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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


悪魔の囁き

【オープニング】
 ――草間武彦が、禁煙している。
 仕事で立ち寄った、アンティークショップレンで、主の碧摩蓮からそんな言葉を聞かされ、碇麗香は耳を疑った。
「まさか……。彼が禁煙なんて、天地がひっくり返ったって、あるわけないわ」
「それが、あったんだよ」
 言って蓮は、事の顛末を教えてくれた。
 一週間前、彼女とその友人、それに草間の四人でマージャンをする機会があった。そのおりに、誰が言い出したか、最下位の者は自分の好きな嗜好品をしばらく絶つこと、というルールができた。で、草間が最下位だったというわけだ。
「なるほどね。……でも、あのヘビースモーカーが、そんなに長く禁煙なんて、できるわけないでしょう?」
 麗香はうなずき、それでもあり得ないとかぶりをふって言う。
「そうだね。……なんなら、賭けるかい?」
 蓮は、薄く笑って言い出した。
「それも、そうだね。ただ賭けたんじゃ面白くないから、こうしようじゃないか。あたしは草間に禁煙が続くよう働きかける。一方、あんたは禁煙を止めるよう働きかける。それで、もう一週間、禁煙が続けばあたしの勝ちだ。それまでに禁煙を止めさせれば、あんたの勝ち。どうだい?」
「いいわよ。受けて立とうじゃない」
 草間の禁煙が、そんなに続くはずなどないと信じている麗香は、鼻で笑って返した。
「で? 私が勝ったら何をもらえるのよ?」
「そうだね。……あたしが知ってる、とっときのアンティークにまつわる因縁話を教えてやろう。きっと、雑誌の売上が伸びるよ」
 蓮は少し考え、言う。
「そう。じゃあ、私はあなたが勝ったら、白王博物館への、特別招待券を進呈するわ。うちの社長の私設博物館だけど、珍しいものがそろっていて、年に一度、業績向上に貢献した社員だけが招待されるの。私は今年も招待券をもらったから、勝ったらあなたが、かわりにそこの展示物を堪能しに行くといいわ」
 麗香も、胸を張って返す。
 こうして、麗香と蓮の勝負は、幕を切って落とされたのだった。

【1】
 麗香と蓮が、草間の禁煙を巡って賭けを始めたことは、三人の友人・知人・関係者の間に、またたく間に広がって行った。中には眉をひそめる者もいたが、面白がって静観を決め込む者たちが、大半だった。もちろん、さすがに誰も賭けの対象にされている草間に、それについて教えようとする者はいない。
 そんな中、ひそかに麗香と蓮それぞれに協力を申し出る者まで出始めた。
 加藤忍もまた、そんな一人だった。彼の場合、蓮の店へ遊びに行って、偶然賭けのことを知ったのだが、純粋に面白そうだったので協力を申し出たと言っていいだろう。もちろん、蓮が口にした報酬――彼女の店の品から好きなものを一つ、というのも、魅力ではある。
 その彼が最初に考えたのは、まず草間の所持しているタバコを、こっそり全て隠してしまう必要があるということだった。
 そんなわけで、彼は今、草間興信所に来ている。
 といっても、そこにいるのは、彼一人ではなかった。蓮と零、それに同じく蓮に協力することになった三雲冴波と、シュライン・エマの二人も一緒だ。
 三雲冴波は、忍より二つ年上の、茶色のセミロングに豊満な体つきの女性だった。建築系の会社で事務員として働いているという。一方、シュライン・エマは、本業は翻訳家だが、この事務所の事務員もしている。忍より一つ年上で、長い黒髪と青い目の長身の女性だ。
 現在、事務所にいるのは彼ら五人だけで、主の草間武彦の姿はない。実は、彼らと同じく蓮に協力することになった零から、草間が出かけた旨の電話をもらい、急ぎここに集まって来たのだ。
「今のうちに、事務所中のタバコとマッチ、灰皿を撤去してしまいましょ。あ、ライターのオイルを抜くのも、忘れずにね」
