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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


諸刃の剣
 
 静寂に満ち溢れた空間の中に、高く澄んだ御鈴の音が響き渡る。
 一定の間をあけて響いてくるその音色は儚く憂いを伴っているが、じっと耳を済ませて聞いていると、どこか厳寒の滝を思わせるような、聴く者をはねつける力強さを感じさせる。
 古びた演舞場の端々に灯された蝋燭が、御鈴の音にあわせて揺れていた。
 百合子が、神楽の稽古でもしているのだろうか?
 
朝深・拓斗は演舞場の中央で目を閉じ、先程から御鈴の音色に耳を傾けていた。果てしない静寂の中に身を置き目を閉じていると、聴覚が次第に敏感になってくる。
 これは、本当に百合子の出す音色か?
 懐疑の念を持ちながら、拓斗は百合子の舞う姿を思い起こす。幼い頃より百合子の舞う姿を幾度となく見てきたから、既に百合子の舞いは頭に叩き込まれている。舞いながら御鈴を鳴らす百合子の音色は、儚くはあるものの、人の心に染み入る優しさのほうが強く、今聴いているような気高さはない。
 じゃあ、この音は? 
 拓斗は全身全霊を集中させた。握っていた御神刀の柄に力を込め、全ての感性を一鈴の音に向ける。
 リン。
 再び鳴った音の中にわずかばかりの邪の気配を感じ取る。拓斗が目を開けた瞬間、灯されていた蝋燭がふっと消え、暗がりは深闇に変わった。
 浄化されていた演舞場の空気が歪む。魔が忍び寄る。時空が捻じ曲がる。暗闇に目を凝らすと、歪んだ空間の中に直径一メートルくらいの巨大な円ができていた。 
なにが来る?
 拓斗は身構えた。できる限り心を落ち着かせ、五感を研ぎ澄ませる。無心になれ。そう言い聞かせながら。
 やがて静寂という名の音を断ち切り、なにかがずるずると輪の中から這い上がってきた。暗闇に浮きあがったそれは一輪の白百合を灯したような美しく白い着物を身に纏い、泣き顔の面を被っている。
怨霊だ。
髪は今見ている闇よりも未だ黒く、引きずるほどに長い。
 御神刀のせいか。
 御神刀には霊力がある。時折、この御神刀の霊威に魅かれ、怨霊や妖かしといった類の輩が拓斗の目の前に現れるのだ。我を失った亡者達との闘いは、拓斗にとって生死を問われる。
 
