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鳥雲のマドリガル
ランドセル姿の子供達が笑いながら青年を追い越して駆けて行った。
その後を風に吹かれた桜の花びらが舞いながら追いかけてゆく。
――……一年生かぁ……。
まだ背中に馴染まないそれを背負った子供達の声を遠く聴き、青年――伏見夜刀は眩しげに目を細めた。
自分の腰の高さまでしかない背に、子供の頃見ていた光景は今の目の高さで見たものと違っているのか考える。
たぶん今、同じ光景を目の前にしても、感じるものは違ってくるだろう。
それは勿論成長した現在の視点にも言えるのだが。
夜刀が今歩いている道はすぐ側に小学校があるらしい。
まだ午後も早い時間なので、歩いている子供たちは低学年なのだろう。
高い笑い声はひばりのさえずりのようにも聞こえた。
――……きっと学校に行くのが、楽しくてしょうがない頃なんだね。
夜刀には学校に通った経験が無い。
知識と呼ばれるものは全て父と母に教わっていた。
懐かしい伏見家の居間が幼い夜刀にとっての教室だった。
自分で一人勉強する時間もあったけれど、母や父の傍で話を聞きながら過ごす時間の方が不思議と知識は身に付きやすかった。
両親が教えてくれるものを全て身に付けていくその過程は、時に辛くとも振り返ってみれば楽しい思い出だった。
書棚から背表紙の意味もわからないくせに引き出した本を、父の膝に乗せて読んでもらった毎日。
それを見守る母も、屋敷の住人も、眼差しは温かだった。
しかし夜刀が両親から教わった内容には、一般的な教養の他に魔術と呼ばれる太古からの叡智も含まれていた。
学び取り知識が増えていくのを幼い夜刀は楽しんでいたが、そんな日々は突然二人が命を落として終りを迎えた。
その後夜刀は一時自分を失いながらも、自らの意志で魔術を学び続け、現在に至っている。
もしも、と夜刀は思わないでもない。
――……もしも、僕が……魔術と無関係の家に生まれていたら……。
瞳の色も、黄金色ではなく髪と同じ黒だったなら。
――……僕もあんな風に、他の子供たちと一緒に学校に通って、勉強して……遊んでいたのかな。
夜刀はほんの少しだけ現実と違った子供時代を思い浮かべる。
会場で席に着いた父母を探しながら先生たちの挨拶を聞き、校門で記念撮影をする入学式を。
浮き立つ心で母が教室に現われるのを待つ、授業参観日を。
――学級係は図書係がいいな……たくさん本が読めるから。
その頃にはきっと、僕にも同じクラスの友達ができてるんだろうな……。
幻の友人にどう話しかけようかと思った所で、夜刀の思考は止まってしまった。
夜刀はずっと大人たちに囲まれて過ごして来た。
だから同じ年代の相手にどう接していいのかわからない。
まわりの年長者の影響か、物腰はゆったりと落ち着いて見える夜刀だったが、その実内面での心の動きは青年らしく多岐多様に渡って揺れている。
ただ、相手を思いやる気持ちが強すぎて、全て言葉に出来ないでいるのだが。
――……どこか学校のような場所で、魔術を勉強していたら……。
とりとめなく想像が広がっていく。
夜刀はほとんど独学に近い形で魔術を学んでいたので、やはり共に学ぶ相手にはあまり恵まれていなかった。
足元をさらうように風が吹き、舞い上がる花びらがくるりと一回りしたのを見て夜刀は微笑んだ。
――……今も学生みたいな感じだけど。
全てが慎重すぎて思うようにいかない時もあるが、それでも前に進む気持ちを失った事はない。
少しずつ成長しているのではないかと、最近では自分でも思えるようになってきた。
――父さまと母さまに今の僕を見せたかったな……。
空では気の早い春の渡り鳥が囀っている。
陽気なマドリガル。
うららかな春を喜び合う旋律。
桜がほころぶこの季節は、人間にとっても動物たちにとっても、出会いと別れの時期なのだ。
季節が巡っていく毎に心に刻まれた痛みは薄らいでいき、優しい面影だけが胸の深い場所で息づいている。
それを今は感じ取れる。
――そういえば……もう、ずっと行ってなかった。
夜刀の両親は、伏見家の屋敷があった場所の近くに葬られている。
