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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


華宵


 仰ぎ見る空は既に濃紺色を満面に湛え、そこには夜の気配がひそりと漂っていた。
 流れる風は湿った土の匂いを運び寄せて来る。うっそりと広がる薄闇の中には、緋色の花びらが所在なさげに舞っている。

 早津田玄の姿は人気の途絶えた薄暗い山林の中の、少しばかり傾斜になった小さな丘の一角の中にあった。
 学生服をまとったままである見目から察するに、おそらくは帰路を外れ、そのままここに赴いて来たのであろう事が知れる。
 玄は学生服の詰襟部分を力任せに引っ張って、息苦しさを力任せに追いやった。
 漆黒色の双眸には咲き誇る満開の寒緋桜が映りこんでいる。――そう、それは染井吉野よりも幾分か早めに花をつける山桜に属する品種のものなのだ。
 濃い緋を浮かべた花の下、玄は一頻りそうして花を仰ぎ見ていたが、やがてその視線をついと外して横合いへと向けた。
「城ヶ崎か」
 深いため息と共にそう吐き出して、玄はそこに立っていた友人の顔に一瞥を向ける。
 そこには玄と同じ学校の制服を身にまとう少年――城ヶ崎由代の姿があった。
「ひとりで花見かい? ……そういえばここの桜は染井吉野とは異なるのだね。僕は桜の名前にはあまり通じていないのだけれど、これは何という種なんだい?」
 由代は、その思慮深い輝きを持った双眸をふるりと緩め、再び桜の木に向き直ってしまった玄の横顔を眺めている。
「……てめえが知らねえような事を、俺が知ってるとでも思うのか」
 視線だけを由代に向けてじとりと睨めつける。が、玄の眼光を受ける由代は玄の言葉などどこ吹く風といった風に肩を竦めてみせるのだ。
 玄は一頻り由代を睨みつけた後、ひどく小さなため息をひとつ漏らしてかぶりを振った。
「寒緋桜という名だったはずだ」
「へえ。随分と緋色の強い花弁だね」
 玄の言葉に素直な相槌を返し、由代はふむと満足げにうなずく。
「しかし、これほど見事な桜だというのに、花見客は僕らしかいないんだね」
「……まだ寒ぃからな」
「うん、まあ、そうなんだろうけれどもね。でも、早津田くん。キミ、この場所がどんな風に噂されているか、知らないわけでもないだろう?」
「……」
 由代の言葉に、玄は小さな舌打ちをひとつ吐いた。
 由代は玄の言葉を待つ事をせず、続ける。
「この場所には怪奇な噂が付き纏っている。鎌を持った女の霊を見ただの、昔ここで首をくくった中年男が追いかけてくるだの、――ああ、傑作なのは、時速百キロで追いかけてくる人面の犬に関わる噂だろうか。時速など、果たして誰が計測したのだろうね」
 くつくつと小刻みに肩を震わせ笑う由代に、玄はちろりと一瞥を向けて目を細ませた。
「そこの祠はなぜ建てられたのか。……てめえの事だ、知らねえわけがねえだろう」
 そう述べて、桜の傍らにある小さな祠を顎で示す。
 それは咲き誇る桜の緋とそれを埋めるように伸びる緑とに囲まれて、ひどく唐突に、しかしひっそりと建てられていた。今では奉る者もいない、風雨に晒されて朽ちてゆくばかりのものなのだ。
「いや、実のところ僕も詳しくは知らないんだよ。何しろ、文献らしい文献が残されているわけでもなし。興味はあるんだけれどもね。だからこそ、口伝されている噂や伝承には必然的に耳を寄せてしまう」
 返した由代の言葉を、玄は桜を仰ぎ見たままの姿勢で聞いていた。そしてしばしの沈黙の後に、重たげな口をのそりと開けたのだった。
「この桜は、今日死ぬ」
 うっそりとした声音で告げられた宣告に、由代は少しばかり眉根を寄せた。
「……木の寿命なのかい?」
 山桜の寿命は里桜のそれに比べれば比較的長寿であり、三百年は生きるとされている。
 ――――これほどまでに可憐に美しく咲く花が、今夜の眺めを最期に終えてしまうとは。
 玄は由代の問い掛けに対してかぶりを振り、視線をちろりと由代に向けて表情をしかめた。
「死んだ爺さんが遺した仕事だ」
 玄の低い声音が、ひそりとした色をもってそう告げる。
 由代は玄の視線を真っ直ぐに受けて、一つ息を呑みこんだ。
「……早津田家の仕事に絡む事情があるのかい?」
 玄は応という返事を返す事もなく、首を動かす事もしない。その代わりにただ一度だけ目をしばたかせたのだ。
 ざあざ――風が唸りをあげる。桜が散り、薄闇の中で踊り舞う。
「この桜は、爺さんが若かった頃――俺は大正の頃の事だったと聞いているが、その時分にこの地に植樹されたものなんだそうだ」
「大正時代? ならばこの桜の寿命自体はまだ長く続くはずじゃないのかい」
「通常ならな」
 返し、玄は再び桜の木へと視線を向けなおした。
「俺ぁ、爺さんから言い聞かされて育ってんだ。この桜に関する事をな」
 ざあざ、ざあざ。
 土の匂いを含んだ湿った風が桜を揺らす。
「爺さんが若い頃、この地に瘴気が噴き上がったんだそうだ。瘴気はやがて鬼を形作り、この地に災いを引き起こした」
 ぼこり
 地を埋め尽くす緋桜の骸が、土中からぼこりぼこりと立ち上がる。
 玄は桜を見遣ったまま。由代ばかりが足元の異変を確かめている。
「今日この日、この桜の力を借りて封じたその鬼が、封を破って這い出てきやがるってな」
 玄の声は吹き荒れる風によって掻き消され、由代の耳に届いたかどうかも判然としない。
「その鬼を封じるために、桜は必要以上の力を注ぎ込んでいるというわけだね」
 由代は立ち上がる土を爪先で踏みつけ、片眉を跳ね上げて肩を動かした。その手は、眼下の怪異を迎えるための準備を整えているのだ。
「封を破り、這い出てきたばかりの鬼ならば、おまえの力でも滅する事が出来るだろう――だとよ。勝手だよな。てめえの孫は、てめえが遺した遺産を確実に仕留められると思ってやがンのか」
 吐き出すようにそう述べた後、玄はようやく足元の異変に視線を向けた。
 片腕を揮いあげる体勢を整えた由代が、玄の言葉に口の端を緩め、笑んだ。
「あるいは、頼りになる友人の出現を見越していたのかもしれないね」
 ざあ、ざあ、ざあ。桜が大きく揺らぎ、唄を口ずさむ。それは鬼の復活を祝うためのものであり、鬼の復活を呪うためのものであり、――鬼自身がかかげる咆哮でもあった。
「……あのなァ」
 頬を歪め、玄の表情もまた笑みを浮かべる。
 同時、風が突然ひたりと凪いだ。
 ぴぃんと張り詰めた空気の静寂は、桜の中のふたりを囲み、その一角だけが現世から切り取られて異界へと放りこまれたかのような、奇妙な空気を漂わせる。
「こんな時間にこんな場所に来やがって。てめえはもうすぐイギリスだかどこだかに行くんじゃなかったのかよ」
「うん、まあね。語学留学のためにね」
「……ホラ吹きが」
 くつくつと嗤う玄の低い声が薄闇を揺らす。
 その揺らぎで目を醒ましたのか、土中の何かは大きな地鳴りを響かせ、それを祝うのか嘆くのか、桜の緋が薄闇を騒がしく舞い散らした。
 瘴気を噴き上げ、咆哮を響かせたのは、――それは泥を塗りこめて形作ったかのような、容の判然としない土人形だったのだ。
 
