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EXTRA TRACK -H.SAWAKI-
「明日の事もありますし・・・・・・」
シュライン・エマは青い目をいったん伏せ、数秒間思案してから口を開いた。「一度事務所にも寄りたいので、嫌でなければ適当なところで降りて、のんびり夜桜見物しながら歩きませんか?」
「夜桜ですか。風流ですね、そうしましょう。ちょうどいい隠れスポットを知っています」
沢木はにこりと微笑み、シュラインを促して大通りに出た。タクシーを拾って告げた行き先はある大きな河川の土手。桜の名所として有名なスポットであった。
川面から流れてくる夜気と風はまだ肌寒い。しかし夜桜を見に繰り出した人々は熱気で少々の寒さなど忘れてしまうようだ。今が盛りと淡い色の花弁を咲き誇らせる桜たちの下で、淡い色の服に身を包んだ女性やネクタイを鉢巻代わりに巻いたサラリーマンたちがほろ酔い気分で酒や食事を楽しんでいる。闇の中に白っぽく浮かび上がる桜並木の風景は幻想的で、はらはらと雪のように川面に散る花びらは脆いだけに美しいが、随所から漂うアルコールのにおいや下品な笑い声、土手沿いにずらりと並んだ夜店の喧騒はシュラインの好みではない。
「もう少し川上のほうです」
シュラインの心中を察したのか、沢木は小さく肩をすくめて苦笑してみせた。「少し歩きますが・・・・・・飲み物でもありませんかねえ」
といってもこの場所ではせいぜい自動販売機程度しかない。何かないかと夜店を見回したとき、赤い地に白い字で“甘酒”と染め抜かれたのれんが目に入った。薄寒い天気のせいもあって店先は結構賑わっているようだ。
「いかがです? お嫌いですか」
「いいえ。いただきます」
特に好きというわけでもないが、甘酒を飲みながらの桜見物というのも乙であろう。沢木は温かい甘酒をふたつ買い求め、ひとつをシュラインに渡してのんびりと歩き出した。
「きれいですねえ」
「ええ」
「今年はお花見には行かれましたか?」
「興信所のメンバーで。沢木さんは?」
「ぼくはまだなんです。克己さんでも誘って行って来ようかと思っているんですがねえ、なかなか機会がなくて」
「そうですか。それなら一度私たちといかがです? もちろん武彦さんも一緒に」
何気ない会話を交わしながらもシュラインはさりげなく横目で沢木を見る。この男が過去にどんな出来事に対面したのか、それによってどう悩み、どう自分の道を選んできたのか・・・・・・。これから沢木が話そうとしていることは恐らくそういった内容だろう。他人のそういったことにとやかく口を挟む趣味はシュラインにはない。妙な思い込みや先入観は持たないように、ただ聞いた内容をそのまますとんと受け取るように気をつけよう、聞き役に徹しようとシュラインは決めた。
歩くにつれて桜並木は遠ざかり、闇と静寂が濃くなる。花見客の喧騒から充分に離れたことを確かめて沢木はいつものようにのんびりと口を開いた。
「ぼくはこう見えてもれっきとした刑事課の刑事だったのですよ。二係に左遷されたのにはそれなりの理由があります」
いよいよ始まった。シュラインは内心で小さく身構えつつ、それを悟られぬようにしながら無難な相槌を打つ。
「大きなミスをやらかしましてね。取り返しのつかないミスを」
足の下のコンクリートはいつの間にか湿った土に代わっている。舗装された土手は終わり、しっとりと湿った草のにおいが甘酒の香りと混じって心地よく鼻腔を刺激した。沢木は呟くように細かく台詞を区切りながら言葉をつないでいく。
「本来なら懲戒免職ものです。ですが克己さんの嘆願で首がつながった・・・・・・」
だが“取り返しのつかないミス”を犯した責任は消えず、そのまま刑事を続けるわけにもいかずに左遷されたということなのだろうか。飼い殺しとほとんど変わらぬあの物置部屋に――。いつものくせで瞬時にそこまで推測した後でシュラインは頭脳にブレーキをかける。いけない。先入観や思い込みは持たずに聞き役に徹すると決めたばかりだ。