 喰われれば命は、ない。
 怨霊は、黒髪を空気になびかせながら拓斗に襲い掛かってくる。拓斗は重心を低くし、右足を一歩前へ滑らせた。怨霊の気配に合わせ、白刃の剣を、渾身の力を込めて振りかざす。腕にかかった御神刀の重さが、そのまま心の重みへと変わっていく。
 怨霊は拓斗の振りかざした鋭い刃を難なく除け、ふわりと宙に浮き上がった。
 失敗した。
 拓斗は霊の気配に神経を尖らせ、ゆっくりと御神刀を方向転換させた。深闇の中に、反り返った刃の先が光る。
――なぜ、私を切ろうとするの。
 問いかけてくる。怨霊相手に答えはしない。 
 なぜ? 
 なぜ俺は今、こうして怨霊と対峙しているのか。
 喰われるからか?
 疑問は疑問を呼び起こす。
 いや、その前に。
 なぜ俺が舞師に選ばれなければならなかったのか。
 拓斗は心を鎮めながらも、自問自答していた。
 ありきたりで平凡な生活を幸せと気づかず噛み締めている同級生たち。放課後、遊んだり他愛ない話をして笑っているクラスメイトたち。人の命を左右する運命を持たない者たち。拓斗は彼らと同じ時の中にいて、いつも蚊帳の外にいるような気持ちを抱えていた。
 時々ふと考える。
 俺も舞師に選ばれなかったら、あんな風に平凡でいられたのだろうか。
 拓斗が御神刀を真っ当に扱えなければ、蛇巫は死ぬ。百合子の命はなくなる。
 ずっと百合子を守るためだけにこの人生を捧げてきた。そのことをこれまで恨むことはなかった。
 だが。
 百合子がいなければ、俺は平凡でいられたのか?
 自問は拓斗の心にほんのわずかな隙を起こす。隙をついて再び襲い掛かってきた怨霊を、拓斗は我に返り、既のところで交わした。拓斗の右頬にかまいたちに襲われたときのような、一筋の傷ができる。頬に感じる痛みに、拓斗は自嘲に似た笑いを浮かべた。
 朝深の家に生まれなければ、今のように命がけで怨霊と闘っていることもなかっただろうに。平凡な生活を手に入れることが、できたはずなのに。
 なぜ、舞師なんかになったんだ。なぜ百合子が蛇巫に選ばれたんだ。
 わからない。この運命に抗おうとしても、抗える術を拓斗は持たない。
「それでも俺は、舞師として生きていかなければならないんだ」
 御神刀を持っていた右手に、これまで以上に力が入った。今度は左足を一歩前に踏み出し、怨霊めがけて弧を描くように御神刀を振りあげる。御神刀の先端は風音を鳴らして虚空を切り、怨霊をも二つに切り裂いた。
 怨霊は耳をつんざくような悲鳴をあげ、闇の中へすっと霧散していく。時空の歪みが、静かに元に戻っていく。邪の気配が消える。空気が次第に浄化されていく。
 怨霊はあるべき場所へ還っていった。拓斗は息を切らせながら、また静寂がもとのように辺りを支配していくのを感じていた。
 どうしようもなく心が凍てついている。気がつくと、御神刀を持っている右手が震えていた。左手を右腕に当て震えを押さえようとしたが刀の重みに耐え切れず、拓斗はがくりとその場に膝をつき、御神刀をそっと床に置く。そのまま立ち上がることができずにうずくまったまま、拓斗は延々と続く深い闇の底を見つめていた。
 刀の重さは、心の重さ。いや、刀の重さ以上に、心の枷は重すぎる。
 人の命のかかっている剣舞。何百年――いや何千年、この忌わしい伝統が続いてきたのか。そして何人の蛇巫が犠牲になってきたのか。いつまでこんなことが続くのか。赦せない伝統、未だ止むことない伝統に、拓斗は底知れぬ憤りを覚える。
「絶対に終わらせる……」
 確固たる決意で呟き、腹の底から噴水の如く沸きあがるどす黒い感情を、拓斗は必死に押し殺そうとした。憤りを通り越した憤りが、拓斗の体に熱を与える。刻々と過ぎていく時間は、決して拓斗の感情を解消してはくれない。
 
