|
桜の季節に君を追うということ
---------------------<OPNING>---------------------
春眠、暁を覚えず。
草間武彦のデスクトップに、現在表示されている文字である。
昔の人間は実にいい事を言ったものだ。この言葉は、つまり「暁なんて覚えなくてもいいよな」「ほんとにそうだな」「うんうん」という気持ちが込められているに違いないのだ。
今も昔も、春先は眠くて当たり前。無理をして起きていようという方が不自然なのである。
それは、LOHASにも反するに違いない。トレンドを生きるハードボイルド、この草間武彦はLOHASに賛同する。
幸いにして、年が明けてからぱったりと仕事が無い。抱えきれないほどの依頼や迷惑ごとが舞い込む事もあれば、全く何も無い時もある。これも自然に任せるほかないだろう。LOHASとして。
何のアプリケーションも動いていない画面を前に、うつらうつらと舟を漕ぐ。背中側の窓から穏やかに差し込む日差しのぬくもりが、心地よい。
デスクの上に肘を置き、本格的に昼寝をしようとしたその時。
「HELP!」
甲高い悲鳴を上げ、一人の男性が事務所に飛び込んできた。
二メートルはあるだろう、がっちりとした長身に真っ赤なロングコートを纏っている。白い肌に、白い髪。青い瞳。
頭を起こした草間の横に、偉丈夫は駆け寄ってくる。彼の名は、ケルベロス。以前に一度面倒を見た事がある。米国の著名なデビルハンターだ。
以前に会った時も、草間の昼寝を邪魔するようなタイミングでやって来た事を思い出す。
「ア、アー、ア……タケヒコ! HELP ME!」
「はぁ?」
ケルベロスは草間の肩を乱暴に叩く。おろおろと慌てきった様子で、ぐるりと事務所を眺めた。
「Oh,ボク、ニゲマス。ココ、イナイ。OK?」
片言でそう言う。草間が事態を飲み込まない内に、一人大きく頷いた。
背後の窓を開け、そのまま虚空へダイブする。
階下から悲鳴が上がった。
「な、なんだァ!?」
草間は慌てて立ち上がる。窓の縁から身を乗り出した。
表通りに停めてあった車の上に、ケルベロスの姿がある。そのまま、赤いロングコートを翻して走り去ってしまう。
草間はぽりぽりと頬を掻いた。何が起きたのか、判らない。
とりあえず窓を閉める。昼寝の続きをするか、今の事態を考えてみるかを決めかねながら、椅子に座ろうとした。
その時。
耳を劈く爆音が、下から聞こえてきた。
何かが爆発するような音と、金属に金属がぶち当たるようなとんでもない騒音だ。デスクの椅子に尻を置くことも出来ず、かといって立ち上がるのもどうかと思いつつ、音の暴力に晒される。
座ろう、と決めて尻を置いた瞬間、目の前のドアが爆ぜた。
「何だぁああ!?」
草間は悲鳴を上げて椅子から転げ落ちる。ドアを蹴破り、真っ赤な大型バイクが事務所に突っ込んでくる。
バイクは轟音を立て、事務所の応接セットを蹴散らす。ぐんと弧を描いて、デスクの前で止まった。
「ハァイ」
真っ黒なライダースーツを着た運転手が、片足を踏ん張って草間を見下ろす。ハリウッド女優並みの、ド派手な美人だ。尻あたりまである長い金髪に、大きく深い青い瞳をしている。
「ここに、男がこなかったかしら。赤いコートの中々のナイスガイよ」
美人は居丈高にそう言い放つ。バイクを止め、デスクの上に飛び乗った。
確かに英語を喋っているようなのだが、意味がするすると脳の中に入ってくる。草間はずり落ちたメガネを直し、尻を叩いて立ち上がった。
「そいつなら、窓から」
親指で窓を示す。美女はデスクから飛び降り、乱暴に窓を引き開けた。
きょろきょろと窓から外を見回す。がっかりしたように首を振り、草間の方を向き直った。
「ど」
草間を見つめ、口を開く。
「何処にいるのよ! ケルベロスー!」
突然、癇癪を起こした小さな少女のように大泣きし始めた。
× × ×
わんわんと子どものように泣いている美女の肩に、草間はそっと手を伸ばした。
本当ならばここで優しく肩でも抱いてやるべきだろうが、いかんせんこの美女はとんでもなく背が高い。十センチ近いハイヒールを履いているため、草間よりも目線が上なのだ。
「あの、な?」
草間は両手を美女の肩に置く。子どもの機嫌を取るような声を出した。
「お名前は」
「ベアトリーチェ。ケルベロスの恋人よ」
潤んだ瞳で草間を見下ろしてくる。
「彼を追いかけて日本まで来たの。彼は許されない罪を犯したのよ。絶対に見つけ出さなくちゃ気がすまないッ」
身を捩ってそう言う。両手を開き、がばっと草間に抱きついた。
「日本の事はよく判らないの。お願い、彼を探すのを手伝って!」
「それは、依頼ってことでいいんだよな?」
巨大なバストに押しつぶされそうになりながら、草間は言う。ベアトリーチェは少女のように素直に、こくんと頷いた。
「お金のことはよく判らないけど、これ」
ライダースーツの尻ポケットから、一枚のカードを取り出した。
「ケルベロスから渡されてるの。好きに使っていいって。足りるかしら」
草間はカードを受け取る。
アメックスの、ブラックカードだった。
「勿論!」
しっかりとカードを握り締め、草間はベアトリーチェの身体を抱き締め返す。
「じゃあ、これはケルベロスが見つかるまでお預かりします。後は万事、この草間武彦にお任せ下さい」
ぽんぽんとベアトリーチェの背中を叩く。応接ソファがひっくり返ってしまっているのを見て、所長デスクの椅子を勧めた。
「で、彼はどんな罪を?」
ブラックカードをしっかりと財布の中に収め、紳士らしく問いかける。
ベアトリーチェは手の甲で涙を拭いながら、地の底から響くような声を出した。
「……浮気……よ……」
---------------------<GAME START>---------------------
走ってきた子供に腕を跳ね上げられそうになり、シュライン・エマは慌てて紙袋を持ち直した。
草間興信所から歩いてほんの数分先にあるコーヒーショップまで、濃厚なエスプレッソを買いに行ってきたのだ。所長の草間武彦は、ここ暫く春の陽気に当てられて眠ってばかりいる。事務所の買い置きのコーヒーでは眠気覚ましにならなくなり、行きつけの店まで行って買ってきてやったのだが。