「さあ、着きましたよ」
沢木は足を止めてうーんと大きく伸びをした。シュラインは思わず目を瞬かせて息を漏らした。
――いつの間にか、黒い木々の中に一本の桜の大木が立っていたのだ。木立に囲まれて昼間でも暗いであろうこの場所にたたずむ姿の凛々しさ、気高さはどうしたことだろう。闇の中にぽっかりと浮かんだ薄紅色の小さな花々は風もないのにかすかに揺れて、ほのかに甘い香りを妖しく漂わせている。
「桜って不思議ですよね」
花びらをいっぱいにつけた梢の下で沢木は呟く。「見ていると心がざわざわする。桜には何かの魔力が宿っているのではないでしょうか。日本人が桜好きなのもそのせいかも知れません」
「ええ・・・・・・本当に。せっかくですから少し休んで行きましょうか」
シュラインは微笑んで木の脇を示した。長い指が示した場所には古ぼけた木製のベンチがぽつりと置かれている。ベンチにはそれほど埃や汚れは溜まっていなかった。この隠れスポットを訪れる人間もちらほらあるらしい。二人は並んで腰を下ろし、甘酒に口をつけた。
「思い出すなあ」
沢木は桜を見上げながら誰にともなくぽつりと呟いた。「よくこうやってコーラを飲んだっけ」
「コーラ、ですか」
紅茶党のイメージが強い沢木がコーラを飲むとは少々意外である。
「部下がコーラをよく飲んでいたんです。その影響でぼくも何度か――」
ふわりとした沢木の微笑には懐古と哀惜の色がにじんでいた。
「矢代・耕太(やしろ・こうた)くんと言いましてね。刑事になりたての男性でした。ぼくの初めての部下です。とにかく威勢のいい若者でした」
沢木はいったんそこで言葉を切り、視線を遠くに投げた。「ぼくはね、こう見えても昔は刑事課の第一線にいたんですよ。いえ・・・・・・昔と言うほど昔ではありませんね。ほんの二年前です。警部補になったばかりの頃でした。矢代くんがぼくの下についたのもちょうどその頃で」
ざわざわと風が吹き、二人の髪を乱し、桜のかけらを散らしていく。
「警部補になって部下がついて、張り切ってなかったといえば嘘になります。ましてや矢代くんは正義感の強い熱血漢でしてね。警察は市民を守るためにあるとか、弱者が安心して暮らせるような社会を作るのが警察の役目だとか・・・・・・コーラを飲みながら、そんなことばかり熱弁していました。まるで酒にでも酔ったみたいでしたよ。コーラで酔うはずがないのに。――矢代くんの理想は潔癖すぎました。周囲には青臭い若僧だと煙たがられていました。矢代くんの主張は現実世界にはそぐわない。しかし彼の志は警察官にとって大事な初心です」
「沢木さんも矢代さんに感化されたというわけですか」
「ええ。若さゆえでしょうね。矢代くんにはそれほどパワーがあった。胸を張って断言できます、彼はきっといい刑事になったはずです。彼のエネルギーの使いどころを誤らせてしまったのはぼくの責任・・・・・・」
甘酒の容器を持った沢木の手がかすかに震えたことにシュラインは気付いていた。
「・・・・・・長くなります」
ややあってから沢木は口を開いた。しかしすぐに言葉を切って視線を遠くに投げる。「お時間、大丈夫ですか」
「ええ」
シュラインは即座に肯いた。もとよりそのつもりで来たのだから。
「ありがとうございます」
沢木は小さく微笑み、言葉を探すように細い目をさらに細くした。
「二年前ですから、おととしですね。おととしの冬でした」
やがて沢木はぽつりぽつりと語り始めた。「代議士の的場・龍之介(まとば・りゅうのすけ)の孫が誘拐されるという事件が起こりました。身代金は十億円。メディアでもだいぶ大きく取り上げたのでご存じかと思いますが」
ええ、とシュラインは肯いた。的場代議士といえば総理大臣と同じくらい有名である。
「誘拐されたというお孫さんは当時五歳か六歳でしたね。あの事件を宮本署で?」
「その通りです。管轄がうちだったもので。しかし事件が事件ですから、本庁との合同捜査を行うことになりました。そこで、指揮官として派遣されてきたのが克己さんです」
「当時から偉かったんですね、桐嶋さんは」
