|
年の始めの願い事
「準備できたかー?」
黒のジャンパーにマフラーという完全装備で、神威飛鳥は階段の上へと声をかけた。
「は、はい……待たせてしまってごめんなさい」
ぱたぱたと小走りに駆ける音が聞こえて、飛鳥は慌てて言葉を返す。
「待ってないから大丈夫だって。あんまり急ぐと転ぶぞ」
言葉を返す余裕もないほど焦っているらしい。頷きはしたけれど急ぐ足を緩めることなく、雪夢は――川西雪夢が階下へと降りてくる。
大丈夫か、と心配になったその瞬間。
「あ……」
予想を外さないと言おうか。
足を踏み外してバランスを崩した雪夢を見て、飛鳥は慌てることなく手を伸ばした。
「だから、急ぐなって言ったのに」
「ご、ごめんなさい……」
「責めてるわけじゃないから、謝んなくていいって」
告げて、飛鳥はニッと楽しげな笑みを浮かべた。
別に何処に行くというわけでもない。年の始めの恒例行事、ただそれだけだ。
けれど『ただそれだけ』のことが楽しくて。二人は視線を交わして笑みを零して、人の行き交う通りへと歩き出した。
年を越して間もないこの時間帯は暗く、まだまだ深夜といって良い時間だ。夜の神社は初詣の参拝客でごった返していた。人ごみのなか、飛鳥は雪夢の手を繋いで先へと歩く。
「人、多いな……。転ばないようにな?」
白い息を吐きながらの飛鳥の言葉に、雪夢が淡く微笑んで頷いた――その、瞬間。足元がおろそかになってしまったのか、雪夢が前へとつんのめる。
「――っと」
転びそうになった雪夢を抱きとめるのは、そう難しいことではなかった。そもそも、手を繋いでいたわけだし。
「ごめんなさい……」
申し訳なさそうな雪夢に、飛鳥は苦笑交じりに明るく笑う。
「雪夢ちゃんはわるくないだろ?」
無口で自分から話しかけることがほとんどなくて。そのうえ年齢のわりに物静かなせいか、ともすると冷たい感じに見えてしまう雪夢。
けれどそれは表面上だけのことであり、実際の雪夢は優しい少女だ。
「お、やっと俺たちの番だな」
何度か転びそうになったり押されたりしながらも、賽銭箱の前へとたどり着く。
賽銭を投げ入れ、手を合わせ。飛鳥も雪夢も静かにお参りをする。
何を願おうか。
それは最初から、決まっていた。
今、隣に立って熱心に何事かを願っている少女。
飛鳥の脳裏に初めて出会ったあの日の夕暮れが浮かんだ。
孤独の中、ひとりきりで彷徨っていた飛鳥。
会ったばかりの見知らぬ少年のために、涙を流してくれた少女。
あの時のぬくもりが嬉しくて。
もう、喪いたくないと思う。あんな……大切なものを目の前にしておいて、守ることができなかったなんて、あんな後悔は二度としたくない。
雪夢に出会って。
飛鳥は久しぶりに、幸せというものを実感した。
楽しいという感情。嬉しいという感情を思い出した。
だから、飛鳥の願いは決まっている。
もう何も失わないように。
ささやかでいい……幸せな日々が訪れますように。
どうか……この小さな幸福が消えないように。
彼女が、幸せであるように。
瞳を開けると、同じくちょうど瞳を開いたところだったらしい雪夢と目が合った。
「あ……」
「…………」
なんとなく気恥ずかしくて、視線を逸らす。
「帰るか」
「うん」
どちらからともなく手を伸ばし、繋いで変わらぬ人込みの中へと歩き出した。
二人は、最初は、このまままっすぐ家へと戻るつもりでいた。
けれど途中でなんとなく目に入ったものに足を止める。
無言のまま。視線を交わして頷きあう。
「そうだな……。いっちょやっていくか!」
こくりと嬉しそうに頷いた雪夢の手を引いて、二人はさっそく御神籤に挑戦した。
「さぁて、何が出てくるかな」
小さく折りたたまれた紙をぱっと開いて、出てきた文字は末吉だった。
「雪夢ちゃんは?」
問われて、雪夢はそっと自分の分の紙を見せてくれる。
「大吉じゃないか。きっと今年はいいことがあるぞ」
言うけれど、雪夢の表情には少し、申し訳なさそうな色があった。
もしかして……飛鳥の御神籤の結果があまり良いものではなかったからだろうか?
そりゃあ、良いものが出れば嬉しいが、かといって別に気にするほどのものではない。
「結びに行きませんか?」
そっと飛鳥の服の裾を引いて、雪夢が近くの木を指さした。枝には先客たちの御神籤がたくさん連なっている。
「そうだな」
引いた御神籤をしっかりと枝に結んで、今度こそ。
二人は手を取り合って家路へとつく。
「……そういえば、雪夢ちゃん」
住宅街に入って人通りも減った頃、飛鳥がふいに口を開いた。
きょとんとした表情で返してくる雪夢に、尋ねてみる。
「雪夢ちゃんは、何をお願いしたの?」
その、変化に。飛鳥は思わず言葉を失った。
頬を赤らめて俯いてしまった雪夢は、そんな飛鳥に気付かなかったらしい。
ゆっくりと顔を上げてから――その頃には飛鳥ももう、普通の表情を作れていた――答えを紡ぐ。
「秘密、です……」
そう言った雪夢の表情は、滅多にみることのできない満面の笑顔だった。
|
|
|