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バレンタイン後日談〜ヤツは桃色兵器〜
○オープニング
相変わらず心臓に悪い大音量で、草間興信所のブザーが鳴り響いた。
やって来たのは――。
「帰れ」
一目見て、武彦は扉を閉めた。
「お兄さん!」
慌てて零が扉を開ける。
そこにいたのは、七、八歳の男の子だった。髪はブロンド、肌は血色のいい桃色。そこまではいい、それ以外が問題なのだ。
頭の上には光の輪が輝き、背には可愛らしい翼が生え、それでいて一糸まとわぬふくよかな姿をしている。手にはオモチャのように小さくて軽そうな弓と、ハート形の矢尻の付いた二本の矢……。
「俺にはキューピッドなんて必要ない。ていうか関わり合いになりたくない。帰れ」
「そ、そんな……」
キューピッドの目に涙がたまっていく。
「ここってあの有名な怪奇探偵さんの事務所なんでしょう? 追われてるんです。助けて下さい」
「か・え・れ」
「お兄さん! キューピッドさん、誰に追われてるんです? あ、どうぞ中へ……」
零はキューピッドを迎え入れると、顔を出して辺りに目を配ってからドアを閉めた。
「誰もいませんよ。誰に追われてるんです?」
「こ……恋する乙女たちに……」
キューピッドはぶるぶるっと震えた。
「バレンタインで力を使い切ってしまって、姿を消す魔力が残ってないんです……」
「それで狙われたのか」
「乙女たちは、いつの時代でも恋に真剣なんです」
はぁ、とため息をついてしまった武彦だった。
「追われてるくせに、妙にそっちの肩を持つな」
「ぼくは恋する乙女の味方なんです、基本的に」
もう一度ため息をつく武彦。
「で、どうすりゃ魔力は回復するんだ?」
「え……、甘い物を食べればすぐに……。いいんですか?」
「仕方ねえだろ。困ってる奴を足蹴にしたら、夢見が悪ぃんだよ」
照れたような仕草で髪を掻く武彦を、零が頼もしげに見つめていた。
数十分後。
テーブルの上にはチョコレートが山積みになっている。バレンタイン・デーの翌日にセールしていたのを、零が買い溜めておいたものだ。
その山の向こうで、真っ赤になったキューピッドがくだを巻いていた。
「だからね、ぼくはその子の恋を助けたんです。ぼく、キューピッドだから、そういうの基本的に好きなんです。あ、いまオバチャンくさいとかいう目をしましたね、いーえばれてます! 分かってますお見合いさせるのが趣味のオバサンかよみたいな目でぼくのこと見たでしょ! ええそうですよ、だってぼく愛のキューピッドだもん。しょうがないじゃないですか」
「お、おい零」
そっと零に耳打ちする武彦。
「どうなってるんだこれは」
「たぶん、これですね」
にっこり笑って、零はチョコレートの山の中から一粒をつまみ上げた。
丸くて、キャンディのようにフィルムに包まれているそれは……。
「キューピッドさん、さっきからこればっかり食べてました。よっぽどお気に召したんですね」
武彦は零の手からそれを受け取って包装を開け、口に放り込んだ。
「……まあ、そういうことだろうとは思ってたけどな」
ウイスキー・ボンボン。かなり度が強く匂いのきついアルコールが、チョコレートの甘みと共に口の中に広がる。
「あー、なんか縁結びしたくなってきたー!」
酔っぱらったキューピッドは真っ赤な顔で叫んだ。
「おいおい……」
「ぼくの本能が告げるんです! ぼくの存在理由はそれなんです。そのためにぼくはいる! ああっ、縁結びしたいっ、縁結びーっ!」
キューピッドは立ち上がるとかたわらに置いた弓を取り、二本の矢を一度につがえた。いや、二本しかなかったはずの矢は、いつの間にやら複数本に増えている。
「深く深く愛し合うように、たくさん矢を打ち込んであげますからね」
「ちょ、ちょっと待て。おい零! なんとかしてくれっ」
「分かりました」
武彦の隣に座っていた零が、ふぅっとため息をもらして立ち上がった。
零が立ち上がった、その震動が響いたわけではないのだろうが。
ソファーの上に立っていたキューピッドの身体が揺らいだ。
「あ……」
仰向けに倒れていくキューピッド。
武彦にはスローに見えた。
天上に向かって放たれた複数の愛の矢が、何故か天上近くで八方に分かれ、事務所内に乱れ飛んでいくのが。そのうちの一本が自分を狙い、そのうちの一本がまっすぐ零を目指していくのが。
(ホーミング弾かよ! いや、ホーミング矢?)
