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二人の幸せ、二つの笑顔
この日、相生葵は世界に五百本しかないという、薔薇の如き高価な香りがするワインを幸せそうに抱えていた。
そう簡単に手に入るものではない「ロオズワイン」を、少々無茶を言って頼み込んでまで手に入れてもらったのには理由がある。
「奮発しましたねえ、相生さん」
「そう?」
ホストクラブ『音葉』御用達の卸問屋の主は、葵とも顔見知りだ。嬉しそうな笑みを浮かべた葵を見て、告げた主人に葵はさらりとなんでもないことのように返した。
確かに、ものがものだけにお値段もなかなか張るが、葵はもともと結構な高給取りだし、それに……。
ふと、思い出して。
葵の笑みが深くなる。
今からちょうど一ヶ月前――バレンタインの日。
その日の葵は、両手いっぱいにチョコを抱えて歩いていた。お店のお客さんからたくさんのチョコをもらったのだ。
持ちきれない分は紙袋に入れて、それでも家までもって帰るには少々難儀な量を抱えて歩く葵の目に、見知った女性の姿が映る。
「……愛さん」
彼女、藤咲愛も葵と同じく――少々ジャンルは違うが――夜のお仕事をしている人だ。
こんな時間にこんなところにいるなんて珍しい。
葵には気付いていないようで、愛はうろうろと店の前を行ったりきたり、せわしなく動いている。
声をかけようと近づいたその時、愛と目が合って……つい、葵は足を止めた。
「あ……」
愛の視線が、葵ではなくその手元へと注がれる。
「こんばんは……いえ。この時間だともう、おはよう、かな」
たいていの女性が喜ぶ笑顔を浮かべて見せたが、愛は気まずそうに視線を逸らすだけだ。
「愛さん?」
呼んだ名前に応えるように――ぽつり、と。
「私のなんて……迷惑よね」
おそらく、本人は聞かせるつもりなどカケラもなかったのだろう、微かな呟きが葵の耳に届いて震えた。
「ちょっと近くを通ったから顔を見せに来たんだけど、またにするわね」
笑ってくるりと体の向きを変えた愛の背中に、声をかける。
「ま、待ってください。一緒に飲みに行きませんか?」
咄嗟の言葉に。愛は立ち止まり、振り返った。
「せっかくだし、どこかに落ち着いてゆっくり話しませんか?」
「仕事は――」
「僕が、愛さんと飲みたいんです。愛さんがお忙しいというなら仕方がないですけれど」
告げれば愛は、ふるふると首を横に振って葵の方へとやって来る。
「忙しかったら通りがかったからってわざわざ待ったりしないよ」
愛はどこかほっとしたような口調で応えてくれたけれど、安堵したのはむしろ葵の方だった。
数多の女性を虜にするホストであるけれど、だからこそ、プライベートでは逆に不安になることがある。たいがいの女の子は自分の彼氏が、仕事であっても他の女性と仲良くするのを快く思わない。
愛は自分の彼女ではないしもちろん恋人でもない。好き……と口にするのも、少し違う気がする。
惹かれているけれど、どこか、一歩引いてしまう。自分に自信がないゆえに。
「良い雰囲気のバーが近くにあるんです」
「へぇ。あんたがそう言うなら確実ね」
腕を組むわけではなく。けれど、不自然に離れているわけでもない。自然と隣同士の位置で歩いて、二人は近くのバーへと足を運んだ。
葵が選んだバーは、葵自身が言ったとおりの、落ち着いた雰囲気のバーだった。
適度なざわめき、適度な灯り。煩すぎず、静か過ぎず。
「本当に素敵な店だね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
席に腰かけ、二人は改めて向き合った。途端に、ほんのついさっきまで流れるように口を出ていた話題が途切れ、何を話せばいいのかわからなくなる。
「あの……先ほど持っていたのは……」
何を言っているんだ。あのチョコが自分あてではなかったらどうするんだ。
そう思いつつ、でも、渡すのを諦めようとした愛を見てしまったから。こちらから言わなければあのチョコはそのままお蔵入りになってしまうだろうと思って。
告げた葵に、愛がぱっと顔を赤くした。
「あ、あれは……」
応える声が、小さくなっていく。
「あんたに……あげようと思ったんだけど……もうたくさんもらってるみたいだから……」
言いつつも愛は、そっとチョコをテーブルの上へと滑らせた。
「でも……もらってくれると、嬉しい」
まだチョコに触れたままでいた愛の手に、自分の手を重ねて葵は微笑む。
「ありがとう……とても、嬉しいですよ」
「ど、どういたしましてっ!」
ぱっと素早く離された手に、嫌がられてしまったかと一瞬頭に過ぎったが、愛の様子を見る限りではそうではないらしい。
他愛もない話をしながらボトルを一本開けて、それから、店を出た。時々妙に沈黙が目立つこともあったけれど、楽しいひとときであったことは間違いなく。
葵も愛も。まだ、この時間が終るには早いと……そう、思っていた。
「このあと……」
どうする? と。葵の言葉が続く前に、愛が家で飲まないかと提案してきた。
「ゆっくり飲むなら、どっちかの家の方がいいでしょう? ここからなら、私の家の方がちかいから」
「ありがとうございます。……あ、そうだ。その前にちょっとお店に寄ってもいいですか?」
「……?」
不思議そうな顔をした愛に、葵はにこりと微笑みかけた。
「今日は、愛さんからもらったチョコ以外は食べないから」
そう告げた瞬間の。その時の愛の可愛さは、葵はきっと忘れない。
思い出して……葵は、思い出し笑いにくすくすと静かな声を零した。
その日はそれから、愛の部屋で、貰ったペアワイングラスでお酒を飲んだ。
とても、素敵なバレンタインだった。
日本のバレンタインは女性から男性へ。逆にホワイトデイは男性から女性に。そんな習慣がいつのまにかできている。
だから今度は、自分の番。
314のタグがついた、ブレスレットにもなるシルバーの薔薇がついたチェーンと、そのチェーンで飾られたワインボトル。
中身も最高級の美味しいお酒だ。
愛は、喜んでくれるだろうか?
思って、葵はまた笑う。
愛の喜んでくれる顔を思うだけで、葵はこんなにも嬉しくなれる。本物の笑顔を見たら、きっともっと嬉しくなるだろう。
楽しいホワイトデイに思いを馳せて、葵は、愛の家へと向かうのだった。
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