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牡丹雪
◆ ◇
――― 父様は、僕の事を恐れている・・・。
僕の持っている、この能力を ―――
それでも、目を瞑れば聞こえてくる・・・
違う・・・目を瞑らなくても、聞こえてくる
人の考えている事が、思っている事が・・・
――――― 父様は、僕の事を恐れている ―――――
◇ ◆
窓の外を、大きな牡丹雪が舞い落ちる。
ハラリハラリと、少々繊細さを欠いた舞ではあるが、けれどもその大きさ故に見応えは十分あった。
典型的な日本家屋。豪華さはないまでも、風格のある造りのこの邸で、久住 沖那はボンヤリと壁に掛かった能面を見上げた。
能面師である父の作る能面は、素晴らしく緻密で美しく・・・そして、一種の妖しさを含んでいた。
目を惹く能面がいたるところに飾られた邸内。皆和装で過ごすこの空間は、ある意味世界から隔離された場所だった。
邸を訪れるのは父と所縁のある者のみで、沖那と同じ年頃の子供を見た事が無い。
まだ幼い沖那にとっては、見る人見る人が全て大人だった。
和服に身を包み、雅な言葉を繰る人々。
皆、沖那には優しかった。
優しい言葉、優しい瞳・・・その奥深くに潜む、善からぬ思い。
止め処もなく流れてくるそれらの情報。
・・・今日も、邸を訪れた者の中にそのような考えを持った者がいる。
『沖那君・・・こっちへいらっしゃい』
優しい声で、優しい口調で、手招きをする姿は“善い人”にしか見えない。
1つだけ丁寧にお辞儀をした後で、座敷へと上がる。
向かいに座った年配の和服の女性が、お菓子を1つ沖那へと差し出し、礼を言ってから受け取る。
よく出来た息子さんですねと、女性が父に向かって穏やかな微笑を浮かべ―――それに対して、父は困ったような笑顔を浮かべただけだった。
女性の隣に座る男性の顔をチラリと見詰める。
父に媚びているかのような薄っぺらい笑顔。その奥に眠る、真意。
沖那は小さな掌をギュっと握ると、唇を噛んだ。
今・・・言ってしまおうか・・・いや、もう少し時を待った方が良い・・・。
妙な緊張感が沖那のココロを鷲掴んで放さない。
聞こえてくる心の声は、吐き気がするほどに酷いものだった。
知りたくも無い人の心の声は、沖那の心を酷く傷つける。
ギリギリと、爪を立てて引掻かれるかのような鋭い痛み。決して緩む事の無い手。
しばらくしてから客人達が、父にお辞儀をし、沖那にお辞儀をしてからすっと立ち上がった。
沖那もそれにつられて立ち上がり、邸の玄関まで父と共に見送りをする。
女性が見えなくなるまで沖那に向かって手を振り続け、父が小さく「彼女は子供が好きだから・・・」と、独り言ともつかぬほどの声でそう呟いた。
ガラガラと引き戸を閉め・・・目の前を通り過ぎようとする父の袖を思わず掴んだ。
一瞬だけ、驚いたような表情を浮かばせたものの、直ぐに普段通りの厳格な表情に戻る。
どうしたんだ?と訊く声は、聞きようによっては威圧感を含んでいる。
「あの・・・」
喉元に引っかかる言葉を、何とか外へと押し出す。
今聞いた事の全てを、包み隠さず、残らず・・・父へと伝える。
話が進むにつれて、父の顔色がドンドンと変わって来た。
最初は酷く驚いたような表情だったのに・・・話が終わる頃には怒った様な顔つきへと変化していた。
“ソレ”を聞いたのは、お前の耳ではないのだろう?