「偉いし、偉そうでしたね。ぼくは克己さんのことは昔から知っていましたが、その頃からあんな感じでしたよ。しかし克己さんと実際に組んで動いたのはあの事件が初めてでした。克己さんも矢代くんを気に入ったようです。あのかたもああ見えて正義感の強いところがありましてね。矢代くんに触発されて余計にそうなったようです」
こくり、と喉を鳴らして沢木は甘酒を飲んだ。
「事件の真相をかぎつけたのは矢代くんでした。犯人の潜伏場所の目星もついたのです。すると的場代議士のほうから『この件は告訴しない、これ以上捜査はしないでほしい、身代金を払えば孫は返ってくるのだから』と警視総監に直接申し入れがあったのです。どうしてだと思いますか」
沢木はシュラインをじっと見つめた。糸のような細い眼に強い怒りの火が灯っている。
「・・・・・・素直に考えるならば」
シュラインは慎重に言葉と態度を選びつつも素早く頭を回転させた。「権力者である的場氏にとって都合のよくない何かが事件の裏に関係していた、だから事件自体を揉み消そうとした・・・・・・といったところでしょうか」
「ご名答。さすがです」
沢木は大きく肯いた。さらさらと流れる川の音が単調に続き、はらはらと桜の花びらが散る。
「ことは少々複雑でしてね。的場氏は、公共工事を発注するという約束で業者から巨額の賄賂を受け取っていたのです。しかし実際は違う業者に発注した。贈賄した業者が必死になって借金を重ねた金は無駄になったわけです。その業者夫婦は絶望と借金苦で自殺しました。そして、その夫婦の息子がチンピラを雇って的場氏の孫を誘拐させたのです。的場氏が受け取った賄賂と同じ額を身代金として指定して」
「・・・・・・両親の復讐ですか」
シュラインは唇を震わせて呟いた。的場本人が警視総監に捜査の中止を求めたのも肯ける。
「警視総監の命令で捜査は中止されました。誘拐された孫が救出されないままに。警察は権力には逆らえませんからね。――しかし、矢代くんがそれで納得すると思いますか。ぼくや克己さんがすんなり引き下がると思いますか?」
沢木はぎゅっと音を立てて唇を噛んだ。それは怒りと悔恨、そして自分自身の非力を憎む表情だった。シュラインが見たことのない沢木の顔だった。
「案の定、矢代くんは孫だけでも助けるといって聞きませんでした。身代金を払うことが人質の救出につながるとは限らない、小さな子供が大人の犠牲になるなんて許せないと。子供を助けて、犯人を締め上げて事件の全容を明るみに出すのだと」
「正義感の強い矢代さんであれば当然の行動ですね」
「ええ。しかしそれが捜査本部に聞き入れられるはずがありませんでした。挙句の果てに、矢代くんは一人で犯人のアジトに乗り込むと・・・・・・」
「無茶な」
シュラインは思わず声を上げていた。沢木も無念そうに肯く。
「ぼくもそう思いました。しかし矢代くんは聞かなかった。一人で行かせるよりはと思い、ぼくも矢代くんに同行することに・・・・・・。いえ・・・・・・ぼく自身、的場氏が許せなかった。権力にひれ伏す警察が許せなかった」
沢木の声はかすかに震えていた。シュラインは何も言えぬまま、沢木の横顔を見守ることしかできなかった。
「こちらがつかんだ情報では犯人は四人。危険だからといって、桐嶋さんが拳銃の携帯の許可を強引にもぎ取ってくれました。ぼくと矢代くんは拳銃を持って犯人グループのアジトに乗り込んだんです。もちろん懲戒免職も覚悟でした・・・・・・」
沢木は低く呻くようにして言葉をつないだ。
容赦なく全身を叩く氷雨と水を吸った衣服が体温を奪い、気力を萎えさせる。しかしそんなことには構っていられない。煙る雨の中に無言で佇む二階建てのプレハブ小屋が犯人の潜伏場所。矢代がつかんだ情報によれば、誘拐された的場の孫・清太(せいた)もあそこにいるはずだ。
「いいのか、矢代くん」
もう一度だけ沢木は念を押した。「無事に帰れてもただじゃ済まないぞ。警察にいられなくなるかも知れない」
「あんな警察ならいたくもねえ」
