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悩めよ魔術師
空はただ青い。冬の季節らしく風は冷たいが、雨の気配も雪の気配もない。トンビが緩やかに弧を描き、天高く羽ばたいている光景は限りなく穏やかだ。
東京郊外の、森の中にそびえ立つ洋館。見ればかなり古く、一部の壁には蔦が巻き付いている。見方によっては老賢者の住むような屋敷に、賢者と言えなくもない男が一人、暮らしていた。
城ヶ崎由代――屋敷の主人は窓の側から離れ椅子に落ちた。机に頬杖をつき、考え込むように一つ唸ってみせる。
部屋の中は古びた本が占領している。他には、今ではレトロと言えなくもない小道具や、自分の仕事に関わる物品が、そこらの棚に所狭しと並べられていた。本の虫と言われてもおかしくない蔵書量。それら全ての知識が、由代の頭に入っている。
ところが、いつもであれば書架に積み上げられた魔術書を読み漁り、知識を蓄え瞑想し、新しい発見などに心躍らせるはずの彼が、誰から見ても悩んでいた。ただ、本人に言わせれば特大の悩みであったとしても、他人から見ればいささか遅れた青春を過ごす男の、小さな恋煩いである。
高柳月子、それが由代の心寄せる相手である。
いつも和装で、柔らかい茶の瞳をしている。しかし気丈と言えなくもない性格できつめではあるが、その言葉は強く優しく、たくましい。
卓上の魔術書を手に取り、しおりを挟んだページを無意味に開く。紙面に目を走らせ集中を試みたがどうにも上手くいかず、手に持ったまま椅子を立った。うろうろと部屋中を歩き回り、どうにかして胸中のもやを晴らせないかと思案する。
「……」
得意の思案も、今日ばかりは由代に味方してくれないようである。本日何度目かわからない溜息をついて本を閉じた。再び椅子に落ちる。
一度芽生えた不安が取り除かれぬのと同じように、一度自覚してしまった恋心はぬぐい去れない。
「僕らしくないな」
恋心と自覚したのは最近だ。思わず赤面してしまうような突然さで、由代は月子への愛情を自覚した。抑えきれないわけではない、これぐらいの感情ならばいつも制御してきた。ただ、彼女の姿を見るたびにどこかが息苦しい。
まるで思春期のような感情に乾いた笑いを零し、窓の外へと視線を戻した。
いつまでも続くはずだった静かな生活が、高く築かれた強固な壁が、高柳月子という存在によって壊れた。出会いは些細な出来事であったにしろ、その後の生活がめまぐるしく変わったために、由代はどうしていいか解らないこともしばしばだった。
思い出されるのは、少し前のバレンタイン。
古臭い洋館の中、唯一現代味を帯びた台所で、月子が料理を作ってくれたことがある。生憎と献立は忘れてしまったが、その後に渡されたチョコレートの甘さだけが、いつまでも舌に残っていた。
これだけは自分で作ると言った彼女の気丈さに笑い、台所を貸して約二時間後。綺麗にラッピングされたチョコレートは甘かった。好みの味をいつの間に把握したのか、笑った彼女の顔が思い出される。何処か抜け目無いところがあったから、それとなく聞きだしていたのかも知れなかった。
「……」
こうやって、彼女を思いだして何回目だろうか。
気がつけば最近、魔術書を読むこともせずに彼女を思いだしている。それはそれでいいような気もするのだが、四十も過ぎた男がしていいことではない。なによりも、恥ずかしい。
しかし由代が思いきって足を踏み出せないのは、恥ずかしさだけではなかった。
今が幸せだと感じ、それに甘んじようとしている。自分の過去がそれを許してくれるものか。
憂いた光を瞳に忍ばせて、由代は目を伏せた。
仕事柄、人ならざる者とのつきあいが長く、神秘という言葉に近い場所で生活する自分。彼女に害が及ばないと、迷惑がかからないと言えるのか。現代の魔術師でも、過去を覆い隠し消し去ってしまうことはできない。
大切すぎて、遠くで見守ることを良しとしている自分がいるのに対し、近づき、言葉を交わし、側で見守り手を取り合いたいと願う自分がいる。自覚したからこそ、一歩を踏み出せない自分が酷く歯がゆい。
脳裏に彼女の顔が浮かぶ。不毛な悩みは尽きることがない。
年齢だとて障害になりはしないだろうか。もう四十も過ぎた男が、まだ未来ある若い女性とつき合ったとして、世間はどう見るだろう。月子自身にとっても、あまり良い思いはしないはずだ。
明るく快活に、そして優しく強い彼女だからこそ、もしかしたらそんな素振りは見せないかも知れない。月子が由代に思いを寄せていると言うことは、薄々気づいている。普段の会話、いつもの仕草、その中にいつしか愛情が乗せられたのは最近のことではなかった。
