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彼方からの呼び声
------<オープニング>--------------------------------------
「・・・・・・ゅ・・・・・・ん・・・・・・」
彼が聞いたのは、断続的な女性の声だった。辺りには何もなく、彼は寂れて跡形しかないパーキングエリアの自動販売機でコーヒーを買おうとしていた。ポケットから小銭入れを出した
とき、彼女の声が聞こえた。
「・・・・・・さ・・・・・・さ・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・」
彼らが聞いたのは、かすれた女性の声だった。辺りには何もなく、寂れて跡形しかないパーキングエリアの掃除されていない手洗い所から出てきた時に、近くの森の中からその声は聞こ
えた。みんなはじめは自分だけに聞こえたものと思っていたが、全員聞いていたのだった。
「・・・・・・っていう事があるのよ。老若男女問わず時間も問わず。噂を総合すると、聞こえてくる単語は“13”と“ゆうさん”の二つ。これは怪奇のにおいでしょう?」
「ふむ」
「何故数字なのか、その“ゆうさん”とは人の名前なのか?早速さんした君を取材に行かせようかと思ったんだけど、彼、季節はずれのインフルエンザにかかっちゃって、寝込んで行けない
のよ。だから遊佐君、代わりに行ってくれる?」
ばさっ、とそれらの噂を纏めたのであろう書類を、編集長の碇麗香はデスクに上に放った。
遊佐と呼ばれたのは三十前後の男性だった。
彼はアトラスに出入りしているフリーのカメラマンである。こんな風に、急に取材依頼を受けることも多い。
「ええ、判りましたよ。しかし三下君らしいですね、季節はずれのインフルエンザなんて」
苦笑しながら遊佐は携帯電話を取り出し、リダイヤル機能を使い電話をかけた。
「相変わらずの愛妻家振りね。奥様はお元気?」
「おかげ様で。まあまだ結婚してから一年半ですから。愛妻家なんて言っても、今のうちだけですよ、今のうちだけ」
照れながら遊佐言った。そしては電話で妻にこれから取材に出かける、もしかしたらしばらく泊まりになるかもしれないから夜は戸締りをしておくように−そう伝えている。
「ところで編集長、どこまで行くんです?まさか、俺一人ですか?」
「いいえ、一人ではなくてよ。ちゃんと随行してくれる物好きが居るわ。場所は・・・・・・ちょっと待ってね」
麗香は先程の書類を一瞥して遊佐に渡した。
「五国峠の廃パーキングエリアよ。近くに森のある所。結構田舎になるけど、うまくすれば日帰りできる所ね」
ごとん。
重たい音が編集部の雑踏に紛れた。遊佐が携帯電話を落としたのだ。
顔色が青ざめている。それは少なからずとも恐怖に彩られたものであった。
「ご・・・・・・五国峠・・・・・・?」
−遊佐は、何かを知っている。
麗香はその表情で直感した。
麗香は資料を二冊持ち、別室へと入る。そこには、新田・陽介(にった・ようすけ)と、海原・みその(うみばら・みその)の二人が居た。。二人とも麗香から手渡された資料を見つめてい
る。
陽介は極ノーブルな品の良い仕立てのスーツを着ていたが、みそのの方はは一風変わったというか・・・・・・黒馬の着ぐるみぱじゃまを着ていた。あまり場にそぐわない格好だったが、何と
なく人に違和感を持たせない雰囲気が、彼女にはあった。
「はじめまして。心霊現象を専門に調査している新田です」
「いつもお世話になっております。この度は野次馬根で気まぐれに参りました」
入ってきた麗香に向かって二人は挨拶をする。
「今回はお願いね、二人とも」
「こちらこそ、月間アトラスの取材に協力できるなんて、光栄です!毎月購読しているんですよ」
心底嬉しそうに陽介は言う。麗香としても勿論悪い気はしない。
「ありがとう、嬉しいわ」
「碇様、質問がございます」
礼儀正しくみそのが挙手して麗香に尋ねた。
「なにかしら」
「“パーキング”とは何なのでしょうか。廃、というからには施設の一種かと思われますが」
真剣な顔で彼女は悩んでいる。麗香は危うくズッコケそうになったがクールビューティーといわれている自分の姿を思い寸止めでこらえた。こめかみが少しひくついて見える。この質問をし
たのが三下であったら怒声が飛んでいた事は間違いない。
「パーキングというのは、大体日本の高速道路に設けられている休憩施設の事ですよ。廃と言うからには、もう使われて久しくなった所なんでしょう」
陽介は丁寧にみそのに説明した。優しげな面立ちの通り、親切な青年らしい。みそのも真面目に説明を聞き、理解したようだ。
「・・・・・・まぁ、今回はさんした君が行けない代わりに、遊佐君っていうカメラマンが同行してくれるわ。彼は今社用車の使用許可を事務局に申請しに行っていていないけど、後で紹介
するわ。うーん、でも、彼、何か知っていそうなのよ」
「何かって、聞こえてくる単語にですか?」
