コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談・PCゲームノベル>


密室

 ――珈琲幻想
  【1】
 軽い衝撃と共に、エレベーターが突然止まった。
 ササキビ・クミノは、我に返って思わず階数表示を見やる。扉の上のランプは、五階を示す数字のところで止まっていた。もっとも、彼女が目指しているのは、その階ではない。
 エレベーターには他に、長い銀髪を背に垂らし、青い目と白い肌をした、二十代半ばぐらいと見える車椅子の青年が乗っていた。同じ階から一緒に乗って、目的の階も同じ、一階だと言っていた。
 エレベーターは、そのままじっと止まったままだ。扉が開く様子もなく、誰かが乗り込んで来る気配もない。
(どうやら、故障のようだな)
 クミノは胸に呟いて、小さく肩をすくめると、扉の傍の緊急を知らせるブザーを押した。ややあって、「何かありましたか?」という声が、エレベーター内に響く。そこでクミノと、それに青年も、かわるがわるエレベーターが五階で止まってしまったことを、説明した。
 しばしのやりとりの後、相手は言った。
「わかりました。これからすぐに、そちらのビルへ向います。ただ……現在、道路がかなり渋滞しているため、到着は一時間後になります。このブザーは、姉崎警備システム管制センターに直接通じていますので、何かありましたら、これで連絡下さい。それでは」
 どうやら、ビルの中に警備員が常駐しているわけではないらしい。
(一時間も、こんな所で見知らぬ他者と過ごさなければならないとは)
 クミノは少しだけうんざりして、胸に呟いた。とりあえず、障気の目でエレベーター内やその周辺を探り、更に見た目は携帯電話だが、実は特殊無線機である装置をバッグから取り出し、それが正常に作動していることをたしかめる。
(当座の危険はないようだし……しかたがないか)
 自分なりに納得する結果を得て、彼女は小さく溜息をついた。もしも少しでも危険があるならば、少々剣呑な方法を使ってでも、ここを出なければならなかっただろうから。なぜなら彼女は、半径二十メートルにわたって広がる障壁の持ち主なのだ。この障壁は、他者には認識することができず、一方で彼女に害意を向ける相手を、二十四時間以内に死に至らしめる能力を持っていた。つまり、もしもこのエレベーター内になんらかの危険が潜んでいる場合、排除する方向に動くということだ。それによって、他者に危険が及ぶ可能性もあるが、障壁は当然ながらそんなことには配慮しない。
 とりあえず、探査結果には満足しながらも、彼女は一応、乗り込んだ時からの位置である、壁際をキープした。
 エレベーターの中は、当然ながらさほど広くはなく、一部に四角い窓が切られており、そこから外の景色が眺められるようになっていた。青年は、その窓に近い側にいて、外に目をやっている。
 クミノがいるのは、そのちょうど反対側だ。箱の広さの関係で、どうしても半径二十メートル以内には入ってしまうが、それでもなるべく距離を置くように気をつけていた。
 ところで、彼女がたまたまこのエレベーターに乗り合わせたのは、いわゆる「仕事」の帰りだった。依頼人は、高峰沙耶だ。
 このビルの十階――最上階の一画に、寂れた雰囲気のコーヒー専門の喫茶店がある。コーヒーの味も良く、店の雰囲気がいいと、コーヒー通の間では「知る人ぞ知る」人気の店でもある。ところがこの店、実際には二つの次元が重なり合って存在しており、客たちはその時々によって、意識しないで「こちらの次元」と「別次元」にある二つの店のどちらかへ入っているのだった。客たちは、自分がどちらに行っているのかを、まったく理解していないし、そもそもこの店がそんな二重構造になっていることにも気づいていないらしい。ただ、時おり別次元の店へ行って、そのまま帰って来ない客がいるのだという。そして、最近そんな客が増えた。
 高峰沙耶は、この店が出来た当時から、この現象に興味を持って、ずっと観察を続けて来たのだという。が、次第に別次元の方の店が膨張している気配があり、戻れない人間が増えているのもそのせいだと結論した。そこで彼女は、別次元の方の喫茶店を封印することに決めた。封印のための鍵自体は、沙耶が用意しており、クミノはその鍵を掛けに行く役目を「仕事」として請け負ったのだ。
 そして彼女は、あっさりとその仕事を終わらせ、帰るためにこのエレベーターに乗り込んだ――というわけだ。
 クミノは、ふと扉脇の数字のボタンの列を見やって、違和感を覚えた。目的の階を示すはずのそれは、なぜか十階にランプが灯っている。
(え?)
