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<東京怪談・PCゲームノベル>


月隠


 ざわりと鳴った風の音に、七重はしばし目をしばたかせた。
 周りに広がってあるのは漆黒色の一つきりで塗りこめられた夜の景色。確かめることはしないまでも、仰ぎ見る天もまた夜の色で敷き詰められてあることだろう。

 生来の病弱な体質を盾に、七重は度々学校を欠席している。名声と世間体、あるいは金銭ばかりを気に留めてばかりの学校は、七重の欠席が二日三日と続いたところで、一向に気に留めようとしない。
 だが、この数日は、自分でも幾分意外に思えてしまう程に随分と身体の調子が良い。安定している、とでもいうのだろうか。ともかくも、この数日は一度も欠席する事もなく、始業時間から終業時間まで、きちんと学校の中で生活しているのだ。
 学校が終わり、門を後にする時には気配すら感じさせていない夕闇も、自宅へ向かう帰路の途中、じわりじわりとその触手を伸ばし始めてくる。七重の自宅の近く――見慣れた風景の中を歩き進める頃には、辺りは一面夜の闇で支配されてしまうのだ。
 夜がもたらす静寂の中をゆったりとした歩み方で進む。道行く者の数も少なくなった帰路の中では、七重の足音ばかりがやけに大きく響き渡る。自分の足音に耳を傾けて、七重は小さな息をひとつ吐いた。
 ――と、なんの前触れもなしに、七重はひたりと歩みを止めて首を傾げた。
 夜の闇の中を舞う蝶の羽が見えたような気がしたのだ。
 3月になり、もうじき春の頃を迎えようというこの季節ではあるが、しかし蝶が舞うには流石にいささか気の早い話であるようにも思える。
 蝶の羽が見えた場所まで歩み進め、そうして七重は再び小さな息をひとつ吐いた。
 蝶は確かに舞っていた。黄金色とも、ほのかな光を放つ純白色ともいえるだろうか。どちらにしろ、蝶は闇を照らす小さな行灯を彷彿とさせるような姿態で宙を飛び交っているのだ。
「……蝶々売りさん」
 ため息を落とすのと同じような息遣いで、その名前を口にする。
 飛び交う蝶の群れの中心に在ったのは、以前に一度だけ面識を得た事のある男の姿であったのだ。
 花笠で顔の上半分を覆い隠し、女物の着物を羽織りまとった男は、七重の声を聞きとめたのか、ゆったりとした所作で七重に身体を向けた。
「おんやァ、あンたァ、確か」
 花笠の下の口許が薄い笑みを浮かべる。その表情と共に、頬の彼岸花がじわりと揺れた。
 七重は男に向けて丁寧に頭を下げ、飛び交っている蝶の群れを確かめながら暗紅色の双眸をゆらりと細めて首を傾げる。
「お久しぶりです、蝶々売りさん」
「えェと、あンたは……あァ、そうだ。七重ってェお名前でしたかねェ」
「先日はお世話になりました。……あなたがいらっしゃるという事は、ここは……」
 頷きつつ、周りの景色を一望する。
 夜の闇は変わらず。見上げる天は漆黒の一色のみで塗られ、耳元をかすめていく風の冷ややかさも先ほどまでのものと何ら変わりばえのないものだ。
 ――――だが。
「四つ辻ですね……」
 ひとしきり周りの景色を確かめてから、七重はもう一度白い息を吐き出した。
 先ほどまで歩き進めていた通学路とは明らかに異なる様相を呈した風景。それは古都を思わせる大路と、その両脇に点在している柳やら鄙びた家屋やらといったものなのだ。
「へェい、左様で」
 蝶々売りの表情は目深に被った花笠の影になっているために確かめようのないものとなっている。
 蝶々売りのその表情を窺い見ようとわずかに首を傾げてみるが、その面立ちは夜の闇もあいまって、やはり杳として知れないのだ。
「それじゃあ僕はまた知らずに踏み入ってしまったのですね」
 そう呟いて頷くと、七重はゆったりと目をしばたかせる。
 蝶々売りは七重の言葉に薄い笑みを浮かべて煙管をぷかりと吹かしている。
「まァ、縁があればこそって言うもんでしょうしねェ。今日はかの太夫の姿も見えないようですし、どうですか、ひとつ。あっしと一緒にぶらりと歩いてみやせんかィ」
「……あなたと一緒に、ですか」
 蝶々売りが述べた提案を耳にして、七重はふいに目を見開いた。七重にとり、蝶々売りが(恐らくは何のことはなしに)告げたその申し出は非常に意外なものに感じられたのだ。
「何かご予定なんぞおありで?」
 花笠で隠された顔が傾げられる。七重は慌ててかぶりを振った。
「いいえ、予定はありません。……その、」
 かぶりを振りつつ答えると、蝶々売りの口許がわずかに吊り上げられ、彼岸花がゆらりと揺れた。
「そいじゃア、ぼちぼち参るとしやしょう」
「……はい」
 小さな頷きをもって返し、先を歩く蝶々売りの後をついて歩く。
 告げかけていた言葉は形を成すこともなく、そのまま喉の奥へと飲み下されていった。

