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<東京怪談・PCゲームノベル>


VOICE



 予想通りである。刑事課に足を踏み入れた途端、敵意と好奇と猜疑の入り混じった視線が小柄な体に容赦なく突き刺さった。いかつい刑事たちの視線を難なくかわしながら少女はシャギーショートにした銀色の髪の毛をさらりと揺らす。赤色の瞳で部屋の中を中を見回すと、奥のほうにひっそりと佇む粗末なアルミのドアが見えた。少女は「うんしょっ」と声を出して体に似合わぬ大きなトートバッグを肩にかけ直し、刑事たちの間を突っ切ってドアまで軽やかに歩いた。

 軽くノックをするとのんびりとした男性の声で応答があった。ドアの向こうが宮本署刑事課二係。宮本署の物置をあてがわれた窓際部署である。

 「こんにちはー。沢木・氷吾(さわき・ひょうご)さんって人、います?」

 「沢木はぼくです。鬼丸・鵺(おにまる・ぬえ)さんですね。ご足労恐縮です」

 少女を出迎えた細身の男性はふわりと微笑んで警察手帳を示した。階級は警部補。糸のような細い目に静かに湛えられた柔和な光が印象的である。

 鵺はきちんと返事をしてきょろきょろと室内を見回した。といっても、見回すほどの広さはない。スペースは八畳ほどで、デスクがひとつと応接セットが一組置いてあるだけだ。しかし床に落ちているゴミどころか、窓の桟に薄く積もる埃すら見当たらない。

 「容疑者に会わせてもらえないかなあ? もしかしたら鵺の友達かも知れないんです」

 正確には“綾瀬ハルキ”ではないけれど、と鵺は付け足した。

 「ぼくの立会いの下で、取調室以外の場所でということなら構いません。失礼ですが、どういったお知り合いで?」

 「うちの病院に通ってる人なんだー。うちの養父が精神病院をやってるんで」

 「精神病院・・・・・・そうですか」

 沢木は何か得心したように顎に手を当てて肯いた。「分かりました、連絡させます。その前に捜査資料に目を通していただけますか? 事件の概要を知っておいたほうがよろしいかと」

 「へえっ、捜査資料なんて民間人に見せてくれるんだ」

 「大丈夫。あたしが作った“私的な”資料だから」

 と胸を張って椅子からぴょこんと降りたのは小柄な少女であった。鵺よりやや年下であろうか。短く切り揃えた白い髪に不自然なまでに白い肌、紫の瞳というどこか不思議な容貌は人外のものという雰囲気もなくはない。助手の耀(あかる)だと沢木は紹介した。

 「ちなみに、綾瀬さんの病名は」

 「多重人格」

 沢木の問いに鵺は通俗語で答える。沢木は大きく肯いてバインダーに綴じられた資料を差し出し、ソファに座るように鵺を促した。

 被害者の名は須川辰治(七十五歳)、その妻ミヨシ(七十歳)。死因は農薬によるもので、死亡推定時刻は八日(木曜日)の午後九時ごろ。夫妻の首にはひっかいたような血痕が幾条にもでき、爪の間からも自身の皮膚と血液が検出された。苦しんで喉をかきむしったものと思われる。

 容疑者・綾瀬ハルキ(二十一歳)が手製の里芋の煮物を持って二人のもとを訪れたのは翌日九日の朝八時前。ハルキが二人を発見した時は暖房と照明は入っておらず、配達されていた朝刊も受け取られていなかった。窓もドアも鍵がかかっており、完全な密室状態だった。

 農薬は普通の園芸店で入手できる普通の物で、アパートのベランダに花壇を作っていた須川夫妻が購入したものと判明。使用した農薬の残りが二人の部屋から発見されている。農薬は二人が用いた湯呑み茶碗のみから検出された。食器棚から出ていた湯呑みは床に転がっていた物とテーブルに倒れていた物のふたつだけ。湯呑みにはハルキと祖父母の指紋がついていたが、ハルキのものが最も新しかった。ヤカンと急須、茶筒にも同様にハルキと祖父母の指紋が残っていたが、いちばん新しい状態で検出されたのは祖父母のものであった。そして、遺書はまだ見つかっていない。

 「密室ねー」

 一通り資料に目を通した後で鵺は呟き、手を顎に当てた。「ねえ沢木さん、ハルキさんは合鍵を使って部屋に入ったんですよね? 合鍵を持ってる人間は他にいないのかなあ」

 「今のところ、合鍵を持っているのは一人――」

 沢木はゆっくりと人差し指を立てた。「ガイシャ宅に出入りしていた平田浩之。身寄りのない三十五歳の男性です。近くに住んでいる遠戚で、脚の不自由な須川ミヨシさんと腰痛持ちの辰治さんの代わりに家の中のことをやっていたそうで。彼が実際に出入りしていることも近所の人から証言が取れました。さらに、被害者が発見された時、野次馬の中に彼がいたという目撃証言もあります。何かぶつぶつ言っていたそうです。何を言っているかまでは聞き取れなかったそうですが」

 「ふうーん」

 と鵺は鼻を鳴らして沢木が出してくれたミルクティーを儀礼的に口に運び、小皿に上品に盛り付けられたチョコレートクッキーに嬉々として手を伸ばした。その脇で沢木が続ける。

 「金品には手がつけられていませんでした。須川さんご夫妻は夫婦仲も良好、周囲の評判も上々。あのご夫婦が恨みを買っているとは考えにくいというのがご近所の人たちの証言です。ハルキさんとの仲も良いとのことで」

 「アリバイとかは?」

 「アルバイト先のペットショップが定休日だったので、一日中部屋の中で一人で過ごしていたと言っています。しかしそれを証明する者はいないと」

 友達が少なかったようです、と沢木は付け加える。鵺はまた「ふうん」と鼻を鳴らしただけだった。ハルキはやっていないだとか、疑いをかけられたハルキが気の毒だとか、そんなことを言うつもりはない。ただ、捜査に協力する上でこれらの情報を知っておく必要があると思ったまでのことだ。

