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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


春雨



 雨が降っている。
 暖かな春の陽光が降り注ぐ穏やかな天候の中を、綻び始めた桜の薄紅が満開に花開く。そうであるべきという印象の拭えない季節にありながら、しかし、この数日、降ったり止んだりの雨が続いているのだ。
 ワイパーが忙しなく左右し、窓に付く雨雫を払いのけている。
 この日リンスター財閥総帥のセレスティー・カーニンガムの車を走らせていたのは、セレスティの邸宅の庭園を美しく飾るために奔走しているモーリス・ラジアルだった。
 庭師であり、また、医師の免許を所有してもいるモーリスではあるが、今回こうしてハンドルを任されているのは、主であるセレスティー直々の命によるものだ。
 雨の影響で道路状態は極めて悪い。が、その上を走る車はセレスティが有する高級車だ。難はさほどのものではない。
 信号が赤に変わったのに引っかかり、車は先ほどから大きな交差点を前にして止まっている。
 モーリスは、バックミラーを覗き、後部席に座っているセレスティの顔をちろりと見遣った。
 セレスティの視線は、車に乗り込んで来た後、左側の窓の外を見据え、びくりとも動かないままなのだ。
 ワイパーが雨を払いのけている。
 信号がチカチカと点滅し始めたのを確かめて、モーリスはバックミラーから前方へと視線を移し、目を細ませた。
「失礼ですが、セレスティ様。……何かお悩み事でもおありなのですか?」
 再び走り出した車の中、モーリスの涼やかな声が主の名前を口にする。
 セレスティはモーリスの声によってようやく視線を動かし、小さくかぶりを振ってから、言葉を選びながら話す時のようにゆっくりと、ぽつりぽつりと口を開けた。
「あなたに見せたいものがあるのですよ、モーリス」
「……見せたいもの、ですか?」
 述べられた言葉に目をしばたかせ、モーリスは再びミラーを覗き、セレスティを見遣った。
 セレスティの青い眼光は、今度は真っ直ぐにモーリスの視線を受けている。
「橋から身を投げているご老人がいるのです」
「――――はあ」
 モーリスは、少しばかり間の抜けたような声で返事を返した。
「それは、止めて差し上げないといけませんね」
 しかし、セレスティはふるふるとかぶりを振って、小さく短いため息を落としたのだ。
「いいえ、モーリス。彼をお止めする事は適わないのですよ」

 車はやがて、都心を外れ、東京と隣の県とを結ぶ大きな橋の傍で動きを止めた。
 雨がその勢いを増している。
 モーリスは先に降りて傘を用意し、後部席のドアを開けて主を傘の中に迎え入れた。
「この場所ですか」
 訊ねたモーリスに、セレスティは言葉を成す事はなく、代わりにゆったりと首を縦に動かしてみせた。
 橋は鉄橋を思わせるような造りがなされていて、下を流れる河は連日の雨のせいもあってか、水かさが大分増している。河の水が引けている間は、おそらく、ちょっとしたゴルフを楽しんだりバーベキューを楽しんだりといった事が出来るのだろう。若緑の葉をつけた木々が河の真ん中部分に立っている。
 車の通りは少ない。これもまた雨のせいなのだろうかと考えながら、モーリスはセレスティの歩調に合わせて足を進めた。
「先日、ゴーストネットを覗いてみたのです」
 不意にセレスティが口を開けた。
「この河から身を投げる老人が目撃されているという書き込みが残されていたのです」
「……亡者なのですね」
 問うと、セレスティはゆったりとした所作でうなずいた。

 雨雲は、春のそれとはまるで異なる、気鬱たる印象を押し広げている。
 圧し掛かってきそうな、その灰色の重々しい空の下、時折過ぎて行く車のランプばかりがぼうやりと光る。
「自殺なさった方なのでしょうか?」
 モーリスが再び問うた時、セレスティの指が真っ直ぐ先をゆらりと示した。
 雨が傘を叩きつける。
 示された方へと視線を向けたモーリスの視界に、薄く曇った――そう、喩えるならば薄く煙がたちこめてあるようなその場所に、老人はぼうやりとした風に立っていた。
 身につけている衣服のあちらこちらに焼け焦げたような跡が残されている。見れば、その体の大半までもが黒く炭化しているのが知れた。
「……自殺ではないようですね。……いや、結果的にはそうなったのでしょうか……」
 呟きながらセレスティを確かめる。
 セレスティは、モーリスの言葉に、黙したままで目を細めているばかり。
「私に、ご老人を見せたいのだと、仰られていましたね」
 問うと、セレスティの首はようやく小さな動きを見せた。