 七重にとって、蝶々売りという男は得体の知れない存在なのだ。
 そもそも、窺い見る事の出来る部分は鼻から下の部分のみ。その面立ちがどのようなものであるのかも知れない。確かめる事が出来るのはその口許に浮かぶ薄い笑みと頬に刻まれた彼岸花の刺青のみ。果たして本当に笑んでいるのかどうかすらも知れないのだ。
 ――何より、この蝶々売りという人間――否、人間であるのかどうかも判らない――は、自身が手にしている数匹の蝶を”商売道具”だと評したのだ。生あるものを”道具”と評する人間には、あまり好印象を抱く事は出来ない。
 七重はわずかに眼差しを細いものとして、前を歩いている蝶々売りの背中を眺めやる。
 蝶々売りの周りを飛び交う蝶が光る道筋を暗闇の中に描き出していた。 

「四つ辻では未だ大路の事しかご存知ないんで?」
 前を行く蝶々売りが、不意にそう問いかけてきた。
「……大路が四つあるという事が、この場所を四つ辻と呼ぶ由来となっているのではないのですか?」
 問いかけに対して問いかけで応じる。と、蝶々売りは軽い頷きで答え、続けてゆるゆるとかぶりを振った。
「此処はねェ、現し世とは違った場所にあるんですよ」
 蝶々売りの口許がいつもよりも大きめに笑みを浮かべた。頬の彼岸花もまた大きく歪んでいる。
「違った場所……」
 七重がそう告げるのと同時、蝶々売りの周りを舞っていた蝶の内の一匹がひらひらと羽を大きく羽ばたかせ始めた。
「あらゆる時間に通じた小路がありやがるンですよ」
「あらゆる時間、ですか?」
 そう訊ねた、その時。
 夜の闇が静かな震えを起こし、心持ち強めの風が七重の髪をはらりと揺らした。それは以前、蝶々売りと初めて会った時に感じたあの風によく似た気配を含んだものでもあった。
 前の時、この風が吹いた後に蝶々売りの姿は目の前から消失していたのだった。
 伏せかけた視線をこらえ、前に立つ蝶々売りの姿を凝視する。
「あンたさんが覗いてみたいと願う時間……そうですねエ。例えば過去であれ未来であれ、あンたが望む時間に通じた小路を開いて差し上げやしょう」
 七重の視線を真っ直ぐに受けた姿勢をとって、蝶々売りは煙管をぷかりと吹いている。
 蝶々売りの背後に広がっているのは何ら変わりばえのない夜の漆黒色。だがその漆黒が、たった今しがたまでそこにあったはずの闇とは既に異なるものであろう事は、どうしてか理解出来ている。
 夜の闇を背にして佇む目の前のこの男は、例えるならば、掴みどころのない、夜霧のような存在であるのかもしれない。
「未来、ですか……」
 そう述べると、全身が一瞬にしてぞわりと粟立った。七重は両腕で自分の身体を抱き包むような体勢をとり、わずかに俯いた。
 七重にとって、過去や未来――そういった時間というものは己の内に巣食う”不安”そのものだ。恐れであり、畏れでもある。
「……あなたは……時間を繋ぐ事が出来るのですか」
 伏せていた目を持ち上げて蝶々売りを見やり、訊ねる。
 蝶々売りは「へェい、左様で」と答えて肩を竦めた。
「あァ、ただし、一つばかし。訪れた先ではあンたさんの姿は一切その場に存在しないものとなりやす。中にはたまたま偶然あンたさんを視てしまう人もいるかもしれやせんが、なんにせよ、触れる事も話す事も出来やしません」
「僕はその場所では”存在していない”ということですね」
「ヘェい」
 深々と頷いた蝶々売りの言葉に、七重は再び目を伏せた。
「……なら、……未来を」
「うん?」
 花笠の下で傾げられた蝶々売りの顔を見やり、七重は再び口を開ける。
「未来を覗いてみたいです。……未来はまだ決定づけられてはいないはずですから、きっといくつでも可能性は広がってあるはずです。その一つでいいので、少しだけ……少しだけ覗いてみたい」
 意を決して告げた七重のその言葉に、蝶々売りはゆったりとした笑みを口許に浮かべて
「へェい、承知」
 そう一言発し、煙を一筋吐き出した。

 蝶が一匹、夜の闇に光の帯を描きながらゆったりとした動きで舞い飛んでいる。
 その色は青白くさえ感じられる程の純白。
 夜を照らす雪のようだ、と。七重はふとそんな事を巡らせながら眼差しを細ませる。
 蝶が描き出した帯はじわりと、徐々に大きな円を成していく。円はやがて人間一人が出入り出来るであろう程度の広さをもったものとなり、そして遂にはその向こうに四つ辻とは異なる風景を映し出したのだった。

