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<東京怪談・PCゲームノベル>


T・W・I・N



 宮本署刑事課に足を踏み入れた途端、刑事たちの視線が少年に一斉に突き刺さった。奇異と好奇と敵意が入り混じったきつい眼差しの理由をはかりかねて少年は所在なげに頭をかく。その拍子に手に巻きつけた緑色の数珠がかすかに音を立てた。

 「オンボロ興信所からですか、それとも白王社の雑誌?」

 少年が何か言う前に近付いて来たのは背の高い女性であった。彼女も刑事だろうか。長い髪にきつく吊り上がった目元、整った顔立ち。美人というよりも冷たい。少年は女性の相手はあまり得意ではないが、この女性刑事は別の意味で「苦手」だと感じた。

 「草間興信所からだけど」

 少年は黒い瞳をやや斜めにして答えた。頭の動きに合わせて黒い髪がさらりと揺れる。「天波・慎霰(あまは・しんざん)ってんだ。草間から連絡来てねェのか?」

 「我々刑事課はオンボロ興信所とは関わりはありませんので」

 柳・鏡華(やなぎ・きょうか)という女性刑事は髪をさらりと揺らしてつんとそっぽを向き、刑事課の奥にひっそりと佇んでいる粗末なアルミのドアを顎でしゃくった。

 「二係はあちらです。沢木警部補はただいま席を外しておりますが、どうぞ勝手にお入りください」

 「あっそ。そりゃありがとさんッ」

 慎霰は鏡華の背中にあかんべえをして投げやりに礼を言った。その後で草間が「沢木は刑事課の連中には嫌われてるからな」と言っていたことをようやく思い出す。

 二係はなんとも愛想のない部屋だった。八畳ほどの広さに窓がひとつ、デスクがひとつ、応接セットがひとつ。しかし床に落ちているゴミどころか窓の桟に溜まった埃すら見当たらない。デスクの上には端を1ミリもずらさずに揃えて重ねてあるバインダーとファイルの山があった。

 デスクは入り口のドアに背を向ける格好で配置されている。七分袖のパーカーを着てヘッドホンをはめた小柄な少年が机のパソコンに向かって作業をしていた。高速のタイピングに合わせて白い髪がかすかに揺れている。慎霰は少年に一言声をかけようかと思ったが、やめた。どうせ待たされるのなら暇をつぶしたほうがよいというものだ。

 きょろきょろと室内を見回すと部屋の角に小さな水道があるのを見つけた。その脇には電気ポットとティーカップ、紅茶のセットが置かれている。紅茶の缶をじっと見つめると音もなくフタが開き、茶葉がポットに注がれた。品のある芳醇な香りが慎霰の所まで漂ってくる。人差し指を立てて指揮でもするように軽く動かすとあっという間に電気ポットが湯を湧かし、紅茶を淹れてしまった。慎霰の力をもってすればこの程度のことは朝飯前以下である。

 そのままカップとソーサーを操作して少年の手元に運んでやる。少年は「ありがとう」と口を動かしてカップを手に取った。パソコンに集中するあまり、沢木が紅茶を持ってきてくれたとでも思ったらしい。慎霰はくすりと笑ってぎゅっと拳を握り、それから勢いをつけて強く開いた。その動きに連動するように紅茶のカップが少年の手の中で揺れ、琥珀色の液体が少年の口元でばしゃっと音を立てて派手にはじけた。慎霰は腹を抱えて笑い転げた。

 「あちっ!」

 少年が悲鳴を上げてカップを取り落とす。甲高い声に慎霰は目を丸くした。まだ声変わりを迎えていないのだろうか。いや、この声は男児というよりも――

 「何すんのよあんた!」

 憤然と椅子から飛び降りて喚いたのは白い髪をショートカットにした少女だった。Tシャツの上に羽織った前開きのパーカーにホットパンツという中性的な服装ではあるが、愛くるしい紫の瞳と、短いデニムのパンツから大胆に露わになっている未成熟ながらも形のよい脚は確かに女の子のものである。歳の頃は小学校高学年か中学生になりたてといったところだろうか。慎霰より三つか四つ下と思われる。

 「ゲッ、女ッ!?」

 「“ゲッ”て何よ! あーもぉー、キーボードにかかっちゃったじゃん! ショートしたらどうすんのよ! 弁償してよね!」

 「うっせェなァ、ちょっとかかっただけだろうが・・・・・・」
 慎霰は半ば口ごもるようにしてもごもごと反論する。泣かれでもしたら面倒だという懸念が舌先を鈍らせているのだ。もっとも、泣かれたくないのなら素直に謝ればよいという無難な選択肢は慎霰の頭の中には存在しないのだが。

 「で、何の用? あんた誰?」

 小柄な慎霰よりもさらに小柄な少女は腰に手を当て、斜め下から慎霰を睨み付ける。「あんた、人間じゃないね? 草間興信所? それともアトラス?」

 「草間興信所からお越しの天波・慎霰くんですよ」

 背後で穏やかな声がして慎霰はほっとする。振り返ると、糸のような目に静かな笑みを湛えた柔和な物腰の男性が立っていた。

 「お待たせして申し訳ございません。お話は草間先輩から伺っております。宮本署刑事課二係警部補、沢木・氷吾(さわき・ひょうご)と申します。お見知りおきを」

 沢木は警察手帳を示して自己紹介をした。「こっちの女の子は耀(あかる)ちゃん。ぼくの優秀な助手です」

 優秀、と紹介されて気をよくしたらしい少女は得意そうに胸を張った。

 「助手ゥ? ヘッ、こんなガキがァ? 警察はよっぽど人手不足なんだな」

 「何よー。あんただってガキじゃん」

 「いちいちうっせェなァ。ところでおまえ、沢木とかいったっけ?」

 慎霰は軽く舌打ちして腰に手を当て、沢木に顔を向ける。「田宮ってヤツに会わせろよ。ほら、なんて言ったっけ、アレ・・・・・・事情聴取? 取調べ? とにかく田宮と話してみてェんだけど」

