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ジッとしていて
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――足音が聞こえた気がして。
ぴくん、とあたしは柔らかな毛を震わす。
(き、来たぁ……)
隠れるところはないかと辺りを見渡して――でも何処にもないから、咄嗟に床に敷いてある藁に潜り込もうとした。頭隠して尻隠さずという言葉が似合いそうな格好だけど、仕方ない。
――ドアの開く音。
「みなもちゃん、準備出来たわよ」
声の主は、聞きなれた生徒さんのもの。当然と言えば当然、今はいつものバイト中なのだから。
震えているあたしを藁からひっぱり出すと、生徒さんは優しく微笑んだ。その手にはバリカンが握られている。
「これからサッパリしましょうね」
(そんな顔で言われたら、反抗し辛いよ……)
強く拒否することも出来ないじゃない。あたしには、せめて弱々しく鳴くことくらいしか――。
「メェ……」
――虚しい抵抗だ。
■□□□□□
いつもの専門学校のアルバイト。
今回はヒツジなんだとか。
――そういえば、このバイトでヒツジってやったことないんだなぁ。
最初に思ったことが、それだった。もっと変わったものはやったんだけど……。
「実はね、ヒツジを選んだのは、この試作品を使いたいからなのよ」
生徒さんに見せてもらったのは、とても薄くて皮膚のようなもの。上にはモコモコ……とまでは行かないけど、この季節には温かそうな白い毛が生えている。余程大切なものなのか、ケースの中に丁重に仕舞われていた。注視していると、身体中の血が騒ぐような気がした。
(前にも似たようなものを見たけど……ううん)
以前のものよりも、本物に近い気がする。上手く言えないけど、毛が今にも動き出しそうな感じがしたのだ。
「これね、成長するのよ」
生徒さんの言葉に、あたしは驚いてケースと生徒さんの顔を見比べた。成長するなんて、作り物なのに――。
「中に細胞が入ってるの。ここに生えている毛が伸びるのよ。だからわざと毛は短めにしてるのね」
「そんなことが……」
未知の世界に少し怖くなって言葉を濁したあたし。
生徒さんは、人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく言った。
「これは二日しか持たないし、怯えることは何もないわ」
「そうなんですか……」
「そうそう。重要なことなんだけど、毛が伸びたら刈らせてもらうから、覚えておいてね。ヒツジの部分が、どれだけみなもちゃんの身体に馴染んでいるかを見たいのよ。……構わないわよね?」
構わないわよね、というところに力を込めて発音した生徒さん。
「? はい」
断る理由がないし、これはお仕事なんだもん。嫌な訳がないと思って、あたしは頷いたのだった。
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気恥ずかしさから胸元へ持っていった手を、生徒さんに掴まれる。
「後ろを向いていてくださいね」
「ええ」
「……絶対振り返らないでくださいね」
「勿論よ」
そうお願いして、生徒さんに背を向けて靴下を脱いだのに――視線を感じて後ろを向くと。
やっぱり生徒さんはこっちを見ている!
