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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


悪魔の囁き

【オープニング】
 ――草間武彦が、禁煙している。
 仕事で立ち寄った、アンティークショップレンで、主の碧摩蓮からそんな言葉を聞かされ、碇麗香は耳を疑った。
「まさか……。彼が禁煙なんて、天地がひっくり返ったって、あるわけないわ」
「それが、あったんだよ」
 言って蓮は、事の顛末を教えてくれた。
 一週間前、彼女とその友人、それに草間の四人でマージャンをする機会があった。そのおりに、誰が言い出したか、最下位の者は自分の好きな嗜好品をしばらく絶つこと、というルールができた。で、草間が最下位だったというわけだ。
「なるほどね。……でも、あのヘビースモーカーが、そんなに長く禁煙なんて、できるわけないでしょう?」
 麗香はうなずき、それでもあり得ないとかぶりをふって言う。
「そうだね。……なんなら、賭けるかい?」
 蓮は、薄く笑って言い出した。
「それも、そうだね。ただ賭けたんじゃ面白くないから、こうしようじゃないか。あたしは草間に禁煙が続くよう働きかける。一方、あんたは禁煙を止めるよう働きかける。それで、もう一週間、禁煙が続けばあたしの勝ちだ。それまでに禁煙を止めさせれば、あんたの勝ち。どうだい?」
「いいわよ。受けて立とうじゃない」
 草間の禁煙が、そんなに続くはずなどないと信じている麗香は、鼻で笑って返した。
「で? 私が勝ったら何をもらえるのよ?」
「そうだね。……あたしが知ってる、とっときのアンティークにまつわる因縁話を教えてやろう。きっと、雑誌の売上が伸びるよ」
 蓮は少し考え、言う。
「そう。じゃあ、私はあなたが勝ったら、白王博物館への、特別招待券を進呈するわ。うちの社長の私設博物館だけど、珍しいものがそろっていて、年に一度、業績向上に貢献した社員だけが招待されるの。私は今年も招待券をもらったから、勝ったらあなたが、かわりにそこの展示物を堪能しに行くといいわ」
 麗香も、胸を張って返す。
 こうして、麗香と蓮の勝負は、幕を切って落とされたのだった。

【1】
 麗香と蓮が、草間の禁煙を巡って賭けを始めたことは、三人の友人・知人・関係者の間に、またたく間に広がって行った。中には眉をひそめる者もいたが、面白がって静観を決め込む者たちが、大半だった。もちろん、さすがに誰も賭けの対象にされている草間に、それについて教えようとする者はいない。
 そんな中、ひそかに麗香と蓮それぞれに協力を申し出る者まで出始めた。
 三雲冴波もまた、そんな一人だった。彼女の場合、蓮が提示した勝った時の報酬――彼女の店の品物から一つ好きなものをもらえる、というのもうれしかった。が、どちらかといえば、興味本位で協力を申し出たと言った方が、いいかもしれない。
 ともあれ彼女は、会社が休みの日曜日、草間興信所に姿を見せていた。もっとも、そこにいるのは彼女一人だけではなかったが。蓮と零、それに今回彼女同様、蓮に協力することになったシュライン・エマと、加藤忍の二人も一緒だ。
 シュライン・エマは、冴波より一つ下の、長い黒髪と青い目の長身の女性だった。本業は翻訳家だが、興信所の事務員もしている。もちろん、今日は実際には休みなのだろう。一方、加藤忍は、冴波より二つ年下の、中肉中背の青年だった。大きな声では言えないが、泥棒を生業としている。
 現在、事務所にいるのは彼女たち五人だけで、主の草間武彦の姿はない。実は、彼女たち同様、蓮に協力することになった零から、草間が出かけた旨の電話をもらい、急ぎここに集まって来たのだ。