 「残念っ。民間人が被疑者に尋問することは許されてないんだよねー」

 耀がフフンと鼻を鳴らす。慎霰より年下なのに涼しい顔で専門用語を並べる辺りはさすが警察に出入りしているだけあるというところか。

 「あァん? そんじゃ俺は何のために来たかわかんねェだろうが」

 「だったら帰れば?」

 「んだよ、うっせェなァ」

 耀に対しては先程からこればかりだ。男なら鉄拳のひとつでも食らわせているところであるが、女では仕方ない。

 「もっとも、ぼくが特別に許可したということで“取調べ室以外の場所で、警察の人間の立会いの下に話を聞く”のであれば問題ありませんよ」

 沢木がにっこり微笑んで言った。「耀ちゃん、小会議室に田宮さんを呼ぶように柳さんに連絡して。田宮さんが来たら天波くんと一緒に小会議室に行ってあげてくれる?」

 耀は元気に返事をして部屋を出て行く。慎霰はぎょっとした。

 「ゲッ、あいつもくんの? いいよあいつは。俺一人でいいって」

 「とおっしゃられましても、警察の人間の立会いがなければいけませんので・・・・・・耀ちゃんは民間人ですが、ぼくの特別な代理人として警察官と同等の権限を有します」

 沢木は困ったような表情を返しつつもくすりと笑う。「ぼくはあいにく他に仕事がありまして。それとも柳さんに立会いをお願いしましょうか?」

 「しょうがねェなァ。あのガキでいいよ」

 慎霰は渋々了承した。
 


 
 
 慎霰は耀とともに宮本署の小会議室で田宮と対面した。

 投身自殺のためにビルの屋上まで上がって来た男女が月のきれいな夜――しかも決まって午前零時ごろに立て続けに五人刺殺されたというのが今回の連続殺人事件の概要。うち、五人目の被害者が抵抗し、犯人が持っていたナイフを奪って犯人の左手に切りつけた。結局被害者は犯人の逆襲にあって無残に刺し殺されてしまったわけだが、その時に現場に残った血痕によって田宮が浮かび上がったのだった。

 そして田宮を取り調べている最中に同じ手口で六人目の犠牲者が出た。現場近くで田宮を見たという目撃者に田宮の顔を見せたところ、「間違いなくこの男だ」という確認がとれた。これが今回の事件の概要である。

 被疑者名、田宮徹。二十七歳独身。普通の小学校、中学校、高校、大学を経て現在は小さな会社の会社員。生まれてすぐに母を亡くし、父に連れられて父の愛人の所で暮らすも父は田宮が六歳の時に死亡。五件目までの一連の連続殺人事件の犯行時刻には「自分の部屋で一人で寝ていた」と主張しているが、それを証明する者はなく、アリバイはないに等しい。「今回の連続殺人は自分の分身がやったのだ」などと不可解なことを言う割には心理学を毛嫌いし、オカルトに傾倒している様子もないようだ。

 「釈放してくれるんじゃないんですか?」

 そう言って慎霰と耀の向かいに座った田宮は薄い唇を歪める。しかし切れ長の目にはどこか人を見下すようにこちらを見ているし、言葉尻にも不遜な態度がうかがえる。慎霰はチッと舌打ちして長机の前で脚を組んだ。草間や沢木から大体の話を聞いてはいたが、実際に対面するとやはりいけ好かない奴だという印象ばかりが強く感じられる。

 いかにも神経質そうな男だ。シミひとつない白い肌に黒い髪。ひょろりとした体躯は貧弱そのもの。留置所暮らしてヒゲを剃ることもままならないのであろう、顎に散った不精ヒゲを盛んに右手で気にするしぐさが印象的だった。左手の甲にある切り傷は五人目の被害者に抵抗された時のものだろうか。

 「疑わしいから釈放しねェんだよ。何かやってそうなツラしてやがるからな」

 「それって見込み捜査じゃないんですか? 印象や外見だけで先入観を持つのは適正な捜査とは言えませんね」

 「うっせェな、ゴチャゴチャ難しい単語ばっか並べんじゃねェよッ」

 慎霰はがりがりと頭をかきむしって田宮の饒舌を遮った。「偉そうに。おまえなァ、人間の癖に生意気だぞ? あんまりグダグダ抜かすといつか痛い目に遭わせてやるからな。人間一匹くらい、俺にかかればひとひねりだ」

 「へえ。どうやって? 超能力でも持っているとおっしゃるんですか? これはまた非現実的な話ですね」

 「フン。そうやって馬鹿にしてられるのも今のうちだぜ」

 慎霰はニヤニヤとして膝に頬杖をつき、もう片方の手で田宮の鼻先を小突くようにした。「聞いて驚け。俺はなァ、天狗なんだよ。て・ん・ぐ。おまえなんかこの場で真っ二つにできらァ。何だったら試してやろうか?」

 「なるほど、天狗ね」

 田宮は不精髭を右手でさすりながらくすりと笑う。「確かにその性格は天狗ですね」

 「なんだと!」

 「はいはーい、そこまで」

 長机を激しく叩きつけて立ち上がった慎霰の肩を耀が押さえ、強引に座らせる。「喧嘩なら尋問が終わってからにしてよね。今日はあたしたちの手伝いに来てくれたんでしょ、天狗さん」

