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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


悪魔の囁き

【オープニング】
 ――草間武彦が、禁煙している。
 仕事で立ち寄った、アンティークショップレンで、主の碧摩蓮からそんな言葉を聞かされ、碇麗香は耳を疑った。
「まさか……。彼が禁煙なんて、天地がひっくり返ったって、あるわけないわ」
「それが、あったんだよ」
 言って蓮は、事の顛末を教えてくれた。
 一週間前、彼女とその友人、それに草間の四人でマージャンをする機会があった。そのおりに、誰が言い出したか、最下位の者は自分の好きな嗜好品をしばらく絶つこと、というルールができた。で、草間が最下位だったというわけだ。
「なるほどね。……でも、あのヘビースモーカーが、そんなに長く禁煙なんて、できるわけないでしょう?」
 麗香はうなずき、それでもあり得ないとかぶりをふって言う。
「そうだね。……なんなら、賭けるかい?」
 蓮は、薄く笑って言い出した。
「それも、そうだね。ただ賭けたんじゃ面白くないから、こうしようじゃないか。あたしは草間に禁煙が続くよう働きかける。一方、あんたは禁煙を止めるよう働きかける。それで、もう一週間、禁煙が続けばあたしの勝ちだ。それまでに禁煙を止めさせれば、あんたの勝ち。どうだい?」
「いいわよ。受けて立とうじゃない」
 草間の禁煙が、そんなに続くはずなどないと信じている麗香は、鼻で笑って返した。
「で? 私が勝ったら何をもらえるのよ?」
「そうだね。……あたしが知ってる、とっときのアンティークにまつわる因縁話を教えてやろう。きっと、雑誌の売上が伸びるよ」
 蓮は少し考え、言う。
「そう。じゃあ、私はあなたが勝ったら、白王博物館への、特別招待券を進呈するわ。うちの社長の私設博物館だけど、珍しいものがそろっていて、年に一度、業績向上に貢献した社員だけが招待されるの。私は今年も招待券をもらったから、勝ったらあなたが、かわりにそこの展示物を堪能しに行くといいわ」
 麗香も、胸を張って返す。
 こうして、麗香と蓮の勝負は、幕を切って落とされたのだった。

【1】
 麗香と蓮が、草間の禁煙を巡って賭けを始めたことは、三人の友人・知人・関係者の間に、またたく間に広がって行った。中には眉をひそめる者もいたが、面白がって静観を決め込む者たちが、大半だった。もちろん、さすがに誰も賭けの対象にされている草間に、それについて教えようとする者はいない。
 そんな中、ひそかに麗香と蓮それぞれに協力を申し出る者まで出始めた。
 シュライン・エマもまた、そんな一人だった。といっても彼女の場合、けして面白半分なわけでもなければ、蓮が示した賭けに勝った時の報酬に目がくらんだわけでもない。むしろ、草間の健康面や事務所の金銭面、衛生管理の面に絡む、切実な問題からだ。
 さすがに、完全にタバコをやめさせてしまうのは、無理だろうと彼女も考えてはいる。しかし、たとえあと一週間だけでも禁煙が続けば、少なくとも金銭的にはずいぶん違うだろう。それに、事務所の空気は格段に清々しい。草間が禁煙を始めて以来、シュラインはなによりこれを、一番実感していた。それに、吸殻が山積みの灰皿がないだけでも、掃除するのがぐっと楽になった気がする。
 ともあれ、そんなわけで蓮に協力することになった彼女は、本来は日曜で休みのはずのこの日、草間興信所に姿を見せていた。といってももちろん、仕事をしに来たわけではない。また、草間に会いに来たわけでもなかった。それに、そこにいるのは彼女一人だけではない。蓮と零、それに今回シュライン同様、蓮に協力することになった加藤忍と、三雲冴波の二人も一緒だ。
 加藤忍は、シュラインより一つ年下の、中肉中背の青年だった。大きな声では言えないが、泥棒を生業としている。一方、三雲冴波は、建築系の会社で事務員として働いている、まっとうなOLだ。シュラインより一つ年上で、茶色のセミロングに豊満な体つきの女だ。