事務所を空けることほんの十分ばかりで、辺りが野次馬に溢れていた。
「退いて、すみません。ちょっと空けて下さい」
シュラインは声を掛けながら人混みを掻き分けて行く。「草間興信所」とステッカーの貼られた窓の下に停めてあった車のルーフが、大きく凹んでいた。断片的に耳に入ってきた情報を総合すると、誰かがビルから飛び降りたらしい。その後、爆発音が聞こえたという話だった。
ざわつく人混みを何とか抜け、エントランスに飛び込む。階段には排気ガスの匂いが満ちていた。
「ガス爆発でもあったのかしら」
片手で鼻と口を押さえ、少し煤けた階段を駆け上がる。事務所の入っている階に辿り着き、危うく紙袋を取り落としそうになった。
事務所のドアが、ない。
「武彦さん!」
ただの四角い穴になった入り口から、事務所の中に飛び込む。
差し込むうららかな春の陽を浴びて、草間がこちらを向いた。
壁の両脇に寄せてあるキャビネットに、中央に置いてあった応接セットがめり込んでいる。へし折れた観音開きの戸から、分厚い書類の束が落ちて床に広がっている。
その床に、黒く墨でも擦ったように円が描かれている。所長机の前にどんと置かれた真っ赤なバイクのタイヤが付けた跡だと気づくのに、数秒を要した。
排気ガスの匂いが部屋に充満し、埃がもうもうと舞い上がっている。コホンと小さく咳き込み、紙袋を所長デスクの上に置いた。
そんな埃っぽい部屋に不釣り合いな美女が、草間の椅子に座っている。ぼろぼろと大粒の涙を零しながら俯き、時折自分の膝を叩いていた。
シュラインは肩を竦め、草間にエスプレッソを渡す。ポケットからハンカチを取りだし、女性の前に屈み込んだ。
「状況は判らないけど、仕事なのよ……ね?」
「流石に飲み込みが早くていらっしゃる」
冗談めかして草間が答える。ポンと紙コップの蓋を外し、熱いエスプレッソに口を付けた。
× × ×
ブーツに足を突っ込んで、玄関のドアを開ける。暖かな日差しが差し込んできた。
一歩外に出て、龍ヶ崎常澄は空を仰いだ。雲一つ無い晴れ模様で、目にいたいほど空は青い。
開けたままのドアの向こうから、「本日は五月上旬並みの気温。お花見日和でしょう」という気象予報士の声が聞こえてくる。その語尾に重ねるようにして、低い男の唸り声も聞こえてきた。
「もう諦めたら」
常澄は上着のポケットに手を突っ込んでそう言う。上着を脱いで行くべきか、ブーツを履き替えていくべきか、迷う。
「諦められるか!」
室内から、憤った声が聞こえてくる。常澄の屋敷の居候その一である、リィン・セルフィスだ。玄関に繋がる廊下には、黒い着流し姿の男がもう一人、無表情に突っ立っている。
今日の五時から、お気に入りの特撮ヒーロー番組のスペシャルがあるのだという。朝からそればかりを楽しみにしていたようなのだが、つい先ほど急ぎの仕事が入ったのだ。草間武彦からの依頼は、余程のことがない限り断らないと常澄は決めている。恩や貸し借りではなく、純粋に面白いからだ。
仕事の内容は、以前に組んだことのある米国のデビルハンター・ケルベロスに関係することだった。細かい内容は到着してから、という話だったが、腕っ節の強いのが要る仕事なのは間違いないだろう。常澄は仕事を快諾し、その上自分の居候二人まで引っ張っていくと請け負ったのだった。
いざ出掛けようという段階になって、リィンが特番を録画せねばと騒ぎ出したのだ。最近、ビデオデッキの調子が余り良くない。今日はリモコンの予約操作を受け付けないようだった。
常澄は玄関の中に戻り、ブーツを履き替えた。とんとんと爪先で床を叩く。黒い着流しの男が、ゆらりと玄関まで出てきた。こちらが龍ヶ崎家の居候その二、セスである。
「フン」
小さく鼻を鳴らし、下駄を突っかける。常澄は立ち上がった。
「置いていくよ」
奥に向かって一声掛ける。返事を聞かずに外に出た。
背後から、セスが「必ず予約してから追いかけてこい」と言っているのが聞こえる。癇癪を起こしたようなリィンの叫び声を背中に聞きながら、常澄は歩き出した。
× × ×
差し出された写真は、端がほんの少しだけ折れていた。
筋骨隆々、下品でない程度に顎のしっかりした中中の美男子が写っている。ブルーアイズに、白い髪。肌も、血管が透けそうなほど白い。彫りが深く、落ちくぼんだ眼窩から鋭い視線をこちらに向けている。そのくせ、やや薄い唇は若干拗ねたようにひん曲がっている。
アメリカン・コミックのヒーローさながらの面構えだった。
「で」
五代真は写真から草間へと視線を移動させる。所長用のデスクの前に屈み込み、草間はぱたぱたとキーボードを叩いていた。
「このアメコミヒーローを探すのが、緊急の力仕事ってヤツなのか?」
「おう。名前はケルベロス、年齢は不明。合衆国じゃ有名どころのデビルハンター氏だぜ。ほら、これが全身だ」
草間はモニタの前から身体を退ける。画面に、真っ赤なロングコートに黒いシャツを着たケルベロスとやらが表示されている。一緒に写っている草間とシュラインが、妙に小さく華奢に見えてしまう。身長は二メートルを超えているだろう。肩幅だって、草間の倍はありそうだ。
大きく盛り上がった胸板に、張りつめた太腿。大したマッチョマンだった。
「恰好までアメコミみたいだぜ。徹底してるな」
真はそう感想を漏らす。依頼主である金髪美女が、一人だけ椅子に座ってにっこり微笑んだ。
「ナイスガイでしょう、彼」
こちらはハリウッド映画から飛び出してきたような派手さである。アメコミヒーローとハリウッドスターのカップルとは、こってりしすぎて胸焼けしそうだ。彼女が今回の「緊急力仕事」の依頼主であるベアトリーチェだ。
真は笑顔の依頼人に愛想笑いを返す。ぱんぱんと自分の腰を叩いて気合いを入れた。この大物が相手では、飛びついて引っ張ってくるというただそれだけでも充分に力仕事だろう。
「何したらこんな立派な筋肉がつくんだろうな」
腕組みしてそう言う。シュラインが苦笑しながら、真にコーヒーを差し出した。