 彼女が思わず目をしばたたいた時、同乗者の青年もそれに気づいたのか、車椅子を操ってそちらに近寄り、ボタンを指先でなぞっている。
 その仕草にクミノは、青年が足だけではなく視力も弱いらしいと察した。ただ、行動に支障はないようだ。最初にこのエレベーターに乗り込んだ時も、後から来た彼女のために、「開」のボタンを押して、扉が閉まらないようにしてくれた。それから彼女に目的の階数を尋ね、一階だと答えると自分もそうだと言いながら、青年は「1」と書かれたボタンを押していた。その動きは正常な視力のある者と変わらず、目が弱いとはその時点では気づかなかったほどだ。
 エレベーターが動き出した後は、クミノもずっと階数表示を見詰め続けていたわけではない。だが、最初はたしかに、九階、八階、七階と順調に下りていたはずだ。それがどうして、下りて来たはずの最上階を目指していることになってしまったのだろうか。しかも、青年の様子を見る限り、自分の勘違いではないようだ。
(障気の目でエレベーター内とその周辺を探査した時には、危険を伴うような異常は見つからなかった。……ということはこれは、エレベーターの故障による誤作動か何かという可能性が高そうだな。そもそも、下りていたはずのエレベーターが途中から昇り始めるなんてことが、あるはずもない。つまり、目的の階を示すランプの誤表示というような、単純なものだろう)
 クミノは、この状況についてそう考えを巡らせた。それからふと、ビルの管理会社への今の事態の告知や、ビルを使用している人々へのエレベーターが約一時間停止する件についての通達は、どうなっているのだろうと気づく。が、すぐにそんなことは、自分が心配するようなことではないと、思い直した。
(警備会社が、それらのことは、とっくにやっているだろう。……待つ以外ないせいか、どうもよけいなことを考えてしまうな)
 胸の中で苦笑して呟くと、彼女は無表情な目を壁へと向けた。と、こちらを探るような気配が、青年の方から漂って来るのを感じる。それがいささか、わずらわしかったが、無視した。そのまま、拒絶の意志を示すかのように、壁を見詰め続けていると、やがて青年の探るような気配は彼女から離れて行き、ややあって、小さな吐息が聞こえた。そっと目だけを動かして背後をうかがうと、青年は窓の側へ移動して、そこから外を眺めているようだ。ようやく自分への干渉をあきらめてくれたかと、小さく安堵してクミノは視線を戻す。そして、少しでも早く一時間が過ぎ去ることを念じた。

  【2】
 しばしの間、エレベーターの中に沈黙が続いた。
 が、黙っているのにも飽きたのか、青年がクミノに声をかけて来る。
「こんな状況で、同じエレベーターに乗り合わせるなんて、おかしな話ですね。……私は、セレスティ・カーニンガムと申します。キミのことは、なんと呼べばよろしいでしょう?」
「ササキビ・クミノ」
 クミノは、そっけない口調で答えた。
「クミノさんですか。いいお名前ですね」
 セレスティと名乗った青年は小さく微笑みかけて言うと、探るように言葉を継いだ。
「ところで……私たちはたしか、十階から一緒に乗り込みましたよね。でも、あのボタンを見て下さい。どういうわけか、私たちは十階へ向かっていることになっています」
