|
約束
0、教師の思惑
この学校で教鞭をふるったのは、もう十六年も前になる。
あの頃の私はまだ大学を出たてで右も左もわからず、毎日が手探りで苦労の連続だった。
だが、授業を始めるまでに、一日の体力の半分を使うと言う現在に比べれば、その苦労も比ではない。子ども達は素直で明るく、教師には威厳があった。私も今でこそ無くしてしまった夢や希望を胸に抱いていた。それが、空回りしない時代であったのだ。
現場を移動して十二年が経つ。少子化が進み、校舎の取り壊しが決まったと聞いた。時代の波が、また一つ思い出を消し去ろうとしている。哀しいものだ。
校門にかけられた『立ち入り禁止』のプレートに触れる。アクリル板がひんやりと冷たい。門は固く閉ざされ、来訪者の侵入を拒んでいる。
校舎の左手にある小さな飼育小屋を眺めるのが、当時の私の日課だった。家畜の世話をするために、朝早く子ども達が訪れる。皆、せっせと小屋の中を掃除し、ウサギや鶏にエサを与えていた。私はそれを、小屋の真上に当たる音楽室から眺めていた。
朝練に来ていたブラスバンドの子ども達は、そんな私をからかった。練習を見に来ているのか。飼育小屋を眺めに来ているのかと。そのどちらも、私は好きだった。調子はずれな弦の音を聞きながら、動物の世話に励む子ども達の姿を見る。一日の始まりをあらわす、穏やかな序曲となるのだ。当番の子供たちも、良く私に手を振ってくれた。
楽しくも、懐かしい思い出だ。だが、そこにぽつりと埋もれた、悲しい記憶もある。
忘れもしない。その日の当番は、四年二組の生徒であった。須藤尚子、本村大介の二人だ。
いつものように上から眺めていると、二人が小屋の中を右往左往していた。様子が変だと思った私は、階段を駆け下りて飼育小屋へ向かった。私の顔を見るなり、子供たちは泣きそうな声で言った。三羽いるウサギのうち、一羽がいなくなっていたのだ。
ブラスバンドの子ども達も加わり、皆で手分けして探したが、結局、ウサギは見つからなかった。灰色のメスで、名をチェリーと言う。一番、人なつこくて、子ども達に好かれていたウサギだった。
このことは、校内でも大きな問題となった。小屋の鍵は開いていて、エサ箱がひっくり返されていた。ウサギは自力で逃げたのではなく、誰かに連れ去られた可能性が高かったのだ。子ども達にはショックが強すぎるからと、事実は伏せたままとなった。
子ども達は逃げたウサギがいつか帰ると信じていた。中でも、人一倍チェリーを可愛がっていた大介は、チェリーがいつ帰ってきても良いようにと、今まで以上に早く学校へ来ては、飼育小屋の前で待っていた。放課後も促されて渋々帰ると言った具合だった。
大介は三年生の頃、この学校へ転校してきた子供だ。
彼は飼育係りを自分から進んで引き受け、当番の日はどんなに具合が悪くとも休まずに学校へ来ていた。彼にとって、誰よりも早く友達になったのが、このウサギたちだったのかもしれない。その上、チェリーは出産が近かった。大介は子供が生まれるのを楽しみにしていたのだ。
ウサギがいなくなってから一週間。彼は、毎日、小屋の前でチェリーを待ち続けた。
『チェリーは絶対、俺が見つけるから』
それが大介の口癖になっていた。
真っ直ぐな目を見ていると、私も彼の行いを強くやめさせることが出来なかった。それが、仇となった。
その日、大介は珍しく朝寝坊をした。心身共に疲れきっていたのだろう。親は何度も起こしたのだが、起きることができなかったのだ。当番の日と言うこともあり、焦った大介は赤信号を無視して歩道を渡り、車にはねられて死んでしまった。
あんな結果になるのなら、無理矢理にでもやめさせるべきであった。
この記憶は、例え校舎が無くなっても消えることはない。
私は、校舎から立ち去ろうと踵を返しかけた。
だが、足を止めた。
飼育小屋の裏から、ふらりと人影が現れたのだ。
「あれは、確かに大介でした。見ていると、何度も同じ動作を繰り返すんです。飼育小屋の裏から現れ、消えてしまう。私になにかを訴えかけているようでした。けれど、もう良いんだ。あの子に、諦めろと言ってください。チェリーはきっと心ない誰かに殺されてしまったのでしょう。草間さんなら何とかしてくれると聞いて来ました。彼を、成仏させてやって欲しいんです」
