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<東京怪談ノベル(シングル)>


Monologue ―after the "extra chapter/disease"―



 ゆっくりと瞼を開けると、見慣れた天井だった。だが狼は疑問符を浮かべる。
 見慣れてはいるが……いるが。
(あれ……この天井は居間だろ?)
 疑問符を頭の上にぽこぽこと浮かべる狼はぼんやりする意識をはっきりさせるために頭を軽く振る。
 狼は居間で寝ていた。しかも自分の部屋にあった布団で。
 どうやら布団をここに運んできたらしい。
(なんで俺はこんなところで……)
 はて?
 首を傾げていると徐々に記憶が鮮明になってくる。
 そうだ。自分は風邪薬を買いに外に出て、薬局の前で会いたくないヤツに会って……。
(! あいつは……!?)
 布団から慌てて起き上がり、狼は周囲を見回した。
 薬局の前で倒れた自分をここまで運び、布団に寝かせてくれた少年の姿はもうない。
 そのことに対し、少し落胆したような……安堵したような複雑な気分になる。
 かち、かち、と時計の秒針の音が部屋に大きく響いた。
 居間の壁に飾られている古めかしい時計を見上げて時間を確認すると、もう夜中に近い。
 同居している家主は帰った形跡がない。帰っていれば自分がこんな時間までここで寝ているはずはないのだから間違いはないだろう。
「あいつ何してんだこんな時間まで……。どーせくだらねー用事だとは思うけどよ」
 気に入った本があったか。もしくは茶飲み友達とずーっと話してるか。
 だいたいあいつは店を放ったらかしにし過ぎなのだ。まあ狼としても居候している身なので強くは言えないのだが。
 今日中には帰ってこないだろう。明日の朝方に帰ってくるかも。
(まあ別にいいけどさ)
 狼はそう思って小さく溜息をつく。
 考えてみれば今日一日はすごい日だった。
(そういや、頭痛……治ってるな)
 しっかり眠ったのが良かったのだろう。狼を苦しませていた頭痛は綺麗になくなっていた。
 それもこれも、付き添ってくれた彼のおかげ……だ。たぶん。
(わざわざ薬買ってくれたし、布団もここまで運んでくれたし……気絶した俺を家まで連れて来てくれたし)
 あの性悪な性格からは想像もつかない行動だ。
 どちらかといえば彼は道端で気絶している狼を木の枝でツンツンつついている気がする。
(…………やりそう)
 想像して狼は青ざめた。
 軽く頭を振って今の想像を追い払い、苦笑する。
 看病と称して遊ばれたような気がするが、まあ彼には礼を言うべきだ。
(次に会ったら礼くらい言わないとな)
 そう思うのだったが、彼の看病を思い返して狼は「ハハ」と乾いた笑いを洩らす。
 鼻を摘んで頭を引っ張り起こされ、無理やり薬を飲まされたり。
 嫌がるところまで隅から隅まで体を拭いてやろうと言われたり。
 嫌がらせに近い行動だ。
 あの時の鼻の痛みは、忘れられない。
 狼は立ち上がり、喉が渇いたので台所に向かう。水分補給はしておくべきだ。
 コップを出して水道の蛇口を捻り、水を入れる。コップの中で揺らぐ水を一気に飲み込んで狼は大きく息を吐いた。
 冷たい水が美味しい。
 飲み終えたコップを流しに置き、次に冷蔵庫を開けた。小腹が空いたような気がする。
(腹が空いたと感じたなら順調に回復してるな……。明日一日ゆっくり休めば完治間違いなしだ)
 冷蔵庫の中にはリンゴが二つほどあった。まるで用意されていたかのように。
 はて? と狼は首を傾げる。
 家主はリンゴなど買っていないはずだ。なにしろ果物が入っていることがこの冷蔵庫はほとんどない。それに、朝見た時はなかったはず。
 リンゴはどこから現れたのだろうか? 家主が途中で帰ってきて冷蔵庫に入れた、というのがもっともらしい解答だ。
