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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


その傷は痛まない

 あたしを抱き上げたのは誰。いい匂いがする。心地よい暖かさ。これは誰。死にかけたあたしを抱き起こす、優しい手。そっと開いた瞳に映った姿は人間。赤い色。
「しっかりするんだ」
声が、頭に響く。きれいな声。あたしを恐れない不思議な人間。素敵な人間。とてもよい香りのする、魂を持っている。なんて芳しい、彼があたしに注ぎ込んでくれた真っ白な気はとてもおいしかった。

 春休み直前の土曜日、陸誠司は珍しく繁華街を歩いていた。師匠がここ半年ばかり探している本があり、やっと入荷したと古書店から連絡を受けたのだ。既に受け取りは済ませていて、リュックの中には厚い革表紙が入っている。
「そうだ、帰る前に・・・」
大通りを裏へ入るとおいしい点心がある。おみやげに買っていこうと決めて、誠司は次の角を左へ曲がった。
 この辺りは道を一本違えるだけで通りの雰囲気までもががらりと変わる。路地はさしずめ異世界への出入り口といったところだろうか。そういう場所にはよく不思議なものが潜んでいる。
「どうしました?」
角を曲がってすぐのところで少女がうずくまっていた。まだ少し肌寒い季節だというのに、春物の白いワンピースを着ている。ゆるく波打つ淡い色の髪の毛は、うっかりすると地面に触れてしまいそうだった。
「気分でも悪いんですか?大丈夫ですか?」
立ち止まり、膝を折った誠司は少女の肩にそっと触れる。ぞくりと鳥肌が立つほど冷たかった、貧血だろうか。
「どこかで休んだほうがいいですね。すぐそこにお店がありますから」
誠司に支えられ、少女はゆっくり立ち上がる。瞬間、長い髪に隠れた少女の赤い瞳が光ったことに誠司は気づかなかった。
 十分後、二人は四角い卓の上に飲茶を並べる形で向かい合っていた。
「じゃあ、あなたの学校はもう春休みなんですか」
「ええ、それでせっかくだから東京へ来てみたんですけど」
人の多さに立ちくらみがして、あの路地で休んでいたというのだ。聞けば少女はたった一人で、頼る相手も東京にはいないらしい。お人よしを固めたような誠司は、一も二もなくほだされる。
「よかったら、俺が東京を案内しましょうか?」
「迷惑じゃありませんか?」
「全然」
明日なら朝から空いてますと、誠司は箸袋の裏に自分の名前と連絡先を書き込んで少女に手渡し駅で待ち合わせをしましょう、と一方的に約束を取りつける。そうでもしなければ少女は決して頷きそうになかったから。
「でも本当に、迷惑をかけてしまいますよ」
「大丈夫です」
恐らく誠司は、少女が気兼ねするつもりで繰り返しているのだと言葉を受け取っていた。だが少女は本当の意味で念を押していた。これから少女は間違いなく誠司に迷惑なことをしでかそうとしていた。直接言葉にするのなら、少女は誠司を食らってしまおうと画策していたのだった。