困り果てた依頼人に、草間は小さく頷く。
「わかりました。なんとかしてみましょう……」
相手は子供の霊である上、長い間、同じ場所に執着している。単なる説得では、納得しないだろう。力で圧せば、後味の悪い結末になりかねない。最悪、土地に憑く霊となる可能性もある。
「同じ動作か……」
草間は浮かない声で呟いた。
探偵を悩ませているのは、事件の内容よりも、依頼人の言葉に含まれていた一言である。
怪奇は草間を選んでやってくる。
どう足掻こうと、逃れられやしないのだ。
1、壁
「弱ったわね。ずっと警戒したままだったけれど、大丈夫かしら」
電話を切ったシュライン・エマの口から、小さな嘆息が漏れた。大介と共に飼育係を務めた、『須藤尚子』の家に連絡を入れたのだが、生憎と本人は留守で、電話口に出たのは彼女の母親であった。
彼女はシュラインの話に、あからさまな警戒心をみせた。何度も、娘の友達なのかとしつこく問う。なにかの電話勧誘ではないかと、尋ねられもした。
そうではないとわかって貰うのは一苦労だった。興信所から電話が入り、卒業アルバムを見て連絡をしてきたと言うのだ。にわかに信じがたいのは良くわかる。事情は説明した。しかし、尚子の母は、冴えない生返事を繰り返した。穏やかではない表情が見えるようであった。
「尚子さんからの連絡が欲しいと頼んではみたけれど、あの調子だと、真実を曲げずに伝えてくれるかどうか微妙なところね」
「振り込め詐欺に電話勧誘。他人の言うことを鵜呑みにはできない時代になっちまったからな」
草間は苦々しく笑って、長く燃え尽きた灰を灰皿に落とす。
捜査の基本は聞き込みである。だが、昨今では、それがやりにくい。個人情報保護法への過剰反応も、妨げの一つである。欲しい情報を手に入れるまでの距離は、確実に伸びてしまった。地道さと忍耐強さで信頼を築き、一つ一つの壁を乗り越えて行くほかないのだが。
「『彼』と会う前に、尚子さんの話を聞きたかったのよね」
シュラインは壁の時計を見上げた。
九時を指していた短針は、正午へと移動している。十三時には、現場に着いていなければならない。依頼人や他の調査員との待ち合わせがあるのだ。
草間に差し入れを届けに来た東条花翠も、その一人であった。
「そう言えば、中に入ることはできるのでしょうか?」
花翠に問われ、シュラインは軽く笑んだ。工事を担当することが決まった建設会社と行政からは、すでに立ち入りの許可を得ている。
「ええ。事務所へ寄って、校門の鍵を受け取ってから行きましょ」
「はい」
二人は、テーブルの上の散らかった皿やカップを片づけ始めた。カチャカチャと陶器の触れあう、小気味の良い音がする。
花翠が、従兄から勧められた桜のロールケーキは、この季節ならではの、優しい色合いをしていた。まるで、今日の花翠のようであった。
白のニットとシフォンスカート、その上に薄桃色のトレンチコートを羽織った姿は、フワフワと華やかで、どこか清楚であった。
「開花予想では来週だったな」
草間が誰にともなしに呟く。
二人は顔を上げ、草間を見た。草間は花翠のバックを眺めている。小さなカゴに、桜のコサージュがついていた。
「お花見にでも行きたいですね」
そう言って、花翠は目を細めた。草間は頷き、新しい煙草に火を点ける。
「そうだな。久しぶりに皆を誘ってみるか」
「お酒と食べ物を持ち込みにすれば、草間さんの負担にならずに済むでしょうか」
貧乏探偵の懐は、春とは言えど温むことがない。
ここへ来るメンバーは、それを良く理解している。
苦笑が浮かんだのは草間だけではない。洗い物をするシュラインの横顔にも、同じ笑みが貼り付いていた。
2、廃校
校門の脇に佇む梅が、見事な花を咲かせている。
小石川雨と榊遠夜は、二人並んで白い花を見上げていた。高い塀越しではあるが、梅の持つ趣が薄れることはない。
「綺麗だね」
もう何度目かになるその台詞に、遠夜は微笑を浮かべて頷いた。
雨は、先ほどから同じ言葉ばかりを口にしている。それだけ、花に感動しているのだろう。
昼はバイト、夜は夜間制の学校と忙しい毎日を送っている雨にとって、ゆっくりと花を眺める時間は貴重なのかもしれない。
