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<東京怪談ノベル(シングル)>


雪の果て


 ベッドの脇に大きなクッションを置いて、ゆったりと身体を預けながら刺繍に勤しんでいた優名は、ふと窓辺に視線を向けた。
 外の様子が変だと思ったのだ。普段なら人々が寝静まるであろう時刻であっても何かしら"音"がする。
 特に学園内にあるこの寮は周囲を木々で囲まれているために、もし風がなかったとしても空気が震撼するだけで葉がそよぐものだ。
 優名はいつも部屋で刺繍をするときは余計な音を立てないようにしている。たとえばテレビを付けたり音楽をかけたりしないといったふうに。
 そうするとパターン(刺繍の構図)のイメージがはっきり浮かんでくるし、気分までがイメージに染まってくると針の進み具合も違ってきて、仕上がった作品には込められた想いで愛しささえ抱くようになるのだ。
 だから今夜も人口的な音のない世界で外の気配を手繰るように針を刺していたのだが、その外の様子が変だと感じたのだった。
 優名は手を止めてそっと立ち上がった。
 まだ肌寒さの残る初春、羽織っていたカーディガンの合わせを押さえながら、わずかにカーテンを引き窓を開けた。
 思わず声を上げる。
「わぁ、雪? 雪が降ってる……」
 もう三月も半ばを過ぎたというのに目の前には小さな白い粉雪が舞っている。
 優名は慌てて部屋の扉に駆け寄ると側の電灯のスイッチに触れた。
 部屋の明かりが消える。中が明るすぎると外の景色が見えないからだ。
 優名はもっとちゃんと雪が見たいと思ったのだ。
「雪のせいで音がかき消されていたのね」
 たぶん積もることはないだろう春の雪を眺めながら、優名の記憶を掠めるのは寂しそうに微笑んでいたあの人の横顔だった。


 あれは今年に入ってすぐだったと思う。
 いつも図書館で会うだけの先輩をここに連れてきたのは。
「まったく。俺見つかったら警察行きなんじゃないの?」
「だって、女子寮、どんなふうなのか見てみたいって言ったでしょう?」
 不思議そうに首を傾げる優名に、彼は天を仰いで降参のポーズを取った。
「だからって普通連れてきたりしないもんだけど……」
 低く呟いた言葉に気づかず、優名は彼の制服の裾を引っ張って先を促す。
 おかしなもので、女子寮というと監視が厳しく夜中に出入りは禁止されているし、定期的に見回りがされていたり二十四時間体制で防犯カメラも作動しているのが常であるのに、今夜に限って何にも引っかからないとはどういうわけだろう。
 あっさりと侵入を果たした彼は無事に優名の自室に辿り着いた。
 内心、優名も大胆なことをしていると自覚していた。
 男子禁制の場所というより自室に男の子を呼び込んでいる自分の行動に驚き、しかし納得してもいた。
(少しでも一緒にいたい……)
 春になれば学園を去ってしまう彼と少しでも長く時間を共有していたかった。
 だから校則違反であれ、もしこんな大胆なことをして相手に呆れられたとしても、優名には今が一番大切だったのだ。
「寒いね。暖房つけるから少しの間我慢しててね」
「大丈夫。外に比べれば全然あったかいよ。今日は外、けっこう寒かったよなぁ。もしかしたら雪でも降るんじゃない?」
 窓辺に佇んで外を眺めながら言う彼に、優名はコーヒーを入れながら答える。
「降るかなぁ? でも降ったらいいね。もうすぐバレンタインだし、みんな喜ぶんじゃないかな」
「女は好きだよな、そういうの。雪ってやっぱりロマンティックなイメージなのかな?」
「そうじゃない? あたしは降っても降らなくてもどっちでもいいって思うけど」
「おまえけっこう現実的だもんな」
 くすくす笑う相手に優名は複雑そうな顔をした。褒め言葉と受け取っていいのだろうか?
 彼の隣に立ちカップを差し出すと、「さんきゅ」と軽いキスが額に落ちてきた。
 驚いて眼をぱちぱちと瞬かせていると、相手は顔を背けて肩を震わせている。
 からかわれて怒るべきか何か仕返しするべきか逡巡したが、全然そんな気にならない上に、手の中のあたたかさと一緒に胸の奥もじんわりあたたまるのを感じて、優名の頭がゆっくりと彼の肩に傾きかけた。
「ああ、降ってきちゃったな」
 ぽつりと呟いた声が思いのほか低く重いものに聞こえたので優名の中に小さな不安が生まれた。
「俺さ、雪ってあんまり好きじゃないんだ。どんどんどんどん自分の上を覆っていく白い粒に押し潰されそうな気分になる。昔っからそんなこと思ってて、自分でも変だなって思ってた。……『雪の女王』って話、知ってる?」
 優名は小さく頭を振った。彼は窓の外を見据えたままだ。自分を見返ってくれない。
「あの話、悪魔の鏡の欠片が刺さって性格が変わってしまった男の子が雪の女王に攫われてさ、幼なじみの女の子が彼を探しに旅をするんだ。女の子は一生懸命苦難を乗り越えて男の子を救おうとするのに男の子は自分の中に閉じこもったまま何もしないんだ。ただ彼女の迎えを待ってる。雪の女王の支配する氷の世界でさ。俺ね、変な話、それ読んでから自分はいつか雪の女王に攫われるんじゃないかって思い込んでて、自分の殻の中から一生出られないんじゃないかって怖いんだ」
 苦しげに眉をひそめている横顔に優名は胸が痛くなった。
 彼がこんな顔をするのははじめてだった。人当たりの良い柔和な口調や物腰と、いつも瞳に優しさをたたえて微笑む人なのだ。優名のおっとりした性格に戸惑うことなく付き合ってくれて居心地のいい空間を作ってくれる。
 そんな彼の中に暗く重苦しい何かが潜んでいることに驚いた。そして考えもしなかった自分の楽天さを恥ずかしくも思った。
 優名はカップを握り締め必死に言葉を紡いだ。
 彼を覆う雪から少しでも庇えるように。
 そして雪はすべてを押し潰すだけのものじゃないと信じて。
「……でも女の子が探してくれるんでしょ? 男の子のために頑張るんだよね。男の子だって何もしなかったんじゃなくて、変えられてしまった自分の中で一生懸命女の子を信じて呼んでいたんじゃないのかな」
「優名……」
「ねえ……呼んでね。どこに行ってしまっても、あたしを呼んでね。ちゃんと迎えに行くから」
 願いを、祈りを込めて。
 取り戻した彼の微笑みは切なげに歪んでいたけれど、自分を見つめる瞳には想いが込められていた。
「ここにいるのがおまえでよかったよ」


 優名は花びらのようにはらはらと舞い落ちるさまを見つめながら思う。
 彼が抱える闇は何だったのだろう。
 どんな生い立ちで過去を抱えて生きてきたのか。
 特に語ることなく過ごした放課後の図書館。
 あの時、部屋に招いたのはきっと彼との距離をもう少し縮めたかったからに違いない。
 彼のことをもっと知りたくて、そして垣間見た心の奥底にある不安。
 それが何なのか明確にはならなかったけれど、ただ優名は思うのだ。たとえ楽観的だと言われようと時は巡ることを。生きている生命の中で確かに。
「雪の季節が通り過ぎれば、あたたかい春が来るの。今度はピンクの花びらがあなたの上に落ちてくるわ。だから、大丈夫……」
 そう呟いて、ふわりと微笑んだ。


終。