「悪魔と人間のハーフさんだそうよ」
「こちらは純血の悪魔さんだそうだ」
冗談めかした口調で、草間がベアトリーチェを示す。真はへらっと笑い、熱いコーヒーに口を付けた。
とびっきり急ぎの、実入りのいい力仕事。そんな草間の言葉に釣られて、十二日ぶりの休みを蹴ってきたのだ。
──思ってたより、重労働の予感。
内心でそう思いながら、濃いめのインスタントコーヒーを飲み下した。
× × ×
次から次へと、服が籠に放り込まれていく。
シュラインはすぐ脇のハンガーに吊してあるワンピースを引っ張る。ちらりと値札を見ると、予想よりも一桁ばかり多い。
「日本の服は、サイズがちょっと小さいわね」
ベアトリーチェはそう感想を漏らす。棚やハンガーから服を引っ張り、簡単に頷いて店員に持たせた籠に放り込んだ。
事務所をベアトリーチェが破壊してくれたお陰で、ケルベロスを探している間に事務所で待機してくれとは言えない状況になっている。修繕の業者も彼女が突っ立っていたら、落ち着いて仕事が出来ないだろう。
ホテルで待っていてくれ、と提案したところ、そんなものは取っていないとあっさり答えられた。不眠不休でも大して疲れないらしい。一緒に探す、と主張する依頼人を無視するわけにもいかず、シュラインは草間に頼まれて彼女に「一般人のような」服を見繕いにきたのだった。
「これ、シュラインに似合いそうよ」
ひょいと春物のジャケットをつまみ、シュラインの肩に当てる。シュラインは横目で鏡を見、ベアトリーチェのセンスは悪くないと思った。
「パンツなんてやめて、スカートにしましょうよ。折角綺麗な足してるのに、勿体ないわ」
ベアトリーチェはシュラインの前に次々と服を持ってくる。シュラインの腕に押し込むと、そのまま回れ右をさせてフィッティングルームに押し込んだ。
「ちょっと! あなたの服を買いに来たのに」
「買うわよ」
シュラインは押しつけられた服をフィッティングルームの籠に入れ、カーテンを開ける。ベアトリーチェは事も無げに答えた。
白いワンピースを摘み、自分の身体の前に当てる。小首を傾げてシュラインを見やった。
「OK?」
「ええ。似合うわ」
シュラインは頷く。ベアトリーチェが満足そうににっこりした。
「いいから、シュラインも着て」
フィッティングルームに近寄ってきて、ぽんぽんと肩を叩く。店員を呼び寄せて服を持ってこさせ、隣のルームに入っていった。
シュラインは仕方なく個室の中に引っ込む。籠の中から服を引っ張り出した。
値札を見て、軽い目眩を感じる。とてもとても、草間興信所に勤める身分では手の届かない服だった。
「ま、着るだけならタダよね」
絶対に買わない、と自分に言い聞かせる。埃だらけになった事務所を片付けたせいで若干煤けてしまった上着を脱いだ。
「ねえ、ベアトリーチェ」
「ハァイ?」
隣の個室に声を掛ける。機嫌のいいベアトリーチェの返事が聞こえてきた。
「ちょっと気になってることがあるんだけど。ケルベロスさんて、何か特殊な力があるのかしら? 例えば、そうね、何かに返信するとか。幻を見せるとか」
「どうして? そうね、出来ないと思うわよ。彼はハーフだから、ちょっと羽根が生えるとか、ちょっと力が強いとか、そんなことしか出来ないんじゃないかしら」
幻術を習ったりするようなタイプじゃないわよ、とベアトリーチェは付け加える。シュラインはスカートに履き替え、考えていた幾つかの厄介な仮説に×をつけた。
力業で突っ走ることしか出来ないのなら、発見するのは容易だろう。草間から聞いたところによると、以前に会った時同様派手な恰好で派手に走っていったというし。
シュラインは着替えを終え、カーテンを引き開ける。既に白いワンピースに着替えたベアトリーチェが、店員にカードを渡していた。
黒いウィッグに、白い帽子を被っている。清楚な白いワンピースに、ローヒールのミュール。派手な雰囲気は隠しきれないが、印象が随分変わった。これなら、ケルベロスが遠目から発見して逃げていくということは出来ないだろう。
後は彼を見つけて、ベアトリーチェに引き渡す。その後が血みどろの喧嘩になるか、それとも仲直りしてデートになるかには──
草間興信所は関与しない。
「あ、彼女が着てる分も一緒にね」
ベアトリーチェはシュラインを指差して事も無げに言う。近寄ってきた店員が、シュラインの服のタグを外し、着てきた服を紙袋に入れた。
× × ×
想像していたのとは、少し違う人物のようだ。
草間から受け取った資料に目を通し終え、セレスティ・カーニンガムはその紙の束を膝の上に置いた。
シュライン・エマから大変申し訳なさそうな声で電話が入ったのが二十分ほど前のことだ。書斎に籠もって、読書をしていたところだったが、頼みがあると言う。草間興信所の事務所を早急に修復したいのだが、いい業者を紹介してくれないかということだった。
特殊な機密がぎっしりの事務所を、おいそれと一般の人間に触らせるわけにもいかない。さりとてその手の事柄に慣れた業者がすぐに見つかるかといえば、答えは否だ。セレスティは自分のグループ傘下の信頼できる業者を回すことを約束し、ついでのその有様見たさに車を飛ばしてきたのである。
事務所は机がひっくり返ってキャビネットが破壊されており、ドアもひしゃげてしまっていた。セレスティは草間本人から事情を聞き、そこにケルベロスという名のデビルハンターが絡んでいると聞いて、自分のリムジンをオフィス替わりににしてはどうかと提案したのである。
勿論、一度お目に掛かってみたかったケルベロス氏の捜索への参加と引き替えで、だ。
ケルベロス氏といえば、米国のトップ10デビルハンターのうちの一人だ。荒事ならばお手の物で、強力な魔物が出ればケルベロスに頼むのが最も手っ取り早いと言われている。その代わり、封印や除霊などの繊細さや技巧が必要とされることには全く向かない。
草間の資料から見ると、その噂は概ね正解といっていいようだ。血なまぐさく凶暴な男性を想像していたが、草間の印象では少年っぽさを残した暴れん坊、であるらしい。
「面白そうな方ですね」
「一言で言うならお騒がせ野郎、だな」