 彼らを見回して言ったのは、シュラインだ。
「シュラインさん……さすがに、徹底していますね。けど、タバコの置き場所は、私や蓮さん、三雲さんではわかりませんし、そちらは、シュラインさんと零さんにお願いします。私たちは、灰皿とマッチ、ライターの処分の方に回りましょう」
 忍は苦笑して、いつもどおりの、ゆったりとした口調で返した。
「そうね。……じゃあ、二手に分かれましょうか」
 冴波もうなずいて言う。
 シュラインも承知したので、忍は冴波と蓮の二人と共に、マッチと灰皿の回収及び、ライターのオイル抜き作業をして回った。
 ちなみに、ライターは来客用らしき台座つきのものがテーブルの上に一つと、草間個人のものらしい、ひどくシンプルなものがデスクの引き出しに一つあっただけだった。が、マッチと灰皿は、それこそ至る所に置かれている。
 マッチと灰皿を一通り回収すると、彼ら三人は念のため、もう一周して事務所の中にマッチも灰皿もないことを確認した。
 それが終わるころには、シュラインと零も、タバコの回収を終えていた。
「私、消臭スプレーを持って来たんだけど、タバコの匂いがしみついていそうな所に、撒いてもいいかしら」
 灰皿がいくつも入った袋を床に下ろして、冴波がシュラインに尋ねた。
「タバコの匂いも、消してしまう方が、いいんじゃないかと思うのよ」
「そうね。匂いがしたら、タバコがなくても吸いたくなるかもしれないし」
 シュラインがうなずくと、冴波は自分の荷物の中から、消臭スプレーを取り出し、カーテンやソファ、椅子、草間のデスクの周辺と、普段からすっかりタバコの匂いがしみついているあたりに吹いて回る。それは緑茶の匂いのものらしく、事務所内がほのかに、清々しい香りに包まれた。
 それを嗅いで、忍は思わず小さく苦笑する。香り一つで、なんと室内の雰囲気が変わることか。外観は見慣れた興信所だというのに、どこか別のオフィスにでも迷い込んでしまったように感じる。
 冴波が事務所内の消臭を終えると、蓮が黙って室内を見回した。
「事務所でできることは、これくらいだね?」
「と、思うわね。……事務所内でのケアは、私がするとして、問題は外へ出た時ね。タバコを買ったり、人にもらって吸ってしまう可能性も、考えに入れておかないと」
 うなずいて、シュラインが考え込むようにして言う。
 ちなみに、本日の草間の外出は、零によるとあやかし商店街で行われる、月に一度の防災関連の講習会への出席のためだそうだ。昨日の夜に頼まれたもので、いわゆる「サクラ」のようなものらしい。会場は禁煙だし、現在の新興組合会長は、その娘の悩みを零やシュラインが聞いてやったことがあるというパン屋の主だった。なので、草間にタバコを吸わせないよう零から根回し済みだ。
 しかし、これから一週間、草間の行動範囲にいる人間全てに、こんなふうに根回しして回るわけにはいかない。
 結局彼らは、ローテーションで草間の監視をすることになった。
 会社勤めをしている冴波は、そう頻繁に草間にくっついているわけにもいかないので、とりあえず今日――日曜と金曜の仕事を終えた後、そして最終日である土曜を担当することになった。後は基本的にシュラインが事務所の中、忍と蓮は交替で外出中を、そして零が夜間の草間を監視するという段取りになったのである。

【2】
 忍が最初に草間の監視についたのは、翌日の月曜日のことだった。
 建物には入らず、興信所が入っているビルの入り口付近で待機する。草間が外出するようならば、中にいるシュラインか零から携帯電話に連絡が入るという寸法だ。
 泥棒を生業とする彼にとっては、こうしたいわゆる「張り込み」はそれほど苦痛なことではない。実際、盗みに入るために何日も一軒の家や、一人の人物を見張り続けることは、よくあることなのだ。
 彼の携帯が鳴ったのは、午後を少し回ったころだった。
