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「二つの寝顔」
四月上旬。只今の時刻午前十時三十分。天気快晴。雲一つ無し。此処数日の多忙により、洗濯物は溜まりに溜まっている。=洗濯。
藤井・葛(1312)が大きく膨らんだ洗濯籠を下げてアパートのベランダへと出ると、桜の枝が数本、手を伸ばせば届きそうな範囲に薄いピンク色の花をつけていた。
今の時期、桜なら何処にでも咲いている。だが、こんな間近でじっくり見るのは何だか久々で洗濯籠を持ったまま見入ってしまった。ぴんと張った枝に先端の割れた五枚の花弁が仲睦まじく寄り添い、細い花軸に支えられている。見た目は繊細そのものなのに美しいだけではなく、一寸やそっとの風では散らない力強さを兼ね備えていた。
葛は一旦桜に背を向けると、部屋の中でテレビに釘付けになっている小さな背中に声を掛けた。テレビ画面では再放送アニメの主人公が決め台詞を吐いている。
「蘭、桜が咲いてるぞ」
「ふぇ?」
アニメに集中していたのだろう、声に反応した藤井・蘭(2163)は間の抜けた声を発して葛の方を振り向いた。大きな銀色の瞳が葛の後ろにある桜を映し出すと蘭は無邪気に瞳を輝かせ、アニメの事など忘れてパタパタとベランダまで走り寄って来た。
「知ってるの!お友達のソメイヨシノさんなの。ソメイヨシノさんは色んなところにたくさん姉妹がいるなの!」
ねー、と笑顔で蘭が桜に語り掛ける。風でざわざわと揺れる枝が、蘭の話に頷いているようで葛は瞳を数回瞬かせた。そして、桜と蘭を改めて見直してふとある事に気付く。
―――――――そういえば、最近二人で外出してないな。
論文製作や色々な事に追われて、こうして蘭とゆっくり過ごすのは久々だ。葛は洗濯籠を下に置くと良し、と小さく呟いて口を開いた。
「蘭、洗濯物干してお昼食べたら一緒に散歩にでも行こうか」
「ホント?わーい、なのッ!」
そう言うと蘭はその場でぴょんぴょんと飛び跳ね、喜びを表現し切れなかったのか部屋の中を走り回る。最近余り構ってやれなかったので葛に遊んで貰えるのが相当嬉しいのだろう。
だが、このアパートに住んでいるのは自分達だけではない。
「騒いだら他の住人に迷惑だろうっ」
「あうっ、ごめんなさいなのー……」
飴と鞭。叱る時はしっかり叱る。葛に怒鳴られ蘭はしゅんと背中を丸めたが、其れでもめげずに何処からか自分専用のリュックサックを持ち出して来てその中にクレヨンやお菓子などを詰め込み始めた。遠足前日の小学生のようにはしゃいでいる。
蘭の姿を見た葛は小さく笑みを零し、再び空を見上げた。絶好の洗濯日和、外出日和に感謝して、葛は物干し竿に一枚ずつ洗濯物を掛けていった。
午後十二時を過ぎても天気は澱む事は無く、青く塗りたくったキャンパスのように地上を見下ろしていた。気温も暑過ぎず寒過ぎず、小春日が心地良い。
家を出て来る前に干した洗濯物も、これならすぐに乾くだろう。
「おさんぽ、おさんぽ、うれしいな〜♪」
一体何をそんなに詰め込んだのか。蘭はパンパンになったリュックサックを満面の笑みで背負い、オリジナルの替え歌を歌いながら歩みを進めて行く。
葛は蘭に並んで歩いていたつもりだったのだが、蘭と葛では身長も歩幅の広さも違う。知らず知らずのうちに蘭の姿は後方へと消えて行った。
だが、疲れの溜まっていた葛は蘭の歌声が遠ざかっている事にも気付かず、ぼんやりと空を眺めている。葛が蘭の足音がしない事に気付いたのは、たっぷり五分は経ってからだった。
「蘭……?」
隣を見ても、後ろを見ても蘭の姿は無い。大きな声で呼んでみても返事は無かった。心臓がひやりと凍えて、嫌な予感が胸を占める。
葛は慌てて来た道を引き返し始めた。憖っか足が早い所為で、五分でも可也の道程を歩いているようだった。角を曲がって、蘭の姿が見えない度に不安は大きくなる。
然し、川辺に丸く集った人垣を見つけて、葛の足は止まった。主婦や子供達の真ん中で特徴的な緑色の髪が揺れている。安堵した所為か歩調は緩くなり、葛はゆっくりと人垣に近付いて行った。
「この子がナズナちゃんでー、この子がハコベちゃんなの」