「今のうちに、事務所中のタバコとマッチ、灰皿を撤去してしまいましょ。あ、ライターのオイルを抜くのも、忘れずにね」
 彼女たちを見回して言ったのは、シュラインだ。
「シュラインさん……さすがに、徹底していますね。けど、タバコの置き場所は、私や蓮さん、三雲さんではわかりませんし、そちらは、シュラインさんと零さんにお願いします。私たちは、灰皿とマッチ、ライターの処分の方に回りましょう」
 忍が苦笑して、ゆったりとした口調で返した。
「そうね。……じゃあ、二手に分かれましょうか」
 彼の言うのももっともだと、冴波もうなずく。
 シュラインも承知したので、冴波は忍と蓮の二人と共に、マッチと灰皿の回収及び、ライターのオイル抜き作業をして回った。
 ちなみに、ライターは来客用らしき台座つきのものがテーブルの上に一つと、草間個人のものらしい、ひどくシンプルなものがデスクの引き出しに一つあっただけだった。が、マッチと灰皿は、それこそ至る所に置かれている。
 マッチと灰皿を一通り回収すると、彼女たち三人は念のため、もう一周して事務所の中にマッチも灰皿もないことを確認した。
 それが終わるころには、シュラインと零も、タバコの回収を終えていた。
「私、消臭スプレーを持って来たんだけど、タバコの匂いがしみついていそうな所に、撒いてもいいかしら」
 灰皿がいくつも入った袋を床に下ろして、冴波はシュラインに尋ねた。
「タバコの匂いも、消してしまう方が、いいんじゃないかと思うのよ」
「そうね。匂いがしたら、タバコがなくても吸いたくなるかもしれないし」
 シュラインがうなずいたので、冴波は自分の荷物の中から消臭スプレーを取り出し、カーテンやソファ、椅子、草間のデスクの周辺と、すっかりタバコの匂いがしみついているあたりに、吹いて回る。それは緑茶の匂いのもので、興信所内はほのかに、清々しい香りに包まれた。
 冴波がその作業を終えると、蓮が黙って室内を見回した。
「事務所でできることは、これくらいだね?」
「と、思うわね。……事務所内でのケアは、私がするとして、問題は外へ出た時ね。タバコを買ったり、人にもらって吸ってしまう可能性も、考えに入れておかないと」
 うなずいて、シュラインが考え込みつつ言う。ちなみに、本日の草間の外出は、零によるとあやかし商店街で行われる、月に一度の防災関連の講習会への出席のためだそうだ。昨日の夜に頼まれたもので、いわゆる「サクラ」のようなものらしい。会場は禁煙だし、現在の新興組合会長はパン屋の主だったので、草間にタバコを吸わせないよう零から根回し済みだ。
 しかし、これから一週間、草間の行動範囲にいる人間全てに、こんなふうに根回しして回るわけにはいかない。
 結局彼女たちは、ローテーションで草間の監視をすることになった。
 会社勤めをしている冴波は、そう頻繁に草間にくっついているわけにもいかないので、とりあえず今日と金曜の仕事を終えた後、そして最終日である土曜を担当することになった。後は基本的にシュラインが事務所の中、忍と蓮は交替で外出中を、そして零が夜間の草間を監視するという段取りになったのである。

【2】
 草間が事務所へ戻ったのは、その日の午後を少し回ったころだった。事前にパン屋の主から事務所に電話があったので、蓮と忍は回収したタバコやマッチ、灰皿の入った袋を抱えて事務所を後にする。
 残された冴波とシュライン、零は、何食わぬ顔で戻った草間を迎えた。
「あれ? シュライン、今日はどうしたんだ?」
 入って来た草間が、まず最初に怪訝な顔で尋ねたのは、シュラインにだった。休日のはずなのに、事務所にいるので、不思議に思ったのだろう。
「あ……うん。知り合いに、春キャベツをたくさんもらったから、おすそわけに来たのよ」