矢代は日焼けした顔に充血した目を光らせて吐き捨てるように言った。短く刈り込んだ髪の毛に無数の水滴がついている。
「あんな汚え連中ばかりが揃ってるとは思わなかったっすよ。確かに誘拐は犯罪です。でも収賄だって犯罪だ。あんなちっちゃな男の子に何の罪があるんすか? 的場のジジイがあんなことさえしなきゃ、清太くんは・・・・・・」
「分かった。分かったから」
沢木は微笑んで矢代の肩を抱いた。止めるためではなく、矢代の意志のほどを確認するために質問したまでのことである。
「それじゃあ行こう。――覚悟はいいね」
「もちろん」
矢代はニッと笑い、突き出された沢木の拳にかじかんだ自分の拳を合わせた。
プレハブの中は外に比べれば暖かい。一本の廊下が通っており、その左右にいくつか
部屋があった。描く部屋にはガラスの引き戸がついている。人の気配と話し声が漏れてくるのは廊下を折れた突き当たりの部屋らしい。この部屋にも同様にガラス戸がついていて、容易に中の様子を伺うことができた。部屋の入り口はふたつ。沢木は奥の戸に回るように矢代に手で指示した。
部屋の中はそれなりに広かった。学校の普通教室ひとつぶんくらいはあるだろうか。壁際に寄せて灯油のポリタンクが数個積んである。薄汚い床には飲食物のごみや食べ残しが乱雑に散らかっている。石油ストーブの周りに車座になり、缶ビール片手に談笑しているのは二十代後半程度の男性四人だった。それぞれ茶髪、長髪、坊主頭、金髪となんとも分かりやすいヘアスタイルをしている。金髪がリーダー格らしい。そして、部屋の隅に無造作に放り出されてぐったりしている男児が的場の孫の清太だった。
「警察は捜査を中止したんだってな」
ほろ酔い加減の坊主頭が気持ちよさそうに言う。「あの人の言ったとおりだ。ちょろいぜ」
「ああ。あの代議士サマも自分の悪事がばれるから俺たちには手出しできないってわけだ」
「うまく考えたもんだな」
四人は下卑た声を合わせて笑う。矢代がぎりっと歯を鳴らす音が聞こえた。抑えるようにと沢木が懸命に目配せする。
「ガキもやっちまうか?」
金髪の男が据わった目で三人を見回した。「どうせバレやしねえんだ。あのジジイは俺たちに文句なんか言えねえんだから。やってもわかんねえって」
「そうだな。捕まらねえならいっぺんくらい殺人もやってみてえもんな」
四人は立ち上がってゆっくりと清太に歩み寄った。長髪の男が清太の頭を軽く蹴っ飛ばす。清太は軽く呻いたが、頭をぴくりと動かしただけですぐに動かなくなった。
「おいおい、まだ死ぬなよ」
「早くやっちまおうぜ。死なれたんじゃつまらねえ」
「同感」
酔いが回っているのだろう、四人の笑い声は必要以上に甲高い。沢木は神経を逆撫でされるような不快感を覚えた。しかしまだ突入には早い。もう少し機をうかがってから、と思ったそのとき、派手な音とともにガラス戸が砕け散った。
「警察だ、武器を捨てろ!」
という矢代の声で沢木ははっと顔を上げる。激昂した矢代が拳銃を抜いて飛び込んだのだ。沢木は軽く舌打ちして後に続いた。犯人グループは不敵な笑いを浮かべる。しかし表情は幾分か引きつっている。こちらがたった二人であることに余裕を感じたらしいが、拳銃に怯えているらしい。
「警察はよっぽどやばい時じゃなきゃ撃てねえんだろ?」
リーダー格の金髪が皮肉っぽい冷笑とともにナイフを抜く。残りの男たちもそれぞれに武器を手にした。沢木は右腕を素早く垂直に構え、天井に向けて発砲した。威嚇射撃だったのだが、敵に動転が生じる。その隙に乗じて矢代が飛び込んだ。
矢代は遅い来る坊主頭の腕を取り、一本背負いの要領で豪快に投げ飛ばした。ポリタンクの山に敵の体が突っ込む。タンクががらがらと音を立てて崩れた。その拍子にタンクに備蓄してあった灯油が流出し、石油のにおいが室内を満たす。沢木にも敵が襲い掛かってくる。こちらは長髪だ。沢木はふっと身を沈めて第一撃をかわし、伸び上がる反動を利用して顎に掌底を打ち込んだ。敵の体がぐらつく。その隙を逃さずに腕をひねり、固い床に思い切り叩きつける。湿った埃がもうもうと舞い上がる。
