|
■+ 合わせ鏡の蜃気楼 +■
真っ暗だった。
真闇は、彼の心を浸食していく。
誰もいない。
何もいない。
何も見えない。
何も聞こえない。
ここには一人だけだ。
そう、思った。
もしかすると、このままここから抜け出ることは出来ないのかも知れない。
光の射さぬ此の地で、一粒の希望すらも見いだせぬ此の地で。
彼はたった一人生きて、そして死に逝くのかも知れない。
汚泥の様に絡み付く、ねっとりとじっとりとした脳髄まで犯されていく様な障気は、徐々に彼から正常な感覚を奪って行く。
ヒトからケモノへ。
ざらついた皮がばりばりと剥がれ、そこに赤黒い刻印を刻んで行く。
そうして、ヒトではなくなった彼は真実の姿を曝け出す。
変わり果てた己の姿に陶然とする──、そんな自身に怖気を感じ、彼は震えるその身を強く強く抱きしめた。
「……爆睡、だよな」
そう呟き、彼は肩越しから覗く自分と瓜二つの顔を見て、何処かこそばゆい顔をした。
こんな風に、彼が無防備に眠っているのを見ることは、あまりないだろう。
なかなかに激しい年末年始だった所為もあるのかもしれない。
そして、自分の背中であるから……だと思いたい。
尤も、ただ単純に北斗のバイクの様に、酒量をリミッター解除してしまったことが多分に関係しているのかもしれないが。
「……切ねぇ」
そんな風に、彼──守崎北斗(もりさき ほくと)は、背中で寝息を立てている兄──守崎啓斗(もりさき けいと)を背負い直しつつ考える。
守崎家の双子は、この年末年始に草間興信所から出た依頼をこなしていた。
その後、慰労会を兼ねた新年会があり、しこたま飲み食いをして来た帰りである。
ちなみに北斗には、目標と言うものがあった。
『今度こそ、兄貴を酔い潰すっ』
心の中で握り拳を振り上げて、北斗は本日の目標を誓ったのだ。
心の中でと注釈がつくのは、そんなことを口に出して言えば、啓斗の鉄拳が飛んでくる為である。
とまれ、目標は達成した。
酔い潰してどうするのかと問われれば『えーっと』と、視線を逸らせつっつ不審な態度になる北斗だ。別段、イケナイオイタをするつもりではない。
ただ。
撫で撫で……、もとい。
啓斗がしてくれた様に、そっと髪を撫で、寝顔を見ていたいと思っていただけだ。
寝顔は見れた。後はあの手の優しさを再現してやるだけ。
「それにしても、歩きっつーのは予定外だったけどさ。ま、これはこれでちょっと嬉しかったりして」
クスリと北斗は笑い、草間とのやりとりを思い出していた。
「えーーーっ、マジかよーー」
思いっ切りふて腐れた顔をして言う北斗だが、草間は当然の様に首を縦には振らなかった。
草間だって可成り酔っぱらっている筈なのに、こう言うことだけにはきちんと釘を刺して来るあたり、腐っても所長……なのかもしれない。
「ほら、俺、そんなに酔ってねーし」
当然だ。
バイクに乗って帰ろうと思っていたから、限界には到底及ばない酒量で止めていたのだから。
「なーー、イイじゃんよー、チャリンコとか歩きなんかかったりーーっ。バイクバイクバイク」
「馬鹿の三連呼」
「なんだとーっ。んじゃ、バイクバイクバイクバイクーーー。ほらこれで四回だっ」
えっへんと威張る北斗だが、何に対して威張っているのかさっぱり解らない。
「……酔っぱらいは運転してはいけません。ちなみに自転車もダメだぞ。あれだって酔っぱらって乗ったら、飲酒運転になるんだからな」
「ケチー、草間のケチー。ちょびっとだけじゃん、酒入ってんの」
精々ほろ酔い程度だろうと食い下がってみるも、しっかり保護者然とした態度に変わった草間は、全身酒の匂いをさせつつ再度駄目出しをしてくれた。
「ダメなもんはダメ。てか、飲酒運転なんかもっての他。お前、自分が未成年だって自覚あるか? 大体、未成年の上、年明け早々飲酒運転なんかして引っ張られてみろ。目も当てられんぞ」
ちなみに引き取りに来るハメになるのは、この場合、どう考えても草間だろう。
……酒に撃沈していなければ。
草間が無理な状態であれば、彼に近しく、そして守崎兄弟とも近しい存在が迎えに来ることになる。
『あーー、流石にそりゃ拙いよな』
その顔を思い浮かべ、北斗は漸く諦めの溜息を吐いた。
「わぁーったよ。歩いて帰れば良いんだろ、歩いて帰れば」
