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Fragment
その日、世界ノ全テが変わった――。
* * *
往々として、何か不思議な力を宿し続ける一族があるという。
その一族の世界では、怪奇が日常であり、日常が非日常である。
おかしな力を、人間などというちっぽけな器で持つのは分不相応なのか、望むと望まざると関係なく、生まれた時点で巻き込まれていく。
そして、それが当たり前だと。その世界の住人は言う。
彼女の一族は、随分と前にその枠からはみ出してしまった一族だ。
力たるものは既に枯れ、残ったのはヒトというちっぽけな存在。
力がなければ、怪奇も非日常のものとなる。
そうして、どこかおかしなしきたりに守られた一族から、彼女の一族ははみ出した。
当たり前でない力が消えた彼らは、当たり前のようにその世界から抜け出し、日々を生きていた。
今となってしまっては、あったはずの力を口に出そうとするものもいない。
連綿と語り継がれてきたはずのそれは、しかし彼女に引き継がれることもなく。今はただ、日常に。
そんな、複雑なようで複雑ではないのが、彼女こと霧神来世の生い立ち。
日本という国に住む限り、義務教育というものを受けなければならないのは、誰にでも常識だ。
それは無論彼女も同じであって、何時もの様に学校へ行き、友達と笑い、少し勉強に憂鬱になりながらまた帰途に着く。
何のことはない、誰にでも経験のある日常だった。
「霧神さんさよならー」
「さようなら」
元気に声をかけて教室を出て行く友達に、来世は小さく手を振りながら応える。彼女が出て行ったのを見届けて、来世は読みかけていた本をまた読み始めた。
来世自身はそれほど活発という性格でもなかったが、それでも気の合う友人は、それなりに長い学生生活の中で何人か見つけていた。
普段ならその友人たちと一緒に帰るのだが、今日は教室から見える夕陽が綺麗だからと帰らなかった。
赤く染まる世界の中で、一人静かに本を読む彼女の姿は、何かの物語の一場面のように美しい。
髪を小さくかきあげ、時計を見やる。既に、学校の中には人が少なくなっている時間だった。
もう一度窓の外を見る。世界を染め上げる空は、何にも譬え難く美しい。
夕暮れ、誰彼時。ヒトの顔が見えず、誰か彼かと聞かなければ分からないといわれた時間。確かに、この時間だけはどの日常よりも非日常的な神秘さを含んでいた。
「……?」
ふと視線を戻したとき、来世は何か違和感を感じた。何かが違う。
来世は教室を見渡した。先ほどと同じように、そこには彼女しかいない。
しかし、何かが確実に違うような気がする。それが何なのかは、まだ分からないのだけれど。
もう一度教室を見渡してみる。そこで、違和感の正体が見えたのだ。
イメージとしては、海を漂う海月。ゆらゆらとただ静かにたゆたう、何か。
形も定まらず、色々な形に姿を変えながら、ただ中空をたゆたう。
その向こうには、透き通って黒板が見える。
何なのだろうか、これは。何か、全く得体の知れない何か。
しかし。来世は、なぜかそれを怖いとも思わなかった。
そっと手を伸ばす。たゆたうそれは、何の抵抗もなく、来世の細い指をその身に埋めた。
「…ぁ…!」
その瞬間に、イメージが来世の中へと迸っていく。
緑、青、赤、色々な色が、形を持って来世の中にイメージされていく。
草が見えた。それを食べる、自分が見たことのない何かの生物。水が溢れ、空は赤く…自分が知っている『世界』とは全くかけ離れた、しかし美しい『世界』。
(これは…何…?)
分からない。それを分かるだけの知識を、来世は持っていない。
だから、もっと知りたいと、その両手を伸ばす。あのたゆたうソレに触れば、きっと何かが分かるはずだから。
そして両手が触れたとき。『世界』は霧散して消えていた――。
「……」
来世は、その余韻にしばらく動くことが出来なかった。
自分が触れたソレは、何だったのだろうか。
触れた途端に見えたあのイメージ。この世界ではありえない、どこかの『世界』。
分からない、まだ何も分からない。
でも、なんとなく理解は出来る。あれは、
「…世界の断片…」
そう、『ここではないどこかの世界』の断片。
なぜそんなものが、こんなところにあったのかは分からない。しかしそれでも、来世はそれを見て触れてしまった。
そうして、彼女の日常が、少しずつ変化していくことになる。
* * *
「来世おはよう!」
「おはようございます」
何時ものように、友人と朝の挨拶を交わす。それが彼女の日常だから。
しかし、今はその日常にもどこかおかしなものが混ざりこんでいた。
「……」
友人のすぐ傍肩の辺り、そこにゆらゆらと何かが揺らめいている。
あぁ、あれはまたどこか『違う世界』の断片かと、来世は一人静かに思う。
そして、また触れたい衝動に駆られて――それをすぐに抑え込んだ。
初めて触れたあの日以来、来世にはソレが見えるようになっていた。
結局、あの時なぜソレが見えたのかは全く分からないままだし、来世自身もその理由を探ろうとしていなかった。
ただあったのは、あの時明確に見えたビジョンと、そしてそれに強く惹かれている自分。どこか退屈で代わり映えのない日々は、ソレの前ではあまりにも平凡で魅力がなかった。
そうして、彼女は違う世界を夢の中でまで見るようになる。
あの世界は一体どんなところだったのだろう?
