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「ギミックオブデトロイトテクノ」
空になったシュリッツの缶を足元に転がした。骨格のたくましい青い牛のイラストを、4インチのピンヒールで踏み刺すと、めきりと音をたてて缶はつぶれる。身体に巻きつけた白いシーツの隙間から、黒いエナメルの編み上げブーツを履いた片足だけを出して、空き缶を踏みつけている弥裄砂紀は、舞台袖の暗がりから、ひっそりとフロアを覗いていた。
何時間も前から、胃の裏側を殴りつけるような電子音が、ひっきりなしに響いている。フロアの奥、赤いベルベット張りのブースは、たばこの煙で霞んでいる。客席は五百人を超す満員御礼だ。設備だけはやたらと整ったこの大型クラブの空調ですら追いつけないほどの熱気。全員が、それぞれに幻覚を見ているような目をしている。
たばこに火をつける。ステージ裏を行き来するスタッフが、舞台上に砂紀のDJブースを設置していくさまを、砂紀はぼんやりと眺めている。ミキサーとターンテーブルの配線は、実際には使用しないコードもふんだんに繋いで、敢えてゴチャゴチャと盛っておいた。チューブやコードが汚らしく絡み合った姿が、自分に似ているような気がしていた。その周囲に、CDJやら、PowerBookG4やらが積み上げられていくと、ブースはちょっとした要塞のようになった。しかし、砂紀のプレイは決して、要塞に守られたお姫様のそれではない。要塞を破壊する。そのために、逆説的に要塞然としたブースを組みあげているにすぎない。
「おい」
背後から声をかけられた。振り返ると、魅繰屋虹子が困惑した様子で佇んでいた。流れるように波打つ赤い髪。
「本当に俺が出て行っていいのか? 物凄い人の数だぞ」
虹子は仕事着のままでそこに居た。黒いスーツに赤いネクタイ、銀チェーンのついた眼鏡に白い手袋をはめた彼女の職業は、タクシードライバーだ。黒い服を纏った身体にまとわりつくような赤い髪は触手に似ていて、見る者をゾクゾクさせる。
砂紀はたばこを噛みしめて笑った。燃え尽きた灰が、地の果てに降る雪のようにパラパラと落ちる。
「そんな心配してんの? 大丈夫だって。人が多い方が燃えるでしょ」
「……でも」
「あれぇ? もしかして、怖い?」
虹子は口をつぐみ、肩をすくめた。砂紀は吹き出し、舞台袖のカーテンを掴んで、押し殺した声でクククと笑う。
ふたりはこれから、約束していたセッションをしようとしていた。正確には、自分のDJショウの一曲目をライブ形式にして、そこに砂紀が無理やり虹子を引き込んだ、というべきか。
既にDJブースは組み上がり、客席の熱気も万端だ。こんな土壇場になって、虹子が怖気づいたことを口走るのが、おかしくてしかたがなかった。それも、赤い髪に運転手服なんて、完璧な姿の虹子が! 何いってんの、と小突いてやりたくなった。あんたは既に、今日のステージの一部じゃないの。そうでなきゃ、この私が、あんたをセッションに誘ったりしない。そうでしょ?