(ンなバカな。あいつが帰ってきて俺になにも言わないわけがないだろ)
 否定してから狼は一つの答えに行き着く。
 口を手で覆い、顔を奇妙に歪めた。
(いや、そんな、まさか)
 この冷蔵庫に触れることができた人物は全部で三人。家主、自分……そして、自分を連れて帰ってくれた「彼」。
(……うそだろ。だって、あいつがそこまでする理由は……ないし)
 家主でも自分でもないとすれば、おのずと答えは出る。
 狼はリンゴを一つ取り出して冷蔵庫を閉め、参ったなと呟いた。
 軽く洗って小さく齧る。
「薬に続いてコレもか……。狐に化かされてるような気分になるな」
 でもリンゴの瑞々しい甘さには勝てない。だって美味しいのだ。悔しいが、彼に感謝しなくてはと思った。
 だが会えば、きっと自分は彼に対してとんでもなく情けない姿をさらしてしまうだろう。
 狼は彼の笑顔が苦手なのである。
 そう、どの笑顔も苦手だ。明るく笑っていても、皮肉っぽい笑みでも、綺麗な笑顔でも……。
 どの笑顔も「怖い」と感じる。裏を感じてしまう。
(凶器だよな、あの『笑顔』は……)
 素手で心臓を握られているような恐怖を感じることができるのだ。まさに人間オバケ屋敷。ヒヤリとした気分を味わいたいなら彼一人で十分事足りる。
 だから彼に会うとゾッとするし、いつにも増して自分は情けなくなるのだ。それが嫌なのだ、すごく。
 この感覚は実はとても懐かしい。
 実の弟に対しても同じような感覚を持つことに狼は思い至る。
(そうなんだよな……。初めてあいつに会った時も思ったけど、弟に似てるんだよなぁ)
 はあ、と深い溜息をついて、狼はリンゴをまた齧った。
 狼の弟は天使のような顔立ちをしているくせに、中味はとんでもない悪魔なのである。狼に対してもひどいイヤガラセをしてくるのだからたまったものではない。
 あの笑顔といい……似ている。すごく。
 それでも狼は相手を嫌えない。自分の嫌なくらいのお人好しさに自己嫌悪した。
 リンゴを食べ終えてから狼は布団に戻って潜り込んだ。
 そういえば、看病してくれていた彼はそこに座っていた。
 らんは布団から顔を出して彼が座っていた場所を眺める。窓から外を見ていた彼。一体なにを見ていたというのか。
 気になって狼は布団から出ると、彼が座っていた場所に腰をおろした。
 窓から見える景色は真っ暗だ。仕方ないだろう。すっかり夜も更けている。
(あいつ……なに見てたんだ?)
 ここから見えるものは、狼がいつも見ているもののはず。とりたて珍しいものなどない。
 どこにでもある町並み。
 ここから彼はなにを真剣に見ていたというのか。
(やめやめ。あいつの考えなんてわかるもんか)
 立ち上がってから、狼はふと気づいた。
 ――――空。
 狼は視線を窓に戻す。
 暗い暗い空が広がっている。彼が見ていた時は明るかった。
(あいつ、空を見てた……?)
 なぜかよくわからないが、それは確信に近い。
 空のなにを見ていたのかまではわからないが……。
 狼は無言で布団に戻り、頭から掛け布団をかぶる。
(あー。なんか考えてたら頭痛くなってきた……)
 眉間に皺を寄せて狼は小さく唸った。風邪で寝込んでいる最中なのに余計なことに脳みそを使うのはよくない。
 今は集中して、風邪を治さねば。
(そうそう。今は風邪を治すのが先決だ。そうしないと知り合いに会いに行けもしない……)
 次に起きたら風邪薬を飲んで……それから水分を十分にとって……もっとたくさん食べて。
 意識が徐々に遠ざかり、狼はいつの間にかスースーと寝息をたてていた。
 それからしばらくした後、家主の帰ってきた音がしたが……狼は気づくことはなく穏やかに眠り続ける。
 その寝顔は年相応の子供らしいもので――――きっと、いい夢をみているに違いないと思わせた。