 シュラインが、そんな来訪理由を口にする。怪しまれないようにか、彼女は本当に春キャベツをいくつか持参して来ていた。草間は、怪しむ様子もなく、うなずく。
「へぇ。……冴波は、どうしたんだ?」
「何か、面白そうなバイトがないかと思って、覗きに来たのよ」
 自分に矛先が向いて、冴波も適当な理由を口にした。
「バイトね。この時期って、建築関係は忙しいんじゃないの?」
 それへふいにかけられた声は、碇麗香のものだ。驚いてふり返り、冴波たちは事務所の入り口に、声の主が立っているのを見つけた。
「麗香さん……!」
「来る途中で会ったんだ。……何か、俺に話があるっていうからさ」
 驚く彼女たちに言って、草間は麗香に入るよう促す。
 ゆっくりと室内に歩み入って来る麗香が、意味ありげな目で彼女たちを見回した。
 それをシュラインが、きつい目で見返す。麗香もそれに気づいたのか、立ち止まるときつい目で彼女を見詰め返し、口元に一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。普段は仲のいい二人だが、今日ばかりは別のようだ。
 麗香はそのまま、椅子に腰を下ろした。バッグの中からシガレットケースを取り出すと、優雅に足を組んで、タバコをくわえる。しかしバッグの中を探って、軽く眉をしかめた。
「いやだわ。ライターを忘れて来たみたい。……借りるわね」
 顔を上げ、彼女はテーブルの上の台座つきのライターを引き寄せる。
(麗香さん……わざとやっているのね)
 さすがに冴波も、あまりに見え透いたやり方に鼻白んで、思わず眉をひそめる。
 もっとも、ライターはさっき彼女たちがオイルを抜いたので、点くはずがなかった。それを見かねて、マッチを貸してやろうとした草間は初めて、テーブルにも自分のデスクの上にも、マッチどころか灰皿も見当たらないことに気づく。
「あれ? 零、マッチをどこにやったんだ? それに、灰皿もないぞ」
「零ちゃんから、禁煙してるって聞いたから、私がかたずけたわ」
 零が答えるより早く、シュラインが横から言った。そのまま足早にそちらに近づくと、彼女は麗香の口元から、タバコを奪い取る。
「申し訳ないけれど、麗香さんも武彦さんの前では、タバコを吸わないようにしてもらえるかしら。彼が禁煙なんて、めったにあることじゃないし、健康のためにも少しでも長く続けてほしいのよ」
「それは……気がつかなくてごめんなさい」
 麗香は怒りのこもった目で彼女を見上げ、口元だけで笑って言うと、その手からタバコを取り返した。が、さすがに今度はもう吸おうとはせず、シガレットケースに戻すと、それごとバッグの中にしまった。
 二人の間の奇妙な空気に、草間は再び怪訝な顔になる。軽く咳払いして、口を切った。
「それで麗香。俺に話ってなんだ?」
「ああ……。実は、ちょっと面白いものが手に入ったんで、モニターをやってもらえないかと思って来たんだけど……禁煙中じゃ、申し訳ないかしらね」
 言って、彼女がバッグから取り出してテーブルに置いたのは、四角いタバコの箱と思しいものだった。ただし、そこには銘柄などはいっさい書かれておらず、ただ真っ白だ。
 麗香が言うにはそれは、吸った人間の想像したものを実体化する力を持つ、不思議なタバコなのだそうだ。たとえば、それを吸いながら裸の美女を連想すれば、本当に裸の美女が煙の中から現れるという寸法だ。ただし、実体化されている時間は、そう長いものではない。せいぜい三十分から一時間程度だ。人によって実体の鮮明さや時間にはバラつきがあるという。そこで麗香は、何人かに実際にそのタバコを吸ってもらって、モニター実験をしてみようと思いついたのだそうだ。
 草間は、興味ありげに彼女の話を聞いていたが、やがて言った。
「悪いけど、今回は協力できそうにないな」
 傍で黙って成り行きを見守っていた冴波たちは、それを聞いて、思わず胸を撫で下ろす。