 「じゃ、そろそろハルキくんに会わせてもらおっかな。これ持ってっていいですか?」

 鵺は小さく足を振ってソファから降り、人なつっこい笑みを浮かべながら持参したトートバッグを沢木に示した。





 「おい沢木ッ!」

 ハルキを呼び出してある宮本署の小会議室のノブに手をかけようとした途端、ばたんと荒々しくドアが開いて一人の少年が飛び出してきた。少年はどかどかと足音を立てていきなり沢木に食ってかかる

 「誰がハルキを泣かしやがったんだよ! どんな取調べしやがったんだ、ハルキをいじめたのか!」

 少年の年の頃は鵺よりふたつかみっつ上であろうか。小柄な体躯に黒い髪、黒い瞳という容貌はこれといって特異な要素を感じさせない。しかし左の頬に入った独特の紋様と右手に巻きつけた緑色の数珠が印象的である。沢木に聞いていた草間興信所からの助っ人、天波・慎霰(あまは・しんざん)であろうか。鵺は彼が人ならざるものであることを瞬時に見てとった。

 「落ち着いてください、天波くん。刑事課も我々も違法な取調べなど行っておりません。ただ、取調べという行為の性質上、厳しく問い詰めるような口調になることは往々にして――」

 「うっせェ、難しい単語ばっかりゴチャゴチャ並べんなッ!」

 慎霰は沢木を一喝して沢木のネクタイを乱暴に掴み、がくがくと揺する。予想だにせぬ手荒な扱いに沢木は細い目を白黒させた。

 「誰があいつを泣かせやがったんだ! 桐嶋ってヤツだろ、おっかねェって噂だもんな! 桐嶋を呼べ!」

 「ちょっともぉー、いい加減にしなよ!」

 見かねた耀が慎霰の体を引きずって沢木から引きはがす。沢木は軽く咳込みながらネクタイを直した。

 「桐嶋さんって人は」

 鵺も口を挟む。「本庁の人だから、所轄の事件には直接関わってはいないんじゃないかな?」

 「あァん? 誰だよおまえ」

 斜めの視線を向ける慎霰に沢木が互いを紹介する。慎霰は腰に片手を当てて「フーン」と鼻を鳴らした。

 「所轄は本庁の手下だろうが。所轄の事件は本庁が仕切ってるんじゃねェのか?」

 「手下、というのとはまた違いますが」

 沢木は困ったように微笑む。「大きな事件でない限り、本庁自らが直接出張ってくることはほとんどありませんねえ」

 「そうそう。桐嶋さんって人は直接は関わってないだろうし、ましてや被疑者に尋問したわけでもないと思うよー」

 「うっせェなァ、グダグダ抜かすんじゃねェよ」

 鵺の的確な指摘に慎霰は軽く舌打ちしてプイとそっぽを向いてしまった。舌鋒が鈍っていることに気付いて鵺は首をかしげるが、その理由までは分からない。

 「とにかく、天波くん。次は鬼丸さんが綾瀬さんに対面する番です。どうします? 立ち会いますか?」

 「断る」

 慎霰は鼻息も荒く即答し、肩をいからせてずんずんと廊下を歩いていく。「俺ァ桐嶋んとこに行ってくる! 本庁に案内しろッ!」

 「ねえ、ちょっと待ってよ! そんなことできるわけないでしょ!」

 耀が辟易した表情で慎霰の後を追う。鵺はその様子を半ば呆れて眺めるしかない。

 「天波くんは耀ちゃんに任せましょう」

 沢木が苦笑して鵺を促す。鵺は肯いて小会議室のノブを回した。


 


 二十一歳、某有名音大三年生。耳のよさを買われて音楽の道を勧められ、たった一人で上京して都内の音大に入ったものの、内向的な性格と人見知りが災いして大学にはなじめず、登校拒否状態。それが綾瀬ハルキのプロフィールである。

 小会議室の粗末なパイプ椅子に座っていたハルキの肌は真っ白だった。肩に触れる茶色い髪は染毛ではなく生来のものだろう。瞳の色も薄い。それなりに整ってはいるが脆弱な顔立ち。カットソーの下の肩はずいぶん華奢で、平たい。入ってきた鵺を見て見て蝋細工のような唇がかすかに震えた。

 「どうです? 間違いなくお友達の綾瀬さんですか?」

 沢木が耳打ちする。鵺は肯きかけたが、浅く首を横に振った。

 「今は違うみたいです」

 「とおっしゃいますと」

 「違う人格が出てる。多分主人格ですね。鵺の知ってるハルキさんじゃない。鵺の友達のハルキさんは“ハヤト”っていうの」

 ほう、と沢木は糸目をさらに細くした。

 「こんにちは、ハルキさん」

 鵺は人なつっこい笑みを浮かべてハルキの向かいに腰を下ろし、初対面のつもりで自己紹介をした。基本的に、ある人格の持つ記憶は他の人格には反映されない。別人格が鵺と友達でも、主人格は鵺のことを知らないはずだ。

 ――鵺がハルキの中のハヤトと知り合ったのは三ヶ月ほど前だっただろうか。養父が経営する鬼丸精神病院で「綾瀬ハルキ」の名で呼ばれているハヤトを見かけたのが最初だった。

 ハヤトが内に同じものを持つ者であることは鵺にはすぐ分かった。興味を持ってよくよく話を聞いてみると、綾瀬ハルキという体の中には本体を含めて三人の人格が住んでいるという。ハヤトはハルキの第二の人格で、精神病であるということを自覚して自主的に病院に通っているとのことだった。

 「でもさあ、多重人格が治ったらキミも消えちゃうんだよ? それでもいいの?」

 すすんで通院しているという話を聞いたとき、鵺は真っ先にそう問うた。

 ハヤトは白い顔に絹のような微笑を浮かべて答えた。

 「うん。分かってる。でも、ぼくの存在は本体にとって不利益だから」

 仕方ないんだ、とハヤトはちょっぴり悲しそうに笑った。その答えで鵺はハヤトに好感を持ったのだった。

 そして今、鵺は宮本署で主人格のハルキと対面している。別人格のハヤトの話では、本体のハルキは自分が精神病だという自覚はなく、「おまえは病気だ」と言われるとひどい拒絶反応を示すのだそうだ。自分が病気であるという自覚がない、あるいは自分が病気であると認めたくない。よくあるケースである。

