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『淡き薄紅を追いかけて』
パソコンの電源を入れて、それが立ち上がる間、僕、槻島綾は台所に珈琲を取りに行く。
珈琲メーカーから零れてくる香りは鼻孔を刺激して、それがどこか感じている疲れをやわらげてくれる。
でも、その疲れは決してただ身体の重みだけを感じさせるものじゃなくって、どこかお酒に酔った時の酩酊感を伴ったような夢見心地の気だるさ。
まだすぐにそこに彼女が居るような感じがした。
この十日間、ずっと一緒に居た彼女。
隣に居続けた彼女の気配、
温もり、
香り、
息遣い、
視線をまだ、
僕は感じているような気がする。
瞬きにあわせた睫の動きすらも僕はまだ覚えている。
振り向いたら、そこにキミが居るような―――
僕は食器棚の硝子に映る自分の顔を見て、苦笑を浮かべる。
「さっき、別れたばかりなのに」
何度も感じている事を改めて、感じさせられる。
ぬるい珈琲に熱い珈琲を注ぎ足す様には、もう僕は僕独りの時間を潰す事は出来ない。
キミの、
笑う声が、
僕を呼ぶ声が、
キミの笑顔が、
ぬくもりが、
僕の心に溶け込んでいるから。
だからもう僕はキミを消せなくって、
いつでもキミを想っている。
感じている。
愛している。
僕は軽い吐息を吐いて、熱い湯気を上らせる珈琲をカップに入れて、口に持っていった。
口の中に広がった珈琲の苦味。
温かみが喉から胸に落ちて、
身体に広がって、
僕はもう一度吐息を吐く。
ぎしぃっと椅子が軋みを上げる。
椅子の背もたれにもたれて、僕は天井を見上げて、
それから自然に閉じた瞼。
瞼の裏に覚えているキミの笑った顔を見て、
自然に微笑んで、
それで僕は自分に活を入れる。
決めた。
徹夜で仕上げて、それから彼女に会いに行こうって。
逢いたいと心が言っているから、
―――それを素直に聞いて。
この手がキミを抱きたいと言っているから、
―――抱きに。
蛍光灯の光りにすかして見た手は、いつもキミの手を握っていた手。
キミの手は僕の手を、
―――求めてくれているだろうか?
→OPEN
桜の語源。
古事記に登場する木花開耶姫のさくやが転化したものだという説。
さくらの「さ」は穀物の神を表す古語で、「くら」は神座を意味し、「さ+くら」で、穀物の神の集まる場所を表すという説。
咲く花の代表を表すという説などがある。
それを読んだのは綾さんと一緒に居る時、たまたまだったんです。
大学の後期考査が終って、はれて長い春休みを満喫できる身分となったその日の夜に綾さんに誘われて行ったレストランで、たまたま桜の話になって、そしたら綾さんが企画書を見せてくれたんです。
花物語。
綾さんがエッセイを載せている女性誌の企画で、5月号、3月31日に発行されるそれに載せた綾さんのエッセイ。
何でも12ヶ月の、それぞれの月の花の花物語や花言葉に乗せたエッセイを書いて、その花の名所やちなんだ祭りなんかを紹介する企画。
私は綾さんの温かくって、柔らかい、それこそ若葉萌ゆる春の訪れを感じさせるような、光りの加減では緑に見える彼のそんな瞳の印象通りの視線を感じながら、ちょっぴりと恥ずかしくって、すごく嬉しくって、ドキドキするような、そんなくすぐったい感覚の中で、それを読んで、
それで私は、
「すごいですね。面白いです。それに綾さんの視点から見た桜の描写が凄く奇麗で、なんだか私、この花物語にあった風景を自然と想像してしまいました」
山の神の大山祗命(おおやまずみのみこと)と、野の神の草野姫命(くさのひめのみこと)との間に生まれた木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に嫁ぐまで、花の宮殿の奥深くに暮らしていました。あるとき、父のいいつけで、雲を踏み、霞に乗って、紫雲にそびえる富士山の山頂に天降り(あまくだり)、種子をまきました。それから桜の花が咲き乱れるようになりました。
子どものようにはしゃいだ声。
ちょっぴりと綾さんに幻滅されないかな? と心の奥底で不安になりながら、でも私は同時に一方で感じているくすぐったさに浮かれてしまうから。
大好きです、綾さん。