「そう? ……でも、いくら禁煙しているって言っても、一口ぐらい吸っても、誰も文句は言わないでしょうに。これ、タバコとしてもそう悪い味じゃないって話だし」
 麗香はしかし、なおも食い下がった。
「いや……。かえって一口でも吸うと、よけいに辛くなりそうだからな。遠慮しとくよ」
 草間は、小さく苦笑して返す。
 麗香は幾分、ムッとしたようだった。が、小さく肩をすくめると、あきらめたようにバッグにテーブルの上のタバコを戻した。
「しかたないわね。……じゃあ、そろそろ失礼するわ。他の人にも当たってみたいから」
 言って立ち上がると、彼女はヒールの音も高らかに、事務所を立ち去って行った。
 それを見送り、冴波たちは再び安堵の息をつく。しかし。
(麗香さんが、これであきらめるとは思えないわね)
 冴波は胸の中で呟き、これは思ったよりも気を引き締めてかかる必要があるかもしれないと、唇を引き結んだ。

【3】
 それから日々は流れ、今日は賭けが始まってから六日目の、金曜日だった。
 草間の禁煙は、思いのほか順調に続いている。
 昼間、事務所内ではシュラインが彼の様子に気をつけていて、草間が口寂しそうにしていたり、指がイライラと動いていたりしたら、さりげなくガムや飴を差し出したり、コーヒーを入れてやったり、新聞を出したりとケアに務めていた。
 また、戸外では冴波や忍、蓮がそれぞれ、気をつけている。彼が自販機でタバコを買おうとしたり、人からもらおうとしたら、さりげなく邪魔をしたり、言葉巧みにあきらめさせたりしているのだ。
 一方、麗香の方も、当人や三下、他の協力者らしき友人・知人らが、さりげなさを装って草間に近づき、喫煙を勧めたりしていた。わざとらしく彼の前で、タバコのことを話題にしてみたり、タバコの箱を撒き散らしたりした。食事しようと入った喫茶店で、灰皿の中身を足元にぶちまけられたこともある。が、今のところ、麗香たちの妨害はずっと失敗に終わっていた。
 その日の夕方、会社を出た冴波は、まず忍の携帯に電話を入れた。草間が外に出ていれば、尾行しているのは彼のはずだからだ。一応彼には、だいたいの交替できる時間も事前に知らせてあった。
 さほど呼び出すことなく忍が出て、草間があやかし町内にある総合病院に向っているらしいことを告げた。そこで、病院の前でおちあうことにする。
 電話を切って、冴波は足を早めた。
 夕方のラッシュ時にはまだ少し時間があったせいか、バスを利用して十五分ほどで、目的地に到着する。
 バス停は、総合病院前の大きな通りの一画にあった。冴波はそこから、病院の玄関まで歩く。あたりはすっかり暗くなっていたが、忍は約束どおり、そこで待っていた。
「草間さんは、病院の中です。三〇五号室の、今井亮二さんって人を訪ねて来たみたいですよ」
 彼女の姿に、忍が言った。冴波はうなずく。
「わかったわ。……シュラインさんと零さんに連絡は?」
「まだです」
 彼女が問うと忍は、肩をすくめた。
「すみませんが、三雲さんからしておいてくれますか。交替したっていう、知らせにもなりますし」
「そうね」
 冴波がうなずくと、忍は別れの挨拶をして、そのまま背を向ける。
 彼女はそれを見送った後、興信所に電話を入れた。シュラインが出たので、忍と交替したことと、草間の現在地を告げる。
 それを終えると、彼女は病院の中へと足を踏み入れた。すでに外来業務は終わっているからだろう。ロビーは閑散としていた。ただ、入院患者への面会時間の関係などで、出入り口はまだ開いているし、受付窓口も一つだけ開いている。
 冴波は、ロビーの隅にあるエレベーターを使って、三階まで昇った。廊下をゆっくり歩きながら、忍に教えられた三〇五号室を探す。それは、一番奥の一室で、個室のようだった。その向こうは、階段の踊り場になっている。が、ここは喫煙所も兼ねているようだ。さすがに自販機はなかったが、長椅子と灰皿が備え付けられている。
