|
夕闇の向こうから
茜色から藍色へ。雲ひとつない空は、美しいグラデーションを描いて夜へと移行していく。
傾き始めた太陽はあっという間にビルの陰へと姿を隠し、辺りが暗くなるのにそう時間はかからなかった。
ポツポツと申し訳程度に街灯が光る住宅街を、一条くるみはひとり急ぎ足で歩いていた。
いつものように犬神勇愛の家で剣の練習をしていたのだが、集中していたためか時間の経過をすっかり忘れていて、ふと気付いたら空が暗くなってしまっていたのだ。
いつもならばそうなるまえに勇愛が止めてくれるのだけど、あいにくと今日は別件の用事でいなかったのだ。
「ちょっと遅くなっちゃったな〜」
まあ、遅くなったところでそう心配する者がいるわけでなし。単純に、くるみがあまり夜に出歩きたくないだけだ。
昔よりはずいぶんマシになったし、今ではこの剣が――勇愛の実家の蔵で手に入れた剣がある。何かあっても最低限自分の身を守ることくらいはできるのだけど、やっぱり、あまり良い気分はしない。
たとえば、首を捜して歩き回るモノとか。交通事故の跡には夥しい血に濡れて彷徨うモノがいたりもする。
思い出してしまって、くるみは慌てて首を振った。ああいうのは、考えていると寄ってきやすいのだ。
「早く帰ろう」
走る足をもう少し速めた、その時だ。
妙に辺りが静かなことに気がついた。
周りには灯りのついた家があり、賑やかな声のひとつやふたつ、聞こえてもいいものなのに……。いや、聞こえているのに、なにか、遠い。
自分を見つめている何者かの視線が――その気配が、日常の気配を遠くさせているのだと気付いたのは、足音が聞こえてからだった。
静かに、ゆっくりと。
足音が近づいてくる。
「……その剣を、渡してください」
街灯の光の下(もと)へと現れたのは、一人の女性。自分と同じか、少し上くらいの年齢だ。
夜に溶け込むような青い髪とは対照的に、赤い瞳は闇夜の中でも良く映えた。
「貴方、誰?」
「それは貴方のものではありません。剣を返してください」
「……これは勇愛ちゃんの家の蔵にあったんだよ」
出所までは知らないが、少なくとも、くるみが生まれる前からあの蔵にあったのは確かだ。だとすれば、くるみと同じくらいの年に見える彼女が生まれる前からも、あの蔵にあったはずだ。
「貴方がどこでそれを手に入れたのかは私の知るところではありません」
彼女は告げて、そして、繰り返す。
「その剣を……渡してください」
くるみはぎゅっと剣の柄を握り締めた。
「やっと勇愛ちゃんの力になれるかもしれないんだもん」
ずっとずっと、勇愛の力になりたかった。
勇愛の力になりたくて、けれど、くるみにできるのはただ応援することくらいで。
もどかしくて、悔しくて。そして、怖かった。
妖魔と戦うのが勇愛の仕事。それはくるみに口出しできることではない。だけど、その戦いで勇愛が傷つくことは確かにあった。
そのたびに、何もできない自分が哀しくて、悔しくて。
そんなくるみがやっと手に入れた、大切なものを守ることができる力なのだ。
「理由も聞かずに渡せないよ!」
もし本当に彼女が正当な持ち主だとしても、聞いても渡せないかもしれないとも考えてた。だから余計に……こちらの都合を無視してただ告げる彼女に、これを渡せるわけがなかった。
「そうですか……」
彼女が背の剣をスラリと抜いた。
……彼女は、こちらの言葉を聞く気がない。無理やりにでも持ち去るつもりなのだ。
くるみも剣の柄に手をかける。ある意味、気が進まないのも確か。
だけど、奪われるわけにはいかない!