 鵺はにこにこと笑みを浮かべながらも目の前の本体のハルキを慎重に観察する。別人格と同じく、繊細かつ感受性が強い青年であることは間違いない。ただ、別人格と違うのは過度におどおどしているところだろうか。色の薄い瞳は猫の耳のように常に動き回り、恐怖と警戒で硬くこわばった真っ白い顔は容易にほぐせそうにない。自分以外のものすべてに怯え、すべてを経過しているような印象すら受ける。初対面で態度を頑なにさせてしまえば話を聞くことは難しいだろう。鵺はにっこり笑って世間話から始めることにした。

 「ペットショップでアルバイトをしてるって聞いたけど、動物が好きなんですか?」

 ハルキがゆっくりと顔を上げる。色の薄い瞳に満ちた警戒と緊張がわずかに緩んでいた。

 「・・・・・・はい。それに、ぼくはいっぱい働かなきゃいけないから。大学に行ってる暇なんかありません」

 声はかすれているが、ハルキの頬には赤みが差している。鵺はにこっと微笑んだ。

 「鵺も動物は嫌いじゃないよ。可愛いもんね。ハルキさんが好きな動物はなあに?」

 「みんな好きです。特にハムスターとか小型犬が。おじいちゃんとおばあちゃんも動物が好きで」

 「ふうん。ハルキさんはペットを飼ってるんですか?」

 「ハムスターが二匹。アパート暮らしだからそれくらいしか・・・・・・」

 ハルキはきゅっと唇を噛んでうつむく。「ほんとはもっと動物と暮らしたい。動物は優しいし、悪口を言わないから」

 「悪口を言わない?」

 「みんなぼくの悪口を言うんです。大学の人たちも、お店の先輩も」

 ハルキはすがるような目を鵺に向ける。触れればぱりんと割れてしまいそうなほど薄い瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。

 「ぼくのこと、とろい、うざいって。さっさと死ねって」

 「そうなんだ・・・・・・。ひどいですね。面と向かってそんなこと言うなんて」

 「・・・・・・はっきりそうは言ってはないかも知れないけれど。ぼくを指差してくすくす笑いながらひそひそ言ってるだけだから」

 ハルキはそっと目を伏せる。「何となく、頭の中で聞こえるんです。特に悪口は小さな声でも聞こえるんです。ぼくは耳がいいから・・・・・・」

 聞こえてしまうんです、とハルキは消え入りそうな声で言う。くすん、くすんと鼻をすすり上げる音が続いた。

 「そっか。ハルキさんは音大生だもんね。耳がいいのは当たり前、か」

 鵺はそこで事情聴取を切り上げ、面談室に持ち込んだトートバッグを膝の上に抱え直した。「――さて、そろそろ始めようかな。沢木さん、ちょっと場所とるけどいいですか?」

 「構いませんよ。どうぞ」

 鵺から事前に話を聞いていた沢木はふわりと微笑んで了承した。
 




 取り出したるは充分に乾燥させたひとかたまりの木材、そして彫刻刀。白い手に握られた彫り刀がしなやかに木に食い込むたび、徐々に人間の顔が出来上がってゆく。

 はじめは粗く、そして徐々に繊細に。粗彫りから内彫という工程へ移る。ぼんやりと顔のシルエット程度の形しか持たなかった木の塊に目が、鼻が、口が掘り込まれる。能面という独特な顔を持つ面ではあるが、そこに顕されているのが確かにハルキの顔であることを見てとった沢木は「ほう」と小さく息を漏らし、ハルキは息を呑んで激しく瞳を揺らす。

 鵺の職業は有名カトリック系中学校の一年生。兼、面打師。もっとも、ただの面打師ではない。対面した人間の内面や本性を現した面を打つことが出来るのだ。なおかつ、その面を鵺が被るとその人間が隠している事が判ったり、面が顕している人格を鵺自身に乗り移らせたりすることが可能である。

 地が完成すると面を裏返し、蝋燭を灯して黒く焼き上げる。その上にさらに蝋でコーティングを施す。それから面を表に戻し、目となる穴を開け、胡粉と膠で同じくコーティング。それを乾燥させたら表面を磨く。乾燥を待つ間に鵺は別の面を取り出した。こちらはあらかじめ用意してきたもので、仕上げとして色を付ければ完成である。

 瞬く間にハルキの面がふたつ出来上がった。ひとつは本体のハルキよりもやや明るいが、どこか悲しそうな表情をした面。もうひとつは、ハルキよりもさらに暗く、やや卑屈で険しい目つきをしたもの。それぞれハルキの中に住む別人格を表している。

 「・・・・・・何なんですか、これ」

 ハルキの声は震えている。鵺はにっこり笑ってふたつの面をハルキに示した。見慣れない人間には能面はいささか不気味に思えるのかも知れない。

 「見ての通り、ハルキさんの顔です。こっちは第二の人格。鵺の友達のハヤトくん」

 鵺はそう言って明るい表情の面を示し、その後で卑屈な顔つきの面を差し出した。「で、こっちが第三の人格。今回の犯人の人」

 ハルキの薄い体が高圧電流にでも触れたかのようにびくっと震える。――ハルキは三重人格。第三の人格が殺人を犯し、鵺の友人であるハヤトがそれを自覚のない本体に告発したのではないか・・・・・・。それが鵺の推理だった。

 それでは、自覚のない本体と「彼ら」を対面させたらどうなるか。自覚を促すことが事件解決のためにも、本人のためにもなるかも知れない。それに鵺自身も、壊れた元主人格、妖怪人格達も散々人を殺してきた。そんな彼女ら、彼らが、人を殺した“普通の”多重人格者がどういう選択をするのか気にならないといえば嘘になる。

