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□ 受け継がれるもの □
櫻・紫桜はある約束の為に、夕闇迫る山に足を踏み入れた。
風も暦的には春になっているというのに、やはり少し肌寒い。
首元を風が撫で、紫桜は肩を竦ませた。
マフラーはもう少し必要だったのかも知れないと思いつつも、手にした桜の枝を見る。
なるべく早く約束を果たしたいと思い、頼まれてからそのまま此方にやってきたのだ。
紫桜は風を共にして、ときおり運ばれてくる桜の花びらに笑みを浮かべた。
踏みならされた道を歩き、ふと遠くへと視線を向ける。
行く先で儚げに灯るのは灯篭だ。
朱塗りの縁がてらてらと艶めいている。
設置されてまだ間もないのか、少し違和感があった。
だが灯篭に照らされている桜の樹自体は見事な物で、目を見張る程だ。
数は少ないが、一本一本の枝振りは長年手入れされてきた甲斐あってか、花を減らすことなく辺りの空間を桜色に染めている。
暖かな雰囲気が満ちていた。
空気もこの場所だけが、切り取られたように春の暖かさが感じられる。
まるで紫桜が来るのを待っていたよう。
紫桜は桜から歓迎の意志を感じ、顔をほころばせる。
肩の力を抜き、桜の白い特徴的な幹に触れた。
ぽうっ。
蛍のようにいくつもの光が桜から現れ、紫桜が手にする枝へと渡っていく。
眠っている桜の枝を起こすような仕草に、孫が祖父を起こす時のような優しさを感じて安心する。
小さな光が枝へと吸い込まれると、枝は呼応するように淡い光を放った。
その光は辺り一面へと広がり、現実か幻か判断のつかない世界へと誘っていく。
紫桜は、導かれるまま感覚を委ねた。
紫桜がこの場所へと来ることになったきっかけは、夢に出てきた桜の樹が何処かで見た記憶があり、それを確かめる為に足を運んだからだ。
何か自分に伝えたい何かがあるのだろうか。
相手が助けを必要としているのならば、先に此方から手を差し伸べてあげたい。
そう思ったからだ。
夢に出てきたのは偶然で、何もなければそれはそれで構わなかった。
自分の名前に桜の名が入っていることもあり、桜に対して親愛を持っている紫桜は夢に現れたのは偶然ではないと思っていた。
到着し、夢に見た場所と思い出しながら比較して、間違っていなかったと確認する。
「あれは……」
紫桜はある物に気付き、そばに近づく。
草むらが歩みを邪魔したが、数本の人間の足跡が桜へとつづいており、それをなぞるように進めば容易にたどり着けることができた。
一本だけある桜の樹は川縁にあり、あまり手入れされては居なかった。
桜の匂いに混じって、腐臭が漂ってきた。
大元を辿れば、地面からだ。
紫桜はポケットからハンカチを取りだし、口元を押さえる。
予想したくはない。
だが、これだけの腐臭は動物性のものだろう。
実体は無いが、盛り上がった場所の上に大型犬が霊体で留まっていた。
一頭だけではないらしく、数頭が大型犬にまとわりついている。
形を保っているのが大型犬一頭だけなのは、意志の強さが関係しているのかも知れなかった。
誰かがしでかした残酷な行為に悲しい気持ちになりながら、せめてこの場所から自由にしてあげたいと思い目をこらす。
じっくり確かめれば、辺りの土が掘り返され再び戻されているのがわかる。
すでにその上には草が生えそろっていたが、成長が周囲のものに比べて成長具合が違った。
いま自分が立っている場所も?
そう思うと薄ら寒い気分になるが、後で祈ればいいと思い直す。
でこぼこになった地面は桜の根を傷つけたのだろう。
生彩に欠ける桜の花びらの色合いが物語っていた。
桜は繊細で、傷が付けばすぐに枯れてしまう。
紫桜は茶色の瞳を微かに細め、確かめるように桜の幹に触れた。
人気のない場所で犠牲を捧げ、何を祈ったのか。
紫桜には何かを犠牲にして叶えようとする気が知れなかった。
食物連鎖により誰かを犠牲にして生きている身だけれど、自分の手で相手を欲望のまま殺めることはしない。
埋めるという行為をしたのも人間なら、この場所に桜を植えたのも人間。
桜を傷つけたのも人間。
悲しい気持ちが心を満たす。
緩慢な死へと向かっている桜をどうにかしてあげたかった。
「夢に……」
お節介かもしれない。
最期を見届けて欲しいと思ったのか。
それとも桜自身が居なくなれば、そばに居る大型犬やその他の霊が留まって、誰に目をとめられずに消えて行くのをどうにかしたかったのか。
紫桜はどちらも救いたいと思った。
自分勝手な判断でも構わない。
紫桜のそんな思いが桜に伝わったのか、桜は身を削るようにして、一枝を紫桜の目の前に降らせた。
ゆっくり落ちてきた枝を両手で受け止め、消えかけた桜の命が移るのを見つめる。
真摯な気持ちになりながら。
桜だけでなく大型犬達の霊も誘われ、枝へと迎え入れられる。
生彩の欠いていた桜の花が見事に蕾から開花させた。
「何処へ向かえば良いのでしょう」
と、紫桜は問いかける。
呼応するかのように、言葉ではないが手にしている枝からイメージを紫桜へと伝える。
ハッキリと像を結んだのを記憶に留めた。
「その場所へ」
約束をしましょう。
桜の枝が望む場所へと連れて行ってあげようと場所を離れる。
精気の感じられない桜の樹はいずれ崩れ、自然へと還るのだろう。
紫桜は以前、聞いた話を思いだしていた。
一般的な染井吉野は全て一つの木に辿り着くと聞く。
この樹も兄弟や親のようなもの。
受け入れるのは自然な行為なのだろう。
紫桜が見た光景は桜が枝を受け入れ、一つの流れに戻る、そんな光景だった。
一は全て。
全ては一へ。
あるべき姿へと。
形が無くとも溶け込み、共生する。
目を開いた時、手にしていた枝は崩れ落ち、光は目の前にある桜へと吸い込まれていた。
明るさが増したと感じ、見上げる。
あまりの見事さに紫桜は見とれた。
砂が指の間からこぼれ落ちる。
灯篭の灯りで砂が煌めいた。
輝きを増した桜が美しいと思った。
来年もまた来ようと心に決めて、紫桜はいった。
「また来年ここでお会いしましょう」
End
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