 現在、事務所にいるのは彼女たち五人だけで、主の草間武彦の姿はない。実は、シュラインと似たような理由で、蓮に協力することになった零から、草間が出かけた旨の電話をもらい、急ぎここに集まって来たのだ。
「今のうちに、事務所中のタバコとマッチ、灰皿を撤去してしまいましょ。あ、ライターのオイルを抜くのも、忘れずにね」
 蓮たちを見回して、シュラインが言う。
「シュラインさん……さすがに、徹底していますね。けど、タバコの置き場所は、私や蓮さん、三雲さんではわかりませんし、そちらは、シュラインさんと零さんにお願いします。私たちは、灰皿とマッチ、ライターの処分の方に回りましょう」
 忍が苦笑して、ゆったりとした口調で返した。
「そうね。……じゃあ、二手に分かれましょうか」
 冴波もうなずいて言う。
 シュラインも承知して、手にスーパーのビニール袋を提げると、零と二人で事務所中のタバコをその中に回収して行った。
 ちなみに、タバコは事務所の棚の中に買い置きしたものが二カートンほどと、草間のデスクの引き出し、上着やコートのポケットの中など、草間の手の届く所にはかならずといっていいほど、置かれている。
 それらを一通り回収すると、彼女は念のため、もう一周して事務所の中にタバコがないことを確認した。
 それが終わるころには、忍と冴波、それに蓮の三人も、マッチと灰皿の回収を終えていた。もちろん、ライターはオイルを全て抜いてある。
「私、消臭スプレーを持って来たんだけど、タバコの匂いがしみついていそうな所に、撒いてもいいかしら」
 灰皿がいくつも入った袋を床に下ろして、冴波がシュラインに尋ねた。
「タバコの匂いも、消してしまう方が、いいんじゃないかと思うのよ」
「そうね。匂いがしたら、タバコがなくても吸いたくなるかもしれないし」
 シュラインがうなずくと、冴波は自分の荷物の中から、消臭スプレーを取り出し、カーテンやソファ、椅子、草間のデスクの周辺と、普段からすっかりタバコの匂いがしみついているあたりに吹いて回る。それは、ここ何年か流行の緑茶の匂いのものらしく、事務所内がほのかに、清々しい香りに包まれた。
 その空気を吸い込み、シュラインは小さく嘆息する。彼女がここに来るようになって、もうずいぶんになるが、こんなふうに爽やかな空気に包まれていたことは、記憶にない気がする。
 冴波が事務所内の消臭を終えると、蓮が黙って室内を見回した。
「事務所でできることは、これくらいだね?」
「と、思うわね。……事務所内でのケアは、私がするとして、問題は外へ出た時ね。タバコを買ったり、人にもらって吸ってしまう可能性も、考えに入れておかないと」
 うなずいて、シュラインは考え込みつつ言う。ちなみに、本日の草間の外出は、零によるとあやかし商店街で行われる、月に一度の防災関連の講習会への出席のためだそうだ。昨日、シュラインが帰宅した後に頼まれたもので、いわゆる「サクラ」のようなものらしい。会場は禁煙だし、現在の新興組合会長はパン屋の主だったので、草間にタバコを吸わせないよう零から根回し済みだ。
 しかし、これから一週間、草間の行動範囲にいる人間全てに、こんなふうに根回しして回るわけにはいかない。
 結局彼女たちは、ローテーションで草間の監視をすることになった。
 会社勤めをしている冴波は、そう頻繁に草間にくっついているわけにもいかないので、とりあえず今日と金曜の仕事を終えた後、そして最終日である土曜を担当することになった。後は基本的にシュラインが事務所の中、忍と蓮は交替で外出中を、そして零が夜間の草間を監視するという段取りになったのである。

【2】
 草間が事務所へ戻ったのは、その日の午後を少し回ったころだった。事前にパン屋の主から事務所に電話があったので、蓮と忍は回収したタバコやマッチ、灰皿の入った袋を抱えて事務所を後にする。
 残されたシュラインと零、冴波は、何食わぬ顔で戻った草間を迎えた。
「あれ? シュライン、今日はどうしたんだ?」
 彼女の姿に、草間は怪訝な顔をする。
「あ……うん。知り合いに、春キャベツをたくさんもらったから、おすそわけに来たのよ」