沢木は素早く体勢を立て直して床を蹴った。金髪と取っ組み合う矢代の横っ腹に迫っていた茶髪にタックルを食らわせる。不意を衝かれた攻撃に敵はもんどり打つ。沢木は起き上がる暇を与えない。倒れた拍子に敵の手から跳んだ鉄材に足を飛ばして蹴り飛ばす。耳障りな金属音が床の上を転がる。その間に矢代もどうにか相手を片付けた。
漏れた灯油に足を取られながら二人は清太に駆け寄った。矢代が清太を抱き起こす。清太の血色は悪く、頬もこけていたが、呼吸はしている。衰弱しているのだろう。すぐに病院に連れて行けば何とかなるかも知れない。矢代が清太を抱いて立ち上がろうとした、そのときだった。
土砂降りと化した雨音のせいで、銃声はややくぐもって聞こえた。
矢代が目を見開いた。その体がびくりと大きくのけぞる。続いて口から鮮血があふれ出し、矢代は清太を抱えたままゆっくりとその場に崩れ落ちた。巻き添えを食って倒れた石油ストーブの音だけがいやに大きく響いた。
沢木は弾かれたように弾道を振り返った。そこには息を吹き返した金髪の男が床に横たわったまま拳銃を構えていた。もみ合ううちに二人が落とした拳銃を拾って発射したらしい。沢木の頭に一瞬にして血が昇った。沢木は猛然と床を蹴り、みぞおちに容赦のない右ストレートを食らわせた。金髪がうっと呻いて体を折る。しかし沢木は倒れることを許さない。アッパーを顎に打ち込んで体を起こさせ、さらにワンツーを顔面にぶち込む。金髪は白目をむいて昏倒した。
「矢代くん!」
「すいません、沢木さん」
矢代は体を起こすこともできずにぼろぼろと涙をこぼしていた。「この子が・・・・・・」
矢代の胸を貫通した弾丸が清太の頭に命中していた。即死だった。
そして、床にぶちまけられた灯油は、倒れた石油ストーブの火に向かって確実に触手を伸ばしていた。
瞬く間に火の手が上がる。炎は灯油の上を忠実にたどり、みるみるうちに部屋を包み込んだ。
「矢代くん、立てるか? 早く逃げ――」
「無理です・・・・・・沢木さんだけでも逃げてください」
「馬鹿! 上司の命令だ、一緒に逃げろ!」
甲高い声で叫びつつも、沢木は矢代がもう手の施しようがない状態であることを悟っていた。だからこそ諦められなかった。諦めたくなかった。とにかく矢代をここから連れ出して病院に運ぶのだ。獰猛な炎がごうごうと音を立てて二人の背後に迫っている。熱気で顔が焼けそうだ。もはや一刻の猶予もならない。矢代の腕をつかんで立たせようとすると、矢代は沢木の胸にその腕を突っ張って拒んだ。
「俺・・・・・・刑事失格っすね」
矢代は弱々しく微笑んだ。「何が“弱い者を守るための警察”だ。こんなちっちゃい子供一人守れないで・・・・・・」
「喋るな、ともかく早く病院に行くぞ!」
「沢木さんこそ・・・・・・早く・・・・・・」
何と言ったかは聞き取れなかった。矢代は渾身の力を腕に込めて沢木を突き飛ばした。矢代の体のどこにこんな余力があったのかと思わせるほどだった。しりもちをついた衝撃に思わず顔を歪める。はっとして顔を上げたときには、沢木と矢代の間は炎の壁で隔てられていた。
炎の向こうで、矢代が微笑んだのがぼんやりと見えた。
沢木はすぐに立ち上がって炎に飛び込もうとした。その瞬間、天井の材質が崩れ落ちて来て炎と火の粉を激しくまきあげた。ばちばちと凶暴な音を立てて暴れ狂う炎の前ではなすすべがない。沢木は矢代の名前を叫んだ。ひたすら矢代の名を叫び続けた。視界がかすんでいるのは視力のせいか涙のせいか、それは沢木にも分からなかった。
シュラインは黙って沢木の話を聞いていた。途中から相槌を打つことすら忘れていた。滅多なことでは動じないシュラインにしては珍しい。それほど沢木の話は凄絶だった。
「――焼け跡からは焼死体が六体出て来ました。犯人グループ四人と、子供のものが一体と、もう一体は・・・・・・」
沢木は膝の上に両肘を置いて力なくうなだれた。