待ち合わせの時間より大分早く着いてしまったが、退屈をもてあますこともなく、楽しんでいるように見えた。
「あ、花の中にハチがいるよ」
雨は遠夜の袖を引き、一振りの枝を指さした。ミツバチが花から花へと忙しなく飛び回っている。
「本当だね」
「これだけ花があると、仕事には困らなさそうだよね」
無邪気な雨の様子が、依頼人を破顔させた。
「キミたちは高校生かな? 生徒が皆、キミたちのような子なら、教師も幸せなんだが」
二人の会話の邪魔にならないよう、一歩下がった場所で静かに校舎を見つめていたのだが、つい、漏れてしまったようだ。
教師は、澤谷と言った。年は三十代後半。日々の苦労が後退しかかった頭部に現れている。今日はシュラインから同行を求められ、二つ返事でやってきたのだ。
「そうではないのですか」
雨を見る澤谷の目には、微かに悲哀が滲んでいる。遠夜はそれを見逃さなかった。
「うん。難しい世の中だよ」
澤谷は、自分が教師であることと、遠夜たちの肩書きを考慮したようだ。語らずに、苦い笑顔を返す。
だが、遠夜には、その笑みに含まれた事情を察することができなかった。
小学校と言うものを、遠夜は知らない。幼い頃は、籠の中に捕らわれた小鳥のようなものだった。家から出ることを許されなかったのだ。自分の中に棲食う、暗く病んだ力が原因なのだが。
遠夜は校庭を眺めた。
片隅に、コンクリートの山がある。頂上から数本の鎖が垂れていた。下にはトンネルが開き、通り抜けが可能となっている。子供達のための遊具の一つであった。
うんてい、鉄棒、ジャングルジム。ブランコに登り棒と言ったものもある。それらはカラフルな色に彩色してあった。
遠夜には、目に見えるもの全てが新鮮であった。
物思いにふける遠夜と同様に、澤谷もまた、静かに校舎を見つめていた。
子供達を見守り続けてきた大時計が、十一時をさして止まっている。電力が止められたせいだろう。校舎が息吹くのを止めたその日、大時計の役目も終わったのだ。
ここは廃校なのだと、それらは無言で訴えていた。
それぞれの思惑が飛び交う。
雨は邪魔をしないように、二人の背中を眺めていた。
「お待たせしてごめんなさい」
背後からかかった声に、三人は振り返った。
シュラインと花翠であった。
シュラインは、大きな風呂敷包みを抱えていた。エンジ色に白い桜が咲いている。一メートル近い長さがあった。フライ返しを大きくしたような形をしているのが、布越しに見てとれる。三カ所に麻紐を巻き付け、風呂敷がほどけないようにしてあった。
「それは?」
雨はシュラインに尋ねた。
「スコップよ。もしかしたら、必要になるかもしれないと思って」
「じゃあ、シュラインさんも、飼育小屋の後ろに『なにかがある』って考えてるんだね」
皆、同じ考えに辿り着いていた。その言葉の意味に気づいたようだ。澤谷は愕然とした様子で、シュラインの顔を見た。
「まさか、チェリーが……?」
「そうなのかもしれません」
「そんな。そのことを知らせるために、大介が現れたと?」
「多分、ですが」
「では、一体いつからそこに?」
それは誰にもわからない。本人から話を聞くしかないだろう。
シュラインはバッグから銀色の鍵を取り出した。
「校舎に入る許可は得ていないんですが」
断りを入れた先は、澤谷である。
澤谷はすっかり消沈した様子で、静かに頷いた。
「結構です。飼育小屋へ近づくことさえできれば……」
校門がゴロゴロとくぐもった音を立てる。五人は揃って、足を踏み入れた。
飼育小屋は、入口を入って左奥にあった。校庭を向いて建っている。右手は花壇、左手と背面は塀だった。
どこの学校にでもありそうな、特徴のない造りである。三方が緑色のフェンス、背面にあたる部分はトタンで出来ていた。下側をコンクリートにするのは、ウサギが穴を掘って逃げ出さないためだ。屋根の庇は少し長めで、雨が吹き込みにくくしてあった。
「本当に、動物を育てていたんだね」
飼育小屋を初めて覗いた遠夜が言った。小学校にこんなスペースがあることを知らなかったのだ。
教師は驚いたようであったが、事情を問うほど、ぶしつけではなかった。その代わり、思い出の一つを口にした。
