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過ぎ去りし春の物語
満開の知らせを聞いたばかりの桜の花も、風に急かされるように散っていきます。
地を覆い、天を舞う花片に、あるいは芽吹いたばかりの新緑の輝きに、よみがえる思い出をお持ちではありませんか。
あの梢の隙間から垣間見えた空の色に、足下に落ちる淡い影に、瞼の裏に浮かぶ人がいらっしゃいませんか? 葉桜の季節に思い出さずにはいられない、その物語りをどうか私にお聞かせください。
あなたのお越しをこの部屋共々待っています。
差し込む眩しい春の陽射しに目が眩む。
一瞬瞼を閉じ、再び開いた時、周囲は静寂に包まれていた。
傍らを歩いていたはずのあの人も、散りゆく桜の儚い美しさを愛でていた周囲の人々の姿も、いつの間にか忽然と消えてしまっていた。賑わいを見せていた桜並木の続く小径には、誰もいない。
風が吹く度に上がっていた歓声も失われ、静まり返った風景の中で、枝に残った花々が、葉擦れの音とともに地へ舞い落ちる。梢の隙間からは光がこぼれ、それは散る花びらと絡まり合いながら、石畳の上を踊る。垣間見える空は青く、頭上を覆う葉もまた蒼い。
春の終わりの光景。夏へと移り変わろうとする自然のその姿には、儚さと生命力の力強さとが混在している。
美しいとは思う。
つい先ほどまでは、その美しさに心が洗われていくような気さえしていた。けれど、人の姿がない情景はどこかもの悲しく、寂しい。
そっと目を閉じる。先ほどから感じる違和感。消えた人々。
いや、もしかしたら消えたのは彼らではなく自分の方なのかもしれない。
──また、異界に迷いこんでしまったのだ。
とにかくあの人を捜さなければ。
彼もまたきっとこの空間にいるはずだという妙な確信を抱きながら、一つ深呼吸をして走りだそうとしたその時。
「お姉さん」
誰もいなかったはずの背後から不意に声をかけられる。少し乱れた様子の呼吸音。
人がいた、という安堵よりもまず恐怖が先に立った。
耳は他の人よりいいというのに、足音など全く聞こえなかった。
振り返るか振り返らず走り去るか、数秒迷い──意を決して振り返れば、息せき切って走って来た様子の少年が、大きく肩を上下させながら立っていた。どこから駆けてきたというのだろう。
「よかったぁ」
深い安堵の溜息が少年の口から漏れる。
「無事ですね」
「君は……?」
彼は人懐こそうな笑みをその頬に浮かべて、小さく頭を下げた。
「初めまして、かな。挨拶をしても「あちら」に戻ったときは覚えていないかもしれないんですけど。僕はケイと云います。月の桂(カツラ)の桂と書いてケイ」
「月の桂」
ふと目を向けたケイ少年の瞳が赤みを帯びていることに気づき、
「もしかして私を先導しに来てくれたのかな?」
と冗談交じりに呟けば、彼は目を見開いて、よく分かりましたね、と大きく頷いた。
赤い瞳に月桂と聞いて「不思議の国のアリス」の兎を連想して口をついて出た言葉だったというのに、どうやら的を射ていたらしい。
「ありがとう。ごめんね、迷惑をかけてしまって」
「ちがうんです。元はといえば僕がいけないんです。迷子にさせてしまってごめんなさい」
ケイがぺこりと深く腰を折る。
「それは……どういうことかな?」
「ええとですね。もともと僕の……主といえばいいのかな、彼がお二人を葉桜のお茶会に招くつもりだったんです。葉桜の季節の忘れ得ぬ思い出をお持ちのお二人を」
「葉桜の季節の……」
その言葉に脳裏を掠めていく笑顔がある。忘れることなど出来ないと思い、忘れたいと願い……少しの痛みと共に今も胸の底に息づく明るい笑顔。色んな表情を見たというのに、こうして思い出すのは、初めて会ったあの日、桜の木の上で見たような、無邪気な笑顔だった。
「彼はお二人が迷わず部屋にたどり着けるように事前にルートを確保していたんですけれど。僕が、その、アルバイトがあるにも拘わらず寝坊してしまって。仕事先へ最短でいけるように時空に穴をぼこぼこ開けて近道を造ったんですけど。それが見事に主が創ったルートをぶち壊すような代物だったという」