『武彦さんが、出かけたわ。後、よろしくね』
「了解」
 シュラインの声に短く答えて、すぐに携帯を切ると、建物の影に身を潜ませて、草間が現われるのを待つ。ほどなく、見慣れた姿がビルの出入り口に現われた。そのまま歩き出すのを、少し離れて追い始める。
 このままずっと彼の後をこの距離を保ってつけ、監視し、もしタバコを手にしそうになったら、すみやかに阻止する――というのが、興信所で蓮たちと決めたことだ。
 しかし。
 忍は、充分に興信所から離れたあたりで足を早め、草間に追いつくと、声をかけた。
「草間さん、こんにちわ」
「忍か。なんだ?」
 ふり返った草間は、なんとなく苛立った様子で返して来る。
「なんだか、忙しそうですね。……実は、ちょっと草間さんに話したいことがあるんですけど」
 忍はしかし、いつもののんびりした口調のテンポを崩さず、そんなふうに切り出してみた。
「話? 俺は忙しいんだ。今度にしてくれ」
 草間はそれへ、にべもなく言い捨てて、再び歩き出そうとする。
「まあ、待って下さいよ。そんなに時間は取らせませんから。ね?」
 忍は笑顔で言うと、そのまま彼を強引にすぐ傍にあった喫茶店へと引きずり込んだ。そして、仏頂面の彼に向かって、話を切り出す。
「草間さんが最近、禁煙を始めたっていう話を、昨日零さんから聞きましてね。……零さん、言ってましたよ。せめてあと一週間でもいいから、禁煙が続いてくれればいいなあって。それで、物は相談なんですけれど、私と取引しませんか? 草間さんが次の土曜日まで、禁煙を続けられたら、私がお好きな銘柄のタバコを、一年分お届けします。どうでしょう?」
 草間は、なんとなく苦い顔で話を聞いていたが、次第に真剣な顔になり、最後は考え込んだ。
「本当に、どの銘柄でもいいんだな?」
 ややあって、彼は念を押す。
「ええ、かまいませんよ」
 忍は、涼しい顔でうなずいた。
「俺の一年分って言ったら、他の人間の一年分の倍……いや、たぶんそれ以上あるぞ?」
「ええ、わかっています」
 再度問われて、忍はまたうなずく。
 草間がしつこく問い返すのも、わからなくはない。一箱は高くてもせいぜい、三百円台だが、一年分といえば、かなりの量だ。一日に三箱消費するとして、一月でだいたい九十箱。一年では千九十五箱――単価が一番安いものでも、単純計算で三十万近くになる。自分の買い物と考えても、ちょっとしたものだ。それを他人に、たった一週間の禁煙と引替えに届けてやると言うのだから、誰でも驚くだろう。
 もっとも忍は、さっきから一度も「その代金を自分が払う」とは言っていないのだが。彼が口にしたのは、「届ける」ということのみ。代金を払うつもりなど、毛頭ない。
 だが、うなずく忍に、草間はもう一度考え込んだ。ややあって、口を開く。
「わかった。……今度の土曜日まで、がんばって禁煙してみよう。そのかわり……」
「ええ。私も、約束は守りますよ」
 忍は、笑顔でうなずいて、言った。
 それを見やって、草間は立ち上がると、喫茶店を出て行く。もちろん、尾行自体をやめる気のない忍は、少し間を置いて同じように店を出ると、今度は草間に気づかれないよう気をつけながら、一定の距離を保って、後をつけ始めたのだった。

【3】
 それから日々は流れ、今日は賭けが始まってから六日目の、金曜日だった。
 草間の禁煙は、思いのほか順調に続いている。
 昼間、事務所内ではシュラインが彼の様子に気をつけていて、草間が口寂しそうにしていたり、指がイライラと動いていたりしたら、さりげなくガムや飴を差し出したり、コーヒーを入れてやったり、新聞を出したりとケアに務めていた。
 また、戸外では忍や冴波、蓮がそれぞれ、気をつけている。彼が自販機でタバコを買おうとしたり、人からもらおうとしたら、さりげなく邪魔をしたり、言葉巧みにあきらめさせたりしているのだ。