「ええ」
麗香も質素なパイプ椅子に腰掛け、インスタントのコーヒーを口に入れる。
「ジュウサンとユウサン・・・・・・発音は似ていますよね。同じ単語なのかもしれません」
「その遊佐様が関連しているのでしたら」
またも挙手してみそのが発言を呈する。二人は彼女に視線を移す。
「野次馬的憶測で申し上げて宜しいのでしたら、その声は遊佐様の元恋人なのではないでしょうか?」
まだ十代前半であろうみそのの口から問題発言が飛び出した。当の本人は先程の表情とまったく変わっていない。
「ゆささん、では語呂が悪いので愛称では?」
「確かに、海原さんの仰るとおりですね」
一理あり、とばかりに陽介が同意する。
「ご本人がいらっしゃるのですから、お聞きするのが早いかと存じます」
「で、でもちょっと聞きにくいわよね。彼、新婚一年半だそうよ。何となく微妙な時期じゃなくて?」
「奥様にお聞きしても構わないと存じますが」
「それはあまりよくないと思いますよ・・・・・・」
みそのの大胆だが尤もな意見は却下される。本人は不服そうでもなく、淡々としている。
「遊佐さんに事情を聞くのはどうかと思いますよ。だってまだ関係者と断定されたわけではないですし」
「まあ、少し残念です」
「とにかくここでどうこう言っているよりも、現場百篇よ。二人には綿密な調査をお願いするわ。ちゃんと記事に出来るような事実を掴んできてね」
「判りました、頑張ります!」
「お手伝いさせて頂きます」
何はともあれ、人選的には間違いはなかったようだ。麗香はようやく一息つく。再びコーヒーに口をつけたとき、二人に待機していた貰った第三会議室の扉がゆっくりと開く。
三人が何とはなしに視線をやると、そこには登山家のような格好をした遊佐が立っていた。顔は青白く、どこか怯えている様にも見える。
「・・・・・・へ、編集長」
「ああ、紹介するわね、二人とも。彼が遊佐君。遊佐君、今回の調査に随行してくれる、新田陽介君と海原みそのさん」
かすれた声で遊佐は声をかける。それに対し麗香は淡々と陽介とみそのの二人を紹介する。陽介、みその、遊佐は少しぎこちなく握手を交わす。
「よ、宜しくお願いします」
「こちらこそ、どうも。車の運転は、遊佐さんがしてくれるのですか?」
「はい、俺の方で・・・・・・道も、多少は知っていますので・・・・・・」
陽介と遊佐がさりげなく会話をさりげなくしようと試みている間、みそのは悠々とお茶を飲んでいた。先程からの発言といい、割合マイペースなのだろう。遊佐はといえば、なんだか目が
きょろきょろとしていて落ち着きがなく、上着の裾を握ったり離したりしている。
「あの、お体の具合が悪いようでしたら、僕が変わりに運転しましょうか?資料には地図も載っているから行けると思うんですけど」
「いや!それは・・・・・・はい、大丈夫です。俺が運転します」
「ですが・・・・・・」
「まあまあ、遊佐君が大丈夫って言っているんだから、平気でしょ。駄目そうなら運転代わってあげて」
「ならいいですけど・・・・・・あ、そうだ!」
心配そうにしていた陽介が、突然声を上げた。
「峠を管轄にしている警察署にも寄って行きませんか?もしかしたら、車の事故でなくなった方かもしれません。一応、過去の交通事故の記録を調べた方がいいのでは?」
「新田様の仰るとおりだと思います。何事も調査致しませんと公正な視点から物事は図れませんもの」
二人の意見は至極全うなものだったので、麗香が管轄の警察署に連絡を入れておく、という事になった。一般人が軽々しく自己の記録を閲覧できるとは思えないが、辣腕編集長の
麗香の事だから、きっと巧くぼかして閲覧できるようにしてくれる事だろう。
「ではそろそろ参りましょう。急がなくては帰りが遅くなってしまいます」
パイプ椅子からみそのが立ち上がる。その動作は静かで、音が殆どなかった。
「あ・・・・・・そうですね。じゃあ、ちゅ、駐車場に案内しますので・・・・・・」
足取りも覚束なく、繰り出される言葉も頼りなく、遊佐はのろのろと会議室から出て行った。彼からは精彩というものが感じられない。
「・・・・・・やっぱり、関係者と見たほうが良いのかしら?」
「そんなにいつもと違うんですか、遊佐さんは」
「違うというか、どう見ても様子がおかしいじゃない。挙動不審というべきかしら?」
「それでしたら」
三度みそのが挙手をする。陽介と麗香は会話を止め、彼女を見つめる。
「わたくし達が道中お調べいたします。声の出所の正体を掴めれば遊佐様が関係していらっしゃるかどうか判別がつきますし、何より、今ここで判断しなければならない問題ではありま
せんでしょうから」
みそのの言う事は尤もなことだった。というよりも、今まで見えていなかった論点を明らかにしたというべきか。
「あ、あの・・・・・・みなさん、まだいらっしゃらないのですか?」
会話が集約された時、遊佐が扉を開けて声をかけてきた。どうやら扉の外でずっと待っていたらしい。
もしかして、今の会話は聞かれただろうか?