 「うっせェ、触るなッ」

 慎霰は耀の白い手を邪険に払いのけた。それから気を取り直して尋問を始める。

 「おい田宮。おまえ、あくまで分身が殺したって言うつもりか?」

 「ええ。それ以外に説明のしようがないでしょう?」

 「じゃその左手の傷は何だよ。五人目の被害者が犯人の左手を切りつけたって聞いたぜ」

 「これはあいつが受けた傷です。出来損ないでも一応ぼくの分身ですからね、あいつの怪我はぼくの体にも反映される」

 迷惑な話だと田宮は憎々しげに吐き捨てる。それから聞いてもいないのに得意げに薄い胸を張って語りだした。

 「ぼくなら目撃されるようなヘマはしない。サングラスやマスクで顔を隠して、手袋なり軍手なりをはめて傷を負わないような配慮もしますよ。それに同じ手口での犯行なんか重ねない。いくら警察が無能でも同じ手口が続けば同一犯だとみなすでしょう? ぼくなら殺害方法と場所を変えて殺しますね。毎回ビルの屋上で刺殺するなんて方法は絶対にとりません」

 「言われてみればそうかもね」

 と肯くのは耀である。「顔を見られるなんて不用意すぎるもんね。普通、犯罪者は顔を隠そうとするもの。突発的な犯行なら別だけど、おんなじようなのが六件も続いてるんじゃ無計画な殺人ってわけでもなさそうだし」

 ふーん、と慎霰は鼻を鳴らした。ガキだと思って侮っていたが、言うことはなかなか筋が通っているではないか。

 「田宮。おまえの分身ってどんな奴だ? 弱点とか、特殊能力みたいなのはあんのか?」

 「さて・・・・・・どうですかね。ぼくの分身ですから、基本的にはぼくと同じはずですよ。普通の人間と変わらない。運動神経が特に優れているわけでもありませんし、あの通り頭が切れるわけでもない」

 田宮はゆっくりと首を傾けた。「ただ、考え方とか価値観とか意識とか・・・・・・その辺はぼくと同じと思っていただいて間違いないです」

 「そんじゃ、自殺志願者ばっか狙うのもおまえの意識の現れってことか?」

 「もちろん」

 田宮は白い顔を歪めて笑った。笑った、というにはあまりにも皮肉に満ちた表情だった。

 「自殺志願者を狙って何が悪いんです。死のうとしている人間を殺して罪になるのですか? ぼくが殺さなくてもどうせあいつらは死ぬんですよ。第一、自殺志願者には腹が立つんですよね。殺されそうな目に・・・・・・死んだほうが楽だという目にあったことがあるんですかね、あいつらは。“生きたくても生きられない人たちがたくさんいるんだから自殺なんてとんでもないことだ”なんて青臭いことを言うつもりはありませんがね、死んだほうが楽だという目に何度も遭いながらも死ぬことすら許されない人間がいるということを忘れないでほしいですね」

 田宮は血走った目を見開き、口角に泡をつけながら一気にそうまくし立てた。あまりに偏った価値観と屁理屈じみた言い分に慎霰は激しく舌打ちする。比喩ではなく本当に吐き気を覚えた。しかしまるで自分は殺されかけた経験があるかのような口ぶりは気になる。隣にいた耀が小さく「後で」と慎霰に目配せしてみせた。

 「月にこだわるのはなんでだ?」

 「零時頃の月がいちばん美しいからですよ。ちょうど中天に達する頃・・・・・・誰にも邪魔されず、空の真ん中で煌々と孤高の輝きを見せて」

 田宮は詩でも吟じるかのように朗々と歌い上げ、うっとりを目を閉じて顎を持ち上げる。女のように白く華奢な喉がむき出しになった。

 「月は美しい。ぼくにとっては月が唯一の光。あの夜、月に導かれてぼくはあいつを殺した。ねえ、月光を浴びたナイフがどれだけ美しいかご存知ですか? 血を浴びるとなおさら美しいんですよ」

 「殺した?」

 慎霰の眉が険しい音を立てて中央に寄る。

 田宮はゆっくりと目を開いた。

 「ええ、殺しましたよ。自分の父親を。月夜の晩に」

 開かれた田宮の目には勝ち誇った笑みが浮かんでいた。

 「二十一年前にね。だからもう時効でしょう? 現在、殺人の時効は二十五年になったそうですが、改正の遡及効は及ばない(犯行後に条文が改正されても、犯行時の条文が適用される)のが刑法の大原則・・・・・・」

 薄い唇の端がかすかに持ち上がる。「もちろん、月夜に父親を殺したからといって今回の連続殺人事件の犯人がぼくだということにはなりませんよね」

 田宮は口元に手を持っていき、くすくすくすとさもおかしそうに笑い続けた。
 
 