「偶然目が行っただけなのよ」
「嘘をついても駄目です! ちゃんと背を向けてください……っ」
(最初に脱いだのが靴下で良かった)
……と安心しても、生徒さんはまだこっちを見ていたりして。
「もう、生徒さん……っ」
「ねぇ、みなもちゃん。今更私たちの眼から隠れても意味がないと思うのよ」
「そ、それはそうかもしれませんけど……で、でもメイクのとき見られるのと、今見られているのとじゃあ、全然意味が……」
「恥ずかしいなら、みなもちゃんにアイマスクするのはどうかしら? 私、持っているのよ」
「い、いりません……!」
いっそのこと、カーテンに包まって脱ぎたくなるようなことばっかり、生徒さんは言う。
その眼は、とても優しいのだけど。
生温かい正触媒が肌の上で踊り始める。トロトロ、ヒタヒタと。蛍光灯の光に当たって粘液が煌めいていた。
「ん……」
生徒さんに脚を触られて――正触媒を塗りやすくしようと、あたしは無意識に足先を浮かせた。あたしの素直な反応に、笑いをかみ殺す生徒さん。
「今日は、特に良い子なのね」
そう褒められて(からかわれて?)耳たぶを抓まれると、何だかドキドキする。言うことを聞いても、聞かなくても、どっちにしろ恥ずかしい思いをしてしまう。
(あたし、やっぱりからかわれちゃうんだなぁ……)
最初のうちは、いつかはこのバイトに慣れて、からわれなくなるかも――と思っていたけど。これはきっと性格のせいだ。
「正触媒ってベタベタしていて変な感触よね。塗られるのは嫌?」
「……そんなこと……ないです……」
恥ずかしそうに視線をそらすあたしを見て、楽しんでいる生徒さん。
「じゃあ、からかわれるのは嫌い?」
「それも嫌い……ではないです……――んッ」
応えている途中で、指の腹でおへそを撫でられた。クスクス、と笑うのも聞こえて。
正触媒を塗り終えると、そこに慎重に皮膚を合わせていく。一度あたしの肌につけられたその皮膚は、血と同じぬくもりを持って、あたしの感覚を刺激するのだった。
生徒さんが言うには、今回のメイクで気を使うのは眼の位置らしい。ヒツジは敵をすぐ発見出来るように、顔の横に眼があるのだ。
「ここは私たちの腕の見せ所ね」
そもそも、顔の形がヒツジと人間では大きく違う。それを補うために、馬のときと同じような装置を顔につける。その際に細かくメイクを調整して、さも眼が横にあるように見えるようにするのだとか。
歯の変化も大事で、食べ物をゆっくりとすりつぶせるように、見合ったものを被せてもらった。実際の歯を守るように。本当は、ヒツジの歯って上の前歯がないらしいんだけど、そうもいかないし……。
顔や足が黒色のサフォーク種(ヒツジって白いイメージがあったけど、この黒いのはとても一般的な種類なのだとか)なのも、より違和感をなくす意図があるんだそう。
(あたしには分からない小技がたくさん……)
四つ這いになる。鏡を前に置いてもらって自分の姿を眺めていると、ふと疑問が沸いてきた。
「角はないんですか?」
ヒツジって、角があったような気がしたんだけど、どうなんだろう。
「ええ。野生じゃないからね」
「そうなんですか……」
確かに、大きい角があると邪魔かも……。
(でも残念だなぁ)
角があると見栄えがいいのに。
あたしの表情を見て、生徒さんが言った。
「一応、角は用意したのよ。付けてみる?」
「はいっ」
それは雌らしい、とても小さくて可愛い角。これを頭にちょこん、と付けてもらった。うん、角がある方が良く見える。
似合っているわよと生徒さんに言われて、あたしは、はにかんだように微笑んだ。
「明日、毛を刈り取るのが楽しみねぇ」
その言葉に、一瞬ギクリとする。
(な、何?)