陽介はその事を咄嗟に思ったが、チラリと横に居る麗香を見ると、
「会議室は基本的に全室防音になっているわ。外に音は聞こえていない筈よ」
ポソリと陽介だけに聞こえるほど小さな声で無言の質問に答えた。
「今参ります。では碇様、朗報をお待ち下さいませ」
緊迫感が全くない着ぐるみパジャマの格好で、みそのは深々と一礼し会議室を出て行く。陽介も慌てて麗香に一瞥した後、追いかける。会議室の扉はゆっくりと閉まり、その閉まるま
での間に廊下を進んで行く三人の足音が聞こえ、少しずつ小さくなっていく。
はあ、と一息ため息を付いた後、またコーヒーに口をつける。もうすでにそれは冷たくなっていた。コーヒーポーションが少しずつ分離されている。コーヒーの水面に時分の顔が映り歪む。
この後麗香がなす事はすぐに警察に電話を入れて、その後は、もう三人が無事に帰ってくるのを願うばかりだった。
駐車場は白王社の地下にあった。ひんやりとした空気がまだ寒いこの季節、身体を冷やしてくれる。三人はあれから一言も喋らずにいた。陽介は少し居心地が悪そうにしていたが、
みそのは別段構う様子もなく、遊佐に至っては心此処にあらずのままだ。
社用車は極ノーブルな五人乗りの白い乗用車だった。運転席に遊佐、助手席に陽介が座り、後部座席にはみそのがちょこんと座った。遊佐は陽介がシートベルトを着用したのは確
認すると、一言もなく車を発進させた。
時刻はまだ昼前であったからか道は混んではいない。信号にもあまり引っかからずに道をすいすいと進んでいく。このペースで行けば、昼過ぎには取り敢えず警察署へ到着することは出
来ると思われる。昼食もその近くで摂ろうと陽介は提案し、反対するものもなく決定された。
「しかし、この声の主はどういう方なのでしょうね?」
延々と続く沈黙に耐えられなくなったのか、陽介は思い切って、といわんばかりの明るい声で二人に問いかけた。
「調べれば判るかと存じます。ねぇ、遊佐様?」
どことなく艶っぽさを含んだ声で、みそのは問いかける。遊佐は真正面を向きハンドルを握っているというよりしがみ付いているかのような姿勢のままだ。
「・・・・・・・・・・・・たい・・・・・・・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・重たい・・・・・・」
「何が重たいのですか?」
「・・・・・・!あ、いや、別に・・・・・・何でも、ないですよ」
無意識に出たのだろう言葉は、“重たい”というもの。遊佐は一体何を“重たい”と称したのか。問いかけた陽介も考えてみたのだが、さっぱり見当も付かなかった。バックミラー越しにみそ
のを見ると、彼女も同様なのか、可愛らしく小首をかしげている。
陽介もみそのも、直感的に今回の事件のキーワードになるような気がした。
道は空いていたので、当初の予定通り、昼を少しすぎた時間帯に警察署に着いた。昼食を摂ってから警察署に行こう、ということになり、そこから少し離れたファミリーレストランに入っ
た。陽介はほうれん草のパスタ、みそのは海鮮ドリアを頼んだのだが、遊佐は何も頼まなかった。飲み物ですら胃に入らないようだった。最初にウェイトレスが運んできた水だけを飲んでい
る。
「やっぱり、具合が悪いですか?」
「・・・・・・いえ、食欲がないだけで。大丈夫です」
だが大丈夫そうには見えなかった。顔は先程よりも蒼白く、うっすらと汗もかいているようだ。暖房がしっかりと効いている店内であるにもかかわらず、だ。
食事は三十分ばかりで済み、会計は遊佐が領収書を勿論アトラス編集部できった。二人は遊佐と店員に「ご馳走様でした」と丁寧に言った。
車の運転は継続して遊佐が行った。陽介は代わりを申し出たのだが、遊佐の方で断った。
この辺りも道は空いていて、十分もしない内に警察署内の一般駐車場へと着く。
「・・・・・・すいません、車の中で休んでいてもいいですか?」
「え?」
「判りました。ゆっくり休んで下さいませね、遊佐様」
気遣った後、みそのはあっさりと車を降りた。陽介も続く。躊躇なく署内へと歩いていくみそのに陽介は車を振り返りつつ声をかけた。
「遊佐さん、大丈夫でしょうか?身体の調子もそうなんですけど、なんだか逃げ出してしまいそうで、ちょっと色々と心配です」