 「トラウマがあるみたいだよ、あの田宮って奴」

 夕暮れに近いオレンジ色の光を受けて、二係のデスクの椅子に前後逆に座った耀は頬杖をつく。「子供の頃にずいぶん悲惨な目に遭ったみたい」

 「トラウマ、ね」

 慎霰は沢木が淹れてくれた紅茶の前でうーんと唸って腕を組む。

 「小さい頃にお母さんが死んで、お父さんは田宮を連れて愛人の所に転がり込んだんだって。このお父さんが無職で飲んだくれで、ホステスの愛人の稼ぎで暮らしてたんだってさ。酒乱の気もあって、何かというと田宮を殴ったり刺したりしてたみたい。幼児虐待って言えばそれまでだけど、何度も殺されかけたんだって。それと、愛人が田宮の存在を疎ましがってたんだね。“隠し子がいると思われたらいやよ”なんて言って。だからお父さんは田宮を家に閉じ込めて外に出さなかった。愛人の機嫌をそこねたらお父さんはおまんま食べられなくなっちゃうから。それである日田宮は父親を殺しちゃった。何かの拍子か、正当防衛あるいは過剰防衛か、狙ってやったのかは知らないけど。警察もまさか六歳の子供がやったとは思わなかったんだろうな」

 「どうしてそんなことまで知ってんだよ?」

 慎霰は耀の情報に肯きつつも首をかしげた。沢木から渡された資料――もちろん、民間人が捜査資料を閲覧することはできないので沢木手製の“私的な”資料ではあるが――にはそんな記述はなかったはずだ。

 「これがあたしの仕事だもん」

 これくらい当然、と耀はぺちゃんこの胸を反らせて鼻の穴を膨らませる。慎霰は怪訝に思ったが、問い詰めて食ってかかられるのも困るので軽く相槌を打つだけにとどめた。

 「“ぼくにとっては月が唯一の光だった”というのはその辺に関係してんのかな」

 「みたいだよ。昼間でも分厚いカーテンが閉められた薄暗い室内に閉じ込められてたって聞いたから。カーテンの隙間から見る月が唯一の慰めだったって・・・・・・」

 薄暗い部屋に閉じ込められ、外界との接触を絶たれた少年に差し込む一筋の光明。それが月だったのだろうか。

 「ついでに言うと、田宮は多重人格の疑いがあるね」

 耀はぴっと人差し指を立てて続けた。「グレーゾーンだけどね。幼少期のトラウマで人格が分裂するってのは割とよくある話らしいよ。虐待を受ける間だけ別人格が表に出て、本体の人格は眠っているってやつ。虐待の痛みと記憶を別人格に肩代わりさせることによって本体を守ろうとするんだって」

 「ふうん。でも多重人格ってのはひとつの体に複数の人格があるんだろ? 分身ってことは体がふたつあるってことじゃねェか。ってことは、ほらあれ、ドッペナントカ・・・・・・」

 「ドッペルゲンガー、ですか」

 と沢木が口を挟んだ後で首をかしげる。「ドッペルゲンガーを生み出している間はひどい吐き気や眩暈がしたり、時間がゆっくり進んでいるような錯覚を感じるものだそうです。田宮さんにはそんな様子はなかったはずですが」

 「そりゃそうだな。しかし悔しいよなァ、人を殺してるのに捕まえられねェなんて。何とかなんねェのか?」

 慎霰は田宮の皮肉に満ちた冷笑を思い出して苛々と頭をかきむしる。

 「とおっしゃられましても、時効は我々刑事にはどうしようもありませんねえ」

 「なんだよ、それじゃ何のための警察だよッ。それなら桐嶋克己って人は? すげェ権力持ってんだろ? 桐嶋ってヤツなら田宮の一人や二人くらいなんとでも――」

 「克己さんがいくら偉くても刑法の規定を無視することはできませんねえ」

 沢木は紅茶のレモンを準備しながら苦笑を返す。「今は今回の連続殺人犯を捕まえることだけ考えてください。父親殺しの刑事的責任はもう問えませんが、道義的な責任と非難は免れないはず。酌むべき事情もありますしね。それで充分でしょう」

 「あぁーうるせェ、漢字ばっかりゴチャゴチャ並べるなッ」

 慎霰は沢木を一喝して頬杖をついた。「ま、動機は大体分かったってことか。月と、自殺志願者と・・・・・・。分身が意外と普通の人間っぽいってのは意外だったが。なァ沢木、現場と現場の近くの地図ねェか? 試してみたいことがあるんだけど」

 「試すって? 地図見て何すんの? 言っとくけど、これまでの六件の発生場所に規則性とか共通点なんかないからね。それくらいこっちで調査済み」

 「うっせェなァ、黙って見てろ。いちいちギャアギャア喚くな」

 沢木は二人のやり取りを眺めながら苦笑し、レモンをスライスする手を止めてデスクの上を探った。積み重ねられたファイルの中から迷いも見せずに一枚抜き出す。どこに何の資料があるか完璧に把握していなければできない芸当だ。

 沢木が出してくれた地図は七枚。事件発生現場とその周辺の地理を一枚の紙にまとめたものが六枚と、発生現場すべてを内包した大きな広域地図が一枚。大きな地図のほうには赤ペンによる丸印が六つついていた。事件現場を示したものであろう。耀の言う通り六つの丸はバラバラに散らばっているし、地名や場所にも特に類似点や共通点はないようだ。ただ、すべての現場が「高いビルの屋上」であるということを除いては。

 「見てろ、ガキ。せいぜい驚け」

 慎霰は耀に向かってニッと笑ってみせ、小さな珠が無数に連なった数珠をきつく手に巻き直した。

 二人の視線が慎霰に注がれる。慎霰は唇を軽く舌で湿らせてから最初の事件の現場の地図を選び、その上に数珠をかざした。緑色の珠がかすかに震えた――ように見えたのは気のせいだろうか。「あ」と耀が声を上げる。つややかな緑色の珠がぼんやりと光を発したのだ。しかし光はすぐに消えてしまう。