「そうですね」
 クミノは、ちらりと扉の傍に並んだ数字のボタンを見やって、やはりそっけなくうなずく。初対面の人間相手なので、一応敬語を使った。そして続ける。
「でも、気にすることはないと思います。表示の異常もきっと、エレベーターの故障なのではないかと」
「そうでしょうか」
 セレスティは、それ以外に原因があるのではないかと言いたげに、眉をひそめる。クミノはなんとなく苛立ちを覚えて、返した。
「気になるなら、警備会社へ連絡しておけばどうですか。どちらにしても、あちらも故障による表示の異常としか受け取らないと思いますが。普通に考えて、下降していたエレベーターが、途中で勝手に上昇を始めるなど、あり得ないことです。しかもここは五階です。いったいエレベーターは、どこで勝手に上昇を始めたと?」
 その時のクミノには、エレベーターというものの原理を考えれば、すぐにわかることだろうにという思いがあった。
 彼女の言葉に、セレスティも黙り込む。しばらく何か考えていた彼は、彼女の言ったとおり、警備会社へ連絡することにしたようだ。扉の傍のブザーを押す。
「何かありましたか?」
 インターフォンから声が返るのへ、セレスティは目的階数を示すボタンの異常を告げた。
「わかりました。おそらくそれも、エレベーターの停止と同じく、システムの異常だと思いますので、そちらへ到着した時に、一緒にチェックを行います」
 インターフォンからの声は言って、すぐに途絶えた。
 セレスティは、なんとなくまだ釈然としていないようでもあった。が、通話を終えて、クミノをふり返る。
「やはり、クミノさんの言うとおり、これも故障のせいのようですね。……ところで、クミノさんは学生さんですか?」
「はい」
 クミノがうなずくと、彼は車椅子を回して、体ごとこちらへ向き直った。
「今だと、春休みですか。……それも、そろそろ終わりでしょうけれど、学生時代は一番いいものですね」
「ええ、まあ」
 クミノは、相変わらずそっけなく答える。もっとも、今の言葉に対しては、こんなふうにしか答えようがなかったのだが。一応、中学に在籍してはいるものの、登校はしていないのだ。なので、学校生活に関する話題をふられても困る。
 相手はそんな彼女の応対をどう取ったのか、再び窓の傍に戻ると、話し掛けてこなくなった。そのことに幾分ホッとして、クミノもまた壁の方へ視線を向ける。そしてふと、彼はいったい何に引っかかっているのだろう、と思った。
 さっき彼女自身が言ったとおり、目的階数を示すボタンの異常は、単なる故障だろう。警備会社の人間も連絡を受けて、そう受け取ったようだし、それほど気にすることではないはずだ。それなのに、なぜなのだろうか。
 このしばらくの間の行動を見ても、セレスティがかなり鋭い感覚を持っているのはたしかだ。それに、なんらかの術者であるような気配も感じられる。彼女の障壁に影響を及ぼすほどではないが、あまり近づく気になれないのは、そのせいもあるようだ。
 そんな彼が、そこまで気にしているのならば、何かあるのかもしれない。
(だが、何かって、何がだ?)