 一方、麗香の方も、当人や三下、他の協力者らしき友人・知人らが、さりげなさを装って草間に近づき、喫煙を勧めたりしていた。わざとらしく彼の前で、タバコのことを話題にしてみたり、タバコの箱を撒き散らしたりした。食事しようと入った喫茶店で、灰皿の中身を足元にぶちまけられたこともある。
 忍は、そうした麗香側の人間たちに対しても、ひそかに交渉を行った。
 麗香が、賭けに勝ったら協力者たちには、高級レストランの食事券を渡すことにしているとの情報を手に入れ、麗香への協力をやめるなら、勝敗のついた後に自分が高級レストランへ案内しようと切り出したのである。もちろんこれも、草間に言ったのと同じだ。忍自身が金を払うとは、一言も言っていない。彼は「案内する」だけだ。後は、そこで食べた者が食べた分だけ自分で払う。
 が、そんな彼の言葉にはまり、麗香への協力を途中でやめた者も、何人かいた。
 しかし、なにより一番効いたのは、草間自身への働きかけだったようだ。彼は今回、かなり禁煙に意欲的だった。
(よほどタバコ一年分が欲しいんですかね。……真相を知ったら、怒るかもしれませんが、でも案外これで、本当にタバコをやめることができるかもしれませんしね)
 その日も、外に出た草間を尾行しながら、忍は内心に呟く。
 零やシュラインほど、草間の健康を気にしているわけではない彼だが、探偵にとってタバコは時に邪魔になる存在ではないのか、という気はした。
 というのも、彼が育ての親である老盗賊からその技術を教え込まれる際に、口をすっぱくして言われたのが、「現場に自分の存在証明になるものを残すな」ということだったからだ。殊にタバコには、気をつけるよう厳しく言われた。
 現在の科学では、タバコの吸殻一つ取っても、そこから血液型やDNAなどの犯人探しに有益な情報が、いくらでも得られる。
 たしかに草間は探偵で、警察に追われる職業ではないが、それでも張り込みなどの調査の際には、よけいな痕跡を残さないに越したことはないはずだ。タバコの吸殻、マッチ、タバコ特有の匂いなど、残っていれば困る場合も多いのではないか。
(それに、最近は、禁煙の場所って多いですからね。駅のホームに電車の中、病院、飛行機、ホテル……。吸わない方が、どう考えても楽ですよね)
 忍は、そんなことを考えて、胸の中で薄く笑った。
 ともあれ草間は、その日もタバコを吸わずに済んだようだ。茜色に染まり始めた空を背にして歩きながら、ポケットから取り出したガムを噛み始める。このあたりは、シュラインの努力が身を結んでいるようでもあった。
 忍は後を追いながら、ちらりと腕の時計を見やる。そろそろ、冴波と交替を約束した時間だ。と、ポケットの携帯電話が小さく震えた。冴波からだ。目の前には、あやかし町内にある総合病院の白いシルエットが浮び上がっていた。草間は、そこへ行くつもりらしい。
 冴波とは、病院の前で落ち合うことにして、忍は携帯を切った。
 草間は、思ったとおり、病院の中へと入って行く。一定の距離を保ったまま、忍も自動ドアをくぐった。さりげなく草間の姿を探すと、彼は受付で何か尋ねている。その唇を読むと、入院患者の所在を尋ねているようだ。最近の病院は、個人情報保護法の誤用で、見舞い客に患者の部屋番号はおろか、入院の有無さえ教えてくれないという。が、草間はコネでもあるのか、それともこれが探偵たる所以なのか、あっさり目的の人物の所在を聞き出し、礼を言って受付を離れる。
 それを見やって、忍は一旦、病院の外に出た。
 さほど待つこともなく、冴波が姿を現す。
「草間さんは、病院の中です。三〇五号室の、今井亮二さんって人を訪ねて来たみたいですよ」
 忍が言うと、彼女はうなずいた。
「わかったわ。……シュラインさんと零さんに連絡は?」
「まだです」
 問われて忍は、肩をすくめた。
「すみませんが、三雲さんからしておいてくれますか。交替したっていう、知らせにもなりますし」
「そうね」