 「ダウジングってやつだ」

 慎霰は得意そうに耀に向かって胸を張る。「要は分身をとっ捕まえればいいんだろ。いちばん手っ取り早いのは次の事件が起きそうな場所を探すこと。でも“高いビルの屋上”なんて都内にゴマンとある。だからこいつで分身のいそうな場所を特定するのさ」

 「へーえ。妙なのがいるとその数珠が光るってことね。でもすぐ消えちゃったよ?」

 「分身が残した痕跡に反応したんだろ。ってことは、やっぱり田宮じゃなくて分身が殺したってことだな」

 慎霰は同様に他の五箇所の地図にもダウジングを試みたが、同じような微弱な反応が現れたにすぎなかった。次に広域の地図を取り出して数珠をかざした。大きな紙の上を丹念になぞるようにしながら少しずつ数珠を移動させていく。するとある場所で数珠が一瞬だけ強い光を放った。慌ててその地点へと手を戻す。ゆらり、と数珠が揺れたように見えた。まるで磁石に引き寄せられる鉄釘のように。

 反応のあった場所を慎重に探る。光は明滅しながら明るさを増し、引き寄せられるような感覚は徐々に強くなる。幾度か数珠を前後左右に動かした後で慎霰は手の動きを止めた。ぴーんと一本ピアノ線でも入ったかのように数珠が硬直し、強い光を放つ。数珠が示したのは都心部からやや離れたビル群の中の一角だった。

 「えっと、ここは今は廃ビルになってるみたいだね」

 耀が素早くパソコンに所在地を打ち込んで検索する。「ま、捕物にはちょうどいいかな」

 「どうして捕物なんて言葉を知ってるんだい」

 沢木は十二歳の耀の物言いに苦笑した。「場所が分かったのなら話は早い。しかし逆を言えば、次の事件がそこで起こる可能性が高いということ。何としても未然に防がなければなりませんねえ。警官を配置することはできますが・・・・・・どうしましょうか、天波くん」

 「おまえらも一緒に来てもいいけど、えっと、ほら、なんて言ったっけ、犯人の部屋を調べるやつ・・・・・・」

 「家宅捜索?」

 「そうそう、それ。田宮の部屋を家宅捜索してみたらどうだ? あいつ、父親を殺してるって言ってただろ。あのクソ生意気な田宮のことだから他にも二、三件は罪を犯してるんじゃねェか? 調べれば何か出てくるかも知れねェぜ」

 「なるほど、道理ですね。しかし家宅捜索はすでに刑事課が行っています。今更改めて行うほどのこともないでしょう」

 沢木は慎霰の提案に肯きつつも首を横に振った。「田宮の部屋からはナイフがたくさん出て来ました。安物から外国産の凝った品までさまざまな物がね」

 そう言った後で沢木は小さく眉をひそめる。

 「南向きの窓際の壁に飾られていました。月の光がナイフに当たるとすごく綺麗だ、などと供述しています。ナイフを飾って月光を当てて楽しんでいたんでしょうね」

 冷たく光る刃を見ながら恍惚の表情を浮かべる田宮の姿を想像して慎霰はぶるっと体を震わせる。

 「ともかく、分身が現れるのは午前零時頃でしょう」

 沢木は茜色から藤色へと姿を変える空を見やって呟いた。「それまでにはまだ間があります。食事と休息をとって作戦を練りましょう。分身を捕まえることは犯行の防止にもつながります。頼みますよ、天波くん」

 慎霰はきっと唇を結んで強く肯いた。





 眼下に広がるのは騒々しいネオンと車のヘッドライトの数珠、行き来する人々の頭。足元から吹き上がる冷たい風にさらされ、帽子を目深にかぶった茶髪の少女はゆっくりと歩を進める。闇の中へ、コンクリートの縁の突端へ。その先に待つのはさらなる闇である。

 もはやフェンスは超えた。その先には冷たい風に吹かれる幅3メートルほどのコンクリートが頼りなく広がる。少女は無言でその上を歩く。コンクリートが途切れた先にあるものは死という名の永遠の闇。それを望んでこのビルの屋上に上ったはずなのに、いざとなると足がすくみそうになる。下界から吹き付ける夜風に体温を奪われているせいばかりとも思えない。怯え。躊躇。そんな感情が明らかに彼女の歩みを鈍らせていた。

 「死ぬんですか?」

 不意に背後で笑いを含んだ男性の声がした。振り返ると、フェンスのこちら側に薄い微笑とともにひょろ長い男が立っていた。右手で顎をさかんにさすっている。

 「怖いんでしょ?」
 男はふふっと笑ってみせた。「自殺しようとしたものの、いざとなると怖くて飛び降りることができない。ぼくはね・・・・・・腹が立つんですよ、そういう人間を見ていると。死にそうになったことがあるんですか? 殺されそうになった経験があるんですか? ないんでしょ? あればさっさと飛び降りられるはず」

 血走った眼に徐々に敵意と殺意が燃え始めるのが見てとれる。少女は茶色い髪を小さく揺らして息を呑んだ。ポケットに差し込まれた男の右手の中で、凛とした月光を受けてちかりと光る銀色の刃を見たのだ。二人の頭上では中天に差し掛かった月が青白い光を無言で地表に投げかけていた。

 「死ぬ恐怖も知らないくせに自殺を考えて、そのあげくに“やっぱり怖いから死にたくない”。腹が立つんですよ! 死ぬことすらさせてもらえない人間だっているのに! ぼくはあなたみたいな人を何人もこの手で殺してきた、月に導かれて!」