 仕方なく立ち上がり、演舞場の重々しい扉を開ける。すると、入り口付近に座り込んでいた百合子の姿が拓斗の視界に入った。
 なんでこいつが、ここにいるんだ。
 外は暗く、霧雨が降っている。仄暗いもやの混ざった空気の彼方、どんよりと濁った灰色の空が、拓斗の感情そのままを表していた。憤りの次にやってきたのは、苛立ちだ。今は誰とも会いたくない。波立つ感情を押し殺せるだけ殺しながら、拓斗は百合子に問う。
「こんなところでなにをやっているんだ」
 百合子は顔を上げる。ぱっと百合子の表情が明るくなった。
「あ……稽古の邪魔をしちゃ悪いかな、って思って……」
「俺を、待っていたのか」 
 百合子は無防備で、儚げな笑顔を拓斗に向けた。肯定の意味だ。
 無邪気な顔をしやがって。俺が今、どんな気持ちでいると思っている。
 昔から幾度となく、拓斗は自身の運命、百合子の運命を祭りにかかわるありとあらゆる人間から聞かされてきた。十二年に一度行われる豊穣祭の、表の顔と裏の顔。裏を知っている人間はごくわずかに限る。その裏の顔がどんなに過酷なものか。そしてその裏の顔の核心を担っている拓斗と百合子の運命は――重い。
 だが、舞師が知っていることを、蛇巫は知らない。だから百合子は知らない。
 先程演舞場の中で拓斗がなにをしていたのかも、今後起こるかもしれない百合子自身の運命さえも、百合子は何も知らない。聞かされていないのだ。
 なら、教えてやろうか。
「お前は――」
 言いかけて、拓斗は黙った。拓斗の苛立ちはおさまらない。
 お前は死ぬんだ。
 心の中で言う。
 百合子は不思議そうな顔をして首をかしげた。
 下手をすりゃ、お前は豊穣祭で喰われるんだ。
「わかっているのか」
 思わず口に出した。
 なあ、わかっているのか。
 百合子は拓斗の言葉の意味が汲み取れないのか、ぽかんと口を開けている。
 お前は死ぬんだ。十五でお前の寿命は尽きるんだ。それでいいのか。
 拓斗は抑えきれない眼光を、百合子に向けた。百合子は一瞬怯えた表情になり、後ずさる。
 百合子に全てぶちまけてしまえ。そんな衝動に駆られる。ぶちまけてしまえたら、どんなに気が楽になるだろう。
 否――全てをぶちまけて、それで本当に楽になれるのか?
「拓斗、その傷は……」
 百合子が拓斗に歩みよろうとした瞬間、拓斗は演舞場の扉を拳で叩きつけた。
 殴りつけた音が軋む。
 やり場のない憤りを拳に代えて吐き出すように、拓斗は奥歯を噛み締め、何度も、何度も演舞場の扉を叩きつける。顎に込めた力のせいで頬の傷口が開き、血が滴り落ちていく。傷が痛み出しても顔を伝う血を拭うこともせずに、拓斗は扉を叩き続けた。
 いつもならこんな時、「どうしたの」と慌てて飛びついてくる百合子の声は、聞こえてこない。ふと、百合子の顔が拓斗の視界の端に入る。百合子は留まることを知らない拓斗の様子に、茫然としているようだ。
 全てを吐き出して――楽になれるわけ、ないじゃないか。
 吐き出してしまえば、今度は百合子が苦しむ。苦しむ百合子を見て、拓斗もまた吐き出してしまったことに苦しむ。この苦しみの連鎖は断ち切らなければならない。
 苦しむのは、俺だけで充分だ。なあ、そうだろ? 全てが終われば楽になれるんだ。
「拓斗……手、怪我しちゃうよ……」
 遠慮がちに言いながら、百合子はふわりと拓斗の手を包み込んだ。百合子の心配そうな表情に、扉を叩く力が萎えていく。
 拓斗は百合子を引き寄せ、抱きしめた。同級生の笑い声が耳に蘇える。村に続く伝統。蛇巫である百合子。舞師である自分……それらのものを全て断ち切って平凡な生活を手に入れるには、前に進まなくてはならない、そう強く言い聞かせる。
 百合子を守るのは誰だ。
 霧雨が全ての熱を冷ましていく。拓斗に平常心を取り戻させる。
 拓斗は目を開け、もう一度問う。
 百合子を守るのは誰なんだ。答えろ。
「ちゃんと守るから……」
 絞り出した声は、かすれていた。
「だから、心配すんな」
 百合子はなにか言いた気に、身じろぎをして口を開いた。だが、百合子の口からは、一言も言葉が出てこない。
 悟られまいとしても隠し切れない。百合子は百合子で、拓斗のうちに潜むこの黒い感情を敏感に感じ取っているようだ。
 抱きしめる手に力を込める。右手の震えは止まっていた。
 いくら怨霊を倒すことができても御神刀を一人前に扱うことができても、心はあまりに脆弱で、上手く制御できない。苦悶の刃は自分のうちに跳ね返り、鋭く胸に突き刺さる。
「百合子は何も心配しなくていいんだ……」
 霧雨がただ静かに、周囲を濡らしていた。 
                   <了>