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<東京怪談ノベル(シングル)>


羽が生えたあと




 羽に触れたことからあたしに感染した天使病。
 銀色になった肌を羽毛が覆い、背中には大きな翼。放っておくと天使の輪が出て来て本物の天使になってしまう病気だ。
 こんな姿で学校になんて行きたくなかったけど――時期からして欠席する訳にもいかなくて、あたしは半泣きで登校したのだった。出かける前に、包帯で患部をグルグル巻きにしたのは「背中の翼を見られるよりは、怪我をしたと思われる方がいい」という苦肉の策。学校で目立ってしまうし、あたしの変化に気が付く人がいるのではという焦りも相まって肌が汗ばんでしまうし、最初は恥ずかしかったけど――。

 家に着いたあたしは、いつもと変わって乱暴に制服を脱ぎ捨てた。胴体に巻きつけた包帯は破れてしまいそうなくらいに伸びきっている。翼が大きくなっていたためだ。
 ソックスも脱いで包帯を取った。殆ど肌色の抜けた白い肌が目の前に現れると、背中がゾクゾクとした。まるで感覚まで天使に侵されているみたいに。
(制服……ハンガーに掛けなくちゃ……)
 そう考えているのに、身体は畳の上に倒れていった。
 暖かいとは言えない季節なのに、包帯を巻いていたせいでじんわりと汗をかいている。
 傍に香るは畳の匂い。あたしが寝返りを打つたびに、畳はペリリと音を立てた。離れ難いと泣くように。

 あたしは、あたしの気持ちがわからない――。

 天使病を治す錠剤は目の前にある。
 これさえ飲めば数時間後には元の姿に戻ることが出来るのだ。もっとも、天使の輪が出る前でないといけない。
(だから早く飲まなきゃいけないのに)
 いくつかの錠剤は瓶から零れ落ちて畳の上に転がっている。あたしが飲もうとして手に取ったものの、落としてしまったのだ。
 さぁ、さぁ。
 自分を急かして口の中へ錠剤を運ぼうとするけれど――。
 唇の前で手が止まる。歯もかたく門を閉ざしていて開かない。これさえ飲めばすぐ良くなるのに、それを拒んでいる自分がいるのだ。どうして、と自分に問いかける。
(駄目だよ……)
 と、あたしは自分を叱った。このままでいたら、どうなることか。あたしの身体は完全に人間のものではなくなってしまって、天使になってしまうというのに。だから早く治療をしなくちゃいけないの。
 でも、と心の奥から声がする。
 “どうして天使になるのがいけないのかな。清らかで、正しくって。それが絶対的に保証されている存在になれるのに。そしたらきっと、今よりもあたしは楽になれるのに……”
 病は刻々とあたしの身体を侵していくのだ。錠剤を右のてのひらで握ったまま、あたしは自分の変化を感じ取っていた。
 ジットリと湿った畳の目の感触と、羽毛が徐々にその領土を広げていくむず痒さ。例えるならタンポポの綿毛が肌からフワリと生えてくるようなもので、あたしは全身に植物の種を埋め込まれている気分になった。そのくすぐったさに、あたしは身体を丸めたり、伸ばしたり、肌を左の手で撫でたりつねったりした。撫でるのは逆効果で、敏感になっている肌の部分に指が触れた瞬間ゾクリと寒気を感じ、肩を震わせた。それは小さな飛び魚が跳ねるように。
 肌も光沢を帯び、冷めたような銀色を濃く帯びてくる。背中の翼が、膨らむようにその羽を広げ始めた。それにあわせて、あたしは眼を閉じる。声を水飴のように細く細く天井へと伸ばしていった。時折、冷静になって恥ずかしさも覚えながら――それでもあたしは悶えた。痛いのか、痒いのか、心地よいのかはもう判断がつかない。耳の奥で自分の声が途切れ途切れに幾度も聞こえていた。その姿は、これから天使になるとは思えないほどに動物的で――。
 全くの偶然だった。てのひらの中の錠剤が舌の根本へと入っていったのは。
 あっと思うよりも先に、喉が湿った音を立てた。カタイ感触が喉から下へと落ちていった。
(飲めた……)
 あまりの急な決着に、あたしは少し戸惑った。
 これで元に戻れる。だけど――。
(……ううん。これで良かったんだよね)
 零れた錠剤を瓶に戻して、制服をハンガーに掛けた。あ。薬が戻ってこないように水も飲んでおこう。
 蛇口をひねって水をコップに注いでいると、頭も冷えてきたのか、さっきまでのことがとても恥ずかしく思えてきた。
(やだ……)
 あのときの動物的な声が耳の奥で甦ってきて――。
「ん……」
 台所にて、あたしはひとり頬を赤らめるのだった。




終。