セレスティは草間に資料を返す。草間は資料の表紙を手の甲で叩いた。
「依頼人のミス・ベアトリーチェとは同居してる。二人でデビルハンターをやってるそうだ。別々に仕事をこなすこともあるようだな。で、依頼人はある日浮気の決定的瞬間を目撃したそうだ。見知らぬ女とハグしてチューしてたんだと」
「おや」
「で、プチーンと来てドカーンと爆発して、ろくすっぽ話も聞かないで追い回してるそうだ。半月ぐらい。不眠不休で」
「では、何か事情があったとしても判らないということですね」
セレスティは溜息を吐いた。草間は首を振りながら、資料をバッグに収める。
「まあ、あんな剣幕で追ってこられたら追いかけられたら、事情を説明する前にまず逃げるね。オレでも」
草間は至って軽い調子で言う。セレスティは車内に取り付けられている電話を取った。部下に、ケルベロス氏の半月ほど前までの仕事の情報を調べるように指示する。
何も出てこないかも知れないが、集められる情報は集めておいた方がいいだろう。援護するにせよ、突き放すにせよ。
コンコン、リムジンの窓が軽くノックされる。すっかり春らしい装いに着替えたシュラインとベアトリーチェが立っていた。
ドアを開け、二人が車内に入り込んでくる。セレスティは電話を置いた。
「シュラインまで着替える必要はないだろ」
「成り行きで」
呆れたように言った草間に、シュラインが小声で返す。セレスティは女性二人に笑いかけた。
「よくお似合いですよ。華やかですね」
「ありがとう。嬉しいわ」
ベアトリーチェは褒められ慣れている様子でそう返す。セレスティは運転手に車を出すように命じた。
「こんな美人を放って置いて、ケルベロス氏はどちらにいるんでしょうね。今頃」
× × ×
録画予約受付の画面にようやく辿り着き、リィン・セルフィスは歓声を上げてリモコンを放り投げた。
リモコンを揉んだり叩いたり撫でさすったり電池を入れ直したりして、ご機嫌を伺うこと三十分。ようやく「イケメンマンスペシャル」の録画予約が成功したのだ。録画予約一覧でもしっかりと予約が入っていることを確認する。
「よし」
乱暴にリモコンを叩き、テレビの上に置く。床に放り出してあった上着を指先で引っ掛けるようにして持ち上げ、肩に羽織った。
常澄達が先に行ってから随分時間が経ってしまっている。とっくに草間興信所に到着してしまっているだろう。
大股で玄関に向かい、ブーツに足を突っ込む。
立ち上がろうとした瞬間、目の前が翳った。
「ん?」
顔を上げる。
目の前に、真っ赤なコートを着た大男が突っ立っていた。
ケルベロス──。
「よう」
ケルベロスは疲れ果ててような顔で、ぎこちなく片手を挙げる。リィンも同じように片手を挙げて返した。
「奇遇だな」
リィンはそのまま立ち上がり、ケルベロスの肩を押すようにして玄関から追い出す。
「オレは今からお前に関する何かの仕事を受けるために、草間のところに行く予定なんだ。一体何をやらかしたんだ? 相棒」
× × ×
吹き抜けていく風の匂いが、甘い。
常澄は草間興信所の入った雑居ビルの屋上で、暖かな春の日差しを浴びていた。荒れたコンクリートの上の埃を散らすようにして吹いていく風が、ほんのりと甘い。あちこちで咲いた花の匂いを運んでくるのだろう。
錆びた表面に何度も塗料を塗り重ねたらしい屋上の落下防止策は、丁度常澄の胸当たりまでしかない。その上に肘を乗せ、常澄は聞こえてくる「声」に耳を澄ませていた。
東京にはカラスが多い。召還したヤタガラスを飛ばし、ケルベロスを見かけたカラスがいないか情報を集めさせているのだ。無数のカラスの感情がノイズのように身体を包み込んでいた。
ケルベロスを見かけたという情報も幾つかあるが、どれも「今」という話ではないようだ。常澄は情報収集をヤタガラスに任せ、いったん意識を現実に引き戻す。
足下に屈み込んだセスが、退屈そうに得物の手入れをしている。
「来ないじゃないか。あいつめ」
ぼそりと呟いた。
常澄は曖昧に相槌を打ち、手すりに顎を乗せる。破壊された事務所は現在、セレスティの手配した業者が入って修復作業をしている。ちらりと階下に視線を投げると、合皮のソファを抱えた若い男が二人、ビルに入っていくところだった。
事務所の中で時間が潰せないため、ここでリィンを待っているのだ。録画予約にそんなに時間がかかるものとも思えないのだが、一向に姿が見えない。常澄はビルの屋上でリィンを待ちながら、ケルベロスの目撃情報を探しているのだった。
「いつまで待たせるつもりなんだ」
セスは得物を鞘に収め、不機嫌な声で言う。むっくりと立ち上がった。
「居場所も見つかってないから、いいんだろうけどね。それにしても遅いな」
頬を掻き、上着のポケットから携帯電話を引っ張り出す。五回ほどコールすると、リィンが出た。
『悪いな、その仕事はパスする』
居場所を問うた常澄に、リィンがそう答える。常澄は眉を顰めた。
背後からざわめきが聞こえているため、屋外には出ているようだ。常澄は「録画は出来たの?」と問いかけながらリィンの周囲の音に耳を澄ます。
──おしるこ二つ、おまたせしましたー
元気のいい女性の声が聞こえてくる。常澄は首を傾げてこめかみに指を当てる。
何をしているんだ。
『草間には謝っておいてくれ。じゃあな』
素っ気なく言って、リィンは電話を切ってしまう。常澄は小さく舌打ちし、セスを促して手すりから離れようとする。
帰ってきたヤタガラスが、ふわりと肩に乗ってきた。
赤く輝く瞳で常澄を見つめ、耳元で口を動かす。セスが足を止め、こちらを振り返った。
「見つけた」
常澄は溜息と共に言葉を吐き出す。携帯電話を開き、草間武彦の電話番号を呼び出す。
「ケルベロスを発見したよ。新宿中央公園で、リィンとお花見中」
× × ×
ペダルを強く踏み込むと、ぐん、と世界が近づいてくる感覚がある。真は思い切りペダルを踏み込み、綺麗に舗装された車道の隅を走り抜けた。
マウテンバイクのタイヤが路面にしっかりと吸い付き、先へ先ヘと真の身体を引っ張っていく。春の暖かな風が、頬を撫でて後ろへ吹き抜けていく。