 うなずく彼女に別れの挨拶をすると、忍はそのまま背を向けた。あたりはすっかり暗くなっている。星がまたたく空を見上げて彼は、明日一日、草間の禁煙が持てばいいなと、考えていた。

【4】
 翌朝。
 忍は、彼にしてはかなり早い時間に、蓮からの電話で叩き起こされた。いったい何事だと、ぼやきつつ電話に出た彼だったが、話を聞いて、眠気が吹っ飛ぶ。
 草間から蓮の元に今朝、禁煙中止宣言の電話があったというのだ。
『昨日の夕方、事務所からの帰りがけにシュラインがうちに寄って、韓国土産だっていうタバコを一カートン、預けて行ったんだけど……どうもそのタバコのことが発端で、草間に賭けのことも何もかも、バレちまったらしいんだよ』
 蓮は電話の向こうでそう言って、更に詳しい話を彼に聞かせた。
 それによると、昨日の午後、草間の留守中に興信所に彼の友人・森なる人物が訪ねて来たのだという。そして、韓国土産と称して、以前草間が美味いと言っていた珍しいタバコを一カートン、置いて帰った。が、今そんなものを見せるわけにいかないと考えたシュラインは、興信所からの帰りに蓮の店に寄り、それを預けて行った。
 ところが。昨夜、草間の元にその森なる男が電話して来て、自分が持って来たタバコのことを話したのだ。草間に問い詰められた零は、森が持って来たタバコの所在をしかたなく話し、更にそんなことをした理由を問い詰められ……結局、芋づる式に全てを話してしまったというわけだ。
『草間の奴、いつになく怒ってて……。あたしは、冴波に電話したら、草間んとこに行ってみるつもりだよ』
 話し終わって言う蓮に、忍もうなずいた。
「わかりました。私も、今から興信所へ行きます」
 そうして電話を切ると、慌てて身支度を整え、自宅を後にした。
 興信所の入っているビルの入り口で、彼は蓮と冴波、それに麗香と一緒になった。この一週間は敵同士だったとはいえ、今は麗香もすっかりうろたえているようで、それどころではなさそうだ。
 ともあれ、彼らは興信所へと向かう。
 行ってみると、事務所の中は険悪な空気が漂っていた。嗅ぎなれたタバコの匂いと煙も充満している。
 草間は、不機嫌な顔で自分のデスクに腰を下ろしており、傍には困ったような顔で、出勤して来たばかりらしいシュラインと、零が立ち尽くしていた。
「草間さん、私と約束したじゃないですか。好きな銘柄のタバコを一年分、私がお届けしますから、土曜日まで禁煙するって。まだ今日一日残ってますよ」
 事務所に入るなり、忍は言った。
「ああ。だが、それも麗香と蓮の賭けに協力してのことだろ? それに、おまえのことだ。どうせ、届けるだけで、代金は自分で払えとかなんとか言うつもりじゃないのか?」
 草間は仏頂面で、そう返す。どうやら、作戦を見透かされていたようだ。それとも、禁煙を止めて、頭が回り始めたので気づいたのだろうか。
「まさか。……私が草間さんに、そんなひどい約束をするわけがないでしょう?」
 忍はそれでも笑って答えるが、草間は「泥棒の言うことなんか、信用できるか」と言いたげな顔つきだ。
「怒るのはわかるけど、たまには禁煙もよかったんじゃない?」
 それを見やって、冴波も言う。
 が、草間はそちらをじろりと睨んだ。
「タバコを吸わない奴には、この苦しさはわからないさ」
 言って彼は、小さく舌打ちした。
「ったく。……俺も、ついその気になって、このまま吸わなくても平気かもしれない、なんて思ってたなんてな。バカみたいじゃないか……」
 その呟きに、忍は草間の怒りの本当の理由を察した。彼は、賭けの対象にされていたことよりも、自分がそうやって、らしくないことに没頭したあげく、周囲の思惑にまったく気づかなかったことの方に、腹を立てているのだ。
 考えてみれば、探偵が本業の彼が、忍や冴波、蓮に尾行されていても、まったく気づかなかったのだ。たしかに真実を知れば、自分の迂闊さに、穴があったら入りたい心境になってもおかしくはない。
「武彦さん……」