 「少々つらいお時間になるかも知れませんが」

 第二のハルキの面を装着した鵺を見て沢木がハルキの肩に手を置いた。「こらえてください。綾瀬さんのためでもあります」

 ハルキの視線は自分の面を纏った鵺に釘付けになり、沢木の声など耳に入っていないかのようだった。

 見た目は何も変化はなかった。ただ、面の口がかすかに動いたように見えた。そして、鵺の口から出ているはずの言葉は明らかにハルキの声によるものだった。ハルキの第二の人格・ハヤトが鵺に乗り移ったのだ。

 「ねえ、ハルキ――」

 鵺が――否、鵺の体を借りたハヤトが口を開いた。面の口が動き、面自身が喋っているかのようにすら見えてハルキの目に怯えの色が満ちる。

 「その前に、“初めまして”かな。ぼくは君のことを昔から知ってるけど」

 「・・・・・・誰だ」

 ハルキはがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。「誰だ、おまえ!」

 「第二の君だよ。名前はハヤト。君を病院に連れて行ってあげているのはぼく。君は知らないだろうけど・・・・・・」

 「病院? ぼくが病気だっていうの? ぼくは病気じゃない! 病気なんかじゃ――」

 「いい加減認めなよ」

 ハヤトは悲しそうな目でハルキを見つめた。面の目に表情があるはずはないのだが、ハルキにも沢木にも確かにそう見えたのだ。

 「ぼくの存在を作ったのは君。おじいちゃんとおばあちゃんを殺した“アキラ”を作ったのも君なんだよ」

 「殺した?」

 ハルキの目が激しく震え、濡れた膜が瞬時に眼球の上を覆いつくす。

 「そう。こっちがアキラ――」

 鵺はいったんハヤトの面を外し、卑屈で険しい表情をしたもうひとつの面をかぶった。薄く塗られた目にたちまち険しい光が灯る。しかしそれはどこか斜めで、すねた表情をした顔だった。

 「よぉハルキ。俺も初めまして、かな」

 アキラの面はハルキとは似ても似つかぬ口調で喋った。声色もどこか低く、ぶっきらぼうに思える。ハルキは目にいっぱい涙を溜めながらかすれた声で尋ねる。

 「・・・・・・おまえが“アキラ”?」

 「そうさ」

 鵺の体に乗り移ったアキラは皮肉に満ちた笑みを口元にこびりつかせる。面とは思えぬ表情だった。これが鵺の力か、と沢木は内心で感嘆する。

 「俺がアキラ。ジジイとババアを殺したのは俺。そして俺を作ったのはおまえ――どういうことか分かるか? つまり、犯人はお・ま・え。おまえがジジイとババアを殺したも同然だ。だから教えてあげたのさ、“おまえが殺した”って。どうせおまえは気付いてねえだろ?」

 アキラは憎々しげに吐き捨てる。ハルキは激しく首を横に振り続けた。

 「違う! ぼくじゃない! ぼくは殺してなんかいない!」

 「いい加減認めろよ。おまえが殺したのも同じだ」

 アキラはくっくっくっと卑屈に喉を鳴らした。「確かに俺は直接手は下していない。でも、俺が殺したも同然だ。正直に言ってりゃよかったんだ」

 アキラはそこで言葉を切り、色の薄い眼をぎょろりとさせた。その後で背もたれにすとんと体を預け、視線を斜めにしてハルキを睨みつける。

 「俺が・・・・・・おまえが殺したんだ。間違いねえ。現実をちゃんと見ろ。おまえが殺したんだよ!」

 「やめろ!」

 ハルキはヒステリックに叫んで椅子を蹴った。両手で頭を抱えて激しく首を横に振り続ける。

 「ぼくは・・・・・・ぼくはおじいちゃんとおばあちゃんが大好きなんだ! 殺したりなんかするもんか! ぼくは、ぼくは――」

 「うるせえっ!」

 アキラもがたんと荒々しい音を立てて立ち上がる。なりゆきを静観していた沢木は目を疑った。面のアキラの目からはぼろぼろと涙が溢れ出していた。

 「俺だってジジイとババアが大好きだった! だから心配だったんだ、薄々こうなるんじゃねえかと思ってたんだよ! 俺が・・・・・・おまえが殺したんだ! おまえのせいだ、全部おまえのせいなんだよ!」

 「違う! 違う、ぼくじゃない! ぼくじゃ・・・・・・」

 そこまで言うと、ハルキは「う」と顔を歪めて両手で頭を抱えた。食いしばった歯からうめき声が漏れる。鼻の頭に細かい汗が噴き出す。頭の中であの声が響いているのだろうか。

 「やめろ・・・・・・ぼくじゃない・・・・・・ぼくじゃない!」

 成人男子とは思えぬ甲高い叫び声だった。ぼくじゃない、ぼくじゃないと繰り返しながらハルキはふらふらと立ち上がり、壁に頭をぶつける。一度、二度。打撃の痛みで声から逃れようとしているのだと分かった。三度、四度。がん、がんと反響する鈍い音を立てるハルキに鵺はやや冷たい目を向ける。五度、そして六度目の打撃を加えようとした時、沢木が止めに入った。ハルキは初めて我に返ったようにはっと顔を上げる。額がすりむけ、血が滲み出していた。

 「そんなことをしても意味はありません」

 ハルキの肩をつかむ手に力がこもる。「あなたの記憶が大きな手がかりかも知れないのです。一刻も早く犯人を捕まえたければ協力していただけませんかねえ」

 相変わらず穏やかな口調だが、声の裏には静かに燃える強いものが感じられる。ハルキの全身からふっと力が抜ける。彼はそのまま沢木の足元にへたり込んだ。肩と唇ががたがたと震えていた。