何か、こう、胸の奥が氷で冷やされたみたいにゾッとしたんだけど――。
「じゃあ、仕上げに舌をいじらせてね」
と、生徒さんの指が口の中に入ってきた。
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……正直なことを言うのなら。
あたしはこのバイトに一抹の不安を感じていたのだった。それは、生徒さんにからかわれるからとか、恥ずかしいからとかじゃなくて。
(この前見た夢がリアルだったから)
あたしが自ら望んで犬になって、その姿で一生を終える、あの夢。身体だけじゃなくて心までもが動物になって、そしてそれを身軽だと感じた自分の精神。
(怖かった)
その身軽さを実感したらと思うと、この専門学校を訪れることに躊躇いを感じたのだ。
でも、現実では、そんな感覚を味わう暇がなかった。心は意識しなくても、自然とヒツジと混ざり合うし――。心地よさとは別の感情で満たされている。
――毛を刈られるのが怖い……。
身体を押さえられて、ガガガと毛を刈り取られる自分の姿が眼に浮かぶようだ。
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そして一日経った今。
あたしは、生徒さんに後ろから抱き抱えられていた。
新素材ということもあって、カメラがこちらを向いている。研究に使うのだろうか。
うう。気が重い――。
「……メェ(生徒さん)」
「みなもちゃん、どうしたの?」
「メェ〜メー(確かにたった一日で、モコモコした毛になりましたけど)」
「うん、うん」
「メェ〜(毛を刈るのは時期はずれですし)」
「そうねぇ」
「メェ! (やめておいた方がいいと思うんです)」
「うん、痛くないからね」
「…………メェ?」
嗚呼。全く通じていない。わざとはぐらかされている気もするけど……。
(でも、元々毛を刈るって約束だったもんね)
と自分を納得させようとする。事前に言われていたことなんだし、これは大事なことだって生徒さんが言っていたし……。
(あたしだって刈られるのが「嫌」な訳じゃないんだし……)
ただ、その、ちょっとだけ――じゃなくて、すごーく「怖い」というか。
あたしが怯えている間に、生徒さんはがっちりとあたしの身体を捕まえていた。耳元でバリカンの気味の悪い音がし始める。捕まえられている足が小刻みに震えた。
ガガガガガ……ッ。
「メェェェ!」
毛を引っ張られる痛みがして、思わず声が出た。冷たいバリカンの感触から逃れようとして、もがく。
「ああ、やり方がおかしかったのかしら。ごめんなさいね。優しくするから」
と、生徒さんはあたしの頭を一度撫でると、再度バリカンを当てた。
今度は生徒さんが前へ回り、あたしを後ろへ倒すようにして横の毛を刈っていく。
(ううう)
バリカンの音が耳に響き渡る。今は痛くないものの、身体は震えたままだ。唇も引きつってしまう。歯同士はカタカタと揺れながら擦り合っている。あたしが小さい子供なら、いじめられている子ヒツジに見えるくらい――あたしは怯えきっていた。
「メェェ……」
ただでさえ震えているヒツジ独特の鳴き声(泣き声?)を、更に小刻みに波立たせる。
「我慢、我慢だからね」
生徒さんに体勢を変えられつつ、徐々に毛を刈り取られて行く。
全てを終える頃には、足が痙攣しそうだった。緊張して、全身に力が入っていたせいだろう。それは生徒さんも同じみたいだ。
(あたしの身体を傷つけないように注意しすぎたのかな)
「メェ……」
「ふう……」
静かに転がった、いくつかの溜め息。
「気分はどう?」
と、生徒さんに訊かれて。
あたしは切なそうに、メェと答えた。
身体は軽くなったけれど、伸ばした髪をバッサリ切ってしまったような寂しさがあった。
……それに、ちょっと寒くて。
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「かなり一体感のある素材みたいね。凄いわねぇ」
帰り道。駅まで送ってくれることになった生徒さんと話をして歩いた。
「そうですね。このまま行くと、一体感がありすぎて、どこまでがメイクで、どこまでがあたしの身体なのか、わからなくなってしまいそうです……」
あたしがヒツジで、ヒツジがあたしで――なんて考えたら、クラクラと眩暈がしてしまいそうだ。
生徒さんも調子を合わせて、
「そうねぇ。私も途中から、みなもちゃんが人なのかヒツジなのかわからなくなったわ」
なんて冗談めかして言う。
そんな……とあたしは口をもごもごさせた。もしかしたら本気なのかもしれない、と不安に思いつつ。
でも、もしそうだとしても――生徒さん自身がわからなくなるくらい、メイクが上手く行ったってことだもん。良いことなのだ。
「新素材の結果も上々だし、あとはこのビデオを渡すだけね。喜んでもらえるといいんだけど」
「え? 誰にですか?」
そのビデオって、あたしのヒツジ姿を撮ったものだ。
「先生の誕生日が丁度一ヶ月先にあるのよ。だから、これは私たち生徒からのバースデープレゼントも兼ねているの」
そう言って生徒さんは照れくさそうに言った。
「……おひつじ座、だものね」
終。
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