 念のため、用意して来た来訪の理由を、シュラインは口にした。草間は、それを怪しむ様子もなく、うなずく。
「へぇ。……冴波は、どうしたんだ?」
「何か、面白そうなバイトがないかと思って、覗きに来たのよ」
 同じく冴波も、適当な理由を口にした。
「バイトね。この時期って、建築関係は忙しいんじゃないの?」
 それへふいにかけられた声は、碇麗香のものだ。驚いてふり返り、シュラインたちは事務所の入り口に、声の主が立っているのを見つけた。
「麗香さん……!」
「来る途中で会ったんだ。……何か、俺に話があるっていうからさ」
 驚く彼女たちに言って、草間は麗香に入るよう促す。
 ゆっくりと室内に歩み入って来る麗香が、意味ありげな目で彼女たちを見回した。シュラインも、今日ばかりはその麗香をきつい目で見返す。賭けの勝負もだが、せっかくの草間の禁煙を止めさせようとすることそのものが、気に食わない。
 彼女のその目に気づいたのか、麗香は立ち止まった。きつい目で彼女を見詰め返した後、口元に一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべる。そのまま麗香は、椅子に腰を下ろした。バッグの中からシガレットケースを取り出すと、優雅に足を組んで、タバコをくわえる。そのままバッグの中を探って、軽く眉をしかめた。
「いやだわ。ライターを忘れて来たみたい。……借りるわね」
 顔を上げ、彼女はテーブルの上の台座つきのライターを引き寄せる。
(麗香さん……わざとやっているのね?)
 あまりに見え透いたやり方だと、シュラインは思わず内心に眉をひそめる。
 もっとも、ライターはさっき蓮たちがオイルを抜いたので、点くはずがなかった。それを見かねて、マッチを貸してやろうとした草間は初めて、テーブルにも自分のデスクの上にも、マッチどころか灰皿も見当たらないことに気づく。
「あれ? 零、マッチをどこにやったんだ? それに、灰皿もないぞ」
「零ちゃんから、禁煙してるって聞いたから、私がかたずけたわ」
 零が答える前に、シュラインは横から言った。そのまま足早にそちらに近づくと、彼女は麗香の口元から、タバコを奪い取る。
「申し訳ないけれど、麗香さんも武彦さんの前では、タバコを吸わないようにしてもらえるかしら。彼が禁煙なんて、めったにあることじゃないし、健康のためにも少しでも長く続けてほしいのよ」
「それは……気がつかなくてごめんなさい」
 麗香は怒りのこもった目で彼女を見上げ、口元だけで笑って言うと、その手からタバコを取り返した。が、さすがに今度はもう吸おうとはせず、シガレットケースに戻すと、それごとバッグの中にしまった。
 二人の間の奇妙な空気に、草間は再び怪訝な顔になる。軽く咳払いして、口を切った。
「それで麗香。俺に話ってなんだ?」
「ああ……。実は、ちょっと面白いものが手に入ったんで、モニターをやってもらえないかと思って来たんだけど……禁煙中じゃ、申し訳ないかしらね」
 言って、彼女がバッグから取り出してテーブルに置いたのは、四角いタバコの箱と思しいものだった。ただし、そこには銘柄などはいっさい書かれておらず、ただ真っ白だ。
 麗香が言うにはそれは、吸った人間の想像したものを実体化する力を持つ、不思議なタバコなのだそうだ。たとえば、それを吸いながら裸の美女を連想すれば、本当に裸の美女が煙の中から現れるという寸法だ。ただし、実体化されている時間は、そう長いものではない。せいぜい三十分から一時間程度だ。人によって実体の鮮明さや時間にはバラつきがあるという。そこで麗香は、何人かに実際にそのタバコを吸ってもらって、モニター実験をしてみようと思いついたのだという。
 草間は、興味ありげに彼女の話を聞いていたが、やがて言った。
「悪いけど、今回は協力できそうにないな」
 傍で黙って成り行きを見守っていたシュラインたちは、それを聞いて、思わず胸を撫で下ろす。
「そう? ……でも、いくら禁煙しているって言っても、一口ぐらい吸っても、誰も文句は言わないでしょうに。これ、タバコとしてもそう悪い味じゃないって話だし」
 麗香はしかし、なおも食い下がった。
