操る人間は時々ガス抜きが必要なこともあって……まあ、それが所謂”馬鹿みたい”だの”死ね”だのという軽い悪口だ」
「死ねなんて、私絶対口にできないわ。嘘でも軽い気持ちでも言っちゃいけない言葉よ」
「僕も。悪口を言わないとは言わないけど、死ねなんて簡単に口にできない」
 美紀と隆司。
「ごく希に、そういう人がいるんだ。普通、誰だって本当の意味で死んで欲しくて”死ね”とは言わない。単なる力のガス抜きでしかないんだ。この力の一部は精神的なストレスにも繋がるけど、私はその辺の処置はしない。そこの男の仕事だからね」
 言われて、門屋は片手をヒラと振って見せた。
「力のガス抜きをしない人間が”堕ろすな” ”下りられない”と口にしてしまう、あるいは自覚してしまうと、時々今回みたいに物理的に影響することもある。しかし、それは通常そんなに大きなことにはならないんだ。こんな長期間なんて本当に珍しいくらい」
 レイベルは二人の前を行ったり来たりする。
「だからどうだって言うんです?僕は超常世界のことなんて」
「信じないとは言わない方が良いよ」
 レイベルは隆司の言葉を遮った。
「言葉を遮って悪いな。でも言わない方が良いんだ。言ってしまうといよいよ本当に私が何も出来なくなってしまう。……この際、黙ってもらった方が良いな。うん、私の話が終るまで黙っててくれ、二人とも」
 どこか威圧的なレイベルに二人は従わざるを得なかった。
「”本当に珍しい”今回の件に関しては―…」
 レイベルが並んで立つ二人の前でぴたりと止まり、美紀と隆司の顔を見比べるように目をやった。
 その後ろで赤い夕日が沈んでいく。階段の下から誰も上って来る様子はなかった。
「どうも、あなた達二人には必要のない能力のようだから、私がもらっておくよ」
 え?と二人が同時に言うか言わないかのうちに、レイベルの綺麗な指が伸びる掌が美紀と隆司の口元に近づけられ、何かを握り取るように指が折り曲げられて、そのままレイベルは拳をぎゅっと握った。
「もう喋って良い」
 レイベルは拳を開かないまま言った。
「……今のは…?」
「あなた達二人が無意識に所有していた能力だ。言霊って言うだろ?たまに、自分自身、あるいは他人に言霊を意識せずに使ってしまって行動を抑制してしまうことが、普通の人間にもあるんだ。音に意味を込めて相手に伝わるものこそが言葉というもの。早い話が、彼氏の”堕胎するな”という魂の入った言葉を、あなたはしっかり受け止めて、そこに二重の魂を入れてしまった。心得ている者ならそれはやろうと思わないし出来ないし、魂の入った言葉から魂を抜くことだってできる。でも自覚のないあなたはその言葉に更に自分の中での”おろすな”という魂を入れてしまった」
 一呼吸置いて、レイベルは少し話す雰囲気を変えた。まるで音楽のキーを半音上げるみたいに。
「使い慣れない力は、どんなものでも誤った方向に働いてしまうことがあってね――私が今回不思議に思ったことでもあるんだけれど、掲示板への書き込みでおかしな点に気付いた?」
 美紀は無言で頭を横に振った。
「…だろうと思った。あなたが”正しく”入力していれば私もこの場にいなかった。まあ、英語にもあることだよ、kightとnight、knotとnot…日本語だと空の雲と虫の蜘蛛、場と場を架ける橋と食器の箸………授業と抵抗」
 レイベルはポケットから紙切れを取り出して、二人に見えるように広げた。
 それは、今四人がいるこの階段についての記事だった。
 この階段が老朽化していることを受けて、改装ついでにこの際一から作り替えてしまおうと決めた業者に対し、建築の世界において価値あるものだと主張する近隣の建築科の大学生が座り込みの抗議を行った…大体こんな内容が、その切り抜きには書いてあった。モノクロの写真の中で大学生が座り込みをしている。
「あなたは掲示板に、授業の講義ではなく、異議を申し立てるという意味の抗議を使った。誤字に気付いていればどうにかなったかもしれない。けど実際は気付かないまま、この”コウギ”という言葉に魂を吹き込んでしまった。今日、そっちの彼氏と待ち合わせた喫茶店の中でも同じようなことが起こったよ。何気なく使った言葉が意図しない場所に飛んでしまって影響する」
 その為にもこの力は私がもらっておいた方が良かった、とレイベルは再度拳を握り締め、二人が記事を読んだことを確認するとそれを空いた手でポケットの中へしまい込んだ。
「ごめんなさい、全然気付かなかったわ。そういえば私、単に降りられないことに執着して慌てて掲示板に書き込んだもの。何度か読み返してみたけど…」
「魂が吹き込まれた文字というものは大体そういうものだ。誰の目にも違和感なく映る。それはおかしなことじゃない。むしろ気付く方がちょっとした変わり者というか…」
 レイベルはそこで言葉を切った。
 彼女が話す、にわかに信じがたい出来事に足下がふらつく美紀を、隆司が無言で支えた。そしてレイベルにも分かるように、握られた拳を見た。
「ああ、この拳の中身?たった今あなた達の中からら取り上げた能力だ。残念ながら拳を開いて見せてやることは出来ない。開いたらすぐ、あなた達の中へ戻ってしまうからね」
「そうか…これで美紀も下りられるように…」
 隆司は超常現象のことなんて信じても信じなくてもどっちでもいいようだった。
「それはあなた達二人にかかっていると思うがね。そこは私の分野じゃないんだ」
 レイベルは二人の前を退いて、門屋とは反対側の柵にもたれかかった。
 それが合図のように今度は門屋が歩いてきた。
「どうして今回のようなことになってしまったか分かるか?」
 門屋は二人を階段の一段目に座らせて、自分はそれより三段下に座ると上半身を捻って二人を見上げる形を取った。
 首を横に振る二人の後ろでレイベルが無表情でこちらを見下ろしている。
「さっきも言ったけど、深層心理で中絶を彼氏が理解してくれてないんじゃないかという思いは、君の中にあるよ」
 この言葉に反応したのは隆司だった。
「そんなことない。僕はしっかり了承した。美紀の苦悩を聞いて辛かったから、だからちゃんと、分かったと返事をしたんだ」
「そう、そっちはそういうつもりだった。問題はその時彼女がどう捉えていたかになるんだ」
 門屋はついついいきりがちな隆司に制止をかけるように美紀に話を振った。
「ええ、私は了承してくれたと思いました。頭では」
 美紀は段々語調が弱くなっていく。
「頭と心は別物だ。頭で分かっていても心が痛むってあるだろう。君には分かって貰えたという実感が無さ過ぎた。分かって貰って、ちゃんと自分の考えを受け止めて貰えたっていう実感がなかったんだ。頭で”分かって貰えた・受け止めて貰えた”と無理矢理思いこもうとしていたんだ。その無理が変なところ…つまりおりられないとか言霊とか、そういうところに作用してしまう」
 門屋はなるべく刺激しないよう、ゆっくり話した。そして次に隆司を見た。
「君には確かに熱意も誠意もあったんだろう」
 隆司は強く頷く。
「ちゃんと彼女の苦痛を自分の苦痛と同等に考え、彼女と同じように悩んで、それで了承したんだろう」
 また隆司が頷く。
「だがな、自分がどんなに、こういうつもりだったと思ったところで、相手にそれが百パーセント伝わることはほとんど無いんだ。どんなに言葉を駆使しても、たとえさっきレイベルが取り上げた能力を使っても、完璧にお互いを理解するのは、どんな間柄でも不可能に近い」
「そして不必要な能力があるとこういう事態になってしまうって、そういうことなんですね。……僕たちは間違った関係だったのかもしれません」
 ついに隆司までも肩を落とし始めた。
「そうは言ってない。人間がお互いを完璧に理解するのは難しい。八〇パーセントも伝われば上出来だ。でもそれを百パーセントに少しでも近づけるために人間は言葉を使うし、相手とコミュニケーションを取るし、それを楽しいと感じるんだ。君たちは間違った関係どころか随分相性が良い関係だと思う」
 そうとも!と階段の上からレイベルが言った。そして三人に拳を見えるように掲げる。
「コレ、元は一つのものだ。きっと元々隆司の能力だったものが美紀にも伝染したんだろう。能力の伝染なんて滅多にないぞ。あるとしたら、それはよっぽどお互いを近しいと感じている場合だ」
「ほらな、レイベルの言うとおり」
 背中を押すように門屋が続ける。
 徐々に明るさを取り戻しつつある二人の前にレイベルも足を進めてきた。
「能力は取り上げたけれど、それでも元々人間は微弱な言霊能力を持っているものだ。あなた達二人はこれからそれを上手に使うんだ。自分の言葉で自分を縛ってはならない。自分の言葉で他人を縛ってはならない。これは普通の人間ですら毎日気をつけるべきことだ」
「何を発言するのにも慎重になってちゃ神経が持たないぞ。せっかく良い相手がいるんだから、たまには派手な喧嘩でもしてガス抜きするこった」
 門屋の言葉が終わると、美紀と隆司の顔は、晴れやかだった。