 彼女は、かすかに顔をしかめて、胸に呟いた。いくら障気の目で見ても、エレベーターが止まったのが上昇途中だったのか、下降途中だったのかまでは、わからない。いっそ九階あたりで止まっているなら、そこを通過するのは確認しているのだから、なんらかの異常現象が起きて、下降途中のエレベーターが上昇を始めたことがわかっただろう。あるいは二階、三階で止まっているなら、表示の異常は純粋に故障だと断言できる。が、五階というのは、考えようによってはどうとも取れて、妙に中途半端だ。
(まあいい。無駄に不安の種をこしらえてあがくよりは、じっと時間の過ぎるのを待つ方が、どう考えても賢明だろう)
 やがてクミノは、自分の思考にそう決着をつけると、壁に軽く頭をもたせかけ、目を閉じた。

  【3】
 それから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
 エレベーターの中は、ひたすら沈黙が支配していた。セレスティはあれ以来、話し掛けて来る様子もない。クミノ自身も、積極的に彼に声をかけようというつもりは、さらさらなかった。今はただ、時間が過ぎて行くのを待つばかりだ。
 特殊無線機についている時計を見やると、二人がここに閉じ込められて、ようやく三十分が過ぎるところだった。
(あと三十分程度か。……待つのはともかく、なんだかお腹が空いて来たな。ビスケットとか飴とか、何か持ってくればよかった)
 エレベーターの隅に立ち尽くしたまま目を閉じて、頭を壁に持たせかけながら、クミノはふと空腹を感じて胸に呟く。仕事を終えたらすぐに帰る予定だったので、バッグの中には飴玉一つ入っていないことは、自分でもよくわかっていた。セレスティが何か持っているかもしれないとは思ったものの、声をかける気になれず、彼女はそのままの姿勢でいた。とりあえず、あと三十分ほどすれば、警備会社の人間が到着し、ここから出られるのだ。
 窓の傍で、セレスティが小さく吐息をつくのが聞こえた。空調設備も止まってしまっているのか、空気が重く、息苦しい。おそらく、そのせいもあるのだろう。それとも、退屈しているのだろうか。
 と、しばらく何かを探っている気配がして、ふいに小さなカウベルの音が響いた。場違いなその音に、驚いてクミノは顔を上げ、そちらをふり返る。
 ちょうどセレスティが、ポケットからカウベルのついたキーホルダーを取り出したところだった。カウベルの上についたリボンには、店名と「祝・十周年」の文字が見える。
 それは、あのコーヒー専門の喫茶店で、今日が開店してちょうど十年目に当たるから記念にと、来客全てに渡していたものだった。
 クミノは、思わず目を見張る。
「それは……!」
 彼女が何か叫びかけた時だ。エレベーターの中に、ふいにコーヒーの芳ばしい香りがあふれた。それと共に、クミノの体は、エレベーターが止まる時のあの独特の振動に包まれる。
(まさか)
 エレベーターは止まっていたはずなのにと、彼女は思わずあたりを見回した。
 その時、エレベーターが指示された階に到着したことを教える、小さな音が響いて、扉が開く。その上の階数表示は、そこが十階であることを示していた。扉が開くと同時に、コーヒーの香りが強くなる。
(封印が、解けたのか? それとも、完全ではなかったのか)
 クミノは、再び目を見張って、思わず胸に呟いた。
 と、強くなった香りに誘われるように、セレスティが車椅子を動かして、エレベーターを降りて行く。クミノは、慌ててその後を追った。
 セレスティは、まるで何かに操られるかのように、車椅子の車輪を回している。
(どうやら、別次元にある方の喫茶店に、呼ばれているようだな、私たちは。……彼が、同じく十階からエレベーターに乗り込んだことを、もう少し重視するべきだった)
 そんな彼を見やりながら、クミノは思う。
 エレベーターに乗り込んだのは、彼の方が早いぐらいだったが、あの喫茶店にいたのだとしたら、おそらくほぼ同じ時間帯のことだろう。だが、クミノは喫茶店の中で、彼の姿を見ていなかった。彼はその髪や目の色もだが、白く整った顔立ちをしていて、どこにいても目立つに違いない。その上、喫茶店には彼女以外、客の姿はなかった。つまり、同じ時間にその店にいたとしたら、彼が入店したのはこちらの次元の方に違いない。そして、別次元の店でもそうだったが、そちらでも十周年記念のキーホルダーを配っていたのだろう。