 「鬼丸さん、この辺りで」

 そして沢木はアキラの面をかぶった鵺の肩にそっと手を置いた。ハルキは冷たいリノリウムの上に座り込んだまま、誰の目を憚ることもなく悲鳴のような声を上げて泣きじゃくっている。これ以上は忍びないし、危険だ。沢木の意見に肯いて鵺も面を外した。二人の足元でハルキはただただ涙を流し続けた。


 
 
 
 「ちょっと酷だったようですね」

 刑事に付き添われて立ち去るハルキの背中を見つめながら沢木が呟く。鵺は軽く首をかしげた。さらり、と音を立てて銀色の髪が揺れる。

 「そお? 病気を治すためにはまず自分が病気だって認めることが大事なんですよ。でなきゃ治療なんて受け入れられないからねー」

 「意外にドライですね、鬼丸さんも」

 十三歳の鵺の至極もっともな意見に沢木は苦笑する。「しかし・・・・・・どう思います? あの“アキラ”という人格が本当に殺したんでしょうか。それにしては少々――」

 「うん、アキラはやってないと思いますよ」

 鵺はあっさり言ってのけた。「“直接手を下したわけじゃない”って言ってたしね。“薄々こうなるんじゃないかと思ってた”って・・・・・・。何より、泣いてたしね」

 俺だってジジイとババアが大好きだった――。そう言って涙をこぼしたアキラの姿は鵺の脳裏にこびりついている。

 「なるほど。では犯人は他に?」

 「かも知れないですね。少なくとも直接の実行犯はハルキさんでもハヤトくんでもアキラでもないと思う。“おまえが殺した”はともかく、“おまえがほうじ茶に農薬を入れて殺した”っていうのは別人格たちの台詞にしては不自然じゃないですか? ほうじ茶に毒を入れて殺すのは“直接手を下す”やり方でしょ」

 「ふーむ」

 と唸って沢木は腕を組む。「先程桐嶋さんから連絡がありまして、天波くんが平田さんの所に聞き込みに行っているそうですが・・・・・・その結果次第では何か進展があるかも知れませんねえ」

 「平田って、合鍵持ってるっていう人?」

 鵺は大粒の瞳をきょろりとさせて沢木を振り返った。「そっか。可能性はありますね。現場に集まった野次馬の中にもいたって言ってたっけ」

 と思い出したように言った後で鵺はふと独り言のように呟く。

 「・・・・・・ハルキさん、事件発生直後の現場で刑事さんに事情を聞かれてる時に声がしたって言ってたよね。それってどういう状況だったのかなあ。いつごろ、どこで、どういう場面で声が聞こえたんだろ」

 「被害者のアパートで、柳さんに事情を聞かれたときに聞こえたと聞きましたが」

 沢木は記憶を反芻しながら淀みなく答える。「周りにたくさん野次馬がいて、誰のものかは分からないが視線を感じたと。すると頭の中で声がしたとか・・・・・・」

 「野次馬の中の誰かに見られてたってこと?」

 鵺の問いに沢木は「恐らく」と浅く肯き、言葉を継いだ。

 「“おまえが殺したんだ”“絶対に許さない”“おまえがほうじ茶に農薬を入れて”という声が聞こえたそうです」

 「ふうん。九日の朝に被害者の所に行ったのは、八日の夜に被害者から電話が来たから・・・・・・だったよね?」

 鵺は捜査資料の情報を思い出しながら問う。須川夫妻宅の電話の通話記録にもハルキの携帯電話の着信履歴にも互いの番号が残っていたことが確認されたのでこれは間違いない。沢木の首肯を確認して鵺はさらに質問を重ねた。

 「おじいちゃんたちがハルキさんに電話をしたのは死亡推定時刻とほぼ同じだよね。もしかしたら死亡直前じゃないかと思うんだけど。おじいちゃんとおばあちゃん、何か言ってなかったのかなあ? じゃなければ、様子が変だったとか・・・・・・」

 「それが、ですねえ」

 沢木は顎に手をやった。何やら歯切れの悪い言い方に気付いて鵺は顔を上げる。

 「綾瀬さんに電話を入れたのは被害者本人ではないそうなんですよ」

 「え?」

 「平田さんだそうです。須川ご夫妻が里芋を食べたがっているから持って来てあげてくれ、バイトが終わった後だと遅くなるからバイトに行く前に寄るようにと・・・・・・」

 鵺は大きな瞳を二、三度瞬かせた。





 平田が被害者宅からハルキに電話をかけた事実は何を意味するのだろう。少なくとも、被害者の死亡直前、あるいは死亡直後に平田浩之が夫妻の部屋にいて、彼がハルキに電話をかけたということになる。しかし何のために?

 考え込みながら二係に戻ると、すでに慎霰が戻って来ていた。耀はどこに行ったのやら、姿が見えない。ソファの上にあぐらをかいた慎霰は眉間いっぱいに皺を寄せて頭をかきむしりながら何か考え込んでいる。漫画ならば頭から黒い煙がぷすぷすと立ち上っている描写がされるべきシーンであろうか。そんなことを考えて鵺はくすりと笑う。

 「ねえ、どうでした? 聞き込み」

 鵺は腰の後ろで手を組んで慎霰を覗き込むようにして尋ねた。慎霰は悲鳴を上げて姿勢を崩してしまう。

 「わっ、なんだ! びっくりさせんなッ」

 「ごめんなさいねー。ねえねえ、平田さんは何か言ってました?」

 「ん」

 慎霰は居住まいを正してごほんとひとつ咳払いした。「でもよ、おまえはハルキを疑ってんだろ? そんなヤツに情報を教えたって意味ねェだろうが」

 「うーん。実はね、鵺もちょっと考えが変わったんだあ。じゃーん、見てこれ」

 鵺はトートバッグからハヤトとアキラの面を取り出して慎霰に示した。リアルに再現されたハルキの顔に慎霰は目を激しく瞬かせる。鵺は自分の能力を簡単に説明した後で、面談室でのハルキとのやり取りを事細かに慎霰に伝えた。