「ウサギやニワトリ、インコを飼うこともある。時には、アヒルも。攻撃的だったニワトリは生徒から怖がられていたが、ウサギは仕草が愛らしいから人気があった」
「その中でも、チェリーさんは可愛がられていたのですね」
澤谷は哀しげな微笑を浮かべて、花翠を見る。
「抱き癖のないウサギは、触られると直ぐに逃げてしまうんだが、チェリーはじっとしていた。大介も良く、チェリーを抱いていた。その人懐こさが、仇になったんだろう。チェリーでなく他のウサギだったら、大介もそれほど執着を見せなかったかもしれない」
廃校が決まって、住人達はどこかへ移動したのだろう。
トウモロコシ片やアワなどの鶏のエサが、剥き出しの地面を飾る星のように散らばっている。水入れとエサ箱はひっくり返り、地面から突き出た止まり木は、あちこちがボロボロに囓られていた。
飼育小屋の中は、小さな戦が起こったあとのようだった。
澤谷は、この小屋の裏から出入りする大介を見かけている。だが、今日はまだ姿を見せていない。澤谷がたまらず呼び掛ける。
「大介、いるか?」
なにかが動く気配も、応じる様子もない。辺りは静まりかえっている。澤谷は首を傾げたが、遠夜だけはごく薄い霊波を感じ取っていた。
「後ろにいるようだけれど、とても弱ってるよ。もうここに長く留まっていられないかもしれない……」
「大変。急ぎましょ」
シュラインはスコップを取り出しかけた。その手が止まる。
小屋の後ろから、白い『もや』のようなものが出てきたのだ。
3、大介
「彼なの……?」
『もや』は子供ほどの人型を為していた。周囲が透けて見えている。頭と胴体が、かろうじてわかる程度だ。誰であるのか判別はつかない。
「大介くん、だよね?」
雨は『もや』に向かって問いかけた。『もや』は五人の前に佇み、ゆらゆらと前後左右に揺れている。返事はない。雨は遠夜へと目をやった。大介の代わりに、遠夜が小さく頷いた。
澤谷は、大介の変わり果てた姿を受け入れられずにいる。
「いや、だが、彼はもっと」
遠夜はじっと『もや』を見つめた。
「もともと、そんなに強い思念じゃなかったんだろうね。チェリーさんの居場所を教えるために、力を使ってしまったから。この形もやっと維持しているよ……」
違和感があるけれど。
最後の言葉は遠夜の中でだけ呟かれた。
それがなんであるのか。探ろうとすると、大介の思念が邪魔をする。無理をすれば、大介自身の消失に繋がりかねないだろう。悪しきものではない。遠夜は見て見ぬふりをすることにした。
「私たちの言葉は通じるのでしょうか?」
花翠の問いに頷いたのは、やはり遠夜だ。
花翠は『もや』の前に腰を下ろし、顔があるであろう辺りに向かって話しかけた。
「大介さん。もう、楽な格好に戻って大丈夫ですよ。先生も私たちも、チェリーさんを助けるためにやってきました。大介さんが伝えたかったことは、ちゃんと伝わっています」
人型の輪郭が崩れていく。頭部も胴体も空気の中に溶けて行った。残ったのは、野球ボールほどの、うすぼんやりとした発光体だ。人型の立っていた場所に浮かんでいた。
――皆、ついてきて。
声ではない。頭に直接響く音のようなものだ。発光体の発したそれを、皆、聞き取った。驚いたのは澤谷である。
「話ができるのか」
――うん。この格好だったら少しだけ。でも、あんまり時間がないんだ。
光が移動するのに従って、五人も小屋の裏手に回った。幅は七、八十センチと言ったところであろう。雑草が僅かに生えている以外には、なにもない。
――ここだよ。
光はほぼ小屋の中央で止まった。足下を囲う、コンクリートの下だ。
澤谷がシュラインの前に進み出た。
「お願いがあります。私にスコップを貸して貰えませんか。この子に、償いがしたい。気がついてやれなかった、償いを……」
強い目であった。哀しげでもある。シュラインはスコップの柄を、澤谷の手に握らせた。
「彼もその方が喜ぶでしょうね」
「ありがとう」
澤谷はシャツの袖をまくりあげ、スコップを突き立てた。土は硬く、容易には起こせない。額にうっすらと汗が浮かんだ。
「今、ガサって音がしなかったかな?」
三十センチは掘り進んだだろうか。スコップの皿の部分が、穴の中に埋まる深さである。穴の中を指さす雨を見つめ、澤谷も首をひねった。
「感触もおかしい」