そのとき――事務所の扉が開いた。
◆
青砥凛(あおと りん)はノックを二回してみたが、誰も出てこない。
(……あれ……? 誰もいないのかな……)
せっかくお茶をお裾分けに来たのに。
このまま帰るのもなんだかもったいない。
凛は何気なく扉を開け――。
「こんにちは……」
言いかけた時だった。
酔っぱらったような軌道を描いた矢が、前に立っている男ごしに、ぐるんぐるん円を描きながら飛んできた。
よたよたとあっちに行ったりこっちに行ったりしているが、狙いはきっちり、凛に向いている。
(間に合うかな……)
運動神経が抜群に良く自分でも弓道をしている凛にとっては、矢を素手で掴むなど造作もないこと――の筈だった。
だが狙いは外れてしまった。
というより、矢の軌道が予測不可能すぎたのだ。これはまさに、千鳥足の酔っぱらい。
(……酔拳……みたい……)
呑気に考えていた凛の胸に、矢は突き刺さった。
◆
「おおおおお……」
シュラインを揺する手をとめ、武彦はうめいた。
いつの間にか事務所に入ってきていた五代真(ごだい まこと)、青砥凛、それに最初からいたシュライン・エマの三人の胸に、キューピッドの矢が刺さってしまったのだ。
「どうなるっていうんだ、いったい」
「シュラインさんの件については、確実にお兄さんのせいです」
反射神経の良い零は、矢には当たらず平然と兄を責めている。
同じく矢に当たらなかった武彦。こちらの場合は反射神経もあるが、それよりシュラインに身代わりになってもらったようなところがある。
「……分かってる。いっとくけど偶然だからな、恨むなよシュライン」
武彦は床に伸びたシュラインを見下ろす。
と――。
シュラインの胸の矢が、ピンクに輝きだした。
シュラインだけではない。真の矢も凛の矢も、毒々しいほど鮮やかなピンク色に輝きだした。矢はやがて光に溶けて、その光はそれぞれの身体に吸い込まれていく。
一瞬だけ身体がピンクに光り、収まった。
「何が……始まるっていうんだ……」
背筋に冷たいものを感じながら、武彦は生唾を飲み込んだ。
◆
胸に刺さった矢は、光って消えてしまった。
(……変なの)
凛はぼんやりとその様子を見ていた。矢が刺さったのに痛くないのも変だったし、光って消えたのはもっと変だった。
それにこの気分。
なんだかふわふわしている。
辺りの景色もおかしい。物の内側から凛に訴えかけてくる何かがあるような、妙な輝きがある。
目の前の男の背中も。
広い背中だった。デイパックを背負った下には黒いシャツを着ている。
男は、室内をぐるりと見回したあと、振り向いた。
日に焼けた精悍な顔。頭にバンダナを巻いている。
その瞳は――真摯に訴えている。
あんたが俺の相手だな、と。
「……うん」
凛は頷いた。
ほっとしたように微笑んで、男はソファを顎で示した。
「なあ、あんた。立ち話もなんだ。そこのボロソファにでも座って話さないか」
「ボロで悪かったな」
武彦が文句を言うが、二人の耳には届かない。
「……うん」
凛は頷いて、男の身体に自分の身体を寄り添わせた。そうすることが、もっとも自然であるかのように。
男の逞しい腕が、凛の小さな肩を抱いてくる。
ふと、煙の匂いがした。
(……煙草……)
男の服には煙の匂いが染み付いている。
肩を抱いた手が、髪に触れてきた。ショートカットの髪をかき上げ、さらさらとこぼしていく。耳元で動く大きな男の手に、凛の胸は高鳴ってしまう。
二人はくっついたままソファーに座った。
並んで座ってすらいない。
凛は、男の開いた膝の間に座っていた。背後には男の暖かい胸があり、頭の上には顎が乗っている。腹の前で、男の大きな手が組まれている――凛は後ろから抱きしめられていた。
「なんていうかこう、フラグが立ってるなんて生やさしいもんじゃないな。いきなりイベント突入って感じだ」
「キューピッドの矢ってそういう物ですから」
端で見ている武彦と零の感想など聞く耳持たず、二人は二人の世界に埋没していく。
凛は目をつむっていた。
汗の匂い――煙の匂い。混ざって苦いような匂いになっている。このまま男の香りで全身を満たしてしまいたい。
頭の上で、顎が動いた。
「なあ、あんた。名前なんていうんだ」
優しくて包容力のある声だった。
「……青砥凛」
「俺は五代真だ。真って呼んでくれ」
「……真……」
凛はその名を大切につぶやいた。
「なぁ、凛。俺、もっとあんたのことが知りたいんだ。いや、まずは俺のことを話したほうがいいな。前は便利屋勤務だったんだけど、そこを辞めて武者修行がてら全国各地を旅して回ってる。今は資金稼ぎのために東京に戻ってきてるけどな」
真の胸で、凛はこくんこくんと一つ一つに頷いていた。
彼の声は深く凛を包み込む。ずっとずっと、黙って聞いていたい。
「次はあんたのことを……教えてくれないか」
その言葉は、小さくしゃがれた声だった。
心が躍るような感触が隠されている。
大洋に抱かれて安らいでいたのに、突然海の上に顔を出してしまったようだった。空は青く晴れ渡って白い雲が泳いでいる。見渡す限りの波。海は安らぎだけではない、新しい世界を見せてくれる――。
凛を抱きかかえた腕がそっと解かれ、手が顎に触れた。
くい、と上を向かせられる。
横向きに振り返ったところへ、真の顔が近づいてきた。
日に焼けた顔は少し赤くなっていた。潤んだ彼の瞳が語りかける。
――いいかな。
(……いい……よ……)
目をつむった。
真の鼻息と凛の鼻息が混ざって、顎に当たる。
唇に、真の唇の温もりを感じる――。
(……?)