 冴波は、軽く眉をひそめて、そちらを覗いた。が、誰も人の姿はない。
(麗香さんや、彼女の協力者がいるかもしれないと思ったけど、大丈夫みたいね)
 小さく安堵の息を漏らして、彼女は三〇五号室の扉をふり返った。中からは、かすかに話し声が聞こえるから、草間はまだ、この部屋にいるのだろう。
 冴波は少し考えた後、喫煙所の長椅子に腰を下ろし、バッグの中から取り出した本を広げて、それを読んでいるふりをしながら、草間が出て来るのを待つことにした。
 ややあって、草間が部屋から出て来た。彼は、冴波に気づくことなく、廊下をエレベーターの方へ歩いて行く。冴波は、それをじっと広げた本の影から見送る。が、彼がエレベーターに乗り込むのを確認すると、彼女も立ち上がった。階段を使って、下へ降りる。
 彼女が一階に着いた時には、草間はもうロビーに到着していて、外へ出て行こうとしているところだった。彼女は、それを見送ってから、自分も外に出る。
 草間は、そのまま事務所へ帰るつもりらしい。病院の前の通りに出て、そちらの方面へ向うバスの停留所へ向った。他にも待っている客が何人かいるので、それに紛れてしまえばわからないだろうと、冴波もそちらへ向う。
 しばらくして草間は、そこを離れて、傍にあるタバコの自販機に歩み寄った。しばし、どうしようか迷うようにそれを眺めた後、ポケットからサイフを取り出す。
 それを見やって冴波は、思わず顔をしかめた。そうして、風たちに命じる。
(タバコを買えないように、邪魔しなさい)
 それは、たちまち聞き届けられた。いきなり、強い風が吹き付けて、人々は思わず首をすくめる。草間もそれは同じだったが、その拍子に、サイフから取り出した千円札が、彼の手をすり抜けて、宙へと舞い上がった。
「わっ!」
 彼は、慌ててそれをつかまえようとするが、まるで誰かの見えない手が彼を翻弄しているかのように、千円札は風に乗って右に左に宙空を舞い踊る。
 ようやく彼がそれを捕えた時、停留所にバスがすべり込んで来た。すぐにバスの扉が開いて、待っていた客たちが乗り込み始める。それを見やって、草間はあきらめたのか、慌てて札をサイフにしまいながら、列の最後尾につく。
 やがてバスは動き出した。かなり混んでいて、冴波も草間も、吊り革につかまりながら、通路に立っている。もっとも冴波は、わざと人の多いあたりを選んで立っているので、草間の方からは、彼女の顔は見えないだろう。ただ、降りる時にすれちがうハメにならないよう、気をつけないといけない。
 草間は、タバコが買えなかったのが辛いのか、しきりと溜息をついていた。
(タバコが吸えないのって、そんなに辛いものかしら)
 思わず冴波は胸に呟く。タバコを吸わない彼女には、草間の辛さは今一つピンと来なかった。バスの中は当然ながら禁煙なので、誰も吸う者はいない。
(私たち吸わない人間からすれば、乗り物内が禁煙になったのは、ありがたいわね。……通勤通学途中、苦痛に思うことはいろいろあるけど、痴漢とタバコの煙が一番不快な気がするわ)
 冴波は、ふとそんなことを考えた。痴漢はともかく、タバコに関して言えば、吸う人間が禁煙する苦しみが冴波にわからないように、吸わない人間が自分の意志に関係なくタバコの煙を吸わされる苦痛も、愛煙家たちにはわからないのだろう。だから長い間、日本ではタバコの煙が公の場所で野放しにされて来たのだ。
 そんなことを考えるうち、バスのアナウンスが、次の停留所が興信所の近くであることを教える。いくつか次に降りることを意思表示するランプが灯った。草間も、手を伸ばして近くのボタンを押しているのが見える。