スコップを引き上げた。白いものが見える。スーパーなどで、買い物をすると貰えるビニール袋のようだ。
――チェリーは、その中だよ。
光が言った。
――他の場所に埋めてあげて。工事が始まったら、チェリーの体は……。
重機は建物を粉砕し、土を掘り返す。チェリーは大量に出る廃棄物の一部となるか、土の中に放置されたまま、新しい施設の下に眠ることになるだろう。
澤谷は無言でビニールに手をかけた。
もう心配しなくていい。
そう呟くのが聞こえた。
穴の外に出たチェリーを見つめ、大介は安心したようだ。球体が一回り小さくなった。別れの時が迫っているのだ。
教師は震える声で、光に話しかけた。
「いつから、ここにいたんだ?」
――ずっとだよ。
ギュッと目を閉じる。澤谷の苦痛が、皆にも伝わってくる。
記憶の底に名前が沈み、噂に上らなくなったあとも、彼はここにいたのだ。
――俺、チェリーと約束したんだ。絶対、見つけるって。それで、事故のあとにここへ来たら、チェリーが蹲ってるのが見えたんだよ。一緒に行こうって誘ったんだけど、体から離れることができないんだって。だから俺、一緒にいることにしたんだ。チェリーが離れられるようになるまで。
チェリーは死にきれなかったのだろう。その身の埋まる場所に想いを残してしまったのだ。
感じていた違和感の正体に、遠夜は気づいた。
「チェリーさんは、キミの中にいるんだね」
――うん。
やや躊躇いの混じる口ぶりで、大介は言った。
――チェリーは死にたくなかったんだよ。赤ちゃんも産まれるはずだったし、学校も好きだったから。でも、人間が嫌いになっちゃったんだ。ここで震えてたんだよ。だから、放っておけなくて。
教師の口から、吐息と共に深い自責の念が漏れる。
「もっと早くに気づいていれば、こんなに長い間、ここに縛り付けられることも無かったのにな。ごめんな、大介」
――先生は悪くないよ。だって、俺が出ていかなかったんだから。学校がなくなるって聞いて、誰かにチェリーのことを教えなきゃって思ったんだ。わかってくれたのは先生だけだったよ。
灯火がゆっくりと消えて行くように、発光体から光が失せて行く。これ以上、大介と話すことは困難だった。
――来てくれてありがとう。チェリーがもう行こうって。
それが大介の最後の言葉だった。
彼は光の消失と共に、無に還っていった。あとには、彼らが存在していた証が残された。チェリーは長い年月を越え、小さく軽くなっていた。
シュラインはその傍らに、淡いピンクの風呂敷を広げた。スコップをくるんでいたものと同じ、桜の柄である。
「どこか、落ち着ける場所が良いわよね」
「ここから十分も歩けば、土手に出ます」
意を察した澤谷が、風呂敷の中央にチェリーを移し替えた。塞いだ穴に皆で黙祷を捧げる。
その場を離れようとした時であった。
シュラインの携帯が鳴り響いた。開いた画面には、03で始まる十桁の数字が表示されていた。身覚えるあるナンバーだった。
「尚子さんだわ」
皆は足を止め、シュラインを振り返った。
あれだけ不信そうだったにも関わらず、尚子の母は話を伝えてくれたようだ。シュラインは花翠に目配せをした。
尚子は、当時の様子を詳しく覚えていた。
そして、学校側の知らない事実も知っていた。
電話は思いのほか長引き、話し終えたシュラインには疲労感が漂っていた。
4、真相
「犯人がわかったわ」
「え?」
思わぬ展開に、雨は言葉を失った。
話の先が気に掛かる。皆、シュラインの声に耳を傾けた。
「卒業生の一人だそうよ。塾で怒られた帰りに、飼育小屋で憂さを晴らすことを思いついたのですって」
「そんな理由で、命あるものから生を奪うなんて」
遠夜は言って口をつぐむ。表情こそ変わらなかったが、声には幾ばくかの起伏が見られた。
「この学校にいたのなら、どれだけ懸命に、子供達が動物の世話をしているのかを知っているはずだ」
澤谷も、信じられないと言った風に首を振る。
「それが土壇場で思い直したそうなの。いざ、飼育小屋に入ったら、可哀想で出来なかったらしいわ」
「じゃあ、どうしてチェリーは死んだの?」
シュラインは首を傾げている雨から、教師へと視線を移す。
「澤谷さんがおっしゃっていた通りよ。人懐こいことが、仇となったようね。彼は暗がりで引き返そうとして、そこにいたチェリーを踏んでしまった」