そんな私の心配も知らないで、綾さんは大人びた年齢に相応しい穏やかな笑みを浮かべて、そう、滑り台を滑る私をいつも見守ってくれていた父のような目で私を眺めて、微笑んでくれていて。
それが嬉しくって、
そして一方で、私は何だか、少し…………
『少し?』
携帯電話から聴こえてくる友人の声に私はもう一度その感覚を思い起こそうとして、でもそれは心が拒絶するように、靄のようになって、指の隙間から逃げ出した。
「………ごめん。やっぱり、いい」
彼女の苦笑する顔が思い浮かんだが、私はそう言うしかなかった。
『欲が、出ちゃった?』
「え?」
思いもよらぬ言葉に私はどきりとする。
心臓がドキドキとして、その鼓動の音が聴こえそうなのが嫌で、私は携帯電話を持ち直す。
「えっと、その、欲って?」
『だからさ、もう少しちゃんと大人に見てもらいたいな、とか、もう少し踏み込んだ関係になりたいな、とか。歳の差? それってやっぱり関係あるんじゃないのかなー、って。向うはやっぱり、えっと、27歳だっけ?』私はうんと頷く。『27歳の大人の男から見たらやっぱり21歳なんて子どもとか、妹のような感覚で、実際向こうが折れてくれるというか、譲ってくれている事が大半なんじゃないの?』
見たような事を言う彼女。私は思わず息を止めて、これまで幾度か感じた彼の優しさが、実は年上の余裕、遠慮じゃなかったのか、と考え込む。
―――大人が子どもに道の先を譲るように、大人気なさを見せるのを嫌った行為。
「でも、歳の差はわかってても埋められないよ」
少し前の、あの事が思い出される。彼に『どうせ私は子どもです!』、と言った時の事を。
背伸びはやめようと想った一件。だけど………
「…………」
『おーい。瞳子ちゃーん。聴いてますか?』
「うん」
『………今度、大学の前の緑風舎でスペシャルプリンパフェ(1800円)驕ってくれる?』
「うん」
『はぁー』
大きなため息。
でも一度落ち込んだら、そしたらどんどん深みにはまっていくようで、私は………
『あのね、瞳子。年上って言ったって、あんまり変わらないと想うよ?』
「へぇ?」
素の声を出す私に、彼女は何だかとても優しい声を出してくれる。
『だからさ、んー、これはここだけの秘密って事で。あのね、私もさ、高校生の時に社会人と付き合ってたんだ。ほら、向うは社会でバリバリと働いている大人じゃない? 対して自分は制服を着た子ども。や、女子高生っていうブランドはそりゃあ武器よ? もう女子高生じゃなくなったおばさんたちには負けないと自信はあったけど、でもやっぱり女子高生ブランドっていうのは、それはもうやっぱり諸刃の剣な訳よ。それで色々と背伸びをした事もあったけど、でも、今の私ってその時の彼氏の年齢でさ、それでこの歳になって、その時にはわからなかった事もわかるようになったんだよね。うん。や、男と女とでは精神性の成熟度は違くって、つまり私の方が精神性の成熟度は高くって、だから27って言っても、たかが6歳さで、んでもって、それって相手側から見ると、まあ、なんだ、6歳差という事を気にされると、こっちは向うよりも6歳も年上な訳で、も、って考えちゃうようになるとなんだかジジババのように見られているような気になって、ロリコンだなんだって世間体を気にする訳で……最近高2の家教の生徒と付き合い出しちゃった私はショタコンだって悩んでるから想っちゃう訳で………』
仏壇のちーん、という音が聴こえたのは果たして私の気のせいだろうか?
…………あれ? 何だか話が違う方向に……………
私は慌てて彼女のフォローに走り、
そして結局何だかんだと彼女とのお喋りは計2時間半で終了となり、私はベッドの上に転がって、ため息を吐いた。
問題は何も解決はしてはいなかった。
枕に埋めていた顔をあげて、本棚に並べてある綾さんの本を眺める。
彼の文章から見える人なり。
大人なんだと想う。本当に。
きっと21歳の今の私よりも、あんなにも感性に溢れている彼は、同じ21歳の時にも、もっとちゃんとしていて…………
大人で、
自分の足で立っていたんだろうな。
あんなにも余裕のある人は、きっと、今の私のように悩んでなんか無かった………
「子どもだなー、私って、本当に」
鏡に映る自分の顔に向かって、私はあっかんべー、をした。
+++
途中で彼女の元気が無くなっていた事には気がついていた。
何を彼女はそんなにも悩んでいるのだろう?