「そうそう、歩いて帰るのが一番安全だ」
……やはり草間、可成り酔っぱらっているのかもしれない。
ここから守崎家までの道のりを、既に沈んだ酔っぱらいを背負って帰ろうと言うのに、手段として徒歩を推奨していることに関して、何の疑問も抱いていないのだから。
ちなみにそれを言うなら、『歩いて』と言う言葉がさらりと出た北斗だって、酒で脳味噌が爛れちゃったのかも知れないが。
まあ、道々に何かあっても大丈夫ではあろう。彼らは忍者だ。
ただし今は酔っぱらいの。
「草間、バイクちゃんとお守りしろよ。傷ついてたりなくなってたりしたら……」
ぐっと目力を入れて草間を睨み付けてやる。
ちょっとした迫力だ。
「……したら?」
その迫力に押されつつ、草間もそう問い返す。
「興信所の冷蔵庫、今年一年は間違いなくすっからかんだと思えっ!」
「兄貴が起きてなくて良かったぜ」
もしも草間との会話を聞いていたら、即座に蹴りがドタマを見舞っていただろう。
その風景が容易に想像できて、思わず冷や汗がたらり。
だがそんな怖い存在でも、北斗にとってはなくてはならぬ兄だ。
更に言ってしまえば、啓斗が気に病んでいる昔の因縁因果など、北斗にしてみればどうでも良い。
今ここにいる啓斗が大切だから──。
ここにあるのが必然で、啓斗が兄でいるのは決して偶然なんかじゃない。そう思う。
漸く辿り着いた、我が家へと続くなだらかな坂道は、一人で上がっている時とは違う景色を見せていた。
一人なら、もう少し高い視点でものが見えるが、こうして背負って歩いていると、前屈みになっている為、僅かばかり低い地点を見ることが多くなるのだ。勿論北斗は、地面を見る回数より、後ろにいる啓斗の様子を見る回数の方が多かったが。
一気に駆け上ることだって出来た。そんな程度の上り坂。
それでもゆっくりと歩いて来たのは、きっとその背中に、温もりを感じたかったから。
少しでも長く、少しでも多く、少しでも……。
一歩一歩を踏みしめ、兄の重みも抱え込み、ふと視線を上げると、そこには我が家が見えた。
どっしりとした趣のある和風建築だ。年季だって入っている。人はボロイと言うだろうし、自分だって時折そう思ったりもするが、あの家には想い出が沢山詰まっている。何物にも代え難い年月を含め、大切な我が家なのだ。
それが視線に入った時、北斗の顔が微かにほぐれた。
「んっしょ……っと」
少し落ちかけた啓斗を、再度背負い直して小首を傾げる。
「軽っ」
身長差があったとしても、啓斗の体重は可成り軽い。
『何か、ホント、マジこんなんで良く忍びが勤まってるよなぁ……』
言えば啓斗が怒るから、北斗は極力それを口に出すことはしなかった。
忍びは身軽さが最たるウリと言えるのかも知れないが、ガタイが良いに越したことはないのだ。自分よりガタイが良い者と近接戦をやった場合、どうしてもパワー負けしてしまうだろう。
「ま、それを腕でカバーしちまうんだから、兄貴ってやっぱすげぇよなぁ……」
ぼんやりと呟く北斗は、ちらと啓斗の顔を見る。
寝顔からは想像出来ないだろう、啓斗の切れた時の姿。
その時の啓斗は、まるで戦う為に作られた様な機械を想像させるのだ。
標的を定めると、後はもうひたすらに潰す為だけ向かっていく。そこに浮かぶのは『滅』の文字だけ。感情など最初からなかった様に、その細い身体に流れているのは、無機質なオイルである様に、ただただ、標的が崩れ落ちるのを確認するまで戦い続ける。
そんな啓斗がとても怖くて、けれどとても切なくて。
彼をそんな風にしたのは一体何であるのか。それを突き詰めて考えることを、出来るならば拒否したい。向き合えば、残酷な現実、そして目眩のする事実に突き当たることを識っているから。
「ごめんな。兄貴」
不器用な優しさを持つ啓斗と、非情な暗殺者としての顔を持つ啓斗。
そのアンバランスさを思い、そこへと追いやってしまったことを思い、北斗はそっと溜息混じりに呟いた。
我が家へと辿り着き、引き戸になっている玄関先へと啓斗を降ろす。
この寒さの中、地面は冷え切っている。起きなければ良いなと、啓斗の顔を確認した。
「んー、大丈夫、そう?」
ぐっすりと眠ったままの啓斗を認め、北斗は鍵を取り出して開けると再度背負い直す。
「よっ……、っおわっ……っと」
ぐいと。