「あぁ……」
彼の弟は、大介と同じクラスにいた。だから、騒動になっていることは自然と耳に入った。だが、言い出すことはできなかった。彼がやったとわかれば、弟の立場も悪くなるからだ。
彼は処分するつもりで持ち帰ったウサギを、後日、飼育小屋の後ろに埋めた。翌日は雨だった。掘り返した土が慣れると、彼はホッとした。直ぐには見つかって欲しくない。ほとぼりの冷めた頃で良い。誰かが気づけば、自分のできない供養をしてくれるだろう。それを償いとした。
彼は、久しぶりに逢った旧友と飲んでいた席で、ドキリとする質問を受けた。あの夜、学校のある方角から、猛スピードで自転車を走らせる姿を見たと言うのだ。十年は経っていただろう。旧友は冗談半分に自白を促した。それまでに口外したことはなかった。罪悪感と酔いが口を軽くしたのだ。彼は全てを語った。
「尚子さんがその話を知っていたのは、その旧友が、彼女のお兄さんだったからなのですって。お兄さんは事件当時の尚子さんの落胆を知っていたけれど、友達を疑うのも嫌だったそうよ」
それ以上、真相が外に出回ることはなかった。人が死んでいるのだ。昔のことだとは言え、面白半分に口に出せる内容ではなかったと、尚子は語った。
「誰を責めたら良いのでしょうね」
花翠は憂いを宿した瞳で、澤谷の手に提げられた風呂敷包みを見つめた。
彼の弟が同じ小学校でなければ――
チェリーが逃げていれば――
彼が飼育小屋に入らなければ――
「全てが、悪い方へと作用してしまったのですね」
「ええ。本当に。しかし、彼が誰であれ、生き物を殺めて平気でいられる子ではないことにホッとしました」
澤谷は穏やかであった。責めどころを失って、拍子抜けしたようにも見える。心情は複雑なのであろう。
それを汲み取るように、遠夜が言った。
「そうでなければ、『悪い夢』ぐらいは見せても良かったかな」
「そうね。そうでなければね」
懲らしめるのは造作もないことだが、不可抗力の上、長く苦しんでいる。罪の償いとしては、もう十分だろう。
シュラインは頷いたが、遠夜の持つ陰陽の力を知らない澤谷は、不思議そうに首を傾げていた。
校門が再び閉じられる。
「綺麗だね」
咲き誇る白花を見上げて、雨が目を細めた。
梅が終われば、桜が来る。
卒業を待たずして逝った彼にも、巣立ちの時が訪れたのだ。
終
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 (年齢) > 性別 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / しゅらいん・えま(26)
女 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0642 / 榊・遠夜 / さかき・とおや(16)
男 / 高校生/陰陽師】
【3149 / 東条・花翠 / とうじょう・かすい(20)
女 / 大学生・モデル】
【5332 / 小石川・雨 / こいしかわ・あめ(16)
女 / 高校生】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ あとがき ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんにちは。紺野です。
長らく長らく長らく、ああ、もう本当に!
大変、お待たせしてしまい、申し訳ございません!
窓を開けると、何故か、私事で荒波が押し寄せます。
呪いなのでしょうか(滝汗)。
おかげで、エクセルと表計算が大嫌いになりました……。
初エクセルで、最後の別れを誓うほどです。
この度は、当依頼を解決してくださり、有り難うございました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
苦情や、もうちょっとこうして欲しいなどのご意見、ご感想は、
謹んで次回の参考にさせて頂きますので、
どんな細かな内容でもお寄せくださいませ。
今後の皆様のご活躍を心からお祈りしつつ、
またお逢いできますよう──
紺野ふずき 拝
|
|
|