 彼女自身は、渡されたキーホルダーを受け取らなかった。高峰沙耶から、封印にほころびを作る原因になるから、別次元の店のものは何一つ持ち出してはならないと注意されていたためだ。
 しかし、あの店は互いに次元を異にしつつも、重なっている。だから、セレスティがキーホルダーをもらって店の外へ出たことで、偶然にも封印にほころびを作る結果になったのだろう。だとしたら、それを彼女は、繕わなくてはならない。でなければ、仕事を完全に終えたとは言えない。
 そんなことを考えているうちに、二人はあの喫茶店にたどり着いた。重い木の扉を押して、中へと入る。
 薄暗い店内は、コーヒーの香りで満ち溢れていた。セレスティはその香りの中を漂うように、奥のテーブルに向かう。驚いたことにその席は、エレベーターに閉じ込められる前、クミノが喫茶店で座していたのと、同じ場所だった。
 そのことに驚愕しつつ、彼女は向かいに腰を降ろし、彼と共にコーヒーを注文する。
 やがて運ばれて来たコーヒーを、彼女は砂糖もクリームも入れずに、口にした。向かいでは、セレスティも同じようにしている。姿形は違うのに、クミノはなぜか、鏡を前にしてコーヒーを飲んでいるような、奇妙な気持ちになった。
 もっともセレスティは何も不審がることなく、コーヒーとこの店の雰囲気を静かに堪能しているようだ。
 クミノはカップを置くと、その彼を真っ直ぐに見据えた。
「どうやら、私の『仕事』の詰めが甘かったようです。……こちらの店への扉は、完全に封じたつもりだったのに、まさか、自分が呼び寄せられることになるとは」
 彼女は、半ば呟くように言った。
 今更だが、店を出た時、こちらの次元の店のことまでも、しっかりチェックしておくべきだったのだ。半径二十メートルの圏内ならば、障気の目で探査することができるのだから、気をつけていれば、彼のこともすぐにわかっただろう。それに、今気づいたことだが、彼と最初に会った時、その衣類からかすかにコーヒーの香りがしていたのだ。あの時点で、喫茶店の客だと気づいていれば、きっとこんなことにはならなかっただろう。
「なんのことですか?」
 セレスティが、眉をひそめて問い返して来る。彼女は、小さく肩をすくめた。
「このビルの最上階にある、コーヒー専門の喫茶店のことです。セレスティさんが、あそこでコーヒーを飲んでいる時、私もあそこにいました」
 告げると、彼はますます深く眉間にしわを寄せる。訳がわからなくて、当然だ。彼女は、こんな説明でわかってもらえるだろうかと思いながら、続けた。
「そう、おそらく、セレスティさんに私の姿は見えなかったでしょう。私も、セレスティさんの姿を見ていない。……私たちは、同じ場所、同じ時間に在りながら、別々の次元に存在するあの喫茶店にいたのです。そして、今私たちがいるのは、その私がいた方の喫茶店です」
「つまり、ここは、異次元空間だということですか?」
 セレスティは、小さく目をしばたたいて尋ねる。クミノは通じたようだとホッとしつつ、うなずいて言った。
「私はこちらの店を封じてくれと依頼を受け、ここへ来ました。仕事は完璧に終わらせたつもりでした。けれど……実際には、手落ちがあったようです。エレベーターが下りて来たはずの十階を目指していたのは、そのせいでしょう」
「なるほど、事情はわかりました。でも、どうして急に、ここへ来ることになったんでしょうか」
 事の次第を飲み込んでくれたのか、セレスティはうなずいた後、再び問うて来る。
「セレスティさんの持っていたキーホルダーのせいです。それは、あの店でもらったものですね?」
 クミノは言って、問い返した。
「ええ、そうです」
「なら、それをここに置いて、店を出ましょう。おそらくセレスティさんは、私が店にいたのと同時刻に、私たちの次元にある方の喫茶店にいたのです。それで、偶然にもセレスティさんがそのキーホルダーをもらって外に出たことが、この店の封印にほころびを作ることになった……そんなところだと思いますので」
 うなずく彼に言って、クミノは付け加える。
「そろそろ、一時間になりますから、警備会社の人間たちが来て、エレベーターも動き出すでしょうし」
 彼女の障気の目は、ビルの五階の一画にある時計の文字盤を正確に読み取っていた。それによって、体感ではさほど時間が過ぎていないように思うが、実際にはもう三十分が過ぎることを、彼女は知ったのだ。