 昔、といっても何年か前、誠司はヲロチ伝説のある湖で白蛇を助けたことがあった。真っ赤な目の美しい蛇で、見つけたときには瀕死に近かったのだが自身の気を蛇に注ぎ込むことでどうにか回復したのである。
 その白蛇こそ、ヲロチであり少女だった。当時はただ、帰っていく誠司を見送るしかできなかった。今はどうにか人間の姿に変化できるようになったため、誠司に恩返しをするため東京までやってきたのだ。
 ところがその途中、世俗がよほど毒気に塗れていたせいだろうか。ヲロチは本来の目的を忘れ果て、荒神の本能のままに誠司を食らってしまいたいという欲に支配されていた。小さな胸に抱いていた、恋に似た感情でさえ暗く悪い気に押し潰されかかっている。
「すいません、誠司さん」
翌日、待ち合わせに現れた少女は昨日よりもっと白いスカートとカーディガンで、その胸の中には反対にどす黒いものを抱えて、誠司にぺこりと頭を下げた。
「今日はよろしくおねがいします」
「こちらこそ。えっと、それじゃ、どこへ行きましょうか?」
あっちはいろんな食べ物屋があって、向こうは服屋が多くてと通りを指差す誠司。そのうなじは無防備で、少女はすぐにでも爪を立てたかったが人ごみの中に射るような気配を感じ伸ばしかけた手を引っ込める。ちりちりする指先を後ろ手に組みつつ
「あまり人の多くないところが・・・」
「そういえば人ごみが苦手なんですよね」
昨日、少女との出会いを誠司は思い出す。本当はヲロチが、人気のない場所で誠司を襲いたかっただけなのだが
「じゃあ大通りをよけて歩きましょう」
細い裏道をしばらく歩くと小物屋があった。丸太造りの小さな店には鉱石で作られたアクセサリーや草木染めのハンカチ、流木の置物などがいっぱいに並べられていた。休日のわりに客足は多くなく、二人はゆっくりと商品を眺めることができた。
「これ、誠司さんに似合いそうですね」
テーブルの上に置かれた、ろうけつ染めのバンダナを少女は指差した。
「どれですか?」
「これ」
手にとって広げてみると、赤い色に龍が白く染め抜かれている。ちょうど頭に巻くものが欲しかった誠司は、鏡の前で額にあててみた。
「どう・・・でしょう?」
「よく似合ってます」
「そうですか」
誉められたのが面映く、誠司は照れ笑いを浮かべた。
「私、赤い色が好きなんです」
と少女は言った。

 小物屋を出て、二人は少し歩いた。こんな繁華街にあっていいのかと思わせる小さな公園を見つけたので、ジュースを買ってベンチで休むことにした。
「疲れましたか?」
「大丈夫です」
しかし答える少女の視線は朦朧としていた。さっきの店のあたりから激しい頭痛に襲われていたのだ。早く誠司を食らってしまいたいのに、その頭痛が邪魔をして、苛々とする。
「なんだか顔色が・・・これ、使ってください」
誠司はポケットからハンカチを取り出し、少女に差し出す。
「すいません、無理をさせてしまっ・・・」
謝罪を繰り返そうとした誠司の声が途中でひきつった。黒い衝動に飲み込まれた少女が、いや、その姿は半分ヲロチに変貌していた、ヲロチが鋭い牙で誠司の手に噛みついたのだ。白いハンカチが、誠司の血で赤く染まる。
 反射的に手を引いた誠司であったが、目の前で起きている事実に頭の中が対処しきれていなかった。なんだこれは、と五感が疑っていた。儚げな少女と荒々しいヲロチとがつながらなかったのだ。
「お兄ちゃん!」
大きく口を開けて襲いかかるヲロチ。牙が再び誠司に向かってきたのを、甲高い声と共に飛んできた投剣が弾き飛ばした。
「なにやってんのよ、もう!」
「は、暖菜」
現れたのは誠司の妹、陸暖菜。既に臨戦態勢で片手には殲討を携え、もう片方にはさっきのと同じ房のついた投剣を構えている。
「わかんないの、もう!あの子、ずっと体から妖気を出してたじゃない!」
「妖気?人間・・・じゃ、なかったの?」
「人間がどうやってヲロチに変わるのよ!」
きゃんきゃんと吠えたてる暖菜。実は誠司が女性と出かけるらしいという噂を聞きつけ興味本位で尾行を思いついたのだが、少女を見た途端警護に切り替えた。少女の赤い瞳からは並々ならぬ妖気が溢れ、それはまさしくヲロチの尾のごとく誠司に絡みつこうとしていたのだ。
「私がいなかったらお兄ちゃん、とっくにヲロチの餌だったんだよ!」
緑色の目は油断なくヲロチに配りながら、暖菜は鞄の中から誠司の手甲を取り出し、放る。その手甲も今日のバンダナと同じ、赤い色をしていた。
「・・・あか・・・」
そして手甲を見た途端、ヲロチの様子が変わった。さっきまでためらうことなく誠司に牙を向けようとしていたのがゆらゆらと体をくねらせ、のた打ち回る。
「なに?」
「ヲロチの姿が・・・あの子に・・・」
誠司と暖菜の目の前で、ゆるやかな変貌が繰り返されていた。ヲロチの姿が少女に、少女の姿がヲロチに揺らぐ。おまけに変化は体だけでなく、心にも現れていた。ヲロチの心に少女が、少女の心にヲロチが宿る。
「こ・・・ろして・・・」
ヲロチの大きな口から、少女の悲痛な願いがこぼれた。赤い瞳からは涙がこぼれていた。