 成人男子のものとは思えぬ甲高い絶叫が月の光に吸い上げられ、墨を流した空へと広がる。ひゅうひゅうという音は闇を渡る風のものか。

 「ああ・・・・・・なんて美しい」

 不意に男は恍惚の表情を浮かべて月を仰ぎ見る。ナイフを持った右手を顔の辺りまで上げて冷たい刃に月光を反射させる。角度を変えるたび、研ぎ澄まされた切っ先に万華鏡のように乱反射を繰り返す月光の粒子が男の目にも反射する。

 「ねえ、綺麗でしょう」

 男はナイフの光を少年に示し、両手を広げてゆっくりと歩み寄る。「血で彩られるともっと綺麗なんですよ。ぼくはその光が見たい。協力してくれますよね。あなたは自殺志願者でしょう? それならここから飛び降りようがぼくに殺されようが同じですよね?」

 薄い唇が両端の限界まで持ち上げられる。大きく見開かれた目が輝いているのは月の光が進入しているからなのか、それとも殺人に接する興奮ゆえか。じりじりと男が迫る。少女も本能的に後ずさる。しかし背後には粗末なコンクリートのへりがあるだけだ。

 「どうしたんですか。そのままさっさと飛び降りればいいでしょう」

 男はくすくすくすとさもおかしそうに笑ってナイフを構える。「やっぱりできないんでしょ? 怖いから。それならぼくが殺してあげますよ!」

 男が一気に間合いを詰める。ごうっと吹きつける風に少女の茶色い髪が揺れる。きらきらと冷たい光を放つ切っ先が迫る。

 そのとき、乾いた発砲音が夜の帳を引き裂いた。





 「威嚇射撃は済ませました」

 屋上に現れた沢木はまっすぐに天に向けた腕をゆっくりと水平に伸ばした。「次は当てます。警官の銃の殺傷能力は三流ですが、一応“拳銃”ですからねえ。肩や足でも当たればそれなりに痛いですよ」

 黒光りする銃口に狙われて男は一瞬目を揺らす。わずかに、ほんのわずかに、隙が生まれた。

 その刹那。はらり、と空から黒い羽が落ちて来た。

 男ははっとして顔を上げた。しかし遅かった。びゅうっという音とともに男の視界を黒い影がかすめる。上空から矢のように急降下してきた影が男に体当たりし、少女を抱えて連れ去ったのだ。少女を沢木のそばに置いた影はすぐさま地面を蹴り、鋭角の軌跡とともにユーターンして男に襲いかかる。不意をつかれた攻撃に男はしりもちをついた。その拍子にナイフが手から飛ぶ。影は素早く足を飛ばしてナイフを遠くに蹴り飛ばした。コンクリートの上を冷たい金属音が転がった。

 「ッたく・・・・・・やっぱ都会の空は汚ねェなァッ。これじゃあ、雲も、風も可哀相だぜ」

 溜息ととともに数枚の黒い羽が舞い、コンクリートの上に落ちる。黒い翼をゆっくりと動かしながら男の前に着陸したのは慎霰だった。沢木のそばで茶髪のウィッグを脱ぎ捨ててあかんべえするのは耀である。警察のおとりにひっかかったのだとようやく悟って男は目を丸くした。もっとも、耀は厳密には警察官ではないのだから、違法なおとり捜査にはならない。

 「柳さん? どうも、沢木です。田宮さんは・・・・・・ああ、そう。ありがとう」

 沢木は宮本署に詰めている柳と話して携帯電話を切った。「田宮徹さんは現在も取り調べ室で尋問を受けているそうですよ。ということは、あなたはやはり分身ですね」

 慎霰はまじまじと男を見た。神経質そうに顎を撫でる手つき、左手の甲に見える切り傷の跡。それにあの喋り方、笑い方、台詞の内容。不精ヒゲがないことを除けば田宮そのものである。

 「なんでェ、つまんねェの」

 翼を格納した慎霰は拍子抜けしたように小さく鼻息を吐く。男は膝をついたままぼんやりと地面を見つめているだけだ。抵抗はおろか逃走の意志すらないように思われる。この分では天狗の妖具の出番はなさそうだ。

 「ま、しょうがねェか。あの田宮の分身だもんなァ。口は達者だけど弱そうだったもんな、田宮は。生意気そうなところは似てやがるが」

 慎霰の軽口に対しても男は薄い笑いを浮かべるだけだ。田宮と同じく、この男も気に入らないと慎霰は直感した。

 「名前は?」

 慎霰の問いに、分身は「トオル」とだけ答えた。

 「あなたが今回の一連の事件の犯人ですね? 六人ともあなたが殺した」

 沢木の言葉にトオルは薄笑いを浮かべる。薄い唇も、そこにこびりつくような笑い方も田宮にそっくりだった。

 



 トオルは抵抗のそぶりすら見せず、あっさり慎霰に捕まって宮本署に連行された。トオルの取調べは慎霰と沢木が、田宮徹への尋問は柳鏡華と耀が担当することになった。

 「体を持った別人格・・・・・・超常的な多重人格の極端なパターンって感じか?」

 慎霰は薄い体を錆びた背もたれに預けるトオルを半ばにらみつけるようにしながら口を開く。「間違いなくおまえが六人を殺したんだな?」

 「そうですよ。ぼくがやったんです。六人ともね」

 トオルはあっさりそう言った。「徹の指示なんか受けてません。指示される覚えもない。すべてぼくの独断です」

 「しかしおまえは月にこだわって自殺者ばっか殺してるじゃねェか。田宮徹も同じことを言ってたぜ?」

 「当然です。ぼくはあいつの分身ですから。あいつの思考や感覚はぼくに伝わるんですよ」

 ふふ、とトオルは笑って右手で顎をさする。

 「あなたは間違いなく分身なのですか?」

 沢木が念を押す。トオルはくすりと笑って肯いた。

 「ぼくは父親からの虐待を肩代わりするために生み出された。虐待を受ける時だけぼくが呼び出されたんです」

 それがどういうことか分かりますか、と語るトオルの目には静かな憎悪が揺らめいていた。

 「殴られ、刺され、殺されかけるためだけにぼくが生み出されたんですよ。殴られ、刺され、殺されかけるのがぼくの役目。ぼくが死にそうになっている間、徹はぼくの中ですやすや眠っていたんですよ」