それでもそつなく自分とつき合う月子。彼女なりの優しさがとても嬉しい。それを受け入れたいとも思うけれども、何処かで彼女は無理をしていないだろうか。笑顔の裏で、由代のせいで苦しむのなら、これほど心苦しいことはない。
溜息ばかりが巡る部屋の中、かちん、と針が動いた。古臭い椅子から立ち上がり、手に持っていた本を棚に戻した。ついつい溜息をついてしまう。窓から外を見れば変わらぬ青空であり、こちらの胸中など知ったことではない。
世界は膨大だ。
魔術師であるからこそ、自分は膨大な世界の一粒に過ぎないのだと知っている。この悩みでさえいつか世界の記憶に消され、過去に流れてしまうと知っている。それでも忘れられない記憶が自分にはある。
整然と並ぶ本に額をつけ、古い記憶を反芻する。
あれは、いつだ。
いつもの、人ならざる者とつきあう、慣れすぎた仕事だった。雨だったか曇りだったか、それとも晴れていたのか。思い出すのが困難なほどに古い記憶。いや、自分自身が思い出すのを拒んでいるのだろうか。
忘れてしまえるのならば忘れたい。
だが心の中にいつまでもとどめておかなければ、同じ過ちを繰り返し、涙を流すかも知れぬ。大切な者を失う辛さは、人一倍知っているつもりだ。
月子が傷つき、困ったように視界から消える――――。
「馬鹿だな……」
自嘲の笑みを浮かべ、疲れたような息を吐いた。記憶も、吐息と一緒に吐き出せればいいのに。
最近は思い出すことも封印したはずの記憶だ。今思い出さなくともいい。それが月子に繋がるならば尚更だ。
あの時流した涙の息苦しさは一生忘れられない。過去に捕らわれるばかりではいけないと知っていつつも、近頃の由代ではそれが無理だ。どうにかしなければならない。
額に棚の痕が残らぬうちに離れ、少々違和感のある場所を指でもんだ。その指がふと止まる。由代の耳に、古い呼び鈴が来客を告げた。
緩慢に頭を上げ、透かし見えない扉の向こうを見た。
このような人里離れた場所まで来るとすれば、よほどの物好きかそれとも郵便屋か。まさか――。
思い当たる人物に、自分の意志も関係なく心臓が跳ね上がる。これだから、最近の自分はおかしいのだ。
はやる気持ちを抑え、二階の書斎から静かに飛び出す。高い階段を下りて一階へ足を置いたとたん、そぅっと扉を開けた月子と目があった。
観音開きの扉からするりと体を滑り込ませ、高柳月子はきつめの瞳で言った。
「なんだ、いたんじゃない」
快活な彼女の言葉に由代は口角が上がり、思わず笑い返した。寒さのせいか、月子は鼻の頭を少しだけ赤くしている。持っていた紙袋を由代の目線まで上げ、得意げに微笑んだ。
「今日はね、特製の和菓子を作ったから、持ってきたの」
何故だろうか、先ほどまでのもやが急速に薄れていく。全てが気のせいだというように、月子の顔を見たとたんにいつもの自分へと立ち戻っていく。
「どうしたの? あたしの顔になにかついてる?」
腰に手を当て、月子が不満そうに由代の顔を覗き込んだ。じっと見つめてしまっていたようで、由代は穏やかに胸の前で手を振った。
「いや、先程まで仮眠をとっていたから、少し寝ぼけているだけだよ」
「あらそうなの。あ、お茶煎れるから台所貸してもらえる?」
「どうぞ」
いつも通りの会話を繰り返し、緩やかに彼女を台所へと誘う。香を焚きしめたのか、月子の着物からよい香りが漂ってきて、ふと笑いがこぼれた。
自覚したばかりの恋心に踊らされ悩みに悩んだあげく、自分らしくもない行動をとったというのに結局はいつもの関係に立ち戻っている。月子も無言の了承で、いつものように笑っている。
――あぁ、この切なさすら気のせいだ。
陸の孤島といわんばかりのこの屋敷で、一人延々と悩んだところで答えは出まい。ならば今目の前の月子と笑い合う方が、よほどいい。
窓の外へと、目をやる。
トンビは相変わらず空高く弧を描き、腹の足しにするべく餌を探している。冬らしく澄んだ、高い空には一点の濁りもない。それが月子の心情のような気もして、由代は前を歩く月子の肩を見つめた。なぁに? と振り返ったその姿に苦笑して、何でもないと首を振る。
胸が苦しくても、今はいい。目を背けていられるのなら、それにこしたことはない。逃げと言われてもかまわない。それでも、彼女がいるなら幸せだ。
由代は一つ笑って、月子の差し出した和菓子を受け取った。
了
この小説の登場人物
□2839 城ヶ崎・由代 男 四二歳 魔術師
■3822 高柳・月子 女 二六歳 和菓子屋の店員
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