「凄いわ、僕。こんな小さいのに春の七草が解るなんて」
川辺の花や植物を次々と言い当てる蘭に周囲の主婦陣が頻りに感心している。子供達もこれは何の花?と興味津々で質問を繰り返していた。沢山の人に囲まれた蘭はとても楽しそうで、焦っていたのは自分だけかと葛は少し寂しくなった。然し、良く見てみると蘭は時折きょろきょろと周囲を見渡して何かを探している。
その目が求めているのが何なのか、葛は人垣の近くまで来ると少しの期待を込めて静かな声色でその中心に向かって声を掛けた。
「蘭」
「あーっ、持ち主さんなの!」
しゃがみ込んでいた蘭は葛の声を聞いた途端立ち上がり、人垣の中から飛び出す。そして葛の顔を見ると喜びに顔を輝かせて勢い良く抱き付いた。
顔には出さなかったものの再会を喜んだのは蘭だけではない。葛もまた抱き付いて来た蘭の背中をぽんぽんと優しく撫でて、胸から出て行く不安に顔を綻ばせた。
仲の良い二人の様子を見て、主婦の一人が蘭に話し掛ける。
「若くて綺麗なお母さんで良いわねー」
お母さん。誉められて喜んでいいのか、勘違いされて悲しんでいいのか複雑だ。葛は曖昧に返事をして誤魔化すと、またねなの、と手を振る蘭を連れて再び歩き出した。
今度は離れてしまわないように、しっかり手を繋いで。
こんなにゆっくり歩いたのは久々だった。忙しなく過ぎていた日々が、少し歩き方を変えるだけでとても穏やかで長閑なものに思えて来る。
その事を改めて教えてくれた小さな同居人に感謝しながら、葛は緩やかに流れて行く風景を仰ぎ見た。だが、蘭が急に立ち止まった事によって手を繋いでいた葛の足も止まる。
「持ち主さん、今日はこっちに行くなの」
そう言って蘭が指差したのは今まで散歩のルートとして使って来た道ではなく、逆方向に伸びた枝分かれした細道だった。葛はその道を通った事も無ければ、何処に続いているのかさえ皆目検討がつかない。だが、蘭は絶対的な自信を持って小さな手で葛を引っ張って行く。
「、オイッ一体何処に行くつもりッ……」
「大丈夫なの、一緒に来るなの」
細道は何処まで行っても只管細い。一本道の筈なのに長い間、コンクリートの壁に囲まれて歩き続けていると何だか迷路にでも迷い込んだような気分に陥った。少し、気持ち悪い。
だが、段々と蒼褪めて行く葛とは対照的に蘭の顔は歩けば歩くほど輝いて行く。正確に言えば彼の目指す何かに近付く度に、だろう。
漸く狭い道が途切れ、開けた場所に出た頃には葛の気分は大分低迷していた。だが、ふわりと風に乗って流れて来た土と緑の匂いに思わず顔を上げる。
「これは……」
目の前に聳え立つ深緑の高い壁。……いや、柵だ。鉄格子の高い柵に幾重にも蔦が巻き付き、一見すると壁のように見せている。
柵は葛の視界が届く範囲まで長く続いており、入り口らしき物は見当たらない。恐らく蔦の中に埋もれて見えないのだろう。密集した蔦の中に手を差し入れると錆びた鉄がパラパラと崩れ落ち、冷たい硬質な感触が肌に触れる。
「持ち主さぁーん!こっちなのー!!」
葛は大声に顔を上げて其方を見た。すると、蘭は何時の間にやら遥か遠方、柵の尽きた部分から葛の方を覗いていた。ぶんぶんと大きく手を振って、緑色の頭が柵の向こうへと消える。
葛は小走りで蘭が姿を消した方へと駆け寄った。恐る恐る覗き込むと角の向こう側にも先程と同じ長い柵が続いている。この柵は如何やら土地を四角に切り取るような形で建っているらしい。柵の丁度中間付近に小さな人影を見つけて葛は其方へと近付いた。
葛の姿に気付いてか、気付かないでか。蘭はひどく集中した様子で掌を柵に翳し、語り掛ける様にパクパクと口を動かしている。其れに応えるように蘭の触れた蔦の一部がまるで蛇のようにうねうねと蠢き、柵から解けて行った。
やがて蔦の下から現れたのは腐食し赤茶けた柵門だった。門は誰が触れるでもなく、ひとりでに其の口を開き軋んだ音を響かせた。甲高い悲鳴のような音色に葛の眉が顰む。
然し、門の向こうに広がった光景に蒼褪めた顔色も眉の皺も瞬く間に引いて行った。
「ここは僕の秘密の場所なの」
そう言って誇らしげに胸を張る蘭の肩の向こうに見えたのは、柵の中に切り取られた土地を満遍無く埋め尽くした大輪のチューリップ。卵形の花達が赤、ピンク、黄色、紫、白と色彩豊かに葛の視界を彩っている。葛の唇からほうっと感嘆の溜息が零れ落ちた。