それを相談してもらえない事が何だか寂しいような気がした。
心配でたまらないのは、彼女が年下で、妹のような感じだからじゃない。
確かにそういうような人も過去にはいたけど、
彼女は違う。
好きだから、心配になる。
笑っていてもらいたい。
桜が好きだ、と笑った彼女の顔は、本当に無邪気でかわいいと想った。
思えば自分はあんなにも自然に笑えているだろうか?
彼女を最初に気に入ったのも、屈託無く笑うその表情に心惹かれたのかもしれない。
あの最初に出会った日。チケットを手渡した彼女の表情に、もう、心を奪われていた。
自分が無い物を持つ人に、人は憧れる。
気にしない訳が無かった。親の名声。
心のどこかではそれを気にしていたのだと想う。
親に押さえつけられるような過去も、
周りに侮蔑されるような過去も、
無かった。
だけど心は確かにそれを気にしていたから。
無自覚のプレッシャーは伸びるべき心の枝を伸ばさなかった。ひどく歪な、木。
それは心についた、染み。
だけど屈託無く笑う彼女の笑みは、その染みを包み込んでくれた。
薄らいでいく染みに安心を感じたんだ、僕の心は。
だからきっと、歪な押さえつけられていたその枝は、今からでも少しずつ伸びると―――
夕暮れ時の人ごみに紛れた道で、
家路を急ぐ人たちは、泣いている僕に気付いてくれなくって、
人ごみの雑踏の中で、僕は途方に暮れていて、
だけど、キミが僕の前に立ち止まってくれて、
そっと、泣いている僕の頭を撫でてくれた。
嬉しかったんだ………
息を吐く。
深く。
携帯電話のメモリーから彼女の番号を呼び出すのではなく、
いちいち番号を打ち込んでいくのは、少しでも覚悟する時間を確保するためで。
緊張しない訳が無い。
好きな人を旅行に誘うのに。
+++
さらりと、本当に大人の余裕さを感じさせて、綾さんは私を旅行に誘ってくれたんです。
私はびっくりとしたのと、嬉しいのとで、本当に頭が真っ白になってしまって、それでどのようにその後の時間を過ごしたのかわからなくって、気付いたら朝ごはんの時間になってしまってました。
それから私は急いで友達に携帯で電話して、報告したら………
『瞳子、あんたら二人はのんびりとしすぎな感があるんだから、その刺激を無駄にしたらダメよ? 新しい刺激を得て男女の仲は進展するんだから。大丈夫。アリバイはちゃんと私が確保してあげるから。だから、良い? 通販の纏め売りの下着じゃなくって、ちゃんとした下着の専門店で測って貰っ』
ぷっ。ツゥー。ツゥー。ツゥー。
…………顔を真っ赤にして、携帯電話を切ったのは言うまでもありません。
綾さんに誘われたのは十日間の旅行。
部屋の掃除と、一年間のノートを保管用のファイルに移し変える計画を返上して、旅行の準備、服とか鞄、それからえっと…………えっと、
…………を買いに行ったのは何も友達に言われたからじゃなくって、
その、えっと、えっと、えっと…………
とにかく私はその日は旅行の準備をして、過ごしました。
でも問題はここからなんです。
「あの、旅行に行きたいの」
その後に訊かれもしないのに、友達の名前を言ったのは失敗だったのでしょうか?
後から友人にその事を言ったら、ぽんと肩を叩かれて………。
謎です。
が、とにかく強引に両親を説得して、
でもその事を説明した時の綾さんの表情は何だったのでしょう?