 ずっと黙っていたシュラインが、何か言いかけた時だ。
「悪かったわ」
 麗香が、ポツリと呟くように謝った。
「私たち、そんなに深く考えてなかったのよ。売り言葉に買い言葉っていうか……あなたが禁煙なんて、思いがけない話を聞いたから、つい……」
「ああ。……ほんとに、悪気はなかったんだ。あたしも、悪かったよ」
 うなずいて、蓮も言う。
 この二人が、これほど素直に謝るのは珍しいことだ。草間は、それを見やって溜息をついた。
「いいよ、もう……。それに、他の連中はともかく、零とシュラインは、俺の体のことも、心配してくれたんだろ?」
 言われて、シュラインと零が思わずというように、顔を見合わせる。
「私たちだって、そうですよ。ねぇ?」
 それを見やって忍は、しらじらしく言って、笑顔で冴波に同意を求めた。
「ええ、まあ……」
 冴波が、曖昧にうなずく。
 草間は、好きに言ってろというかのように、小さく肩をすくめる。そして、新しいタバコを取り出すと火をつけて、さも美味そうに煙を吸い込んだ。

【エンディング】
 こうして、賭けは一見、反故にされたかに見えた。
 蓮の元に預けられていたタバコやマッチ、灰皿などは全て興信所に戻され、ライターにも元どおり、オイルが入れられた。
 が、麗香と蓮の間では、こんな結果に終わったとはいえ、草間の禁煙が一週間持たなかったのは事実だとして、麗香の勝ちとなった。もちろんこれは、水面下のことで、知っているのは彼女たち二人と、蓮に協力した忍たち三人と零、あとは麗香に協力した者たちぐらいだ。
 もっとも、麗香が本当に蓮から、アンティークにまつわるとっておきの因縁話を聞かされたのかどうかは、誰も知らなかった。
(でも、蓮さんは約束を破るような人ではないですから……きっと、そのとっておきの話をしたに違いありませんよね)
 忍は、その因縁話にも興味を惹かれて、胸に呟く。
 ちなみに、昨日発売されたばかりの、『月刊アトラス』最新号には、それらしい記事は見当たらなかった。なので忍は、蓮の店に足を運んだついでに、尋ねる。
「麗香さんに話した、とっておきの因縁話って、どんなのですか? 誰にも言いませんから、私にだけ、教えて下さいよ」
「……まあ、あんたならいいか。あんたは、口が堅いからね」
 少し考えて蓮はうなずくと、煙管にまつわる、こんな因縁話を聞かせてくれた。
 大正のころ、吉原の花魁だった女が、見受けされてさる大店の主の妻におさまった。ところが、いつのころからか、女は夫が浮気をしているのではないかと疑うようになった。というのも、夜な夜な、夫しかいないはずの部屋から、話し声が聞こえて来るからだ。最初は、夫の独り言かとも思ったが、そうではない。何を言っているかはわからないものの、誰か相手がいて、夫の言葉に答えているらしい。
 それである日、女がそっと部屋を覗いてみると、夫は気に入りの誂え物の煙草盆を傍に置き、そろいの煙管でタバコを吸っている。その傍らには、花魁と思しい頭の、上物の打ち掛けに身を包んだ女が侍っているではないか。
 怒りに逆上した女は、部屋に飛び込むなり、煙草盆を夫に投げつけた。そうして、夫の傍に侍る花魁の顔を見て驚く。花魁は、女自身だったのだ。正確には、花魁時代の女の姿というべきか。
 しかもその姿は、驚いて立ち尽くす女の目の前で、小さく揺らいで消えて行った。
 一方、女の夫は、投げつけられた煙草盆が当たって、大怪我をした。女は懸命に看病するが、ほどなく夫は死んでしまう。その最後に残した言葉から、あの時の幻が、煙管によって紡がれたものだと女は知った。
 そこで、夜毎女は、その煙管でタバコを吸い、夫が現れてくれることを願った。
 夫が死んで七日目の夜、ようやく願いがかなって女は、タバコの煙の中から現れた夫の姿を見る。そして、それへ必死に自分のしたこと、夫に疑いを持ったことを詫びた彼女は、朝方、冷たくなって発見されたという。
「それが、この煙管さ」