「いや……。かえって一口でも吸うと、よけいに辛くなりそうだからな。遠慮しとくよ」
 草間は、小さく苦笑して返す。
 麗香は幾分、ムッとしたようだった。が、小さく肩をすくめると、あきらめたようにバッグにテーブルの上のタバコを戻した。
「しかたないわね。……じゃあ、そろそろ失礼するわ。他の人にも当たってみたいから」
 言って立ち上がると、彼女はヒールの音も高らかに、事務所を立ち去って行った。
 それを見送り、シュラインたちは再び安堵の息をつく。しかし。
(こんなことで、簡単に引き下がるような麗香さんじゃ、ないわよね)
 シュラインは、胸の中で呟き、改めて気を引き締めるかのように、口元を引き結んだ。

【3】
 それから日々は流れ、今日は賭けが始まってから六日目の、金曜日だった。
 草間の禁煙は、思いのほか順調に続いている。
 昼間、事務所内ではシュラインが彼の様子に気をつけていて、草間が口寂しそうにしていたり、指がイライラと動いていたりしたら、さりげなくガムや飴を差し出したり、コーヒーを入れてやったり、新聞をを出したりとケアに務めていた。
 また、戸外では忍や冴波、蓮がそれぞれ、気をつけている。彼が自販機でタバコを買おうとしたり、人からもらおうとしたら、さりげなく邪魔をしたり、言葉巧みにあきらめさせたりしているのだ。
 一方、麗香の方も、当人や三下、他の協力者らしき友人・知人らが、さりげなさを装って草間に近づき、喫煙を勧めたりしていた。わざとらしく彼の前で、タバコのことを話題にしてみたり、タバコの箱を撒き散らしたりした。食事しようと入った喫茶店で、灰皿の中身を足元にぶちまけられたこともある。
 しかし、シュラインたちのフォローのせいばかりでなく、今回は草間自身もずいぶんと禁煙に意欲的なようだった。
(まさか、このまま本当にタバコを止める――なんてことは、ないわよね)
 伝票を入力する手を止めて、シュラインはふと胸に呟いた。
 草間は、ほんの十分ほど前に出かけたところだ。事務所の外で張り込んでいた忍からは、尾行するとの連絡が、携帯からあった。
(どちらにしても、明日で一週間……賭けが始まる前から数えれば、もう二週間も禁煙していることになるんですものね。買っても負けても、喫煙再開したら、労ってあげなきゃね)
 シュラインは、そんなことを改めて思った。
 そこへ、来客があった。やって来たのは、草間の友人だという彼と同年代ぐらいの男だった。森と名乗った男は、ちょうど二週間前から韓国に旅行していて、今日はその土産を持って来たと言うのだが……その土産というのが、タバコだった。
「これ、今は製造が廃止されてるらしいんですがね。あっちで、たまたま見つけて……以前、草間がけっこう美味かったって言ってたの思い出して、あいつの土産にするには、ちょうどいいかなと思って、買って来たんですよ」
 森は言って、一カートン入りの包みをテーブルに乗せると、草間が留守なのを残念がりながら、帰って行った。
 森が立ち去った後、シュラインは零と二人でそれを見やって、溜息をつく。
「どうしましょう、これ……」
 零が、途方にくれたように呟いた。
「そうね……」
 シュラインが少し考え、言った。
「これは、私が帰りがけに蓮さんの店に寄って、預けて来るわ。だから、さっきの人には悪いけど、武彦さんにはしばらく、この土産のことは黙っていましょ」
「でも……せっかく、お兄さんのために買って来て下さったのに。それに、お土産のことを話さないなら、あの人が来たことも話せないですよね?」
 零はうしろめたさからか、思い詰めた顔で尋ねる。
「ずっと黙っているわけじゃないわ。とにかく、今日と明日の二日間、禁煙を続けてもらわないといけないんだもの。ね?」
 シュラインは、それをなだめて言った。
「はい……」
 零はどことなく悄然とうなずく。
 それを見やって、シュラインも溜息をついた。幾分やりすぎかとも思うが、こうなったら最後までがんばってもらうしかないのだ。