 「田宮のオヤジを殺したのはどっちだ? おまえか?」

 「徹です。徹は月の光が大好きでしたから。あいつにとっては月が唯一の光だった。だからぼくが教えたんです、月光が当たったナイフの美しさは格別だと。血に染まったナイフに月の光が当たると余計に美しいとね。そうしたらあいつ、本当に父親を殺したんですよ」

 くすくすくす、と小さな笑い声が漏れる。あどけなく、無邪気で、純粋に“楽しい”という感情のみを表している笑み。それは子供のように純真で、それゆえに残酷な微笑でもあった。

 「それじゃ、オヤジの殺害を指示したのはおまえか」

 「ええ。解放されるためにはそれしかない、殺さなければ殺されると言って」

 簡単でしたよ、とトオルは笑う。「ぼくと徹の体が分かれたのは今から一年ほど前でしたかねえ。ぼくの力があまりにも強くなったから体まで別になってしまったんです」

 己の腕を抱く慎霰の手に知らず知らずのうちに力がこもる。田宮は分身に指示を受けたなどとは一言も口にしていなかった。自身がそうと気付かぬうちに、いつの間にかトオルによって操られていたということなのか。

 「ねえ・・・・・・どれだけつらいか分かります? 痛めつけられるためだけに生きることが」

 そして、今度はトオルが二人に問う。

 「殴られ、蹴られ、刺され。どれだけ懇願しても許されることはない。死んだほうが楽だなんて何度も考えました。でも死ぬことすら許されない。ぼくは父親の都合のいいおもちゃですからね、父親がぼくを手放すはずがない。だからぼくは痛めつけられるためだけに生きなければならなかった。それがどれだけつらいか分かりますか? 分からないでしょうね。同じような経験をした人間でなければ。父親が死んだ後に徹の親類が徹をカウンセリングに通わせたけれど、心理学の学位を持ったカウンセラーもやはり分かってくれなかった。ぼくの存在にすら気付かなかったんですよ? ぼくが生まれた原因にもね。そのくせもっともらしい病名や理論を振りかざして高いカウンセリング料をとって。ぼくが心理学に敵意を覚えたのはその頃からですね。所詮他人が他人の気持ちを理解し、把握するなんて不可能なんですよ。心理学に携わる人間はまずその前提を理解すべきです。そりゃあ心理学が有用であることは認めるし、ある種の助けにはなるでしょうけれど、人の気持ちを“完全に理解する”のは土台不可能。体系的にパターン化された学問で千差万別の人の心を分類できるだなんて傲慢もいいところだ。自分の気持ちが分かるのは自分だけなのに」

 ぼくの気持ちが分かってたまるか、とトオルは咳込むように繰り返した。

 「・・・・・・ひとつ、分かんねェことがあるんだが」

 慎霰は低く言った。「どうして顔も隠さずに・・・・・・同一犯であることをアピールするように同じ手口での犯行を繰り返したんだ? 犯罪者なら犯行を知られたくねェと思うのが当たり前じゃねェか、顔を隠すのが自然だ。顔を隠すことなんてマスクやサングラスで簡単にできるのに」

 「あなたは自己顕示欲が旺盛なのではありませんか? 顔を隠さないのも、わざと同じ手口で犯行を繰り返したのも自分という存在を誇示したかったからでは?」

 沢木も猜疑の目をトオルに向ける。トオルの薄い唇の端が激しく痙攣した。

 「自己顕示欲、ね。お得意の心理学ですか。それともプロファイリング? やっぱり何も分かっちゃいない。心理学なんて所詮その程度――」

 唇の痙攣が徐々に皮肉っぽい笑いに変わり、口の両端が限界まで吊り上がる。大きく目を見開き、大きく裂けた口で笑う姿は田宮にそっくりだった。

 「復讐ですよ。徹に対する、復讐です」

 「復讐?」

 「ええ。父親と徹はぼくを苦しめた。父親は死に、今度は徹の番です。表の世界の人間として生きているのは徹。ぼくが殺人を起こせば、当然警察はぼくではなく徹を疑う。捕まるのもぼくではなく徹」

 「田宮徹を殺人容疑者に仕立て上げ、苦しめようってわけか? そのためにわざと顔も隠さねェで、血痕を現場に残したりして田宮が捕まるように仕向けやがったのか」

 慎霰の問いにトオルは薄ら笑いで肯いた。

 「最後に徹を殺せば復讐は完了・・・・・・ぼくは自由になれるんです」

 トオルはふらりと椅子から立ち上がった。吸い寄せられるように窓辺に立つ。四角い闇のてっぺんには青白い月が無言で輝いていた。

 「ああ・・・・・・美しい」

 トオルは月を見上げたまま、かすれた声で呟く。手がズボンのウエストの内側に差し込まれた。沢木が眉を吊り上げる。取り出されたのは小型のナイフだった。所持品は押収したはずなのに、まだ隠し持っていたのか。