「……あ」

 七重の口が、知らず、呟きを漏らす。
 七重の身体はいつの間にか白々とした光の中にあったのだ。
 振り向き、今歩いてきたはずの道を確かめる。が、そこにあったはずの四つ辻の気配は、既に影も形も見当たらなくなっていた。
「あンたさんの仰る通り、未来ってエのはまだ決められちゃアいない、不安定なモンです。ですから、これからあンたさんが目にするモンは、まァ、可能性の一つ、とでも言うんでしょうかねェ」
 不意に耳を撫でた蝶々売りのその声に、七重は首から上だけを動かして声の主を確かめる。
 蝶々売りは七重の視線を受けて口許を緩め、それからすいと片腕を持ち上げて真っ直ぐ先を指差した。
 必然、七重の視線もまたそちらへと注がれる。

 ――――咲いた白梅がその花びらをさらりと散らせた。その向こうに、学生服姿の少年の姿が見える。その学生服は、七重が通う学校の高等部のそれによく似たデザインをしていた。
 七重の側からは少年の後姿しか確かめる事が出来ない。
 しかし、その銀色のやわらかな髪は。それは確かに七重のものと同じものであるように見受けられた。
 少年が対峙しているものは泥の塊そのものといった見目をした存在だ。それからは臭気を放つ触手が幾つも伸びている。触手はそれぞれが単体で意思を持っているものであるかのような動きをみせ、それぞれが少年を捕らえ、引き千切らんとしてうねりをあげている。
 少年の片腕が揮われた。それにより招かれた雷が空気を震わせ、青白い火花が宙に散った。刹那、焼け爛れ、削げ落ちた触手の数本がのた打ち回り、生物のごとくに跳ねまわる。少年はすかさず再び手を揮わせ、青白い火花が再び宙を揺るがせた。
 ごうごうと風が唸り声を響かせて空気を大きく震わせる。
 触手をもった泥の塊――おそらくは魔物か何かに相当する存在なのだろう――の姿が消失していく。
 空気を震わせているのは風の声なのか、あるいは魔物の咆哮なのか。あるいは少年が呼び招いた雷によるものなのか。
 空気の震えが鼓膜の奥を揺るがせるのを覚え、七重は両手で耳を塞いだ。
 
 梅の香が鼻先をくすぐったのに気付き、耳を塞いでいた両手をゆっくりと外す。
 魔物の姿は、その気配さえも残さずに消え失せていた。
 その場に残されていたのは学生服姿の少年の姿のみ。やはりその背中しか確かめる事の出来ない位置に立っていた七重は、ふと歩みを進めて少年の前へと寄ってみた。
「――どうでやんしょう? あンたさんの未来は」
 蝶々売りの声が再び聞こえ、七重の耳をくすぐった。

 白梅がさらりと散り、風に乗って流されていく。
 少年の前方へと歩み進めた七重の目に映りこんだのは、凛とした眼差しをもった少年の面立ちだった。
 暗紅色の双眸には暗い翳りなどただの一筋でさえも差されていない。あるのは力強い意思をもった逞しい光だ。体躯は変わらず華奢ではあるが、心持ち均整の取れた線をもっているようにも見える。
 何より。
 七重が思わず息を呑んだのは、かちりと重なったその視線。
 淀みや迷いといったものが感じられない真っ直ぐなその眼差しに、七重は知らず目を見張った。
「……これが、僕の未来」
「まァ、可能性の内のひとつってところでやんしょうねェ」
 笑んだ口許が煙を一筋ぷかりと流す。
 七重は蝶々売りの顔を一瞥してしばし目をしばたかせた後に、ゆっくりと静かにかぶりを振った。
「……違う未来もあり得るということですよね」
 そう呟いて、小さな息を吐く。
 蝶々売りは何も答えようとはしないまま、ただゆったりと煙管をふかしている。

 風が吹いた。
 蝶の一匹がふわりと舞いあがり、一筋の光の線を描く。
 その線が七重と蝶々売りとを囲うような円を作ると、流れていた風がぴたりと止んだのだった。
 
 七重が再び夜の闇へと立ち戻ろうとしたその瞬間、少年の視線がふわりと動き、”視えていないはずの”七重の顔を見遣っていたように見えた。
 七重は少年の眼差しを捉えたまま、ゆっくりと、丁寧な所作で礼をした。





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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【2557 / 尾神・七重 / 男性 / 14歳 / 中学生】

NPC:蝶々売り

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         ライター通信          
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いつもお世話様です。そしてお待たせしてしまいました。今回はもっと早めにと思っていましたのに…ああ…。

現在の七重様と、未来の七重様。この両者の対峙を書くのは、思っていたよりも楽しいものでありました(笑)。
現在の七重様は、やはり未だ(失礼ながら)子供といった感じであるように思えます。ですので、未来の七重様はそれに対比させ、大人びた、そして逞しい(体躯的にではなくて)少年、青年寄りといったイメージで想像いたしておりました。
PL様がお持ちのイメージと異なっていましたら、なんだかひたすら申し訳ないばかりであります。

お待たせしてしまいました分、少しでもお楽しみいただけていればと思います。
それでは、またご縁をいただけますようにと願いつつ。