 「ふーん。やっぱりな。こっちの結果と大体同じだ」

 と慎霰は鼻を鳴らしてまた腕を組んでしまう。小さな珠が連なった数珠がじゃらりと音を立てた。この緑色の数珠で怪異の存在を探り、さらに催眠術をかけてハルキの内部に触れたのだという。

 「こっちはハルキの大学とかバイト先に行って色々聞いてきたんだけどさ。ハルキ、結構暗かったみたいだな。大学に行ってたのなんて最初のうちだけで、友達もいなかったって話だ。ペットショップのバイトは一年以上続いてる。今じゃ定休日以外は毎日仕事に来てるんだって。そんでバイト代の中からじいちゃんばあちゃんの生活費を援助してやってたんだってさ。でも使い物にならないらしいぜ。とろいし、覚えが悪いって店員たちがぼやいてた。そのくせ地獄耳で、みんなで集まってひそひそ悪口言ってるとすごい目で睨まれるんだって」

 「あ、それ聞いたよ。先輩の店員とかがみんな自分の悪口を言ってるように聞こえるって」

 「現場にも行ってこの数珠でダウジングしてみたけど、何も反応はなかった。それから平田浩之に会ってきたよ。平田も被害者んとこに行ったのを認めてて、被害者が死ぬ前・・・・・・お茶を飲む前に部屋を出たとか言ってたが」

 「平田さんはハルキさんについて何か言ってた?」

 と鵺が問う。慎霰はちょっと眉を曇らせてから口を開いた。

 「“あいつが殺したんだ”って。“絶対に許さない”って・・・・・・。すげェ敵意を感じたぜ。平田にとっては数少ない縁者だったみたいだから、仕方ねェっちゃ仕方ねェのかも知れねェけど」

 「ふーん。怪しいのは平田かなあ? お茶を飲む前に帰ってきたっていうのも嘘っぱちかも知れないし。その数珠が反応しなかったってことは、少なくともハルキさんの別人格の犯行じゃないわけだ」

 「でも、動機は?」

 すかさず慎霰が反論する。「平田はこまごまと被害者の世話を焼いてたんだろ。無償でそこまでするってことは相当慕ってたんじゃねェのか? 状況やアリバイは怪しいが、年の離れた親子みたいだったらしいし」

 「それじゃ、祖父母に生活費まで渡してたハルキさんがやったっていうの?」

 「いや・・・・・・それは」

 鵺の至極もっともな反論にハルキを擁護する慎霰は口をつぐんでしまう。平田がやったとは考えにくいが、かといってハルキが犯人であることだけは絶対にないといったところなのだろう。鵺は鵺で「俺が直接手を下したわけじゃない」、「ハルキが殺したも同然だ」というアキラの言葉が引っかかっている。あのアキラの態度が平田の犯行を示唆しているとは考えにくいが、ハルキやアキラの犯行を示しているとも思えない。二人の思考は混乱した。

 沢木のデスクの辺りで「ふふふ」と忍び笑いをする声がする。見ると、耀が前後逆に椅子に座り、にまにましながら二人を眺めていた。二人はどちらからともなく顔を見合わせた。いつの間に来たのだろうか? さっきまでは確かにいなかったのに・・・・・・。

 「皆様、お困りかしら? アタクシのとっておき情報を教えてあげてもよろしくてよ」

 似合わぬ言葉遣いとともに耀はバインダーを開く。「あのねー。おじいちゃんとおばあちゃん、悩んでたみたいだよ。学生のハルキさんに生活を助けてもらうのは心苦しいって」

 「そんなこと、誰から聞いた?」

 慎霰が訝しげに問う。「聞き込みじゃそんな話は聞かなかったぜ」

 「あたしは情報収集屋だもん」

 これくらい当たり前、と耀はぺちゃんこの胸を張って不敵に笑ってみせる。鵺と慎霰は顔を見合わせて首をかしげるしかない。

 「心苦しい、か」

 そうかもね、と鵺は顎に指を当てて呟く。「ハルキさん、“ぼくはいっぱい働かなきゃいけない、大学に行ってる暇なんかない”って言ってたもん」

 「ああ。じゃなきゃ親から充分に仕送りをもらっているハルキがバイト漬けになる必要はねェ」

 「・・・・・・なるほど」

 と言ったのはずっと黙り込んでいた沢木であった。

 鵺、慎霰、耀の目が一斉に沢木に向く。糸のような沢木の目がかすかに開き、鋭い光が灯る。しかしそれもほんの一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの穏やかな微笑が浮かんでいた。

 「耀ちゃん、柳さんに連絡して。綾瀬さんと、それから平田さんを連れてくるようにと」

 耀は元気な返事をして出て行く。鵺は訝しげに沢木に問うた。

 「犯人が分かったんですか?」

 沢木は鵺の問いに答える代わりに黙って微笑んでみせた。いつもの柔和な笑みの裏にかすかに悲しみの色がたゆとうていることにどれだけの人間が気付いただろうか。





 警察への呼び出しを受けて会社を早退してきた平田浩之は三十五歳、ごく普通のサラリーマンだった。中肉中背に銀縁の眼鏡。スーツにもスラックスにもきちんと折り目が入り、白いワイシャツの襟も袖も清潔そのもの。見るからに実直そうな男である。

 「どうしてぼくが呼ばれなきゃいけないんです? そいつが自白したって聞きましたけど」

 宮本署の小会議室に呼ばれた平田は舌打ちしてハルキを見やった。ハルキは怯えたようにびくっと体を震わせる。

 「犯人はハルキさんじゃありませんよ」

 厳しい目つきでまず口火を切ったのは鵺である。平田は口元をかすかに痙攣させた。

 「じゃあぼくがやったとでも? 冗談じゃない。辰治さんとミヨシさんを殺したのはハルキだ。そいつが二人を――」

 「“死なせた”って」

 耀がきっと顔を上げる。「そう言いたいんでしょ?」

 「ああそうだよ! 二人が死んだのはハルキのせいだ、全部こいつが――」

 「殺したのはハルキじゃねェよ。おまえでもない。自殺さ」

 慎霰がぼりぼりと頭をかきながら吐き捨てた。

 ハルキが弾かれたように顔を上げる。平田の顔が決定的にこわばった。それを肯定とみなして沢木がゆっくりと口を開いた。

 「最近、須川ご夫妻は悩んでいたそうです。お心当たりは?」

 沢木の言葉に平田の口元が歪む。眼鏡の奥に燃え上がる激しい憎悪と敵意を鵺は読み取った。

 「推測でしかありませんが、例えばこういうことは考えられませんかねえ」

 沢木の口調は柔らかかったが、糸のような目は正面から平田を見据えている。「ご夫妻はハルキさんに迷惑をかけていると思い悩んでいました。自分たちに生活費を援助するためにハルキさんが働き詰めになって大学にも行けなくなったのだと」