 ――――そしてこの日、桜はその命を終えたのだ。



 桜がその命を終えてから二十年余りの歳月が過ぎ、今、玄は再びこの地の上に立っている。
 一夜にして死んだ桜の木々は、ただでさえ無責任な噂で溢れていたこの場所を、さらに怪異なる噂で充たしたのだった。
 連続殺人の被害者の死体がこの場所の地中深くに埋まっているだの、生者の肉を欲する化け物がこの地を徘徊しているだの。
 こういった噂は、しかし、山林が開拓されてちょっとした住宅地になり、大きな公園が創られた頃には、いつの間にか風化してたち消えていたのだった。

 公園には、今、染井吉野が植樹されている。
 桜が咲く頃には、この公園は花見客がひっきりなしに足を運ぶ絶好の行楽地に姿を変えるのだ。
 玄は今、学生服ではなく、作務衣を身にまとっている。幾分か感じる肌寒さは丹前を羽織る事でどうにか誤魔化す事が出来る。袖口に両手を突っ込んで、玄は薄紅の花々を仰ぎやった。
 
 あの夜、この場に出でたあの鬼は、今では影も形も残さずに消えている。
 卒業後は、玄は早津田家の稼業を受け継ぎ、由代は英国への留学を果たした。
 しかし、ふたりは未だに親交を続け、思い出したように互いの顔を確かめるのだ。

「おや、早津田くん。花見かい?」
 染井吉野の木々を眺め歩いていた玄を、聞き慣れた由代の声が呼び止めた。
「城ヶ崎か」
 肩越しに振り向いて友人の顔を確かめる。
 そこに立っていたのは、確かに城ヶ崎由代だった。由代は穏やかな笑みを満面に湛えて桜を仰ぎ、満足げにうなずいた。
「てめえがここに来るなんてな。珍しい事もあるもんだ」
 白髪まじりの銀髪を片手でわしわしと掻き混ぜながら、玄は由代の視線を追いかける。
 視界を埋め尽くすのは満開になった染井吉野。さわりと流れる風にのって舞い上がるのは淡紅色の花びらだ。
「ふと思い出してね。来てみたくなったんだ」
 返し、由代はふわりと頬を緩め、笑みを浮かべる。
 玄は横目にちろりと由代を一瞥し、漆黒色の双眸をゆったりと細め、同じように笑みを浮かべた。
「てめえとふたりで花見なんざしたところで、面白くもなんともねェや」
 そう告げて、玄は再び歩みを進める。
 さわりと流れる風が、花びらを舞いこんで空の中へと去っていった。



 
―― 了 ――