オレンジ色のヘルメットを被った自転車便を追い抜き、西へと爆走する。大通りにぶつかるところで巧みにマウンテンバイクを操り、殆どスピードを落とさずにカーブを曲がっていく。
ケルベロスを発見したと草間から連絡を受けて、三分。目的地へはあと二分で到着予定だ。
セレスティがケルベロスが宿泊しているホテルを探し当て、そこに向かっている途中に居場所が判明したのである。反対方向に進んでしまっていたが、小回りの利くマウンテンバイクだ。抜け道裏道を使えば、ロスはすぐに取り戻せる。
薄いピンク色の花びらが、風に乗って飛んでくる。中央公園では桜が見頃なのだろう。真はぐいぐいとペダルを漕ぎ、公園に近づいていく。
公園の入り口あたりから、露店が幾つも出ているのが見える。少しばかりスピードを落とし、公園に入り込んだ。
ゆるくペダルを漕ぎながら、桜色に煙る公園内を眺め回す。公園の入り口から少し入ったところに、仮設らしい茶店が出ているのが見えた。
真は自転車が何台か並んでいる端っこにマウンテンバイクを停める。茶屋の前に非毛氈敷きの山台が二列出ている。その一角に、大柄な外国人が並んで座っていた。
細い竹箸で汁粉を啜りながら、桜を眺めている。真っ赤なコート、遠目からでも判る筋肉の盛り上がり、白い髪。間違いなくケルベロスだ。
その隣に、ケルベロスの双子か兄弟かといった風体の男が一人座っている。ケルベロス同様汁粉を啜っているが、その膝の上には三色団子が二串乗っている。汁粉の合間に団子を囓っていた。
真はぶらぶらと花見を楽しむ足取りで二人組に近づく。通り過ぎようとしたところを、いかにもふと足を止めてみたという風に立ち止まった。
「あのう、すみません」
にこやかにケルベロスを見下ろす。薄く赤い唇の端に汁粉をこびりつかせたケルベロスが、無防備に真を見上げた。
「デビルハンターのケルベロスさんですよね? オレ、草間興信所のモンです。お迎えに上がりました」
× × ×
新宿中央公園は、草間興信所から、遠い。
常澄はセスに首根っこをつまみ上げられるような恰好で走りながら、息を荒くした。
数歩先を、白い小さな饕餮が走っている。勢いよく走っていっては、常澄とセスが遅れていることに気づいて駆け戻ってくる。突然ぴたりと足を止めて常澄を待った饕餮を踏みつぶしそうになり、常澄はつんのめるようにしてその羊に似た魔物を抱き上げた。
「踏まれちゃうよ、めけめけさん」
肩に抱き上げて背中を軽く叩いてやる。
新宿を西へ進む人混みの間をすり抜けながら、走る。高層ビルの隙間に生えている桜を見ながら歩く人々は歩みが遅く、気を抜くと立ち往生させられそうになった。
「お前は足が遅い」
着流しの裾を翻し、常澄を支えるように走りながらセスが言う。息一つ乱さず、常澄を引きずるようにして走る。
「抱えた方が早いぞ」
「目立つから、それはパス」
常澄は軽く手を振って言う。喉と足が痛くなってきた頃、ようやく公園の入り口が見えてきた。
入り口の両脇に大きな桜が茂っており、その隙間に人が吸い込まれていく。公園に入り込もうとした瞬間、派手な二人組が飛び出してきた。
「リィンだな」
常澄が声を出す前にセスが言う。白いコートを翻したリィンの後ろに、赤いコートのケルベロスが続く。セスが、ぱっと常澄の襟首を離した。
身を低くし、手首を捻るような少ない動きで抜刀する。
常澄が止める間もなく、ケルベロスに向かって殺到した。
「セス!」
転びそうになって片手を突き、常澄は制止の声を掛ける。
しかし、止らない。
セスに気づいたリィンが足を止める。セスはリィンの脇をすり抜けてケルベロスに接近した。
ケルベロスがホルスターから銃を抜く。周囲から、悲鳴というよりは歓声に近い声が挙がった。
見せ物だとでも思われたのだろう。
ケルベロスがセスに銃口を向けるが、セスの方が早い。ケルベロスはセスに背を向け、背負った大剣を引き抜いた。
鞘から僅かに抜き、剣身でセスの剣を止める。セスが回転し、両手に握った剣が鋭い金属音を立てる。
ケルベロスの大剣がセスの双剣を弾く。セスは素早く後退し、距離を取った。
「とりゃああああっ!」
気合いの入った掛け声が響く。公園の中から飛び出してきたマウンテンバイクが、ケルベロスに迫る。真が、マウンテンバイクごとケルベロスにスライディングを掛けたのだ。
「shit!」
ケルベロスが舌打ちし、銃口を真に向ける。
「たあっ!」
真がペダルから足を離し、ケルベロスの左手を蹴り上げた。
ケルベロスの手から離れた銃が、宙を飛ぶ。滑ったマウンテンバイクの車輪が、ケルベロスの足を払った。
バランスを崩したケルベロスに、セスが殺到する。
「動くな!」
セスに銃口を向け、リィンが鋭い声を上げた。
セスの動きがぴたりと止まる。倒れ込んだケルベロスに切っ先を向けたまま、リィンを見た。
「オレの邪魔をするか。いいだろう、まとめて殺してやる」
「やれるもんならやってみろよ。黒ずくめ」
リィンが挑発するように言う。セスの瞳がきらりと光った。
ゆらりと身体の向きを変える。切っ先で地面を擦った。
次の瞬間、一気にリィンとの距離を詰める。黒い疾風と化したセスがリィンに迫った。
「よっ」
短く声を漏らし、リィンが長い脚を跳ね上げる。蹴り飛ばされそうになったセスがリィンの膝に手を突き、大きく跳躍してリィンの背後に着地した。
「常澄」
リィンが常澄の方にちらりと顔を向ける。
ぽい、と銃を投げて寄越した。
「え!?」
手の中に飛び込んできたケルベロスの銃を掴み、常澄は目を白黒させる。
背後から襲ってきたセスを屈んで避け、リィンはケルベロスの腕を掴む。
引きずるようにして立ち上がらせた。
「逃げるか!」
リィンに避けられてバランスを崩したセスが、真のマウンテンバイクの上に倒れ込んで叫ぶ。
「勿論」
リィンは軽い調子で言い、ぴっと親指を立てる。
呆気にとられた常澄の横をすり抜け、走り去ってしまった。
常澄の目の前に、黒塗りのリムジンが停車する。勢いよくドアを開け、白いワンピースに着替えたベアトリーチェが飛び出してきた。
「ごめん、草間。逃げられたみたい」