 傘はセレスティに預けて、モーリスは強く叩きつけてくる雨の中に身を委ねた。
 おろしたばかりのスーツを、勢いを強めた雨は容赦なく打ち付けてくる。
 視界に映る老人は橋の欄干に両手をかけて、ぐいと身を乗り出している。
「危ないですよ」
 声をかける。と、老人の首はぐりと回り、焼け落ちて昏い穴ばかりとなった眼孔をモーリスに向けてよこした。
「視えますか? 今、河は水かさも増し、危険な状態です。落ちたら危険ですよ」
 出来る限り穏やかに。そう言葉をかけて、モーリスはにこりと笑みを浮かべた。
 老人の、がらんとした眼孔が、モーリスの言葉を受けた事で幽かな光を帯びる。
 正面から見れば、老人の顔はそのほとんどが焼け爛れ、黒ずんでいたのが分かった。
 その爛れた唇が、膨れた風船がゆっくりと空気を零していく時に発するような音を吐く。
 モーリスは老人から視線を外す事をせず、しかし、後方にいるセレスティの安否に気を巡らせた。――大丈夫だ、今日は雨が降っている。雨は、セレスティ様の身を護るための、強固な甲冑だ。
 スーツの肩を叩きつける雨の粒が大きくなった。
 と、老人はモーリスの顔を見据えたままで、再び欄干に手をかけ、身を乗り出した。
「……あ」
 咄嗟に手を伸べたのは、自身の意に反したものだった。別段、老人を助けようと思って伸べたわけではない。何より、この老人はもう既にこの世の理を外れた存在となっているのだから。
 モーリスの手が老人の肩に軽く触れ、飛び降りようとしているその動きを制しようとした、その刹那。雨が、まるで意思を持った鞭と化して、蛇の如くにうねり、モーリスの片腕を掴み取ったのだ。
「モーリス、捕まってはいけません」
 後方でセレスティの声がする。が、モーリスの、残る片方の腕は、欄干を掴んでいたはずの老人の両腕によってしっかりと絡め取られてしまっていたのだった。
(ぃぃぃぇぇぃびびががぃぃ)
 老人の口から吐き出されている息が、形を成してモーリスの耳をざりと撫ぜた。
 モーリスは、その瞬間、老人の眼孔の深奥に、確かに仄暗いものが揺らいでいるのを見たのだ。だが、
 ――ガゥン
 次の瞬間には、モーリスの体は欄干を越えて宙の只中にあったのだった。

 びょうびょうと風が鳴っている。遠く近く、雷鳴のようなものが聞こえる。
 遠く離れていくセレスティの姿を亡羊と見つめながら、モーリスは自分の片腕を絡め取っている煤だらけの死骸に向けて意識を寄せる。
 ――――ああ、なるほど。モーリスは、この期に及んでもなお落ち着き払えている己の頭の中でうなずいた。
 この老人は、死のうと思って欄干に手を置いていたわけではなかったのだ。
 欲しかったのは、共に逝く連れ合いだったのだ。

 どぷ

 橋から河までは、思ったよりも離れていなかったように思える。これも連日の雨によるものだろうかと考えて、ごうごうと流れる淀んだ水に身を寄せる。
 屍が、耳元で息を吐いている。
 

 雷鳴のように聞こえていたのは、周りを囲む少年達の笑い声だった。
 視界は紅蓮に染まり、掻き毟る頭にはもはや頭髪などひとつも残されていない。
 岩場の上を転げまわり、全身を覆う炎を押し消そうと試みるが、冷静な判断など下せようもない。
 最期に、岩場の向こうの河の中へと身を躍らせた。
 少年達は、興をそがれてしまったのか、――あるいは自分達の成した行為に恐れを覚えたのかもしれないが、次々に河川敷を登り、帰路に着いていく。

 
 目を開けると、そこにはセレスティの姿があった。セレスティはモーリスの双眸が開いたのを知り、モーリスの髪をそっと撫で付け、小さな安堵の息を吐いた。
「目が覚めましたか」
「……はい」
 返事を返し、ゆっくりと上体を起こす。と、その目に映りこんだのは、自分の腕に絡みつく、白々とした人骨だった。
「……私に”見せたかった”のは、この方が見た最期の風景だったのですか?」
 セレスティに一瞥を向け、河の水を吸ってじっとりと濡れてしまったスーツの袖を軽く振るう。
「あなたが引きずり込まれるのは計算外の事でした。……申し訳ない事をしましたね」
 頭を下げるセレスティに、モーリスはふるふるとかぶりを振ってから口を開けた。
「セレスティ様が手を貸してくださっているのは分かっていました。だからこそ、私は今またここにあるのですから」
 しかし、と継げて、モーリスは再び骸に向けて視線をあてた。
「……私はあなたのお供をするわけにはいきません。……その代わりといってはなんですが、あなたの無念は私が晴らして差し上げましょう」
 そう囁きかけて、自分の片腕にしがみついている骸の表面をふわりと撫でる。
 
 ――雨が止んだ。

 翌日からテレビを賑わせたのは、数年前までは未成年という立場にあった青年達に関する報道だった。彼等は河川敷に住んでいた住所不定の老人を、悪戯に――そう、ほんの軽い出来心から殺してしまったのだ。
 ダンボールに火を点けてみただけなのだと、青年の内の一人はぼやいたのだという。

 うららかに晴れた春の日の午後、セレスティとモーリスは邸宅が有する広い庭の中にいた。
「そういえば、ゴーストネットからはあの老人に関する記述は消えたのですか?」
 セレスティのカップに紅茶を注ぎいれながら、モーリスは穏やかな声音でそう問うた。
 セレスティは焼けたばかりのスコーンを口にしていたところだったが、モーリスの問いかけに応じてうなずき、返した。
「もっとも、あれから雨は降っていませんからね……あのご老人は雨の日でないと姿を見せないそうですし、また雨の日に行って確かめてみましょうか」
「……楽しそうですね、セレスティ様」
 小さな息を一つ吐く。
「ああ、いえ、決してそんな事は」
「……冗談ですよ」
 慌てて手を振るセレスティに、モーリスは穏やかな笑みをひとつ向けた。

 空は澄んでいる。
 満開となった桜の花が、風に乗って蒼穹の中を漂い、流れていった。




―― 了 ――