「……つまり私たちは君の作った穴に落ちてしまったってことなのかな?」
徐々に尻すぼみになっていくケイの声音に、思わず笑みが漏れた。
「本当にごめんなさい」
少年は再びぺこりと頭をさげる。
「これから僕が責任もってもとの時空に案内します」
手を差し出したケイに、でも、と反駁の言葉を告げる。
「私と一緒にいた人がどうしているかしらないかな? 多分、一緒に落ちてしまっている、そんな気がするの」
「僕の主が探しています。必ずお連れしますから、戻って待っていてください」
ケイの申し出に頷きかけて、待つ、という言葉に、記憶から染み出して心に響く声がある。
『近頃のお前は俺と一緒にいるより、音楽の勉強してる方がずっと楽しそうだったよ。正直なところ、置いてきぼりをくったみたいな寂しさをここのところずっと感じてた。ごめんな。俺、そんなお前を見守って、こっちをお前が振り返ってくれるまで待っていられるほど大人じゃなかった』
葉桜の季節に、別れた人の言葉。
出会った頃は腕白な悪戯小僧でしかなかった彼も、そしてお転婆だった自分も、少しずつ変わっていた。もう一緒に手を繋いで歩いていくことが出来ないくらい、別々の道を見ていた。
別れを決めた直後は、共に過ごした二年もの日々が楽しかった分、涙が溢れて止まらぬほど哀しくて、苦しくて、胸が痛かった。けれど、あの頃の自分は甘えすぎてしまっていたのだろうと、今ならそう思える。彼が自分に向けてくれる好意を受け止めるばかりで、返すことをおろそかにした結果だったのだろうと。
待っていてくれると信じて、傷つけていたことに気付かなかった幼かった自分を悔いている。
「私、探したいな」
その言葉にケイがえ?と目を見開く。
「私、綾さんと一緒にあちら側に帰りたいよ」
花吹雪の中を小走りに抜ければ、開けた視界の先にチャペルが見える。
明るい陽射しと新緑に染まった木々に囲まれた白亜の建物は、記憶の中に沈んでいた女(ひと)のことを想い出させる。
小学校生活も最後の年、自分たちの担任教師だったあの人。
彼女は当時二十七歳。今の自分と同じ歳だった。
遥かに年上だと思っていたのに、いつの間にか追いついてしまったことに鈍い痛みを覚えずにはいられない。彼女はもう永遠に年をとることはない。
卒業アルバムを見ることも辛く、記憶に沈み込んだその容貌はどこかうすぼんやりと輪郭が滲んでいるが、明るく元気で優しい人だった。
彼女は時に子供の視線にあわせて物事を語り、時に大人の視線で自分たちを導いてくれた。そういえば掃除をさぼる男子生徒を追いかけて廊下を全力疾走なんて真似をして、教務主任に怒られるそんな稚気もあった。
朗らかで楽しい彼女は、他のクラスの生徒にまで好かれていた。自分もまたそんな「先生」に仄かな好意を抱いていた。
だから、とチャペルの入り口へと視線を向ける。
あの日のあの人の姿を直視できなかった。
緑のアーチを抜けて新郎と共に現れたウェディングドレス姿の「先生」。
緑を瑞々しく照らし出す陽の光は、純白を身に纏い笑顔を浮かべる「先生」をいつも以上に美しく見せ、それとともに自分と彼女の間にある距離を浮き彫りにした。
拍手とともに上がる歓声。
共に祝いの席に駆けつけた友人たちが口々におめでとうと告げる中で、心に満ちていく哀しみと苦しみに、皆と同じ言葉を告げることがどうしても出来なかった。
もし、もっと早く生まれていたら、その傍らに立てたかも知れないと思うと、眦に自然と涙が浮かんだ。晴れの場であるのに、そんな顔を見せるわけにもいかず、地面へと視線を落とし、自分の影ばかり見ていた。
『槻島くん、具合悪いの? 大丈夫?』
掛けられた声には首を振ることしかできなかった。彼女は心配げな気配をこちらに向けながら、周囲の声に押されて自分の前を通り過ぎていった。
その声が「先生」から向けられた最後の言葉になった。新婚旅行先で自動車事故に巻き込まれ、ご主人共々彼女は不帰の人となったのだった。
訃報を聞いた時は、目の前が真っ白になった。なぜ、どうして。怒りにも似た悲しみが身体の中を暴れ回った。それとともに、あの日、おめでとう、と言えなかった自分にも憤りを覚えずにはいられなかった。