 蓮は話し終えると、棚の隅から、美しい螺鈿の蒔絵のついた一本の煙管を取り出して、忍に見せてくれた。
「なんとも、悲しい話ですね。……でも、どうしてその女性の夫は、本物ではなく幻を相手にしていたんでしょう? 同じ女性なわけでしょう?」
 忍は、煙管をしげしげと見やってから、訊いた。
「あたしが聞いた話じゃ、その女はたいそう商いにも向いた性格で、誰もが『元花魁とは思えない。まさに大店の女将になるために生まれたような女だ』と感心したそうだよ。でも、夫にしたら、さびしかったんじゃないかね。花魁だったころは、上客だったんだろうから、そりゃ優しい言葉も掛けて、細やかな心遣いも見せただろうが……夫となるとね」
 蓮は言って、推して知るべしと言いたげに、肩をすくめる。
「なるほど。だから、男は幻にかつての妻の優しさを求めたと」
 わかるような、わからないような話だと、忍は思いながらうなずいた。そうして、話を聞けたことに満足して、蓮の店を後にする。
 が、歩き出しながら、ふとどこかで聞いたような話だったなと、思い始めた。
(どこで聞いたんでしたっけ……?)
 胸に呟き、ようやく彼は思い出す。
 彼らが最初にタバコやマッチを隠すために、興信所に集まった日のことだ。件(くだん)のパン屋からの連絡で、草間の帰宅を知って、彼は蓮と共に回収したタバコやマッチ、灰皿の入った袋を手に、事務所を後にした。
 が、後にシュラインや冴波から聞いた話では、草間の帰宅後、麗香がやって来て、しきりと口実を作って草間にタバコを吸うよう仕向けようとしたらしい。そのおり、彼女がした話が、今の蓮の話に、とてもよく似ていたのだ。
(たしか、吸いながら想像したものが実体化するタバコ……とか言ってましたよね。それのモニターを、草間さんに頼みたいと)
 忍は、シュラインと冴波の話を思い出して、胸に呟く。
 草間自身が断ったために、結局、麗香はその怪しげなタバコをしまって、帰って行ったそうだ。もちろん、タバコの話はでっち上げに違いない。
(……なるほど。自分がでっち上げた話とそっくりなものを、記事として取り上げるなんて、プライドが許さないというところですか)
 忍はようやく、せっかく聞いた話を、麗香が記事にしなかった理由を察した。
(でも、知っているのは、その時、興信所にいたシュラインさん、三雲さん、零さんの三人と草間さん本人、それに、私ぐらいのものですから、別に記事にしても問題ないように思いますけれど)
 結局、蓮だけではなく麗香もまた、負けず嫌いなのだ。そんな二人の争いに巻き込まれた草間こそ、いい迷惑だったのかもしれない。
(私は、けっこう楽しませていただきましたけれどね)
 ふと口元に笑みを掃いて忍は、そのまま雑踏の中へと紛れて行った。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【5745 /加藤忍(かとう・しのぶ) /男性 /25歳 /泥棒】
【4424 /三雲冴波(みくも・さえは) /女性 /27歳 /事務員】
【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

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■         ライター通信          ■
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●加藤忍さま
はじめまして。依頼に参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
今回は、蓮に協力する方ばかりになりましたので、
すんなり禁煙が成功しては面白くないかな? とも思い、
こんな形にしてみましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。