駆けてきた彼女の剣が振り下ろされ、くるみの剣がその勢いを殺して止める。
けれど彼女の力は相当なもので、このままでは押し負けるのは明らかだった。くるみはすぐさま後ろに下がり、彼女が体勢を整える前にと、剣を振るう。
剣技においてはまだまだ付け焼刃なくるみと違い、彼女はかなりの腕前らしい。あっさりと避けられてしまう。
「……貴方では私には勝てません」
力の差は、歴然だった。
けれど、まだ。
まだくるみは全ての手を曝したわけではない。
繰り返す剣戟の音がふと止んで、気付いたらそこは学校のグランドだった。いつの間にかここまで移動してきてしまったらしい。
よくぞ誰にも見られなかったものだと幸運に感謝し、そして――彼女に、向き直った。
彼女の剣技はただの剣技ではなく、雷を発生させ風を起こし炎を舞わせる。一歩間違えば怪我ではすまないそれをどうにかこうにか剣で受け止め、エネルギーへと変えていく。
そう。彼女が剣の技だけで向かってこなかったのは、ある意味ではくるみには好都合だったのだ。
充分に剣にエネルギーが溜まったことを確認してから、くるみは、勢いよく剣を振った。
当てるには遠い位置で振り下ろされた剣の切っ先から光が生まれて、一直線に彼女に向かって翔けていく。
これは彼女にも予想外だったらしい。
ビーム刃は彼女に直撃し、もうもうとグラウンドの砂が舞い上がって粉塵が視界を塞ぐ。
「……や、った……?」
呟きとともに、握った剣の切っ先が下がった。
まだ彼女がどうなったのか確認していないのに。
戦いの経験に浅いくるみは、攻撃が直撃したのを見て、気を緩めてしまったのだ。
その、瞬間。
「きゃあああああっ!!」
背中に強烈な痛みが走り、くるみはその場に崩れ落ちた。
「剣を返してもらいます」
背後から淡々とした抑揚のない声が聞こえた。
彼女だ。
どうやってかあのビーム派を防ぎ、粉塵に隠れてくるみの背後にまわっていたらしい。
「……」
何か、言いたいのに。
このまま奪われてなるものかと、そう、思うのに。
ジンジンと体中が痺れている。
動くどころか、喋ることすらままらなかった。
この剣を、守りたいのに。
身体が動かない……。
一歩ずつ、彼女が近づいてくる――もう、守れないのか。
そう思った時だった。
彼女が唐突に、後ろに向かって飛んだ。一瞬前まで彼女がいた場所に衝撃が叩きつけられる。
「妙な気配を感じて来てみれば……」
聞き慣れた声。
少しだが、身体の痺れは薄れていた。
「ユメちゃん……」
思いが言葉になって唇に乗る。
怒りに満ちた声で彼女を睨んで、勇愛が立っていた。
来てくれたことが嬉しい。
けれど、勇愛を守れない――また、守ってもらうだけの自分が、寂しい。
今の勇愛にくるみの葛藤を気付く余裕などなく、勇愛は殺気すら湛えて彼女を見つめた。
いまさらながら、銀の髪からひょこりと、髪と同じ色の耳が顔をだしていることに気付く。それから、やはり銀色の……尻尾。
さわり心地の良いあの毛並みが、怒りに震えて逆立っている。
「よくもくるみを!!」
叫ぶが早いか、勇愛は彼女の方へと飛び出した。
くるみの目では追いきれないほどの高速で、音が行き交う。
勇愛の剣狼派が地面のあちこちに当たって辺りが砂煙に包まれる。
「ユメ、ちゃん……」
まだ力の入らない身体にどうにかこうにか力を込めて、懸命に立ち上がる。
だが。
今の自分になにができるのか。
戦いはくるみなどでは介入できないほどの激しいもので、ふたりのスピードに目だけですらついて行くことができていない。
「ユメちゃん!」
叫ぶ声も、今の勇愛には届いていないらしい。
彼女はといえば、勇愛の容赦ない攻撃を前にして、さすがにくるみ相手の時のような余裕はないようだった。
確かに、彼女がふっかけてきた戦いだ。けれどこのままでいいはずがない。
このままでは二人とも無傷ではすまないだろう。
そう思うも、止める手段が見つけられず……くるみはただ、勇愛の名を呼ぶしかできずにいた。
|
|
|