「被疑者も被害者も死なせ、結局事件の真相は分からないままになってしまいました。的場代議士の収賄の件もうやむやのままで・・・・・・。しかし警察は喜んでいました。これで的場氏の悪事を・・・・・・いえ、的場氏の圧力を受けて捜査を中止したことを公表せずに済んだと。的場氏の収賄の事実を掴んだ矢代くんの死を手を叩いて喜ぶ人間すらいたのです」
「そんな・・・・・・」
シュラインは唇をかすかに震わせた。
「ぼくはすぐに辞表を書きました。引責辞任ということもありますが、それよりも警察に失望したのです。しかし桐嶋さんに殴られました、ここで辞めたら矢代くんの気持ちが無駄になると。しかし今まで通り刑事を続けるわけにもいかず、あの部屋を与えられたというわけです。それも桐嶋さんのお力添えでした」
沢木の手の甲に一枚、はらりと花びらが舞って落ちた。
シュラインは黙っていた。言葉を探すこともできなかった。――やがて沢木はのろのろと顔を上げてシュラインを見た。
「日本の警察は優秀です。捜査方法も技術も人員も組織も。でもねエマさん、警察にもひとつだけ弱点があるんです。お分かりですか?」
「・・・・・・権力、ですか?」
沢木はゆっくりと肯いた。
「警察は縦社会です。官僚制の国家組織です。官僚制も国家も権力で動くもの。権力に弱いのは仕方ありません」
矢代の理想。それは弱き者を守ること。市民のための警察であること。
それがすべて裏切られたのだ。権力という、恐らくこの世で最も強い、あらゆるものを握り潰すことのできる力によって。
「だからぼくは民間の力に目をつけたのです。公の権力を気にせずに動けて小回りの利く民間組織を活用すればスムーズな事件解決が図れるのではないかと・・・・・・もちろん民間のほうが権力に大きく影響されることもありますが、それは権力と接する機会のある大きな組織の話」
沢木はそこでふっと微笑んだ。「例えば草間先輩を見てください。大物に盾突いて事務所をつぶされたところで屁でもないでしょう? 元々つぶれているような興信所ですからね」
確かに、とシュラインはようやく苦笑を漏らした。
「――さて、甘酒も冷めてしまいました」
沢木は小さく勢いをつけてベンチから立ち上がった。その表情にいつもの穏やかさが戻っていることに気付いてシュラインは安堵する。頭上には孤高に咲き誇る桜の姿がある。夜の闇に咲く桜は雪のように白い。遠くに聞こえていた喧騒もすっかりなりをひそめている。沢木は柔らかな苦笑を浮かべてシュラインを振り返った。
「少しおしゃべりがすぎたようです。捜査情報を明かしてしまったのも桜の魔力のせいということにしておいてください。どうかご内密に・・・・・・」
「ええ」
シュラインも微笑を返した。
世の中には色々な人間がいる。脛に傷を持つ者も多いし、沢木や桐嶋もその一人であろう。だからシュラインは日ごろ変に詮索しないように心がけている。もちろん沢木に対してもそうだったし、今後もそうするつもりであった。
(――でも、こうお話を聞いちゃうとあれね)
今後ともよろしくっていうことになるかも。武彦さん同様長いお付き合いになりそうだわ。シュラインは内心でそう呟いてまた微笑んだ。(了)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ/ 女性 / 26歳 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマさま
お世話になっております&ご無沙汰しております、宮本ぽちです。
話を聞くだけのシナリオでご注文をいただけるのだろうかと不安に思っておりましたが、ご注文まことにありがとうございました。
プレイングの内容、涙が出るほど嬉しかったです。本当にありがとうございます。
番外編ということで、いつもより若干短めにまとめてみました。
桜の描写をプレイングより少し脚色しましたが、問題なかったでしょうか;
もし沢木を気に入ってくださったらまた会いにいらしてくださいね。
また二係に協力してくださる機会がございましたら、その折はよろしくお願いいたします。
宮本ぽち 拝
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