「大丈夫だと存じます」
やはりためらいのない口調でみそのは答える。署内の一歩手前で陽介を振り返り、言葉を続ける。
「今遊佐様がここから逃げ出しても、何のメリットもございません。逃げた所であの方の過去にとった何らかの行動が取り消される事はありませんし」
「逃げた所でやましい所があれば、結局は逃げられない、という事ですね」
そういうことです、とみそのは、ふふ、と笑った。年の割りに艶やかな笑みを浮かべる少女で、陽介はドキリとした。そしてちょっとオジサンぽい事を思ってしまった。
−最近の若い子はなんだかすごいなぁ。
と。
警察署内の交通安全課に寄ると、麗香から連絡が来ていたらしく、すぐに話を聞いてくれた。麗香がどんな風に事情説明したのかはわからないが、警察官の対応は親切だった。
「あの峠では確かに何度か事故は起きています。ですが、怪我人は出ても死亡者は出ていないんですよ」
中年の制服警察官は“五国峠事故資料”と名づけられたファイルをテーブルの上に並べて教えてくれた。
「あの峠は二十年位前まではかなり頻繁に使われていたんですけどね、高速道路が近くに通ってからは全く使用者が居なくなって。今じゃ本当に稀なんですよ、使用者は」
「その事は結構知られているんですか?」
「そうですねぇ・・・・・・この辺りの人間なら大抵知っていますよ。高速道路が出来たときは結構盛り上がりましたし、若い子なんかは、そんな峠があること自体知らないんじゃないかなぁ」
かなり寂れているのはやはり事実のようだ。
交通事故の死亡者の霊だと見当をつけていた陽介は、ちょっと途方に暮れた。それならば、一体何が誰を呼んでいるというのだろう。だが陽介は諦めずに新しい仮説を立て、尋ねて
みた。
「それでは、昔・・・・・・そう、昔話とかでもいいですから、悲話が伝わっているとか、そういった事はありませんか?」
「うーん・・・・・・私はこの土地で生まれ育ちましたが、そんな話は一向に・・・・・・」
申し訳無さそうに警察官は答えた。
「やはり直接現場に行って手がかりを得るのが宜しいのかもしれませんわね」
「そうですね。事故の記録に載っていないのであれば・・・・・・」
「あ、そうそう、関係ないかもしれませんがね」
ふと思い出したように警察官が声を上げた。そして曖昧な笑みを浮かべながら言った。
「二年位前に、あの峠を歩いている女性を見かけたって話があったんですよ。車の通りですら少ないのに、歩いている人間になんて居る訳ないって思うでしょ。なんかの見間違いじゃな
いかって事で落ち着いたんですけど。どうなのかなぁ、関係しているのかなぁ」
首を捻る。
「遊佐様は、確かご結婚されて一年半、との事でしたね」
「ええ、そういえば、碇さんがそのような事を・・・・・・って、海原さん、まさか」
どうやら思った所は二人とも同じらしい。しかし少々突飛とも言えるかもしれない。何しろ、遊佐が関係しているとはっきりと判った訳ではないのだから。
二人は警察官から少し離れてこそこそと意見を交わす。
「痴情の縺れ、だとしたら、両者の言い分を聞いてみるのが宜しいかと。その方が面白いですし、オチもつくでしょう」
「そうだとしても、面白いはちょっと不謹慎ですよ、海原さん」
苦笑しながら陽介がたしなめると、みそのは、まぁ、と言った表情で口元に手を当てた。
「でも遊佐さんが関係していると仮定すると、確かに一番しっくり来ますね」
「そうでしょう?遊佐様をお連れして、直接その方にお話を尋ねてみませんこと?声をかけてくるくらいですから、きっと話も通じると思います」
相変わらずどこか楽しそうにみそのは言う。
だがみそのの言うことももっとものように陽介は思えた。
話が通じないとも決められていないのだし、第一思い残した事があり、それが原因で成仏できないのであれば、なんとかして思い残す事をなくし一日も早く成仏させてあげたいと思う。
「・・・・・・仰る通り、まずは、その峠に向かってみましょうか。碇編集長も、現場百篇だと仰ってましたしね」
そんな提案に、みそのは年相応らしく嬉しそうに笑った。
「御方へのお土産話になればよいのですが」
御方って誰だろう?