 ほどなく、バスが停留所に到着した。
 冴波は金を払ってバスを降りると、足早に停留所を離れ、少し行った木の影で立ち止まって、バスから降りる客の群れを見守る。さほど待つことなく、草間も降りて来た。そのまま、興信所の入っているビルの方角へと歩き出す。帰宅するつもりなのは間違いないと思ったものの、冴波は更にその後を追い、彼がたしかにビルの中に入って行くのをたしかめた。
 その背を見送り、興信所に電話を入れる。出たのは、零だった。彼女に、草間がビルに入ったことを告げ、電話を切ると冴波はホッと吐息を漏らした。
 さほど長い時間ではなかったが、どうやらなんとか乗り切れたようだ。明日は、もしかしたら、もっと長い時間、草間を追いかけて監視しなければならないかもしれない。
(でも、あと一日だものね。……もしさっきのように、タバコを買おうとしたり、誰かにもらおうとしたりしても、かならず阻止してみせるわ)
 冴波は胸にうなずいて、踵を返した。

【4】
 翌朝。
 冴波は休日ではあるが、いつもと変わらない時間に起きて手早く食事を済ませ、出かける支度をしていた。そこへ、蓮からの電話があった。草間が蓮の元に今朝、禁煙中止宣言の電話をして来たというのだ。
『昨日の夕方、事務所からの帰りがけにシュラインがうちに寄って、韓国土産だっていうタバコを一カートン、預けて行ったんだけど……どうもそのタバコのことが発端で、草間に賭けのことも何もかも、バレちまったらしいんだよ』
 蓮は電話の向こうでそう言って、更に詳しい話を彼女に聞かせた。
 それによると、昨日の午後、草間の留守中に興信所に彼の友人・森なる人物が訪ねて来たのだという。そして、韓国土産と称して、以前草間が美味いと言っていた珍しいタバコを一カートン、置いて帰った。が、今そんなものを見せるわけにいかないと考えたシュラインは、興信所からの帰りに蓮の店に寄り、それを預けて行った。
 ところが。昨夜、草間の元にその森なる男が電話して来て、自分が持って来たタバコのことを話したのだ。草間に問い詰められた零は、森が持って来たタバコの所在をしかたなく話し、更にそんなことをした理由を問い詰められ……結局、芋づる式に全てを話してしまったというわけだ。
『草間の奴、いつになく怒ってて……。忍には、さっき電話したとこさ。あたしは、今から草間んとこに行ってみるつもりだよ』
 話し終わって言う蓮に、冴波もうなずいた。
「わかったわ。私も、今から興信所へ行くわ」
 そうして電話を切ると、慌てて支度を終え、自宅を後にした。
 興信所の入っているビルの入り口で、彼女は蓮と忍、それに麗香と一緒になった。この一週間は敵同士だったとはいえ、今は麗香もすっかりうろたえているようで、それどころではなさそうだ。
 ともあれ、彼女たちは興信所へと向かう。
 行ってみると、事務所の中は険悪な空気が漂っていた。嗅ぎなれたタバコの匂いと煙も充満している。
 草間は、不機嫌な顔で自分のデスクに腰を下ろしており、傍には困ったような顔で、出勤して来たばかりらしいシュラインと、零が立ち尽くしていた。
「草間さん、私と約束したじゃないですか。好きな銘柄のタバコを一年分、私がお届けしますから、土曜日まで禁煙するって。まだ今日一日残ってますよ」
 事務所に入るなり、忍が言った。
「ああ。だが、それも麗香と蓮の賭けに協力してのことだろ? それに、おまえのことだ。どうせ、届けるだけで、代金は自分で払えとかなんとか言うつもりじゃないのか?」
 草間は仏頂面で、そう返す。
「まさか。……私が草間さんに、そんなひどい約束をするわけがないでしょう?」
 忍は笑って答えるが、草間は「泥棒の言うことなんか、信用できるか」と言いたげな顔つきだ。
「怒るのはわかるけど、たまには禁煙もよかったんじゃない?」