■■

 暫く歩いてなかったから、と二人は門屋とレイベルとはその場で別れ、無事に階段を下って遠くなっていった。
「その拳…」
 二人が見えなくなってから、門屋がレイベルに何気なく言った。
 するとレイベルはぱっとその拳を開いて見せた。
「……は?」
 さっき見せることは出来ないとか何とか言っていたはずなのだが――。
「いや、実は私はあまり順序立てた能力取り上げはよく分からないんだ。だからさっきは力任せに引きずり出した」
 色々突っ込みたいが門屋は、それで?と先を聞いた。
「力任せに引きずり出して握りしめたら……なんだ、その…どうも、握り潰してしまったようで…」
 しばしの沈黙の後、あっそう…と門屋は言った。
 お互いに、不思議な相手と関わった依頼だと思った。 
 そして次に、雫への報告書のことを考えた。




  
  


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0606 / レイベル・ラブ / 女 / 395歳 / ストリートドクター】
【1522 / 門屋将太郎 / 男 / 28歳 / 臨床心理士】

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■         ライター通信          ■
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まずはこのお話に参加下さりありがとうございました。
門屋さんには二人の心理的な原因の解明、レイベルさんには現実的に能力への応対、ということで分担していただきました。
美紀も隆司も現実的な一般人なので、その辺の非日常な事情を分からせるのでお二人に説明役を任せてみたのですが…!
書いている途中で自分自身がこうして言葉を作っているにもかかわらず、言葉って難しいよな〜等と考えてしまいました(笑)
そういう意味でも、とても楽しく書かせていただきました!
また機会があればお目にかからせてくださいませ。
ありがとうございました!