常澄は溜息を吐き、銃をぶら下げて言う。車内から外を窺っていた草間が肩を竦めた。
「うーん」
車内の上座に座っていたセレスティが、腕組みして思案するような声を出す。
「少し仕掛けを考えましょうか。どうぞ皆さん、乗って下さい」
余り困ったような様子でもなく、そう言う。常澄は頷き、真とセスに手を振った。
× × ×
真と常澄の息が落ち着いた頃を見計らって、セレスティは膝の上で組んだ手を解いた。
「外はもう春ですね」
空気を柔らかくさせる穏やかな口調で言う。セレスティに許可を取ったシュラインが、車内のクーラーボックスからペリエを出して、一同に配った。
めけめけさんの鼻にくっついて桜の花びらを摘み、常澄は頷く。喉を湿らせる程度に、ペリエを口に含んだ。
見ている方が気持ちよくなるほど一息に瓶を干した真が、大きく息を吐いた。
「ケルベロスと一緒にいたヤツ、あれは何なんだ」
「うちの居候なんだけど」
「頼んでおいた助っ人の一人の筈なんだけどな」
常澄と草間が同時に口を開く。二人揃って溜息を吐いた。
「何となく、あっちの味方をしたくなっちゃったんじゃないかな」
常澄がそう言う。真は一瞬不服そうな顔をした。
「ケルベロス氏が、何故まだこの辺りにいるかを考えてみました」
話を先に進めようと、セレスティが言う。一同の視線がセレスティに集まった。
「彼は土地勘がないそうですので、あまり長距離移動するとここに戻って来られなくなるのではないかと考えているのではないでしょうか。日本語が全くお出来にならないそうですので」
前回、草間と組んだ仕事で使用したところと同じ高級ホテルを取っていることが判っている。セレスティは一同が納得した顔をしたところで、言葉を続けた。
「さて、リィンさんが彼と一緒にいるとここで不都合が生じます。電車に乗ったりタクシーに乗ったり、と徒歩以外で移動が可能になってしまうんですね。リィンさんの気分次第ですが、時間が経てば経つほど逃げられる可能性が高くなります。早急に捕まえてしまいましょう」
「そう仰るからには、勿論作戦が?」
シュラインがペリエの瓶を弄びながら言う。セレスティは落ち着き払った表情で、にっこりと微笑んだ。
「ええ。それでは皆様、お耳を拝借」
やや冗談めかしてそう言う。真とセスが目を光らせ、セレスティの方に顔を近づけた。
× × ×
新宿中央公園から一キロばかり離れた場所にたどり着き、リィンはやっとケルベロスの手を離した。
「何でオレが男の手を引いて走らなくちゃならないんだ」
パンパンと埃を払うように手を叩き、そう呟く。ケルベロスも尻に自分の手を擦りつけて「まったくだ」と頷いた。
「で、何でオレの銃を常澄に渡しちまったんだ」
不服そうな顔で言う。リィンは上着を脱いで腕に掛け、「へっ」と鼻を鳴らした。
「うっかり一般人に銃口向けられたらたまらないからな。危ないモノはナイナイしたんだ」
「勝手なことしやがって」
ケルベロスは唇を歪めて言う。リィンはケルベロスに背を向けて歩き出した。
「お前のハニーから逃がしてやればいいんだろ? 武器は必要ない」
「ベスの姿は見えなかったがな。やっぱり追いかけてくるつもりだろうな」
ケルベロスは恋人を愛称で呼び、やれやれと首を回した。
「浮気なんてするからだ」
「しょうがないだろう。レディに恥をかかせるのはオレの趣味じゃないんでね」
ケルベロスはリィンの後ろにくっついてきて言う。天を仰ぎ、大袈裟に片手で顔を覆った。
彼の主張するところによると、ベアトリーチェが過敏に反応しすぎなのだという。二手に分かれる仕事の最中、悪魔に襲われていた女性がいたので助けただけ、らしい。命を救われた女性は感極まってケルベロスに抱きつき、礼を述べながら頬や唇にキッスの雨を降らせてくれた。これを拒否するのは男として許されないと感じたケルベロスは、彼女を抱擁し熱いキッスを返した──と。
それが浮気騒動の発端らしい。
仕事を片付けて合流したベアトリーチェがそれを目撃、口から火を噴かんばかりの剣幕で追いかけてきたので、女性の名前も聞かずに走って逃げて、以来半月の間合衆国を追い回され、とうとう日本へにげてきたということだった。
「気の長い追いかけっこだな」
「ベスが落ち着かなくちゃ家にも帰れないぜ!」
「ビンタの一つも食らってやれば満足するんじゃないのか」
「ベスのビンタは鉄柱がへし折れるぞ」
ケルベロスはそう言って、ぶるぶると震えてみせる。リィンは事の顛末のくだらなさに、脱力を感じた。
「まあいいさ。それより、付き合ったらイケメンマングッズを頂戴する件は忘れるなよ」
「ああ、ステイツのハッピーセットになってる分、全種類送ってやるよ」
ケルベロスは軽く頷いて親指を立てる。リィンは同様に親指を立て、ケルベロスの拳に拳を軽くぶつけた。
「商談成立だ」
× × ×
白い羊のような生き物が、尻をぷりぷりさせながら前方を走っていった。
地面に鼻を擦りつけるようにして、小股でトトトと走ってゆく。到底早いとは思えない動きだが、真のマウンテンバイクと同じぐらいのスピードは出るらしい。ちんたら漕いでいるつもりはないが、羊との距離は縮まらなかった。
常澄の貸し出してくれた饕餮の後を追いながら、真は花の匂いのする空気を胸一杯に吸い込む。
後輪のステップ部分に美味く下駄を引っ掛けたセスが、真の肩に手を置いている。長身の男を一人乗せていると、流石に重い。
「見失うぞ、急げ」
尊大な調子でセスが言う。真はペダルを力強く踏み込んだ。
リィンの匂いを知り尽くしている饕餮・めけめけさんが二人を追跡、発見したところで特定の場所に追い込み、確保。それがセレスティの立てた作戦の概要だった。細かいタイミングはリムジンの面々に任せ、真とセスはケルベロスとリィンを追い回せばいいということだ。
「いたぞ!」
セスが声を上げる。真の肩に体重を預け、前方を指差した。
めけめけさんが鞠のようにぽんぽんと弾みながら、紅白のコートの二人組に追いすがっている。
リィンが手を伸ばし、めけめけさんの首根っこを掴んで抱き上げた。
「む! めけめけさんが掴まったぞ、急げ」