今、友人の傍にあるあの断片は、どんな世界に繋がっているのだろう?
自分だけが見える世界、自分だけのセカイ。
何時しか彼女は、何でそんなものが見えるのかという、ごく当然の疑問も考えないようになっていた。
「……」
「…がみ、霧神!」
「…あ、はい」
ボーっと過ごす昼下がりの授業。ようやく自分が先生の指名されていると気づき、来世は席を立つ。
「全く、腹が膨れて眠いかもしれないがしっかり授業は聞いてくれ」
「すいません…」
小さくあがる笑い声。来世がそういう態度で怒られることも珍しいため、友人たちは遠慮なく笑っていた。
とりあえず当てられていた部分の質問に答え、来世は席に着く。そして、一つ溜息をついた。窓の外には、ソレが見えた。
ゆらゆらと揺れる、何かの断片。あれに触れれば、またあの日のようにどこか違うところへと行けるのだろうか。
触れてみたかった。
今すぐにそっと手を伸ばし、そのセカイへと。
日に日にその思いは募っていく。まるで、誰かに一目惚れしてしまったようなその感覚。
多分、違う世界に想いを馳せるというのはそういうことなのだろう。
* * *
だから、触った。
赤く染まる世界の中。目の前にたゆたうセカイ。
そっと、手を伸ばす。あの時は半ば無意識だったが、今度はしっかりと、自分の意思で。
世界に触れるという、その感覚。イメージされる色、形、セカイ。
流れ込んでくる情報、どこかへと飛び立っていく感覚。
それを感じながら、何時しかどこかで聞いた言葉を彼女は思い出していた。
『力を持っていたものは、例えその力をなくしたとしても、またその力に惹かれていく。
忘れられないのだ、それを。
だから、我々は日常には戻れない。例えそう偽っていたとしても。我々は、こちらでしか生きられないのだから』
誰が言ったのかは、覚えていない。
しかし、その言葉の意味も、今なら分かる。そして、分かるからこそ――彼女は、違う世界へと想いを馳せた。
それでいいと、彼女は思った。退屈な世界のカラを割って、そのセカイへと旅立てるのなら。
そうして、一瞬意識が途絶えた――。
「…ん…」
瞳を開けると、空には当たり前のように青い空が広がっていた。
鼻をくすぐる緑の香り。空を彩る赤い太陽。
何かが、彼女の顔を覗き込んできた。それはいつか見た、地球上では存在しないような生物。
それは彼女の顔をしばらく見て、そして興味なさげに離れていった。
身体を上げる。広がっているのは、見慣れぬセカイ。誰も知らない、自分だけの世界がそこにあった。
まるで夢のような感覚。本当にきてしまった。
ぎゅっと手をつねる。原始的な確かめ方だが、しっかりとそれはこれが現実だと教えてくれた。
もう一度このセカイを見渡す。確かに、あの日あの時に見た世界。
あまりにも綺麗過ぎるセカイに、彼女はそっと涙を流した。
そうして急速にこのセカイを、そして己の能力を理解していく。きっと、ここは夢の中のセカイだ。そして、自分はそれに今干渉している。
誰であろうと、小さな頃に一度は夢見る御伽の世界。汚いところなど何もない、ただ美しく清廉としたセカイ。
なるほど、と、一人納得して。来世は歩き始めた。
それは理解できた。しかし、今自分がいることで夢の世界は現実の世界として機能する。
このセカイは綺麗過ぎる。見る分にはいいが、自分だけでいると少し息が詰まる。
だからここには無闇に干渉すべきではないと、違うセカイへの入り口を探し始めた。
しばらく歩くと、あのよく分からない動物がいた。その首元に、たゆたうセカイが見える。
今度はどんなセカイなのか。期待に、胸が躍る。
「ごめんなさい、少しだけ触らせてくださいね」
動物にそっと語りかける。するとそれは、小さく頷いた。
よく見れば愛嬌もあるその顔に、来世は小さく笑って、セカイへと触れた。
次に見えたのは、何か黒い世界だ。よくは理解できないが、元いた世界とも何か違う。
期待に胸を躍らせて、来世はまた旅立った。
そうしてセカイとセカイを旅する力を手に入れた来世は、今日も一人世界を渡る。
あの日から、色々なものを知り、色々なセカイを見てきた。
楽しいことばかりでもなかった。嬉しいことばかりでもなかった。
本当なら、知らなかったほうがいいことを知ったこともある。知りたくないと拒絶しても、知ってしまったものがある。
しかし、自分の中にはまだまだ沢山の世界がある。だから彼女は旅をする。
あの日初めて感じた違う世界への憧れを、彼女は今も忘れない。
世界ノ全テは、こんなにも美しいのだから――。
<END>
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