 それを見やって、冴波も言う。その脳裏には、昨日の夜、バスの中で考えていたことが、脈絡もなく浮かんでいた。
 が、草間はそちらをじろりと睨んだ。
「タバコを吸わない奴には、この苦しさはわからないさ」
 言って彼は、小さく舌打ちした。
「ったく。……俺も、ついその気になって、このまま吸わなくても平気かもしれない、なんて思ってたなんてな。バカみたいじゃないか……」
 その呟きに、冴波は草間の怒りの本当の理由を察した。彼は、賭けの対象にされていたことよりも、自分がそうやって、らしくないことに没頭したあげく、周囲の思惑にまったく気づかなかったことの方に、腹を立てているのだ。
 考えてみれば、探偵が本業の彼が、冴波や忍、蓮に尾行されていても、まったく気づかなかったのだ。たしかに真実を知れば、自分の迂闊さに、穴があったら入りたい心境になってもおかしくはない。
「武彦さん……」
 ずっと黙っていたシュラインが、何か言いかけた時だ。
「悪かったわ」
 麗香が、ポツリと呟くように謝った。
「私たち、そんなに深く考えてなかったのよ。売り言葉に買い言葉っていうか……あなたが禁煙なんて、思いがけない話を聞いたから、つい……」
「ああ。……ほんとに、悪気はなかったんだ。あたしも、悪かったよ」
 うなずいて、蓮も言う。
 この二人が、これほど素直に謝るのは珍しいことだ。草間は、それを見やって溜息をついた。
「いいよ、もう……。それに、他の連中はともかく、零とシュラインは、俺の体のことも、心配してくれたんだろ?」
 言われて、シュラインと零が思わずというように、顔を見合わせる。
「私たちだって、そうですよ。ねぇ?」
 忍が言って、笑顔で冴波に同意を求めた。
「ええ、まあ……」
 冴波は、どちらかといえば自分たちは、面白半分だった気がすると思いながら、曖昧にうなずく。
 草間は、好きに言ってろというかのように、小さく肩をすくめる。そして、新しいタバコを取り出すと火をつけて、さも美味そうに煙を吸い込んだ。

【エンディング】
 こうして、賭けは一見、反故にされたかに見えた。
 蓮の元に預けられていたタバコやマッチ、灰皿などは全て興信所に戻され、ライターにも元どおり、オイルが入れられた。
 が、麗香と蓮の間では、こんな結果に終わったとはいえ、草間の禁煙が一週間持たなかったのは事実だとして、麗香の勝ちとなった。もちろんこれは、水面下のことで、知っているのは彼女たち二人と、蓮に協力した冴波たち三人と零、あとは麗香に協力した者たちぐらいだ。
 もっとも、麗香が本当に蓮から、アンティークにまつわるとっておきの因縁話を聞かされたのかどうかは、誰も知らなかった。
(でも、蓮さんは約束を破ったりはしないだろうから……その話をしたには違いないわよね)
 冴波は、ふと思う。
 ちなみに、最近発売されたばかりの、『月刊アトラス』最新号には、それらしい記事は見当たらなかった。なので冴波は、それから数日後の昼休みに偶然、会社の近くの喫茶店で会った麗香に尋ねたものだ。
「蓮さんから、アンティークにまつわる因縁話を、聞いたんでしょう? どうして、記事にしなかったの?」
「使えないわよ、あんな話」
 麗香は、さも嫌そうに顔をしかめた。が、冴波が再三、どんな話だったのか尋ねると、彼女は溜息をついて話し出した。
 それは、煙管にまつわる、こんな話だった。
 大正のころ、吉原の花魁だった女が、見受けされてさる大店の主の妻におさまった。ところが、いつのころからか、女は夫が浮気をしているのではないかと疑うようになった。というのも、夜な夜な、夫しかいないはずの部屋から、話し声が聞こえて来るからだ。最初は、夫の独り言かとも思ったが、そうではない。何を言っているかはわからないものの、誰か相手がいて、夫の言葉に答えているらしい。