夜刀にはお盆やお彼岸といった習慣はなかったが、ふと故人に思いを馳せる時期というのは自然と決まっているらしい。
――……訪ねてみようか。
実の両親を忘れた時は無かったが、日々の雑事に追われ永い間墓所から足は遠のいていた。
新しい場所へと旅立つこの季節に、懐かしい場所へと戻るのも良いと思う。
――……今の僕を、見て欲しいな。
週末に予定が無いのを幸いに、夜刀は久しぶりに両親の眠る場所へと向かう事にした。
列車とバスを乗り継いで着いた先から、更に山道を分け入って行く。
途中門扉の閉ざされた伏見家が木々の合間から見えたが、かすかに懐かしさが甦っただけで、夜刀は心乱されはしなかった。
――……あそこは懐かしいけど、でも……。
東京に残してきた年老いた養父母の事を夜刀は思った。
墓所を訪ねたいと切り出した時に気持ちよく送り出してくれた二人は、もう紛れもない夜刀の両親だった。
――……最初の出会いが、血の繋がりじゃないってだけなんだ。
僕の家も家族も、あの場所にちゃんとある……。
東京では桜が咲いてすっかり春を迎えていたが、山間のこの地方でそれはまだ当分先のようだ。
冬に雪の多い気候は夜刀も知っていたので、膝まである長靴とスノーシューを予め用意してきた。
ちらちらと小雪が降りながらも、その向こうに輝く太陽は明るく、確実に春が近付いているのだと夜刀は思った。
厳しい季節と、それが緩む季節の繰り返し。
一見枯れた木々の下に芽吹く緑の息遣いを感じる。
山奥に深く進むにつれて、普段は気が付かない些細な気配にも夜刀は敏感になり、感じ取る。
遠くで枝から滑り落ちる雪の音、野栗鼠が木々の間を駆ける足音。
春の奏でるマドリガル。
時々立ち止まって目を閉じ、夜刀は耳を澄ませた。
懐かしい思い出の両親の声に。
いつかの冬、夜刀と両親とでスノーシューを履いて、ピクニックに出かけた事があった。
雪の下を流れるせせらぎがだんだん早くなっていく音が、今の夜刀には聞こえる。
母に促されて一緒に耳をそばだてた子供の頃には、聞こえなかったのに。
母と二人で身体を寄せ合って目を閉じ耳を澄ませたあの時、せせらぎの音は聞こえなかったけれど、絵本で見た兎の親子になったような優しい気持ちになったのを覚えている。
――今は僕にもちゃんと聞こえてるよ、母さま。
休憩で立ち止まる度に動物の足跡を教えてくれたのは父だった。
生き物の存在から、その向こうのもっと大きな自然の流れを夜刀は感じた。
子供の頃は漠然とした感覚だったものが、今は全て順序立てて身体に入ってくる。
――父さまの言いたかった事に、少しは近付けてるかな。
父がはっきりと言葉で示す事は少なかったが。
太陽が真上に差し掛かった頃、夜刀は両親の葬られている場所へとたどり着いた。
石碑が二つ並んだその場所は半分以上が雪の中に埋まっていたが、目にした途端に『この場所だ』と夜刀にはわかった。
雪を除けると花の紋章がリースのように飾られた石碑が現われる。
「……父さま、母さま……」
指で刻まれた両親の名前をたどるとやっぱり言葉が声にならない。
――……僕は、大きくなったでしょう?
長い時間をかけてこの場所まで来なければならなかったので、花は小さなブーケのようなものしか用意できなかった。
そっとそれを雪の上に置き、夜刀は目を閉じて両手を組む。
――……もっと早く来れば良かったね。
ごめんなさい……二人とも、寂しかったよね。
わだかまりが全く無かったと言えば、それは嘘だ。
悲しい思い出が再び心を暗く覆うのではないかと思うと、怖さを覚えた事もある。
けれどこの場所に立ってみると、それは取り越し苦労だった。
――……もう僕は、大丈夫だよ。
夜刀は山々に訪れる春を思った。
なだらかな丘の麓には野花が咲き、せせらぎが流れ、動物達が憩う場所に父と母は眠っている。
静けさという旋律で自然のマドリガルに加わりながら。
「……今度はもっと早くに、また来るよ」
短いようで長かった時間が過ぎ、夜刀は立ち上がった。
――……もっと成長した姿で、必ず。
夜刀は子供の頃にしたように石碑に手を振って見せ、その場から遠ざかって行った。
(終)
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