「……嫌っ!」
パシン!
現状を考えるよりも早く叫び、手が動いた。凛にしては珍しいほど鋭い悲鳴だった。
真の頬に、平手打ちを食らわせていた。
当の真は頬に赤く手のひら模様を浮かび上がらせながらもぽかんと凛を見つめていた。何が起こったのか理解していないような顔付きだ。
この男にキスされそうになったのだ。
ここにいたくない。
凛は立ち上がって、そのまま小走りで走って逃げて、零の後ろに隠れる。
「え、ちょっと、あんた」
「……キミなんて……知らない……」
零を盾にして、涙目で凛はぽそりとつぶやいた。顔が熱かった。
◆
武彦によるお詫びと解説を聞きながら、三人はソファに座って凛が持ってきたお茶を飲んでいた。
「つまり、あんたのせいだっていうのか」
真が隣に座ったキューピッドを睨む。
ウイスキー・ボンボンを食べ過ぎて酔っぱらったキューピッドが、無節操に矢を放った――というのが今回の事件の真相だそうだ。
「申し訳ありませんでした」
キューピッドはただただ頭を下げるばかりだ。
「まあいいけどよ。何があったのか覚えてないし」
あれだけのことをしながら、真はちっとも覚えていなかった。凛の名を知っていることすら首をかしげていたくらいだ。
「覚えていないっていうのは霊力の差でしょうね」
シュラインが、ああ、と慌てて継ぎ足した。
「質の差、ね。私や凛ちゃんは覚えているから」
「……なあ、あんた。俺何をしたんだ、いったい」
「……知らない……」
それだけ言って、凛はお茶をすすった。
覚えていないならそれでいい。かえって、そのほうが後腐れもなくていい。あんなことをわざわざ教えてやる必要なんて、絶対に無い。
武彦が妙な目で真を見ていた。
「知らないほうがいいと思う。知ったら、悶絶するぞ」
「な、なんだよ。脅かすなよ」
はぁ、と武彦は眼鏡ごと顔を押さえた。
◆
凛は一足先に草間興信所を出ていた。
歩いていると、頭には真の顔が浮かんでくる。
別に、未練があるわけではない。ただ、いくらなんでも、平手打ちを食らわせてしまったことだけは腑に落ちなかった。
結構本気で叩いてしまった。
場合が場合だったので相手は自分を責めなかったし、凛自身も謝らなかった。
それが気になっていた。
結局、凛は草間興信所に戻った。
今更入るのもなんだか恥ずかしくて扉の前に立っている。
と、扉が開いて中から真が出てきた。
「え」
「……あの……」
すでにあの感情は跡形もない。
凛はしっかり相手の目を見てから、頭を下げた。
「……さっきは……、すみませんでした……」
「な、何が」
「……ぶったりして……」
「ああ、あれ」
真は頬を撫でてから、苦く微笑んだ。
「そんな謝るなよ。俺、ひどいことしたんだろう。その報いだよ」
「……ひどかった……です」
あと少しでキスされるところだったのだ。
「あはは、そうだよな、そうだよな」
「でも……よかった……」
「え」
「……覚えてなくて……」
「ああ、そういうこと」
少しだけ残念そうに言う真。
「まあいいや。なあ、せっかくだから送るよ。どこまで行くんだ?」
「……地下鉄の……駅……」
「俺はMTBで来てるから構内までは行けないな。そうだ、乗ってくか? 俺、後ろから走って付いてくからさ」
「……結構です……」
そんな会話をしながら、二人は連れだって歩き出した。
前を歩いていた凛が、突然立ち止まった。
「何だよ?」
「……後ろに……、立たないで……ください……」
どうにも思いだしてしまう。後ろから抱っこされたことを。
「凄腕スナイパーみたいなこと言うな、あんた」
「……何でもいいから……後ろに立たないで……」
「はいはい」
真は頷きながら凛の隣に立つ。
ふと、煙の香りがした。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3636/青砥・凛(あおと・りん)/女性/18歳/学生と、万屋手伝い&トランスのメンバー】
【1335/五代・真(ごだい・まこと)/男性/20歳/バックパッカー】
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■ ライター通信 ■
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たいへんお待たせいたしました。
勇気あるご参加、感謝いたします。
◇青砥・凛様
まず始めに。五代・真様と初顔合わせということで書きましたが、もしすでにお知り合いであったとしたら、申し訳ありません。
もっとコメディっぽくしようかとも思ったのですが、お二方のプレイングを見ているうちにこういった内容になりました。
愛を語っているときは女性的に、ということで、それに甘えて思う存分女性的にしてしまいました。ご参加ありがとうございました。
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