そんな疑問が陽介の脳裏によぎったが、みそのの知り合いなのだろうと頭で片を付けた。
「あ、とりあえず、お話をありがとうございます。資料、お返ししますね」
「いやいや、こちらこそ大した役に立てなくて。峠に行くなら気をつけて下さいね。何しろ、整備の面でも二十年前のままだから。ガードレールとかも結構錆びていると思うんでね」
「ありがとうございます、気をつけて行ってきますね」
警察官は良い人柄をしていた。二人を警察署の出入り口まで送ってくれ、安否も気遣ってくれた。
「遊佐様になんと切り出しましょうか」
やはり楽しそうに言いながら、みそのは車へと歩いていく。心なしか足取りが軽い。
窓越しに遊佐を見ると、顔は先程よりも青ざめていて、最早ハンドルにもたれかかっている事態だ。身体は見て取れるように震えている。
コンコン、コンコン。
四度ほど窓をノックしても反応は無いが、この状態だと乗り込む時に扉を開けたらひどく驚きそう−いや、怯えそうだ。
諦めずにまたノックする。今度はみそのも後部座席の方の窓を叩く。それでようやく遊佐は気が付いたようで、運転席側の窓を叩いていた陽介ら気が付く。
「どうやら事故ではなさそうでしたよ」
窓を開けた遊佐に、陽介は経緯を話した。気もそぞろといった感じだったが、話さないよりはマシである。反応が見られるからだ。
遊佐はより一層落ち着きをなくしたようで、歯ががちがちと鳴っているのが僅かに聞こえる。
「運転変わります。どいて下さい」
有無を言わせぬ強い口調に、遊佐も大人しく後部座席に座る。肘を足につけ、その手で頭を押さえている。誰がどう見ても、関係者だとわかる。
「関係性と動機、ですね」
助手席に座りなおしたみそのが、シートベルトを締める様陽介に促される。仕方が判らないので、陽介に締めてもらっている。それが終わると嬉しそうに微笑んだ。
「直に判るでしょうね」
車が発進する。
終着点である、五国峠の廃パーキングエリアに向かって。
その廃パーキングエリアまでは一時間強かかった。
道中はくねくねとしていてカーブが多かったが、どれも緩やかなもので、“カーブ注意!”の標識すら立たないほどの物だった。使われて久しいのが目に見えて判った。道はアスファルトとは
名ばかりのぼろぼろのコンクリートで出来ており、所々雑草が道から伸びていた。ごみや空き缶、煙草の吸殻すらも落ちていないのが、使われていない証拠の様にも思われた。普通の
高速道路だと、コンビニエンスストアの袋などや、ご丁寧に纏められたゴミ袋などが放置されているからだ。ここにはそれらがなかった。
「ここですね」
車を降りて、辺りを陽介は見渡す。人間に作られ、人間の為にうらびれたパーキングエリア。売店のすぐ裏手には延々と森が続いている。
壊れかけて殆どが売り切れランプの点灯している自販機が三台。朽ち果てた売店。全く掃除のされていないであろう手洗い場が一つ。入り口で男女に分かれている様だ。
「幾人かのお方が、こちらで女性の声をお聞きになられているのですよね」
「ぼく等にも聞こえるといいのですが・・・・・・」
「遊佐様、お外の空気を吸われるのも宜しいかと」
車に酔った訳じゃないんだから、と陽介は言いそうになったが、真実声の主に遊佐が関係しているとあらば、車内に居るよりは声が聞こえる確率が高いかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・さ・・・・・・ん・・・・・・」
しん、となっていた筈の森の中から、確かに声が聞こえた。
二人ははっと森を見る。
「・・・・・・ゅ・・・・・・ぅ・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・」
陽介はごくり、と生唾を飲んだ。
声はか細く、だかはっきりと聞こえ、誰かを求めているように聞こえる。
みそのを見ると、彼女は森を方を見つめている。瞳を閉じて、また聞こえるかもしれない声ら集中しているようだ。
「・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・・ぁぁああああああ!!!」