「あんたが降りて走ってくれたら速いんだけどな」
緩い坂を下りながら真は呟く。セスは「ふん」と思案するような声を漏らした。
「それもそうだな。このマウテンバイクとやらに乗ってみたかっただけだ。降りる」
すぐさま結論を出し、ぽんとステップから飛び降りる。
身を低くし、人間とは思えぬ早さで走り出した。
「最初から走れよな」
真は呆れて小さく呟く。俄然軽くなったペダルを、ぐいぐいと踏み込んだ。
× × ×
リィンはつまみ上げためけめけさんを自分の顔の前に引き寄せた。
メェ、と低く啼いた饕餮は、そのまま大きな口を開いてリィンの顔にかぶりつこうとしてくる。リィンは慌てて首を振り、めけめけさんの鼻っ面を軽く撫でた。
「うまいことやってくれよ。頼むぜ」
饕餮の耳に囁き、後ろに向かって放り投げる。
背後からセスの悲鳴が聞こえた。
「オレを噛むな! 馬鹿が!」
「そっちに曲がれ、ケルベロス」
リィンは下り坂を下りきり、ケルベロスを突き飛ばすようにして細い路地に潜り込む。
高層ビル群から道が外れ、中規模のビルが立ち並ぶ狭苦しい一角を目指す。
背後からセスとマウンテンバイクの男が追ってくる。マウンテンバイクの方は、確か先ほど──五代真と、名乗ったか。
剣を抜こうとしたケルベロスの手を、リィンは押し止めた。
「町中で物騒な真似するなよ」
「あっちは抜いてるのにか」
ケルベロスは舌打ちして後ろを振り返る。既に抜刀したセスが、黒い着流しの裾をはためかせて追ってくる。
「ここは日本だぜ。専守防衛に徹してくれ」
「だからこの国は腰抜けなんだ!」
「平和主義って言うんだぜ。相棒」
リィンはチッチッと舌を鳴らして人差し指を振る。ケルベロスは不服そうに顔を顰めたが、柄に延ばしていた手を引っ込めた。
× × ×
広げられた地図を指でなぞっていく。常澄の指の動きを注意深く見ていたセレスティが、「もうちょっと東にずれてくれるといいんですけどね」と呟いた。
めけめけさんの目を通して、ケルベロスたちが走っているルートを辿っているのだ。
「目的地にたどり着いてくれるならよしとしましょうか」
鷹揚に頷き、セレスティは自動車電話を手に取った。
「ベアトリーチェさんとシュラインさんの方は、準備は」
「オーケィよ」
鏡を覗き込んでいたベアトリーチェがぱちんとウィンクする。帽子をぐいと引っ張り、目深にかぶった。
「はい、これ」
シュラインがケルベロスの銃を差し出す。慣れた仕草で銃のコンディションを確認すると、ベアトリーチェはそれを太腿につけたホルスターに押し込んだ。
「先ほど指定したポイントに車を回しなさい。あと3分で合流します。いいですね」
セレスティは女性二人に微笑みかけ、電話を置く。
「そろそろ追い込めるよ」
地図を見下ろして指を動かしていた常澄が言う。ゆっくりとリムジンが止まった。
「いってきます」
シュラインがベアトリーチェの手を引いてリムジンから降りる。草間が欠伸を噛み殺しながら、ゆらゆらと手を振った。
ドアを閉めようとしたシュラインが、一瞬車内に首を突っ込む。
「武彦さん、今日働いてないじゃないの」
「オレは安楽椅子探偵だからな」
「ハードボイルドじゃなかったの」
「たまには安楽なのもいいと思ってな」
ふわぁと大きく欠伸をし、草間は笑う。シュラインは呆れたように溜息を吐いた。
「いってきます」
もう一度言い直し、ドアを締める。
「日が沈む前には決着が付きそうですね。今日はお花見日和ですし」
地図を見下ろしていたセレスティが、ゆっくりと言う。
「片づいたらお花見、というのも悪くないですね」
× × ×
うまいこと誘導されているような気がする。
リィンは五代とセスから逃げながら、そう考える。路地はどんどん細くなり、民家ばかりになってくる。
常澄に自分の気持ちは伝わっているだろうか、と考えた。
武器は渡したし、セスにも危害は加えていない。やって来たケルベロスに頭を下げられ、ついでにUSA仕様のイケメンマングッズに釣られてしまって協力こそしているけれど──
敵対したりするつもりは、まったくないのだ。
ケルベロスが逃げている理由も、余りにも下らない。協力した段階で商談は成立しているのだから、とっとと掴まって欲しいというのが本音だった。
帰ればイケメンマンのスペシャルも見れることだし。
今、何時だろうか。とぼんやり考えていると、視界が遮られた。
「しまった」
ケルベロスが小さく叫んで舌打ちする。いつのまに回り込まれたのか、狭い路地の前方に五代が立っていた。
背後を振り返れば、両手に抜き身の剣をぶら下げたセスが悠々と距離を詰めてくる。二人の足が止まったのに気づくと、右手の切っ先をリィンに向けた。
「観念しろ。この似たモノ同士」
「似てないぜ」
リィンは肩を竦める。ケルベロスが背中の大剣に手を伸ばした。
「向こうは抜いてるぜ。いいな、リィン」
「あ? そうだな……」
リィンは僅かに口籠もる。確かにセスは一般人とは言えないし、ケルベロスが多少突進しても死んだりしないだろうとは、思う。が──
どうしようか、と思っている間に、セスも臨戦態勢に入った。ケルベロスの隙を窺うように、じりじりと距離を詰めてくる。
ケルベロスが大剣を抜き放った。
「くくくっ」
セスが喉で笑う。目を見開き、大地を蹴った。
セスのすぐ脇の建物の隙間から、無防備に一人の女が歩き出てきた。
「危ないッ!」
セスと衝突するような位置になった女性が、驚いたように動きを止める。セスは女性など無視するつもりか、動揺も見せない。
ケルベロスが跳躍し、女性の膝をすくい上げるようにして抱いた。
片手でセスの双剣を受け止める。鋭い金属音が響き渡った。
「む。邪魔が」
セスは小さく呟いて、剣を引く。息を荒くしたケルベロスが、腕の中の女性を見下ろした。
「大丈夫かい、お嬢さん」
流暢な英語で言った。
「ええ。大丈夫よ。ケルベロス」
チキッ、と安全装置を下ろす小さな音が響いた。
ケルベロスの顎に銃口を突き付け、飛び出してきた女性が唇をつり上げて微笑む。
地響きを立てて一台のトレーラーが走ってくる。路地の片側、マウンテンバイクの男が立っているすぐ後ろににぴたりと車体を付け、路地を封鎖した。