私は思わず小首を傾げてしまいました。
+++
悪気が無いのだろう事はわかっているけど、でも、なんとなく………
小首を傾げた瞳子さんに僕は愛想笑いをして、車を発進させた。
屈折の無い素直な彼女を見ていればどれだけ両親に愛されて育ってきたか分かるから。
そして彼女自身もどれだけ家族を愛しているか、分かるから。
だからこそ彼女に嘘をつかせた事が少し息苦しさを感じさせる。
きっと、大激論を交わしたのだろうな。
苦笑を浮かべる僕に、瞳子さんが訊く。
「どうしました、綾さん?」
「いえ。少し考え事を」
「………え?」
赤信号。
ブレーキ。
僕は彼女の顔を見る。
少し俯いている彼女は慌てて顔を上げた。
「少し考え事。まずはどんな話を瞳子さんに聞かせてあげようかな、って。それで記憶の引き出しを探っていただけです」
「え、ええ、はい」
彼女はほっとしたような表情を浮かべる。
それから青信号になって、僕はギアを入れ替えて、アクセルを踏んだ。
まずは彼女に嘘をつかせてしまった事、それを謝らなければな、と想った。
+++
自分の自身の無さが少し恨めしい。
多分、初めて綾さんと過ごす十日間という時間に気後れをしているのだ。
当たり前。そんなにも長い間男の人と一緒に居る事なんて………
居る事なんて………
―――居るんだよね、十日間。
顔が熱い。
私は横目で綾さんの顔を見る。
眼鏡をかけて運転する彼の横顔は素敵で、しばらくの間、そうやって眺めていたい衝動に駆られる。
と、ふと綾さんと目が合う。
私は挙動不審になりそうなのをありたっけの理性を総動員して、それで何とか回避する。
「ん?」
車を運転しながらそう穏やかに言ってくれる彼。
「えっと、その、綾さんはご両親に何って言ってきたんですか?」
「え? 僕は普通に旅行にって」
「え? ああ、はい。そうですよね」
――――私の馬鹿。
そうですよね。大人の男の人なのだもの。
私は自分に自分で呆れる。自己嫌悪。
「でも、瞳子さんには悪い事をしてしまったね。嘘をつかせてしまった。ごめん」
私の心臓はどきり、と大きく脈打って、それから、考えもしなかった事を言い出した綾さんに、想像の限りの思考作業をする脳の起動音を表現するかのような音色を奏でる心臓に慌てる。
「そ、そんな気にしないでください」
両手を前で振りながら私は身を前に乗り出させようとして、でもシートベルトで制されて、慌てて動いたものだから少し首筋を擦ってしまった。
「痛い」
車は沿道に止められて、綾さんの手が私の髪を掻きあげる。
予想外に近くにある綾さんの顔に、手から感じるぬくもりに、心臓が高鳴る。
―――綾さんに聴こえちゃう。心臓、もう少しペースダウンして。お願い。
「痛いですか?」
「いえ。でも恥ずかしいです」素直に小声で言う。
そしたら綾さんの手が私の頭を撫でた。
子どもをあやすように。
私は少し、
…………不服。
「本当にごめん。ご両親に嘘をつかせて。辛かったでしょう?」
子ども扱い。
胸が、痛い。
「大丈夫です。もう21ですから」
まだ21の癖に。
そりゃあ、綾さんから見たら。6歳も下、だけど………。
「両親はいいんです。私ももう、大人で、親離れもしてますから、子離れもしてもらわないと。私は、平気ですから。大丈夫」
なんだかそう言うのが、言う言葉が、かえって拗ねた子どもみたい。
…………情けないな、私。
本当に馬鹿。
私はまた車を運転し出した綾さんを見る。
気を使ってくれたのに。
優しさなのに。
どうして私、もう少し大人の受け答えできないかな?