遊佐が突然声を上げた。
二人は驚いて遊佐を見る。
みそのに促され車内に出ていた様だが、頭を抱え、口をだらしなく開けたまま、叫んでいる。
「ぁああぁ、ああああ!!!」
そしてそのまま森に向かって走り出した。
心の欲求に身体がついていかないのか、足が縺れかかっているので、転びそうになっている。
「大変。新田様、追いましょう」
「そのようですね」
別段慌てた様子も無いみそのだが、すぐに走り出した。陽介もすぐに後を追う。
遊佐の足は縺れかかっているのが幸いしてか、男の足だが、みそのも追いつける程度だった。
売店の裏手にある森に入る。獣道があるように思われるが、動物の足跡は見られなかった。この間にも、声は聞こえてくる。不明瞭な声で、何かを求めている。遊佐もずっと叫び声を
上げ続けている。まるで二つの声は呼応しあっているかのようだ。
ガサガサと草木が縺れる音を立てて、遊佐はスピードは無いが、猛進していた。生い茂る草木もものともせずに、ただひたすらまっすぐ、まっすぐ走っている。おかげで陽介とみそのが追
いかけるのに草木は然程邪魔にはならなかった。
陽介はスーツだから動きやすいが、みそのは着ぐるみパジャマだ。枝が所々に刺さっているが、厚手なのか痛がってはいない。スカートではひらひらして、その方がもしかしたら邪魔になっ
ていたかもしれない。
前方には遊佐の背中と、少し開けた空間が見えた。
「ぁぁあああぁぁぁぁあああ!!」
絶叫したまま、遊佐は突っ伏した。
追いついた二人が着いた空間は、少し開けていて、池というよりも、どろどろに濁った池があった。
「・・・・・・ぅ・・・・・・ん・・・・・・」
パーキングエリアで聞いたものよりも明瞭な声が聞こえた。
はぁはぁ、と肩で息をする。大分走ってきたようだ。
「お、俺は、俺は・・・・・・ぁぁぁぁ!!」
ばしゃっと遊佐が沼に手を叩きつけた瞬間、陽介とみそのの脳裏に映像が押し込まれた。
それは、今の季節よりも少し前の映像で、回りの木々には雪が積もっていた。
女性が見える。
肩口までの髪をした、別段美人というわけではない、極ありふれた二十歳前後の女性だった。その女性はこの沼のほとりでスーツケースを一つ側に置き、まるで誰かを待っているようだ
った。その表情は切なそうで、辛そうで、でも少しだけ嬉しそうな、複雑なものだった。
時折時計を見てはため息をつき、携帯電話をバッグから取り出して着信が無いのを再確認してはまたため息をついていた。左手でずっと下腹部を押さえている。
刹那、その女性の身体が鈍い音とともに揺れ、地面に倒れる。
どすん、と大きな音がして、女性は頭を手で触り、見る。手の平は大量の血に塗れていた。硬いもので殴られたらしい。女性が誰に殴られたかを確認するために振り向くよりも早く、第
二撃が来る。そのまま、三回、四回、五回、六回・・・・・・二十回は殴られたようだ。
後頭部が砕け、あたり一面が血に染まり、既にピクリとも動かなくなった女性を高みから見下ろしているのは−
−当然というべきだろうか。
遊佐、だった。
顔は悪鬼のものであったが、怯えているのか、人影も無い辺りを見渡し、手にしていた大きな石を沼に放り込む。ボチャリ、と濁った沼に波紋が広がる。そして辺りにある目ぼしい大き
な石という石を拾ってきて、懐に持っていた袋に詰め、それを紐で結び、まるで汚いものに触れるかのような仕草で、女性を沼に転がし・・・・・・大きな、大きな濁った音を立てて、沈んで
いった。
はっ、と気が付くと、雪化粧は無く、枯れた草木が視界に入った。
「い、今のは・・・・・・なんだったんでしょう・・・・・・」
はぁっ、と大きくため息を吐く。陽介はネクタイを少し緩めた。殺人の瞬間など、いくら今現在行われているものではないとはいえ、楽しめるものではない。
「・・・・・・この辺りの過去の記憶・・・・・・でしょうか・・・・・・」
常に冷静なみそのも流石に驚いたようだ。胸を押さえている。
遊佐はまだ叫び続けている。彼にも今の映像が流れているのだろうか。だから叫び続けているのだろうか。
−沼が、盛り上がる。