 やがて日が落ちても、草間は事務所に戻って来る気配はなかった。尾行を忍から交替したらしい冴波から一度電話があって、草間はあやかし町内の総合病院にいると連絡が入った。今調査している依頼の関係者の一人が、たしかそこに入院しているのだ。
(とりあえず、病院の中なら禁煙が原則だから、安心ね)
 小さく吐息を漏らして胸に呟き、シュラインは草間が戻らないうちに帰ることにした。韓国土産のタバコを自分のカバンに入れ、零にはもう一度念を押して、事務所を出る。そのまま彼女は、蓮の店を目指して、歩き出した。

【4】
 翌日。出勤してみて、シュラインは驚いた。
 事務所の中は、長年彼女が馴染んで来たタバコの匂いと煙に満たされていたからだ。
「武彦さん! 禁煙してたんじゃないの?」
 それを見るなり彼女は、思わず草間に詰め寄って叫んだ。
「禁煙はやめた。……バカバカしくなったんでな」
 言って彼は、じろりとシュラインを見やる。そこで初めて彼女は、草間がずいぶんと機嫌が悪いことに気づいた。
「武彦さん……。何か、怒ってる?」
 尋ねる彼女に草間は、憮然とした顔つきで言った。
「ああ、怒ってるよ。……麗香や蓮だけじゃなく、おまえや零までグルになってたなんてな」
「え?」
 一瞬シュラインは、どういうことかわからず、目を見張る。
「全部、知れてしまったんです。昨日のお土産のことだけじゃなくて……賭けのことも」
 零が横から困ったように囁いた。
「ゆうべ、森から電話があったんだよ」
 草間は、それを不機嫌な顔で見やって言う。昼間、草間に会えなかった森は、夜、わざわざ電話して来て、土産のことなどを話したのだ。それで、それをどこにやったか問われた零が、完全にごまかしきれず、蓮の所へシュラインが持って行ったことを話し……更にその理由を問われて、芋づる式に事情を全て話してしまったというわけだった。
「今朝一番に、麗香と蓮にも電話しといたからな。そろそろ、来るころだろうよ」
 草間が肩をすくめて言う。
 その言葉が終わらないうちに、事務所のドアが開いて、麗香と蓮、忍、冴波の四人がやって来た。忍と冴波は、蓮から連絡を受けて駆けつけたらしい。
「草間さん、私と約束したじゃないですか。好きな銘柄のタバコを一年分、私がお届けしますから、土曜日まで禁煙するって。まだ今日一日残ってますよ」
 入って来るなり言ったのは、忍だ。
「ああ。だが、それも麗香と蓮の賭けに協力してのことだろ? それに、おまえのことだ。どうせ、届けるだけで、代金は自分で払えとかなんとか言うつもりじゃないのか?」
 草間は仏頂面で、そう返す。
「まさか。……私が草間さんに、そんなひどい約束をするわけがないでしょう?」
 忍は笑って答えるが、草間は「泥棒の言うことなんか、信用できるか」と言いたげな顔つきだ。
「怒るのはわかるけど、たまには禁煙もよかったんじゃない?」
 それを見やって、冴波も言う。
 が、草間はそちらをじろりと睨んだ。
「タバコを吸わない奴には、この苦しさはわからないさ」
 言って彼は、小さく舌打ちした。
「ったく。……俺も、ついその気になって、このまま吸わなくても平気かもしれない、なんて思ってたなんてな。バカみたいじゃないか……」
 その呟きに、シュラインは草間の怒りの本当の理由をようやく察した。彼は、賭けの対象にされていたことよりも、自分がそうやって、らしくないことに没頭したあげく、周囲の思惑にまったく気づかなかったことの方に、腹を立てているのだ。
 考えてみれば、探偵が本業の彼が、忍や冴波、蓮に尾行されていても、まったく気づかなかったのだ。たしかに真実を知れば、自分の迂闊さに、穴があったら入りたい心境になってもおかしくはない。
「武彦さん……」
 シュラインが、口を開こうとした時だ。
「悪かったわ」
 麗香が、ポツリと呟くように謝った。
「私たち、そんなに深く考えてなかったのよ。売り言葉に買い言葉っていうか……あなたが禁煙なんて、思いがけない話を聞いたから、つい……」
「ああ。……ほんとに、悪気はなかったんだ。あたしも、悪かったよ」
 うなずいて、蓮も言う。
 この二人が、これほど素直に謝るのは珍しいことだ。草間は、それを見やって溜息をついた。