 セレスティは、一瞬驚いたように、小さく目を見張った。しかし、黙ってうなずくと、コーヒーを飲み干す。そして、片手に握りしめたままだった、小さなカウベルのついたキーホルダーを、テーブルの上に置いた。
「ごちそうさまでした」
 クミノが立ち上がると彼は、小さくコーヒーの礼を言って、共に静かにテーブルを離れる。そのまま二人は、出口へと向かった。
 出入り口の扉が近づくにつれて、潮が引くように、コーヒーの香りが遠くなって行く。今度こそ、封印は完全に完了するのだと感じながら、クミノはセレスティと共に、扉をくぐった。

  【4】
 まるで夢から覚めたように、ふいにあたりの景色が戻って来る。そこは、すでに見慣れてしまったエレベーターの中だった。扉の傍のインターフォンから、警備会社の人間が到着した旨を告げる声が響く。それにホッとして、彼女がやりとりしていると、車椅子の上でぼんやりしていたセレスティも、我に返ったのか、驚いたようにあたりを見回している。
 インターフォンごしのやりとりを終え、彼女はそのセレスティをふり返った。
「警備会社の人間が、到着したようです。すぐに、エレベーターは動き出すでしょう」
「そうですか」
 うなずく彼は、まだ幾分、夢の中を漂っているかのようだ。
 ほどなくエレベーターは、動き出した。ふと扉の脇のボタンを見れば、いつの間にかそこに示された目的地は一階に変わっており、扉の上にある階数表示も四階、三階、二階とゆるやかに移動して行く。
(目的地を示すボタンの異常も、エレベーターが五階で止まったことも、全てはあの喫茶店の封印が完全でなかったせいかもしれないな)
 それを見やりながら、クミノは思った。
 やがてエレベーターは一階に到着した。セレスティが、ホッとしたように外の空気を深く吸い込む。さすがにクミノも、狭い密閉空間から出られたことには、安堵した。
 エレベーターを降りた先にあるのは、一階のロビーだった。正面には、ビルの玄関のガラスドアが見えている。が、その向こうに広がっている外の景色は、真っ暗だった。もうすっかり日が落ちて、夜になってしまっているのだ。
 それをクミノがぼんやり見やっている傍で、セレスティは携帯電話を取り出し、どこかへ電話し始めた。おそらく、自宅だろう。
(ああ……。本物の携帯電話は、あの中では使えなかったんだな)
 ふとそんなことに気づいて、クミノは小さく肩をすくめた。
 と、しばらく話していたセレスティが電話を切ると、こちらをふり返る。
「車で迎えに来てくれるよう手配しましたから、クミノさんも乗って行きませんか? こんなに暗くなって、女の子が一人歩きするのは、物騒ですし」
 声をかけられ、彼女は少し考えてから、うなずいた。
「そうですね。では、お言葉に甘えさせていただきます」
 それへうなずき返し、セレスティはゆっくりと車椅子を回す。
「それじゃあ、外に出ませんか。迎えが来るには、少し時間がかかるでしょうが、それまで、春の宵の空気を楽しむのも、悪くはありませんよ」
「そうですね」
 うなずくと、クミノは彼の横に並んで、歩き出した。二人はそのまま、玄関のガラスドアへと向かう。
 そのドアをくぐると、たちまち、まだ幾分肌寒い空気と共に、かすかな花の香りが鼻腔をくすぐった。
(たった一時間のことだったのに、こうして外に出ると、なんだか久しぶりに新鮮な空気を吸ったような気がするな)
 小さく苦笑して胸に呟き、クミノは思いきり深く、その空気を吸い込んだ。


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1166 /ササキビ・クミノ /女性 /13歳 /殺し屋じゃない殺し屋では断じてない】
【1883 /セレスティ・カーニンガム /男性 /725歳 /財閥総帥・占い師・水霊使い】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

●ササキビ・クミノさま
二回目の参加、ありがとうございます。
ライターの織人文です。
さて、仕事の帰りということで、そちらにからめてみましたが、
いかがだったでしょうか。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。

それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いします。