「それよかさぁ、その髪、下ろしたまんまで出なよ。そのほうがぜーったいいいよ。きれいだもん、すごく」
虹子の髪を一房すくい、毛先に口づけながら砂紀がいう。虹子はいぶかしげに砂紀を見やる。
「……なんだお前、もう酔ってるのか? まだ何も始まっちゃいないのに」
「別に。酔っちゃいないけど」
砂紀がぱっと手を離すと、直後にスタッフが、時間です、と告げにきた。砂紀は踏み潰していたシュリッツの缶を拾い上げ、吸いかけのたばこをねじ込むと、スタッフに向かって放り投げた。砂紀がプログラムを組んだ電子音がフロアに鳴り響き、歓声が上がる。虹子を振り仰ぎ、ひらめくような笑顔を見せると、砂紀は言い放った。
「私を酔わせるのは、私という酒、だけだからね!」
そして、まとっていたシーツをバっとはだけると、そのまま舞台に飛び出して行った。
客席から雄たけびに似た声があがる。突き刺すような電子音と、めまぐるしく動き回る照明の下に晒された砂紀の姿は、いっそ異様だった。
古くて生地の弱くなったアンティークレースの黒い下着。ピンヒールの編み上げブーツは膝丈で、白く浮かび上がる肌という肌に、凡字のタトゥーが刻まれている。ステージに立った砂紀は、身体中に呪文を浮かび上がらせ変身するという、古代の魔女のような姿だった。
砂紀はブースから身を乗り出し、フロア中にその肢体を見せ付ける。上半身で客席を煽りながら、足でPCのマウスを操作する。楽曲データ、ロード。瞬間、トラックがもつれ合って絡み合い、ごってりとしたカタマリと化した音が、スピーカーを突き破ってフロアに降り注いだ。同時に、虹子がステージに現れる。赤い髪がふわりと高く舞い上がり、曲のリズムと同期して、うねるように動いて見える。その様子は、砂紀に劣らずなんとも不気味で、凡字の魔女と赤髪のタクシードライバーという、この不思議な組み合わせに、客席は熱狂した。
不安を煽るような、野太く物々しいリズムの周りを、エフェクトをかけて重たく歪んだピアノ音がぐるぐるとループする。幾重にも重ねられたデジタル音は、奥行きが深すぎて、気の遠くなる心地がする。熱を持って膨れ上がった、弾ける寸前のような楽曲は、もはや原曲が何であるかすら、判別不可能となっていた。それでも、揃いのショートスタンドを剣のように掲げた砂紀と虹子が歌い始めると、フロアの諸処から、あっと声があがった。まるで近未来のSF映画のようなドラマティックなMIXのなされたこの曲は、シューベルトの「魔王」だった。
怯える子ども、誘う魔王、落ち着き払った父親の三役を、砂紀と虹子は、次々と配役を替えて歌い分ける。低くよく通る虹子の歌声がフロアを両断し、高く篭った「陽」の印象の砂紀の歌声が掻き回す。振り幅の広い楽曲に、観客は安らぐことがない。高ぶり続ける楽曲のうねりに、揺さぶられ、かき乱される。
自分の一挙手一投足に、フロアが熱くなっていく感覚。
自分の歌がタクトの様に、フロアを踊らせていく感覚。
砂紀と虹子は、ステージの両端に立って向き合い、中央に向かって同時に走り出した。中央に辿り着く寸前で飛び上がり、ふたりは空中ですれちがう。すれちがいざま、互いに叫んだ。
「最高だな、これは!」
「これだからやめられないんだよねぇ!」
砂紀はふと、セッションにこの曲を選んだ際の、虹子との会話を思い出していた。
「この曲さぁ、どうして父親には魔王が見えなかったのかな? それどころか父親、息子の話を聞こうともしてないよね」
「さぁ、よほどの鈍感か、本当は見えていたが、息子を安心させようとホラ話をしたのか、それとも……」
「それとも?」
「本当は、息子以上に、父親が怯えていたのかもな。子どもは怖いと泣けば済むが、親は子どもを守らなければならない。どんなに恐ろしくても、怯えて泣き出すことは許されない。だから、気が触れそうな恐ろしさの最中でも、これはただの幻影だと、都合の良い解釈に縋りつかざるを得ない」
「だとしたら、皮肉だねぇ。結局、息子、死んじゃってるよね、これ」
「人生とは、得てしてそういうものだ。気づかないふり、認めたくないだけ。見たいものだけを見て、臭いものには蓋。――お前がキチガイと罵られながらも観衆を熱狂させられるのは、そういうことじゃないのか?」
気づかないふり。認めたくないだけ。
タブーを敢えて引きずり出し、笑いのネタにしてすべてを叩き壊す。それが、砂紀が変態だバカだキチガイだと罵られる理由であり、一方で観客を狂うほどに熱くさせる所以でもあった。
しかし……。
(べつに、そんな高尚なもんじゃないさ。人生イロイロ面倒くさいけど、歌って踊ってりゃなんとかなる、笑えればそれでOK、ただそれだけ!)
真面目に評価してくれる虹子が照れくさく、砂紀はますます気の狂ったパフォーマンスに走る。そんなふたりの関係が、この日のセッションを生んだのだった。
終盤に向かい、電子音は滝のように流れ落ちる。このまま終わらなければいいのに。そう願うのは、フロアもステージも同じだった。曲の最後に、マイクを外して、ふたりは思わず同時に叫んだ。
「魔王、最高〜!!」
夜はまだ終わらない。フロアは夜明けを迎えるまで、熱く揺れ続けるのだった。
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