「いいよ、もう……。それに、他の連中はともかく、零とシュラインは、俺の体のことも、心配してくれたんだろ?」
 言われて、シュラインは思わず零と顔を見合わせた。
「私たちだって、そうですよ。ねぇ?」
 忍が言って、笑顔で冴波に同意を求める。
「ええ、まあ……」
 冴波が、曖昧にうなずいた。
 草間は、好きに言ってろというかのように、小さく肩をすくめる。そして、新しいタバコを取り出すと火をつけて、さも美味そうに煙を吸い込んだ。

【エンディング】
 こうして、賭けは一見、反故にされたかに見えた。
 蓮の元に預けられていたタバコやマッチ、灰皿などは全て戻され、ライターにも元どおり、オイルが入れられた。
 が、麗香と蓮の間では、こんな結果に終わったとはいえ、草間の禁煙が一週間持たなかったのは事実だとして、麗香の勝ちとなった。もちろんこれは、水面下のことで、知っているのは彼女たち二人と、蓮に協力したシュラインたち三人と零、あとは麗香に協力した者たちぐらいだ。
 もっとも、麗香が本当に蓮から、アンティークにまつわるとっておきの因縁話を聞かされたのかどうかは、誰も知らなかった。
(案外、とっておきすぎて、記事にできないような内容だったりして)
 そんなことを思いつつ、シュラインは今日も今日とて、紫煙に煙る草間興信所にて、伝票整理の真っ最中である。草間はさっきから、事件の資料らしいものを夢中で読みふけっているが、そのせいで口にくわえたタバコが、お留守になっていた。
 彼女は、それを見かねて立ち上がる。
「はい」
 差し出した灰皿に、ようやくくわえたタバコの灰が落ちかけているのに気づき、草間は慌てて手に取って灰皿の上に、灰を落とした。
 それを見やってシュラインは、思わず苦笑する。なんとなく彼が、この二週間に較べると、ずっと生き生きしているような気がしたのだ。それがタバコを吸えるせいなのだとしたら、彼にとってそれは、魚にとっての水のようなものなのかもしれない。
「なんだ?」
 怪訝そうに問いかけて来る草間に笑いかけて、シュラインは言った。
「武彦さんが、あんなに長く禁煙するなんて、実はすごいことだったんだなって思って。……お疲れ様」
「どうも」
 草間は、少しだけ答えに困った様子で返して、肩をすくめると、すぐにまた資料の方へ意識を戻す。それを見やってシュラインも、自分のデスクに戻った。
 再び伝票をより分けながら、彼女はふと溜息をつく。事務所の至る所にしみこんだタバコの匂いも、黄色くなった壁や天井も、洗うと水が真っ黒になるカーテンも、草間が草間らしく在るため必要不可欠なのならば、これまでどおり容認するしかないのだ。そもそも、ヘビースモーカーが嫌ならば、知り合った最初に袂を分かっている。そういうところも含めて、草間武彦という男を好きなのだから、しかたがない。
(でも……たまには今回みたいな禁煙期間を持つのも、悪くはないと思ってしまうわね。武彦さんの体と、事務所の経費と空気のためには)
 あきらめが悪いと思いつつも、そんなことを胸に呟き、小さく苦笑して彼女は、いつの間にか止まってしまっていた手を、再び動かし始めた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【5745 /加藤忍(かとう・しのぶ) /男性 /25歳 /泥棒】
【4424 /三雲冴波(みくも・さえは) /女性 /27歳 /事務員】

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■         ライター通信          ■
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●シュライン・エマ様
いつも参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
今回は、蓮に協力する方ばかりになりましたので、
すんなり禁煙が成功しては面白くないかな? とも思い、
こんな形にしてみましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。