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<東京怪談ノベル(シングル)>


春眠桜によせまして




 ゆらゆらと、池の水面に夜桜が映っている。満開の、散りはじめが美しいソメイヨシノ。桜の裏には楓と楠、欠けた煉瓦の花壇にはサザンカの苗が植えられている。まばらな整備の遊歩道脇には春らしく、ふくらみ始めたタンポポが伸びていた。
 都心よりいくらかはずれた森林公園である。少し高めのベンチに座れば、西に高いコンクリートでできたもう一つの巨大な公園が見える。森林公園よりもあきらかに人が多く、雑踏入り乱れている。勿論美しさでは森林公園の方が断然有利だが、明るさと華やかさではコンクリートの公園が有利である。ところがそれも今は別らしい。――ソメイヨシノが華々しく揺れている。
 春も間近、と言ったのは一週間前のニュースキャスター。予告通り、春一番は清々しく盛大に通り過ぎていった。そこここに、風で煽られ方向のおかしくなった木の枝が見受けられる。これぞ春と言ったのは公園在住のホームレス。
 突然に風が吹く。風は砂埃を巻き上げて、満開の桜までも多少巻き上げていった。
 暗い静寂の中に冷たさはあるものの、やはり春らしく、何処か目に暖かい。夜露に濡れた軟らかな土肌に、子供のポケットから転がり落ちたのだろうどんぐりが埋まっていた。ぴしりとひび割れ、潤いすぎた実からは弱々しい芽が頭を垂れていた。春の陽気に急かされて、早めに芽を出したのだろう。早く大木になれと、鳥たちも見逃しているのかも知れない。
 ふと見上げれば月が煌々と公園を照らし、コンクリートからの明かりで遮られた星々が、不満でも言いたげに地上を見下ろしている。
 その星々に見下ろされる公園で、一つの影が浮遊していた。
 茶の髪を揺らし、焦点定まらぬ黒に瞳は同色の空を見上げている。手は風の中に遊び、粘土でもこねるように空をかいている。身につけているのは寝間着同等の衣服であり、春とはいえ流石にその格好では寒かろう。ところが影はそんな素振りも見せず、ただゆらゆらと足を出している。柔らかい道でもあるのか、呼吸に合わせた歩幅は狭いが一本の道を違わず歩んでいる。公園と隣接した繁華街の裏を抜け、商店の光りを背に浴びながら、影は公園に足を踏み入れた。
 無意識のうちに風を操り浮遊するのは三雲冴波。ゆるりと大気と風に揺られ、彼女は浮沈を繰り返しながら足を前に出している。
 体の中に巣くう蟲が、彼女に繰風の術を授けているのだ。一種の夢遊病として扱われてはいるが、症状通り意識がないものだから彼女自身、蟲がいるなどとはちらとも思っていない。
 夢見心地の瞳は限りない夜空を見上げ、口元には薄い笑みをたたえている。黒々と奥深い夜空に、雲が漂った。冴波の目が機嫌悪く細められた。かざした左手が弧を描いて振り下ろされる。
 轟、と一陣の風が吹いた。
 冴波の髪をめちゃくちゃに乱して、突風は天空へ舞い上がっていく。舌打ちのような冴波の命令で、風は薄い霞雲を切り裂いた。
 散っていく雲は桜の花弁にも似て儚げだが、地面に落ちず突風に煽られちりぢりになったままに過ぎ去った。見通しの良くなった月に埃のような雲が被さって、それはそれで情緒ある風景である。
 冴波の口角がゆっくりと上がった。
 また歩き出した冴波は、柔らかい道をゆっくりと進んでいく。風に髪をなびかせ緩やかに笑い、目的地は何処にもない。春であるから、これは別の意味での「春眠暁を覚えず」であろうか。
 焦点定まらぬ瞳がひたと正面を見据え、満開の名物桜を捉えた。
 爺婆の姿しか見かけぬのが森林公園の常だけれども、春と秋だけはまた別。名物とも言える大桜が人々の頭上を揺れるのだ。花見と称した宴会が催され、そのたびに敷物からこぼれたゴミを拾うのが爺婆達の仕事であるが、これはまた別の話。
 秋になればそれは美しい紅の紅葉。桜の丸い葉が木枯らしに吹かれて舞い落ちる様はどこか哀愁を誘う。紅葉に涙を流した婆が一句を読み、それが森林公園入り口の石碑に彫られたのも、これまた別の話。
 その大桜の前から、何故か冴波は足を動かすことができない。いや、蟲がこの場から動くことを厭うている。
 冴波はゆっくりと足を前に出し、満開の桜に近付いた。柔らかな道の上に花弁が落ちる。一瞬の間、柔らかな道の上に横たわって、地面に落ちた。見ていればそのまま地面にとろけてゆきそうな、それほどの儚さである。
 ゆるゆると腕を持ち上げる。指先で、風が揺れた。
 身の内で、蟲が大きく躍動した。
 一陣の風が吹く。蟲が起こした風でなく、自然の春の風が吹き抜けた。冴波の髪がなびく。通り過ぎた風が桜を樹木ごと揺する。ざわざわと耳にうるさい揺れの後、雨のように落ちた花弁がまたも風に吹き上げられた。天空高く連れ去られてから、風に見捨てられゆっくりと落ちてくる。ひらひらと落ちてくる桜の花弁に見とれて、冴波は再び一歩を踏み出した。柔らかな道に捕まり速度を落として地面に横たわる。花弁を追っていた瞳の奥で、蟲がゆっくりを目を閉じた。
「あれ」
 思わず声を出した冴波の足は、もはや柔らかい道を踏んではいない。柔らかくも固い地面を踏みしめ、顔は満開の桜を見上げていた。
「は? 公園」
 目を泳がせて見回せば、あたりの景色に冴波は見覚えがあった。何故近所の公園に自分がいるのか、覚醒したばかりの頭で思い当たる節を次々と数えていく。風が吹いた。
 なびいた髪をいつもの癖で掻き上げて、冴波は見事に満開の桜を見上げた。黒々とした公園の一角だけがやけに明るい。桜がぼうと光って、夜に飲み込まれることを拒んでいた。だからこそ凛として、華やかに咲き誇る。
「綺麗、だね」
 呟きの後に鼻がむずがゆくなり、大きなくしゃみを一つ。鼻をすすって、まずい、と呟いた。
 冴波の身につけるものは寝間着と変わらぬもので、春とはいえ流石にこれでは寒かった。気付いてみれば眠気も襲ってくるもので、帰って寝直さなければ明日の仕事に響く。
 布越しに腕をさすり、もう一度桜を見上げる。
「また、見に来るよ」
 何故かそうしなければならないような、そうしたいような、おかしな感情に押し寄せられてぽろりとこぼれた言葉。彼女が気づかぬ蟲が、それを言わせたのかも知れなかった。
 吹いた風がまた桜を揺らして、頷くように花弁を散らせていた。






登場人物

□4424 三雲・冴波 二七歳 女 事務員