今も後悔している。悔いずにはいられない。
「槻島くん、大丈夫? 難しい顔しちゃってるけど」
ふと視線をあげると、いつの間にか傍らに女性が立ち、自分の顔を覗き込んでいた。
──もう一度。
告別式の席で何度も祈った。「先生」を返してほしいと。もう一度でいい、会わせて欲しいと、誰に向かってというわけでもなくただ、ひたすらに願った。
「……先生?」
昔は下から見上げていたその顔を見下ろす視線に戸惑いながらも、以前と変わらぬ笑顔を浮かべて頷く人を凝視する。
「随分と格好よくなっちゃったのねー。でもやっぱり小学生の時の槻島くんの面影もきちんと残ってる」
目の前に「先生」がいることが信じられず目を見開いたまま反応できずにいる自分にお構いなしに、楽しげに喋る。
「……先生」
「はい、なんでしょう、槻島綾くん」
教卓に立っていた時と同じような口調で応えるその姿に、顔を隠すように目元を押さえた。泣き顔を見られたくはなかった。
「……顔を見せて? あの時もずっと俯いていて、先生ちょっと寂しかったわ」
その言葉に、溢れ出た涙を指先で拭い、視線を「先生」に向ける。
「すみません。僕は……あの頃先生に憧れていたんです。とても。だから素直にお祝いの言葉を云うことができなかった。せっかくの日に心配をさせてしまって……すみませんでした」
「そっか、だからだったんだね」
「今更遅いかもしれないんですが、云わせてください。……ご結婚おめでとうございます、と」
「先生」は眩しげに目を細めて、小さく頭を左右に振った。その面に浮かぶのは優しい、慈愛に満ちた笑みだった。
「今更なんかじゃないよ、遅くなんてない。有難う。嬉しいな。私に憧れていてくれたっていうのも、すごく嬉しいよ。今の槻島くんカッコイイから、ちょっと惜しいな」
ふふ、と悪戯っぽく笑う姿に、昔が戻ってきたような気がした。まるで、小学生の時に戻ったような。
「会えてよかったわ。また、いつか会いましょう。……その時はきっと槻島くんは、お爺ちゃんね。格好いいお爺ちゃんになって会いに来てね」
「先生」
「またね。槻島くん」
「先生」は胸元の辺りで小さく手を振る。そのまま徐々にその輪郭が薄れ、春の陽射しの中に溶けるように消えてしまった。
「綾さん?」
それからどれほどの時が経ったのだろう。
目の前に心配げな眼差しを向ける瞳子が目の前に立っていた。
「瞳子、さん?」
「良かった、見つかって。探してたんですよ。どうやら私達異界の穴に落ちちゃったらしくて……」
普段と変わらない調子で話す彼女の姿に、じんわりと心に安堵が広がっていく。
「あっちでケイ君って男の子が待ってます。送ってくれるそうですから」
安心させるように微笑みながらすっと手を伸ばされる。
「帰りましょう」
「……瞳子さん、すみません」
「……どうしたんですか」
「少しの間、肩を貸してもらっていいですか」
返事を待たず引き寄せた彼女の肩に頭を預ける。
「綾さん!?」
驚きの声をあげながらも瞳子は逃げはしなかった。
そのまま、おずおずといった仕草でそっと肩を撫でられる。
背中を照らす陽射しが温かかい。
それ以上に彼女の持つぬくもりがありがたかった。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【2226 / 槻島 綾 / 男性 / 27歳 / エッセイスト】
【5242 / 千住瞳子 / 女性 / 21歳 / 大学生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。ライターの津島ちひろと申します。
このたびは当方の異界にご参加いただきまして有り難うございました!
お二人のプレイイングを拝見して、
今回はいつもの異界とは少し変わったお話にさせていただきました。
素敵なプレイイングを有り難うございました。
少しでも愉しんでいただけると嬉しいです。
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