臭気が漂う。
いや、臭気なんていう生易しいものではない。
陽介もみそのも口を押さえる。
それにおいは、死臭だった。
肉が爛れ、臓腑が腐り落ちる、地獄の香り。
「ゆ・・・・・・う・・・・・・さ・・・・・・ん・・・・・・」
沼が盛り上がったのは、“それ”が這い上がってきたためだった。
“それ”は。
白骨に辛うじて肉がついているものだった。頭部には所々薄い肉と糸と見紛うばかりの髪が僅かばかり付いている。顔の肉は魚に食われた跡が付いている。
両手を前に出し、何かを求めるように中ほどから淵へとゆっくり、ゆっくりと進んでくる。
「ゆ・・・・・・さん・・・・・・わた・・・・・・し・・・・・・待っ・・・・・・てた・・・・・・」
「俺は、俺は・・・・・・!ああするしかなかったんだ、あれしかなかったんだ!!」
「来て・・・・・・くれ・・・・・・たのね・・・・・・」
“それ”が言葉を発するたび、歯が丸見えの口から、ボロボロと泥がこぼれる。それが一層臭気を増す。陽介は吐き気を堪え切れずに空咳を繰り返し、みそのはぺたりと地面に座り込
んでしまっている。
「会・・・・・・いた・・・・・・かった・・・・・・」
ぬう、と腕が伸び、遊佐の肩を掴む。
そして“それ”はそのまま遊佐を沼に引きずり込む。
その一連の仕草を二人はただ圧倒されて見るしかなかった。
ぼぢゃり。
その音で、まず陽介が我に返る。
「遊佐さん!」
上半身が既に沼に引きずり込まれている遊佐を、陽介はベルトを掴んで必死で引き戻す。だが“それ”の−女性の力は成人男性である陽介よりも強く、遊佐は確実に沼へと沈んで
いく。まだ息がある証拠に、沼の中から泡がいくつもいくつも浮かんでは消える。
「わ、わたくしもお手伝いを」
正気に戻ったみそのも、陽介とともにベルトを掴み引き戻す。力仕事は専門外だが、そうも言っていられない。
「離・・・・・・し・・・・・・て・・・・・・ゆうさ・・・・・・ん・・・・・・一・・・・・・緒に・・・・・・」
「貴方はもうこの世に方ではないんです!生きている遊佐さんを巻き込んではいけません!」
「だっ・・・・・・て・・・・・・約束・・・・・・したの・・・・・・二人で・・・・・・遠く・・・・・・まで・・・・・・行こうっ・・・・・・て・・・・・・」
「遊佐様は、もう貴方とは何処にも行けないのですよ。判って下さいませ」
女性だったものは、目の虚からぼろぼろと汚泥と水滴を流した。まるで、泣いているかの様に。
「・・・・・・だって・・・・・・だって・・・・・・約束・・・・・・した・・・・・・の・・・・・・」
汚泥が流れる度に力も弱まっていくようで、少しずつ遊佐が引き戻される。
二人は力をふりしぼり、遊佐を何とか地面へと戻した。
彼女は沼の中からじっとこちらを見つめている。げほげほとむせ返る遊佐を、ただ切なそうに−表情もないのに、切なそうなのだけは判った−見つめていた。
「遊佐様は、もう、ご結婚されていらっしゃいますよ」
すっ、とまた音もなく立ち上がったみそのが彼女に向かって断言した。
それが決定的な一撃となったのか−
彼女は、ただ崩れた。
ボチャリ、と音を立てて、再び、沼へと帰っていった。
歩く気力も無くなった遊佐を陽介がおぶって、再び廃パーキングエリアまで歩いた。大の男を担いでいるのだから、帰り道はひどく時間がかかった。
今日はずいぶんと力を使うなぁ、と陽介は一人ごちる。みそのも気遣ってくれているが、女の子に代わってもらうわけにも行かず、とりあえず車までだ、と自分を元気付ける。
遊佐は人を殺していたのだ。
そしてその女性が何がしかの形で意思を持ったまま、何より遊佐を待ち焦がれた思いが形となったのか、声となり、近くにあったパーキングエリアの利用者に聞こえたのだろう。
ただ、待ち焦がれていたのだ。遊佐だけを。
遊佐だけを求めて。
「海原さんの、言う通り、遊佐さんは、ゆうさん、と呼ばれていた、みたいですね」
肩で息をしながら、陽介はみそのに話しかけた。
「そのようですね」
「それが、途切れ途切れに、なっていたから、ゆうさんが、13に、聞こえたり、したんですね」