その言葉に、コクリと頷く。
決して相手は口に出して言っていたわけではなかった。心の声は、空気を揺らさない。音を伴わない・・・。
珍しく声を荒げた父が、沖那の小さな身体を脇に抱えた。
そのままズンズンと邸の中を進み、廊下と庭とを繋ぐガラス扉を引いた。
冬独特の凛と澄んだ冷たい空気を肌で感じ、沖那は思わず目を瞑った。
目を開ければ広がる白銀の世界。積もった雪が、庭を彩る木々を白く覆っている。
幻想的な光景だと、沖那は幼心に思った。
父が沖那を庭へとおろし、ピシャリと扉を閉めた。更には中の障子まで閉めてしまい・・・。
ストンと、その場に腰を下ろす。
冷たいガラス戸を叩いて父の名を呼ぶ気にはなれなかった。
――― そう・・・父様は、僕の事を恐れている・・・
人の心が分かってしまうこの能力を・・・快く思っていないのだ。
考えれば、誰だって怖いのかも知れない。
自分の心の声が他人に分かっているとしたならば・・・それこそ、恐怖を感じざるを得ないだろう。
でも・・・聞こえてしまうのだから・・・どうしたって、聞こえてしまうのだから・・・。
ギュっと、唇を噛み締める。
俯いていたら涙が流れてしまうから・・・空を見上げる。
ハラハラ舞う牡丹雪は、あまりにも白く輝いていて ――― 目に痛かった。
パタン
涙が足元に1つ、落ちた。
真っ白な雪をジワリと溶かす熱い涙。溶けた雪の上に、更に雪が覆い被さる。
泣いたって、きっと雪が隠してくれる。
空を見上げれば、止め処もなく雪は舞い落ちて来ているのだから・・・・・・。
ふわりふわりと揺れ落ちる
儚の気配に身を委ね
落つる心を覆い隠す
白銀の魂をそっと撫ぜ
淡く揺れる視界の先
感じる凛に身を委ね
瞳を閉ざせば聞こえてくる
小さな雪の囁き声
――――― 凍える気持ちを溶かすのは ―――――
甘く囁きかける睡魔に、沖那は身を委ねる事にした。
泣き疲れた身体は泥のように重く、寒さでかじかんだ指をそっと握り締める。
目を閉じる。
悲しみに染まった瞼の裏に浮かんで来るのは、真っ白な牡丹雪。
熱い息を吐き出して、眠りに落ちる・・・その瞬間、ふわりと沖那の上に温かなものがかけられた。
目を閉じていても感じる、父の気配。そして・・・沖那の身体は抱きかかえられた。
・・・温かな腕によって・・・
◆ ◇
ゆっくりと目を開ける・・・。
窓から薄っすらと入ってくる陽光が沖那の視界を淡く暈す。
・・・どうやら、眠ってしまっていたようだ。
横たえていた身体を起し・・・ふと、ある事に気がついた。
頬を濡らす、1筋の線。それを右手でそっと拭う。
――― 涙・・・・・??
どうやら夢の中だけではなく、現実でも泣いてしまっていたようだ。
・・・もう、あんな風に泣く歳でも無いのに・・・。
今は亡き、厳格だった父。
父は沖那が生まれた時から能面師を継がせるつもりだったようだ・・・。
母は知らない。父からは、死んだと聞かされていた。
・・・あの時の沖那は、自分の事を“僕”と呼んでいた。けれど・・・声に出す時は“私”と言っていた。
それは、父がそうさせたのだった。
今も沖那は自分の事を“私”と呼ぶ。勿論、今では“僕”とは言わなくなってしまったけれど。
父は、確かに沖那の事を恐れていたのかも知れない。
・・・きっと、恐れていたのだろう。
けれどそれ以上に、父は沖那を想っていた。
ふわりと感じたあの時の柔らかい温かさ。
目を開ければ布団に寝かされており、父は何も言わなかったけれど・・・あの時、沖那に毛布をかけ、抱きかかえて邸内まで運んでくれたのは
――― 他でもない、父の温もりだった・・・・・・
≪ END ≫
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