 自分に襲いかかってきたときの凶暴な相貌からは連想が働かなかったのだが、その涙で誠司ははっきり思い出した。かつて、自分が助けた小さな白蛇のことを。池の淵にぐったりと倒れていた白蛇の姿と、路地でうずくまっていた少女が符号する。
「あのときの・・・」
「おねがい、殺して」
今度は少女の姿のまま、哀願する。いつの間にか少女の白い服が、真っ黒に染まっていた。黒い汚れはいくら洗っても白には戻らない。灰色にしかならず、再び汚れていくだけ。
「だから殺して」
両手で顔を覆う少女、しかしスカートの中から伸びる長い尾は凄まじい勢いでくねり、誠司を横から大きく弾く。暖菜の目の前で誠司の体は数メートルも飛ばされた。
「お兄ちゃん!」
悲鳴を上げたのは、少女も同じだった。もう、ヲロチの体が自分の意志ではどうにもならないのだ。
「・・・・・・」
痛みを体から頭へ伝えながら、そして痛みに耐えながら誠司ははっきりと理解した。この痛みは自分ひとりのものではない。同じくらい、いや以上に少女は血を流している。ならば少女の涙を止めなければいけない。たとえ、どんなに辛くとも。
「引き受けました」
公園の土を掴んで、誠司は立ち上がった。額が割れて血が伝うのを、さっき買ったバンダナで止める。やっぱり似合う、と朧な少女の意識は思った。
 土を握りしめた誠司の手甲が、気を集中させるにつれて光り出した。毒をはらんだヲロチは水気を持っている。五行で水を剋するものは土気、力ずくで邪気を祓うつもりだった。ただし、この力を使うと少女自身も・・・。
「ごめんなさい」
出会ってから何度、少女は誠司にそして誠司は少女にその言葉を使っただろう。苦しまないようにと力を込めるために目を閉じた誠司は、瞼の裏にあの日の幻を見た。

 あたしを抱き上げたのは誠司。いい匂いがした。暖かかった。赤い手甲、優しい手。そっと開いた瞳に映った誠司は、真っ直ぐにあたしを見てくれていた。
「しっかりするんだ」
頭に響いた声。大丈夫、あたしは大丈夫だから。痛くなんてなかったから。だからそのよい香りの魂を濡らさないで。あたしに注ぎ込んでくれた真っ白な気を、曇らせないで。
「お兄ちゃん・・・」
誠司の頭の中で、少女の声が響いていた。それを散らすように暖菜の声が聞こえて、誠司は目を開ける。足元には血で染まったハンカチが落ちているだけだった。
「お兄ちゃん」
再び暖菜が声をかけるまで、誠司はハンカチとそして少女の座っていたベンチを見つめていた。肩が震えているように見えた。
 名前を呼ばれた誠司は、返事をする前にハンカチを拾い上げる。穴の開いたそれをぎゅっと握りしめ、そして
「暖奈・・・帰ろうか?」
振り返った誠司は泣いていなかった。静かに、微笑んでいた。