「新田様のご推察の通りでしたね。わたくし達、二人の意見で丁度一つになったようです」
みそのがため息を吐く。その息は白々と空へと昇っていく。
「警察に、連絡しましょう。あの女性も、あんな冷たそうな、場所に、一人ぼっちでは、可哀相ですから」
「ええ。それに殺人事件ですもの。放ってはおけませんものね」
パーキングエリアに着いたら、麗香に連絡をして、警察に連絡をして−
「温かいものでも、自販機に、残っていると、いいですね」
苦しそうに、だが確かに笑った陽介を見て、みそのも微笑み返した。
「はい、一息つきたいです」
この地方にはまだ春が遠そうだったが、それでもほんの少しだけ、春の訪れを感じさせるような笑顔だった。
「遊佐君は全面自供したみたいよ」
あれから二週間後、陽介とみそのはアトラス編集部に呼び出された。場所は以前の第三会議室ではなく、ちゃんとした応接室だった。遊佐はちゃんと警察に自首し、事件が明るみ
に出たのだ。
コーヒーもインスタントのものではなく、そこそこ高級そうな陶器のカップだった。麗香は無造作にそれに口をつけ、言葉を続けた。
「女性の名前は、志賀・倫子さん、二十一歳。遊佐君とは真剣だったみたいだけど、彼の方はそうではなかったそうよ。今の奥さんとの結婚話が持ち上がった頃、倫子さんの妊娠が判
って、結婚を迫られたみたい。堕ろすにしても別れるにしても、奥さんに言うって聞かなくて、奥さんは資産家の娘だったからどうしても結婚したくて、それで」
「殺害した、というわけですか」
憤懣やるかたない、といった様子で陽介は言った。カップをソーサーに戻す仕草も少し雑だ。
「駆け落ちしようと持ちかけて、その森の中の沼で落ち合う約束をしたみたい」
「なるほど、ですから、遊佐様は“重たい”と仰ったのですね」
みそのは得心した。
車中で、声の主はどんな人物だったのだろう、と陽介が言った時、遊佐は“重たい”と口走った。“重たい女”だ、と。そう言いたかったのだろう。
倫子はただ盲目的に遊佐を愛し、だが遊佐は倫子の事は愛していなかった。
「恋愛ってなんなのでしょうね・・・・・・」
寂しそうに呟いたのは陽介だ。
それには誰も答えられない。
陽介とても別に答えてもらうのを期待していたわけではないだろう。
「倫子さんの遺体はちゃんと沼から・・・・・・その、出してもらえたみたい。ご家族が引き取って、お葬式も済んだようよ。警察の方が丁寧に教えてくれたわ」
「碇さん、この事件、記事には・・・・・・」
「・・・・・・して欲しくなさそうよね、その顔は」
「はは、判りますか」
「わたくしも新田様に同感です。志賀様には安らかに眠って頂きたいと存じます」
麗香は二人の視線に押し負けたように、手を振った。
「するわけないわよ、こんな事になったら。うちはゴシップ誌じゃないのよ、オカルト雑誌よ?管轄外だわ」
テーブルの上にはファミリーレストランの領収書が載っている。計千五百八十円。今回の経費である。この程度ならよくある事だ。
「今度は、幸せになれるといいですね、倫子さん」
来世では、ということだろう。
その来世とやらがあるのか、確実に判る者は誰も居ない。
それでも。
それでも、倫子の変わり果てた姿を見た陽介とみそのは、幸せな来世を願って止まない。
せめて、安らかな眠りを、と。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1388 / 海原・みその (うなばら・みその) / 女性 / 13歳 / 深淵の巫女 】
【6160 / 新田・陽介 (にった・ようすけ) / 男性 / 24歳 / 心霊調査員 】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、八雲 志信と申します。
今回ご参加頂き誠にありがとうございます。
ホラーテイストと銘打ちましたが、少しでもホラーを感じて頂ければ幸いです。
またご縁がある事をお祈り申し上げます。
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