 ハルキが沢木の背後で息を呑む。

 「ハルキの性格だから、援助はいらないと言っても聞かなかっただろうな」

 慎霰がやや顔を歪め、一言ひとこと押し出すように低い声で言う。「そして、自分の存在がハルキの重荷になってると勘違いした被害者は・・・・・・」

 慎霰の言葉を遮ったのは平田の甲高い叫び声だった。激しく頭を振って叫ぶ。まるで何かから逃れようとしているかのように。リノリウムの床に眼鏡が落下し、無機質な金属音を立てる。

 「――平田さん」

 沢木は膝をついた平田の前にしゃがみ込んでゆっくりと口を開いた。「須川さんご夫婦はあなたの目の前で服毒死したのでしょう」

 平田はゆっくりと顔を上げ、虚ろに肯いた。





 陽はすっかり落ちて、夕焼けの残滓は徐々に闇に侵蝕されつつあった。

 「おかしいと思ったんです。ぼくに“絶対にやかんや急須、湯呑みに触らないで”なんて言って。いつもはぼくがお茶を淹れてあげるのに。ぼくの指紋をつけないようにするためだったんですね」

 やがて平田はぽつりぽつりと話し始めた。

 「二人はぼくの目の前で農薬を飲んだんです。自殺の目撃者になってくれと言って、ぼくの目の前で死んでいったんです」

 平田は悲鳴のような声さえ上げて両手で顔を覆った。スーツの肩ががたがたと震えている。

 「二人の寝室から遺書が見つかりました。ハルキに迷惑をかけたと・・・・・・自分たちのせいでハルキは大学にも行けなくなった、だから自分たちは死ぬのだと書いてありました」

 「ハルキさんのせいで二人が死んだって思ったってわけですね」

 鵺の言葉に平田はこうべを垂れたまま肯いた。

 「それでハルキさんに電話をかけたんでしょ? 第一発見者に仕立て上げて疑いを向けさせようとして。たぶん遺書は持って帰ったのかな。自殺に見せかけた他殺だと思わせるために」

 「おまえ、野次馬の中にいたそうだな。何かぶつぶつ言ってたって聞いたぜ。もしかして“おまえが須川さんを殺した、おまえのせいだ”とでも言ってたんじゃねェのか?」

 「あんたはハルキさんの耳のよさも、統合失調症の疑いがあることも知ってた。それでハルキさんに自分の言葉が聞こえればいいって・・・・・・あわよくば殺人犯にしてしまおうって思ったんでしょ。だから“おまえが農薬を入れた”なんて言ったんでしょ?」

 鵺、慎霰、耀が順に口を開くが、平田は答えない。すすり泣く声が聞こえただけだ。

 「どうして救急車を呼ばなかったのですか」

 沢木がそっと平田のそばにしゃがみこんだ。「農薬自殺は苦しいものです。つまり、即死ではない。すぐに救急車を呼んでいれば、あるいは・・・・・・」

 「・・・・・・許せなかった」

 平田はぽつりと呟いた。濡れた顔をゆっくりと上げる。真っ赤に泣き腫らした目には敵意と憎悪が燃え滾っていた。それは明らかにハルキに向けられたものだった。

 「ぼくは辰治さんとミヨシさんを本当の親のように思っていました。ぼくには身寄りがありませんから。・・・・・・ぼくは、そんな二人の自殺の場面を目の前で見せられたんです」

 ハルキの華奢な体がぎゅっと収縮する。

 「だから・・・・・・ハルキなんか苦しめばいい! ぼくの大事なあの二人を自殺に追い込むまで苦しめたハルキなんか――」

 ぱん、という乾いた打撃音が小会議室に反響した。鵺がはっとして顔を上げる。慎霰は喉の奥で小さく息を呑んだ。

 「いい加減にしなさい」

 平田の頬を平手で打ち、低く呻いたのは沢木であった。

 「大事な人なのでしょう。親みたいに慕っていた人なのでしょう。だったら助けなさい。なぜ黙って死なせたのですか。救急車を呼んだら助かっていたかも知れないのに。大事な人をみすみす死なせたあなたに・・・・・・助ける努力もしなかったあなたに、“ぼくの大事なあの二人”などとおっしゃる資格はありませんよ」

 低く抑えた沢木の声の裏に激しい感情を読み取った鵺は少々意外そうに目をぱちくりさせた。

 沢木の携帯がポケットの中で震え出す。沢木は一言断ってから応対した。分かりました、ありがとうございますとだけ言って電話を切る。

 「平田さん。あなたのお部屋から須川さんの遺書が発見されました。筆跡も須川さんのものと一致したそうです」

 沢木は静かにそう告げた。

 平田の目から新たな涙が溢れ出す。そして平田は慟哭した。胎児のように体を丸めて、床に拳を叩きつけながら激しく泣きじゃくった。誰の目も憚らぬ嗚咽が白い壁に乱反射し、長い尾を引いていつまでもいつまでもその場にとどまった。
 


 
  
 「ありがとうございました」

 小会議室から出ると、ハルキは三人に小さく頭を下げた。沢木は事後処理のために一足先に刑事課に戻っている。

 「疑いが晴れてよかったな」

 慎霰が晴れ晴れとした笑みを浮かべてハルキの肩を叩く。ハルキも小さく笑って応じた。もっとも、それは多分に無理をした作り笑いであったのだが。

 このまま終わればハッピーエンド、ということになるかも知れない。聞かないほうがいいのかも知れない。しかし鵺はあえて尋ねた。初めのほうからなんとなく気になっていた、小さな小さな疑問を。