「ベ……ス……」
ケルベロスがカエルが潰れたような声を出す。女性が髪と帽子を纏めて掴み、ずるりと剥がした。
美しい金髪が露わになる。怒りに燃えたぎった瞳が、ケルベロスを見つめていた。
ベアトリーチェが飛び出してきた路地の隙間から、ひょこりとシュラインが顔を出す。古いアパートの裏庭を抜けて、この路地に出られるようだった。
トレーラーよりは大分穏やかに、黒いリムジンが走ってくる。滑るような動きで、セス側の通路を封鎖した。
「さ、もう逃げ場はないぜ」
銃口を向けられたまま膝を突いたケルベロスに、五代が近づいてくる。
「なあ、あんた。素直に謝ったらどうだ?」
親しみの湧く仕草でケルベロスの肩をぽんぽんと叩く。
「何したのか知らないけどな。女は本気で怒らすと、すっげぇ怖いぜ」
同情と野次馬の混じったような態度で、ケルベロスにそう囁く。ケルベロスがギリギリと奥歯を鳴らした。
「素直に謝った方がいいんじゃないか。相棒」
リィンは腕組みし、苛立っている様子のケルベロスにそう言う。
「寝返ったな……! リィン!」
「お前のお望み通りにしてやったんじゃないか。落ち着いて話し合えば、帰れるぜ。家に」
リィンは肩を竦めてそう言う。リムジンから常澄と草間、杖を突いたセレスティが降りてきた。
「まあ、後は依頼人の気が済むようにってことで」
飄々とした顔で草間が言う。ケルベロスは目を剥き、何か言いたげに口をぱくぱくさせた。
一同の視線が、ケルベロスに集中する。
観念したように、ケルベロスが地べたに手を突いた。
「出来心でした! オレが悪かった! 許してくれ、ベス」
一息にそう言い、頭を下げる。
祈るように両手を組み合わせ、銃口を向けているベスを拝む。
「愛してるのは君だけだ。ベアトリーチェ。以後気を付けるから、許して欲しい。あの女とは、何でもないんだ。名前も知らない」
「そうなの? ダーリン」
「そうとも」
しゃがみ込んだベアトリーチェの手を取り、ケルベロスは大きく頷く。
「愛してるよ。ハニー」
「嬉しいわ、ケルベロス。それなら」
にっこりと笑い、ベアトリーチェがケルベロスを見つめる。
その口が、出し抜けに耳まで避けた。
ずらりと並んだ獣のような牙が露わになる。小さく、五代と草間が悲鳴を上げた。
ガチガチと牙を打ち鳴らし、ベアトリーチェは改めて微笑んだ。
「あの女を食べちゃっても、いいわよね?」
「ベス!?」
「身元ぐらい調べてあるのよ、私だって。それじゃあ、一足お先に帰って精力つけちゃうわね」
真っ赤な舌でべろりと口の回りを舐め回し、ベアトリーチェはぱちんとウインクした。
「ベッドで会いましょう。ダーリン」
するりと口を元に戻し、ケルベロスの唇にムチュッとキスをする。
目を見開いたまま硬直しているケルベロスを置いて、さっさと立ち上がった。
後ろも振り向かずに、すたすたと歩き出してしまう。
「ま、待てベス! 待ってくれ!」
ケルベロスが慌てて立ち上がる。ベアトリーチェを追いかけようと、走り出した。
「おっと」
草間が手を伸ばし、脇をすり抜けていこうとしたケルベロスを捕まえる。
「忘れ物だぜ、ダーリン」
ケルベロスの胸ポケットに、ベアトリーチェから預かったブラックカードを押し込んだ。
「明細は要るかい」
「要らない!」
ポケットから明細を取り出そうとした草間に、ケルベロスはぞんざいに手を振る。
ベアトリーチェの名前を叫び、そのまま走って行ってしまった。
「む。オレがリィンとあの男を成敗して終わるという作戦ではなかったのか」
ぼそりとセスが呟く。常澄は呆れたように首を傾げ、溜息を吐いた。
「全然そういう作戦じゃなかったよ」
草間は取りだし掛けた明細を、手で小さく千切って足下に捨ててしまう。シュラインが草間の肘を小突いた。
「いつの間に作ったの? 明細なんて。まだ事務所の修繕も終わってないのに」
「適当な数字を入れて、さっき車の中で」
草間は何でもないことのように、さらっと言い放つ。
「それ、詐欺じゃない」
「そうでもないぜ」
シュラインの指摘に、草間はひょうきんな顔で答える。シュラインは片手で顔を覆い、溜息を吐いた。
「男の人って適当なんだから」
「万人が、ではありませんよ」
やんわりととりなすようにセレスティが言う。
草間がこほんと咳払いをした。
「というわけで、皆様の手間賃を支払っても十二分にオツリが来るぐらい儲かってしまいました。これから中央公園で、草間興信所慰安花見と行きたいところですが、如何ですかね」
ぐるりと一同を見渡して言う。五代が、ぐいと拳を突き上げた。
「参加させて頂きます」
セレスティが穏やかに言う。リムジンを示し、一同の乗車を促した。
「で、実際どれぐらい儲かっちゃったの? 武彦さん」
ぞろぞろとリムジンに移動する一同から少し離れ、シュラインは草間の袖を捕まえる。
草間は少し考え込むような顔をし、それからにんまりと笑った。
「今月はもう仕事しなくても安泰だぜ、ぐらいだな」
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 草間興信所の事務員】
【4017 / 龍ヶ崎・常澄 / 男性 / 21歳 / 悪魔召喚士、悪魔の館館長】
【4221 / リィン・セルフィス / 男性 / 27歳 / ハンター】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男性 / 725歳 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1335 / 五代・真 / 男性 / 20歳 / バックパッカー】
【6076 / -・セス / 男性 / 333歳 / 使い魔】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
ご参加ありがとうございました!
担当ライターの和泉更紗です。
今回はほんの3時間ぐらいの話を、モザイクのように切り張りしてみました。
楽しんで頂けましたら幸いです。
|
|
|