善く善く見渡せば苔の生した古井戸や、腐った木材の切れ端が所々目に付く。元々は誰かの屋敷でも建っていたのだろう。葛は花を踏み潰してしまわないよう慎重に歩みを進め、井戸の近くの茂みに腰を下ろした。幾度の風に吹かれて、薄甘い花の香りと清々しい緑の香りが鼻先を擽る。胸いっぱいに息を吸い込むと春が体中を充たして行く気がした。
チューリップの中を器用に駆け回る蘭を気に留めながらも、蓄積された疲労に春の陽気も手伝って瞼は重くなるばかり。葛は欠伸を一つ噛み殺すと、手招きする睡魔に服従して穏やかな眠りについた。規則的な寝息が柔らかい芝生に吸い込まれて行く。
チューリップ達と楽しげに戯れていた蘭も葛が寝入った事に気付くと、トコトコと葛の姿が良く見える場所まで近付いて行って傍らに座り込んだ。
解れの無い、艶のある黒髪を小さな掌でそっと撫でる。閉じられた瞳、不自然に震える長い睫毛を見遣って蘭は普段は明るい表情を曇らせた。
「持ち主さん、あんまりムリしないで…なの」
蘭は背負ったリュックを下ろすと、中から膝掛けを引っ張り出した。其れを葛の腰の辺りに掛けると、葛がたまにしてくれるのを真似てポンポンと背中を優しく叩いてみる。
二人で眠る時、先に寝てしまうのは常に蘭の方で、葛の寝顔を見る機会は滅多に無い。何時もと立場が逆転したようで少し嬉しい気がする。
この一時を少しでも形に残しておきたくて蘭はリュックの中からスケッチブックとクレヨンセットを取り出して、葛の髪と同じ真っ黒なクレヨンを握り締めた。
葛が目を覚ましたのはもう既に日が落ち始めた頃だった。見上げれば茜色の空、西の方角にマグマのような太陽が沈んで行く。
葛に寄り添うように隣ですやすやと寝息を立てる蘭の顔は夕陽を浴びて真っ赤に染まっていた。其処で漸く葛は自分がすっかり熟睡していた事に気が付いた。
自分から散歩に誘ったのにその途中で寝入るなんて何たる失態。申し訳無くて蘭を揺り起こす事も出来ない。穴があったら入りたい、と葛が半ば本気でそう思い下を向いた瞬間、目に飛び込んで来たのは蘭が掛けてくれた一枚の膝掛けだった。葛ははっと蘭の寝顔を見つめた。
まだ幼いと思っていた、思い込んでいた少年はその小さな体に不釣合いなほど大きな優しさを抱えている。そう思った瞬間、葛は今までに無い責任を感じた。
この少年が優しさを枯らしてしまわないように、もっと大きな花を咲かせられるように、自分が知る限りの優しさをこの子に。
無意識に口角が緩んで、愛しさに目尻が下がる。其れは決して重たいだけの責任では無かった。
葛は其の日、蘭を背負って帰路についた。蘭を起こしてしまわないようゆっくりと足取りを確かめながらの帰り道、行く時には気付かなかった白木蓮の花が月光を受けて闇夜にぽっかりと浮かんでいた。足を止めてつくづくと見入る。どれもこれも蘭が居なければ気付けなかった愛しむべき春の風景だ。葛は肩越しに見える蘭の寝顔を確認すると、再び歩き出した。
けれど、葛はまだ知らない。自分の眠っている間に擦り減ったクレヨンの意味を。
藤井・蘭様。藤井・葛様。今回はシチュエーションノベル(ツイン)のご依頼有難う御座います。
納品が遅れてしまい大変申し訳御座いません。己の遅筆にはほとほと嫌気がさします。本当に申し訳御座いません。
前回のゲームノベルでは蘭様だけを書かせて頂いたのですが、今回は其の保護者(?)である葛様も表現する事が出来てとても嬉しく思っております。
傍から見るとお母さんと子供のようだと書かれておいででしたが、私にはお二人は厳しいけれど優しいお姉さんと無邪気で年の離れた弟のように思えます。
どちらにせよ、身内的な繋がりを持つお二人を書くのはとても楽しい作業でした。
もし出来上がった作品に不満が御座います場合は、お気軽に仰って下さいませ。
其れでは今回はご依頼有難う御座いました。加えて作品の遅延改めてお詫び申し上げます。
宜しければまたのご依頼お待ちしております。
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