 「ほら、見て・・・・・・きらきらと輝いているでしょう」

 誰に言うでもなく、トオルはうっとりとした表情でナイフの刃に月光を反射させる。

 「血を浴びると余計に美しいんですよ。こうやって――」

 まさか。慎霰の心臓が激しく収縮する。察した沢木が飛び出した。しかし遅かった。

 トオルは何の躊躇も見せずにナイフを自らの喉に突き立てていた。





 慎霰は椅子を蹴立ててトオルに駆け寄った。沢木は携帯を取り出して救急に連絡する。

 トオルはすぐに自分の喉からナイフを引き抜いた。栓を抜いたシャンパンのように鮮血が奔流となって溢れ出す。切り裂かれた気管からひゅーひゅーと音を立てて空気を漏らしていた。

 「ほら・・・・・・見て。きらきらと輝いて・・・・・・」

 そして、血にまみれた手とナイフを降り注ぐ月の光の中に持って行く。トオルは口の端をかすかに持ち上げた。

 「徹・・・・・・ざまあ見ろ・・・・・・これで・・・・・・解放された・・・・・・。ぼくは・・・・・・じ・・・・・・」

 自由だ、と言いかけたのだろうか。トオルは血の海の中に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 「さ、沢木さん!」

 バタンとドアを開く音とともに耀が飛び込んでくる。白い顔がいっそう白くなり、見開かれた紫色の瞳には涙と驚愕、恐怖がにじんでいる。柳鏡華刑事も一緒だ。

 「田宮が・・・・・・田宮が、自殺しちゃった」

 慎霰と沢木は顔を見合わせた。鏡華が整った顔を歪めて低く押し殺した声で言う。

 「ナイフを隠し持っていたのです。所持品は厳重にチェックしたはずなのですが。急に月を見ながらナイフを喉に当てがって・・・・・・」

 「自分からそうしたのかい?」

 という沢木の問いに鏡華は肯きかけたが、すぐに首を横に振った。

 「ナイフを取り出して、“月の光が当たって綺麗だ”などと抜かしていましが・・・・・・自分でナイフを喉に当てながら、“やめろ、死にたくない、助けてくれ”と必死で叫んでいました。まるで田宮の意に反して手が勝手に動いているかのように――」

 「分身が・・・・・・トオルが、田宮徹の意志を支配したんだ」

 耀はへなへなとその場に座り込んだ。「これがトオルの“復讐”・・・・・・トオルは強い力を持った分身だったから・・・・・・最後の最後に分身の力が本体を上回って・・・・・・」

 荒々しい足音とともに救急隊が駆けつける。騒ぎを聞きつけた刑事たちも何事かと部屋を覗き込む。沢木は救急隊員に向かって小さく首を横に振り、遺体を運んでくれるようにとだけ言った。

 「自分の存在に気付いてほしかったんでしょうね」

 沢木はそう呟いて血の海の中に膝をつき、トオルの顔の上にそっと手をかざして瞼を閉じてやった。慎霰は沢木の言わんとすることを察しかねて黙って彼に顔を向ける。

 「どうしても解せないことがあるのです。田宮に対する復讐ならば、なぜ田宮が捕まっている間に犯行を重ねたのか。田宮が警察に留置されている間に同じ手口の事件が起これば・・・・・・少なくとも六件目に関しては別人の犯行なのではないかと誰だって考えます。事実、宮本署もそう考えたからこそ我々二係に捜査を依頼したのでしょう」

 慎霰は小さく息を呑んだ。

 「自己顕示欲が強い。ぼくはトオルの人格をそう分析しました。犯罪者は自分に疑いがかからないことを望むもの。それなのにトオルはあえて田宮徹の犯行ではないと思わせた・・・・・・自分の存在を知らしめたかったからという以外に、理由は考えられません」

 「田宮の分身として――田宮の裏の人格として、日の当たらない場所でずっと生きて来たし、そうしなきゃいけなかったんだから」

 当然だ、と慎霰は呟いた。「それじゃ何のために生まれてきたのか分かんねェじゃねェか。誰かに自分の存在を知ってほしかったんだろうな」

 沢木が小さく肯く。耀は床にへたり込んだままがたがたと全身を震わせている。涙が出ていることにすら気付いていないようだ。

 毛布を巻かれ、担架に乗せられたトオルの体は街を行き交う人々と何ら変わらぬ普通の人間のものにしか見えなかった。泣きじゃくる耀の肩に手を置いてやりながら、慎霰は胸の中でそっとトオルに祈りを捧げていた。(了)
 
 
 



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 /     PC名      / 性別 / 年齢 / 職業】
 1928 / 天波・慎霰(あまは・しんざん)/男性 /15歳 /天狗・高校生


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■         ライター通信          ■
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天波・慎霰さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
今回のご注文、まことにありがとうございました。
かなりの長文となってしまいましたが、ここまでごらんくださいましてありがとうございます。

お仕事ではありますが、楽しんで書かせていただきました。
耀との絡みが目立つのは設定を拝見して思うところがあったからなのですが、いかがでしたでしょうか;

次の事件でも天波さまにお会いできることになったこと、たいへん光栄に思います。
現在、鋭意作業中ですのでもうしばらくお待ちくださいませ。
それでは、今回はこの辺りで失礼いたします。
なお、文中に自殺願望者・心理学に対して相当に問題のある記述がございますが、それは田宮とトオルの非常に偏った価値観においてのみのことであり、私自身はあのように考えていないこと、あのような考え方が一般的に通用するものではないと思っていることを付け加えておきます。


宮本ぽち 拝