 「ねえハルキさん。ハルキさんは、バイトに忙しいから大学に行かなくなったの?」

 ハルキの目が決定的に揺らめいた。

 「違うよね? 大学に行かなくなったのが先で、バイトはその後だよね。大学に行かなくなったからバイトに打ち込んだんだよね。おじいちゃんとおばあちゃんのために、っていう理由をつけて」

 慎霰がはっと息を呑む。大きく見開かれたハルキの瞳の縁に涙の玉が盛り上がり、すーっと頬を伝っていった。そしてハルキはそのままずるずると座り込んだ。

 くっくっく、とハルキの喉が低く鳴った。ハルキではない。アキラが出てきたのだと鵺は悟った。

 「・・・・・・ジジイとババアは、ハルキが大学に行かなくなった理由を知らなかったんだよ」

 アキラは片手で顔を覆って声を震わせた。「登校拒否になったのは単に人付き合いが苦手で、大学になじめなかったからなのに・・・・・・ジジイとババアは生活費援助のためだって思い込んだんだ。“毎月ありがとう、ごめんね”なんて言われたらほんとは登校拒否だなんて言えねえだろ? ジジイたちに感謝されてると思うと嬉しかったし・・・・・・ジジイたちに仕送りするためだって思えば登校拒否も正当化できたからな・・・・・・」

 アキラの言葉はそこで途切れた。またがくんと首が折れる。その後でゆっくりと顔を上げたのはハヤトだった。ハヤトは透き通った涙を流して鵺を見上げた。 

 「本当はハルキも薄々感づいてたんだ。でも気付きたくなかったんだろうね。だからアキラが作られた・・・・・・“自分がおじいちゃんたちを苦しめている”っていう記憶を持たせるために生まれたのがアキラ。アキラがおじいちゃんとおばあちゃんを殺したっていうのはそういう意味なんだ」

 「で、今もハルキさんの代わりにハヤトくんたちが出てきたってことは、本体はこの事実を知りたくないわけだね。ハルキさん、もしかして自分が多重人格だって心のどこかで分かってたんじゃない? そうじゃなきゃハヤトくんが生まれた説明がつかないもん」

 鵺はやや冷ややかに言ってハルキの体を見下ろした。

 多重人格。それは意味での自己防衛機構。嫌なこと、つらい記憶を肩代わりさせるために他の人格を生み出す。嫌なことやつらいことを他の人格の記憶に持たせることによって自分を守る――。「自分が病気である」という事実を肩代わりさせるために生まれたのがハヤト。祖父母を苦しめているということを認めたくなくて作り出したのがアキラ。どちらも、厳然と突きつけられた事実を頑なに拒むハルキの心が生み出したものだったのだ。

 「病を直すにはまず自覚から。こりゃーハルキさんは当分このままだね。見たくないことから目を背けてばっかじゃダメでしょ」

 鵺は肩をすくめてトートバッグから一枚の能面を取り出した。それはハヤトの面だった。

 「ねえハヤトくん、これ持ってっていいかなあ?」

 「うん。元々鵺さんが作った物だもの」

 「そうだね。じゃお持ち帰り、っと」

 鵺は面をバッグにしまってハヤトの前に座り込んだ。「ねえハヤトくん。誤解しないでね。鵺はねえ、キミたちのことも、被害者のことも別に何とも思ってないんだー」

 「分かってる」

 ハヤトは小さく微笑んだ。ちょっぴり寂しそうで、悲しそうな微笑だった。

 鵺はにこっと人なつっこい笑みを浮かべた。

 「でも、キミが主人格だったらよかったのにね? 鵺、心からそう思うよ」

 「・・・・・・うん」

 ハヤトは絹のように微笑んだ。しあわせそうに細められた目が閉じられ、ゆっくりと首が垂れる。また人格が交代するらしい。鵺は立ち上がり、バッグを脇に抱え直して立ち去った。

 「あれ・・・・・・ぼく、どうしたんだろう・・・・・・」

 夢から覚めたようなハルキの声が背後から聞こえてくる。しかし鵺は振り返らずに廊下を歩いた。

 ハルキが本当のことを打ち明けてさえいればこんな事件は起こらなかったのだろうか?

 ――いや。そんなことを考えるのはやめよう。鵺には関係のないことだ。

 今確かなのは、ハヤトが鵺の友達であるということだけ。ハルキが多重人格を克服するまでには時間がかかるだろう。だとしたら、ハヤトとの友人付き合いはもうしばらく続くのだろうか。それも悪くはない。能面を見つめながら大真面目にそんなことを考えている自分に気付いて鵺は小さく苦笑を漏らした。(了)





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/     PC名      / 性別 /年齢 / 職業】

 2414 /鬼丸・鵺(おにまる・ぬえ)  / 女性 /13歳 / 中学生・面打師
 1928 /天波・慎霰(あまは・しんざん)/ 男性 /15歳 /天狗・高校生

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■         ライター通信          ■
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鬼丸・鵺さま


お初にお目にかかります、宮本ぽちと申す者です。
今回はご注文まことにありがとうございました。
かなりの長文となりましたが、ここまでご覧くださって幸いです;

当初はまったく違う謎解きを予定していたのですが、鬼丸さまのプレイングに書き手として唸ってしまいました。
とはいえ、以前違うお客様に納品した作品との兼ね合いもございますので、そちらと折衷することに・・・;
ひとつのオープニングに対しても皆様次第で複数の謎解き・結末が有り得る、これが「オーダーメイド」=「お客様との共同作業」の醍醐味だと思っております。

それでは、今回はこの辺りで失礼いたします。
鬼丸さまのお力を活かせるような事件があった折は、また二係に協力してくだされば幸いに存じます。


宮本ぽち 拝