 それである日、女がそっと部屋を覗いてみると、夫は気に入りの誂え物の煙草盆を傍に置き、そろいの煙管でタバコを吸っている。その傍らには、花魁と思しい頭の、上物の打ち掛けに身を包んだ女が侍っているではないか。
 怒りに逆上した女は、部屋に飛び込むなり、煙草盆を夫に投げつけた。そうして、夫の傍に侍る花魁の顔を見て驚く。花魁は、女自身だったのだ。正確には、花魁時代の女の姿というべきか。
 しかもその姿は、驚いて立ち尽くす女の目の前で、小さく揺らいで消えて行った。
 一方、女の夫は、投げつけられた煙草盆が当たって、大怪我をした。女は懸命に看病するが、ほどなく夫は死んでしまう。その最後に残した言葉から、あの時の幻が、煙管によって紡がれたものだと女は知った。
 そこで、夜毎女は、その煙管でタバコを吸い、夫が現れてくれることを願った。
 夫が死んで七日目の夜、ようやく願いがかなって女は、タバコの煙の中から現れた夫の姿を見る。そして、それへ必死に自分のしたこと、夫に疑いを持ったことを詫びた彼女は、朝方、冷たくなって発見されたという。
 話を聞き終え、冴波は思わず目をしばたたいた。いつぞや、麗香が興信所で口にしていた、タバコの話となんだかよく似ている。もちろんあの時のは、彼女が草間の禁煙を止めさせるための、でっち上げに違いないのだが。
 そんな冴波を見やって、麗香は顔をしかめた。
「そんな顔しないでよ。私だって、聞いた時には、蓮にからかわれたのかと思ったんだから」
 言って彼女は、冴波の顔を伺い見る。
「それとも、誰かが蓮にあの時私がした話を、聞かせたの?」
「少なくとも、私は話してないわ」
 冴波は、肩をすくめて言った。
「じゃあ、シュラインか零ちゃんが?」
 呟いたものの、麗香はすぐにかぶりをふる。
「やっぱり、偶然なのかしら」
「そう思っておく方が、精神衛生上、いいような気がするけれど?」
 冴波が言うと、麗香はまた顔をしかめた。
「それはそうかもしれないけど……やっぱり、あれを記事にするのは、どうにもプライドが許さないわ」
「麗香さんらしいわね」
 苦笑して、冴波は立ち上がった。
「さて、私はもう行くわね。昼休みが終わってしまうわ」
 言って、彼女は麗香に背を向ける。店を出る際に、ちらりとふり返ってみると、麗香はまだ顔をしかめたままだった。
(とんだオマケがついたわね。……にしても、一番災難だったのは、武彦さんかもしれないわね)
 胸に呟き、もう一度苦笑すると、冴波は外の明るい光の中へと足を踏み出した。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【4424 /三雲冴波(みくも・さえは) /女性 /27歳 /事務員】
【0086 /シュライン・エマ /女性 /26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【5745 /加藤忍(かとう・しのぶ) /男性 /25歳 /泥棒】

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■         ライター通信          ■
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●三雲冴波さま
いつも参加いただき、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
今回は、蓮に協力する方ばかりになりましたので、
すんなり禁煙が成功しては面白くないかな? とも思い、
こんな形にしてみましたが、いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いいたします。