まるで幼子が頼りを求めて縋る様に、啓斗が北斗を抱き寄せた。
「あ、兄、貴……? 起きた?」
肩越しに見るも、啓斗の瞼は閉じたままだ。
「……ウソ寝、とか違うし」
寝呆けただけだなと、そう判断した北斗は、柔らかな笑みを啓斗に送った。
「どーっすかなぁ……」
北斗は少しばかり途方に暮れる。
啓斗が背中から離れてくれないのだ。
彼自身の部屋へと連れて行き、布団に寝かそうとしても、何故かぐっと抱きつかれてしまう。
「……もしかして、ホントは兄貴、起きてる?」
そんなことはないだろうとは思うが。
少しばかり思案し、北斗は自室で寝かせることにする。
そのまま一緒に寝てしまっても構わないし。
こっくりと頷くと、北斗はそのまま自室へと向かう。兄の部屋とは比べものにならない程ちらかっているのは、この際目を瞑ってもらおう。
「むぅー。布団、干しとけば良かったかも」
ぶつぶつと呟きつつ、北斗は啓斗と共に布団に入る。
相変わらず、啓斗は北斗に抱きついたまま。それでも布団に染みついた北斗の香り、そして温もりを感じたのか、徐々に身体を弛緩させた。
「かーわいい顔しちゃって……」
そう言いつつも、『起きてないよな』とばかり、寝顔を確かめる北斗。
「そんな無防備な顔してさ。兄貴」
心でこっそり呟く言葉は、『放っとけないって』。
口には出さない、少なくとも啓斗を前にしては。
ましてや起きている時に言えば、間違いなく啓斗から半殺しの目にあってしまうだろう。
一緒の布団に入りつつ、寝顔をじっと見つめていると、こんなに近くにいる筈なのに、とても遠い存在に感じてしまう。
いや、起きていたとしても『何でもない』と言い切る啓斗の前にあっては、とてもではないが近づけないと感じてしまうのだが。
「まだ眠ってる時の方が、近いかな……」
その答えなど出る筈もなく──。
北斗は啓斗の寝顔を見つめつつも、考えた。
眠っている彼は、一体どんな夢を見ているのだろう。
こうして意識を手放している彼は、一体どんな思いを抱いているのだろう。
全てをその『兄』と言う仮面で押し隠し、自分の前に立ち続ける啓斗の心は、本当は何を望んでいるのだろう。
「なあ、兄貴。何でそんな我慢ばっかするんだ?」
ぽつりと漏れた言葉が、やけに耳に響いた。いや、それ以上に心に響く。
「ホント、何から何まで、我慢ばっかしやがってさ」
そんなに自分は頼りないのだろうか。
そんな考えが脳裏に過ぎって、少し切なかった。
本当の気持ちを形にする前に、啓斗は自分自身でなかったことにしている。もしかすると、そんなことにも気付かないまま、我慢していると言う気持ちすらないのかもしれない。
そんな気がするのだ。
「そりゃ、さ。兄貴には心配かけてるし、迷惑だってかけてるし」
そっと指で頬を撫でると、啓斗がくすぐったいとばかりに身体を震わせる。
「でもな。兄貴」
唇を噛んだ先は、言葉にならなかった。
そっと。
ひっそりと。
心の中で溜息と共に吐き出すだけ。
『全部一人で飲み込んでんじゃねぇよ』
そう胸の奥底で呟いた。
「……兄貴のウソつき」
そう口にした言葉とは裏腹、その手は優しく啓斗の髪を撫で、そしてその瞳は切なげに伏せられた。
「一度くらい、ホントのこと言いやがれ……」
北斗は、躊躇いがちに啓斗の頭を引き寄せると、耳元でそっと小さく囁いた。
「なあ兄貴。俺達……」
真っ暗だった。
真闇は、彼の心を浸食していく。
誰もいない。
何もいない。
何も見えない。
何も聞こえない。
ここには一人だけだ。
そう、思っていた。
けれど、その身体に指先に、微かな温もりを感じた。
それは徐々に、血泥に穢され手放そうとしたヒトとしての形を取り戻させてくれる。
身体に満ちていく温もりは、とても離れがたく、そしてそれを失うことが怖かった。
安心している己に、彼はふと気付く。
この温もりがずっと続けば良いのに。ずっとずっと、続けば──。いや、一つになってしまえば良いのに。
そう思った。
満ち足りた思いを味わっている彼から、それが不意に途切れた。
彼は必死に探し求める。
迷子の童の様に、置き捨てられた子供の様に、必死に探し、──そして再度、それは与えられた。
もう離さない。絶対に離さない。
縋り付いた温もりは、彼にそっと囁いた。
『この世の果てまで、歩いて行こうな』
Ende
|
|
|