圧倒的な経験値不足。
お昼に、ならないかな? 早く。
そしたらお弁当で、雰囲気を変えよう。
二人の仲の。
何とかなるよね。
だってお弁当の中身は綾さんの大好物ばかりなんだから。
うん。
+++
「…………」
「…………」
二人の足下に落ちたお弁当箱。
瞳子さんは無言でしゃがみこんで、
全部中がばらけてしまったサンドイッチや、からあげ、タコさんウィンナー、玉子焼き、プチトマトなんかを拾って、お弁当箱の中に入れていく。
その姿は本当に小さく見えて、彼女の華奢な肩が震えていた。
僕もしゃがみこんで、それから彼女が一番自信があると言っていた玉子焼きを拾って、砂を払うと、口の中に入れた。
「綾さん」
泣きそうな声で言った瞳子さんに、僕は微笑む。
「美味しいですよ。砂糖と醤油の量、本当に僕好みです」
それから僕はサンドイッチも拾って、食べて、微笑む。
「偉かったですね。ちゃんとお弁当箱にボールを当てて、落とさせてしまった子どもにも優しく微笑む事が出来て、謝れた子どもを許せた。だからそんな瞳子さんだからこそ、素敵で、大好きですよ。僕はそういうキミだから、これからも一緒に居たい、って望んでしまうんです。だからこの旅行も嬉しくって、そして幸せなんです。でも嘘をつかせてしまった事で、キミに負い目を感じさせていたら、それは本当に僕の勝手だから、だからごめんって。でもこれも考えてみたら、僕のエゴですよね。僕にそう言われてしまったら、瞳子さんが辛いですよね。だからごめん。だからありがとう。僕との旅行を選んでくれて。一緒に楽しい旅行にしましょうね」
瞳子さんは顔を両手で覆って、その後少し泣いた。
僕はそんな彼女を胸に抱いて、それから泣き止むまで前に彼女が大好きなんです、と言って聴かせてくれた曲を鼻歌で歌って、
そうしてそれからしばらくして、泣き止んだ彼女はくすぐったそうに微笑んで、
そして、僕の頬にキスをしてくれた。
彼女はそれからはもう、本当に自然体で、
僕らは二人して顔を見合わせて、くすりと笑いあって、
お弁当の中身を拾った。
+++
神様が創った人間。
神様は人間をこよなく愛してくれる。
それは見返りを求めない、深い、純粋な愛情。
小さい時、近所の教会のミサに、友達に誘われて行った時に、神父様がそう仰られたのを聞いて、だったら、人は、人間は、どうして誰か………他の人間を求めるんだろう? って想った。
神様が無償の愛で深く自分を愛してくれるのに、どうして人はそれで満足できないんだろう?
教会から帰って、飛び込んだ母の胸。温かくって、柔らかいぬくもり。
大きな父の手に頭を撫でられるのは、すごく安心した。力強い愛情を感じたから。
父が、
母が、
大好き。
二人は、間違いなく私の神様だった。
神様だったの、両親は、私の。
神様が人を愛してくださるように、
両親も私を愛してくれた。
大切に育ててくれた。
そして私は、そんな中で、この人と出逢って、恋をした。
愛した。
その瞬間に私は長年抱いていた疑問の答えを見つけた。
人はどうして、自分を無条件で深く愛してくれる両親から、神様から離れて、
誰か大切な人を見つけて、愛するのか―――
簡単な事。
ただ、私は、誰かその人を愛したかった。
育みたかったの、愛情を。私が選び出逢った、あなたと。
背伸びはやめよう。
私が選んだように、
綾さんも選んでくれた、私に、なろう。
私は私のまま。
その自分に、磨きをかけて。
自信をつけて。
あなたの隣で、並んで歩いていけるような、自分に。
+++
夜に九州に到着した僕らは、その足でビジネスホテルにもちろん別々で部屋を取り、夜桜見物に出かけた。
4月2日の秋月春祭りの取材を前にした事があって、それで知っていた場所。
朝倉市北部にある秋月。九州の小京都と呼ばれるそこの200メートルの桜のトンネルは見事で、桜の淡い薄紅の美と、歴史的景観が見事にあっていて、瞳子さんもそれをとても喜んでくれていて、でも本当のお勧めは、さらにこの後。
人ごみの中、はぐれないように二人硬く手を繋いで、歩いていく。
秋月公共駐車場の片隅にひっそりと咲く桜の木。
「すごい奇麗ですね」
胸の前で両手を合わせて祈るような仕草をする彼女に微笑んで、僕は言う。
「ここ、前に取材の時に見つけたんだけど、でも内緒にしたんです」
「え?」
「ここの桜はこうやって静かにひっそりと咲いているのが相応しいから」
「はい」
二人手を繋いで、しばらく僕らはそれを見て、
次の日、私たちは火山瑠璃光寺に行きました。
宴会が禁止されているそこは、他の場所で見るような桜とはまた違った別の風情があって、すごく素敵で、
それから私たちは鹿児島千本桜を。
東屋や水車があるそこは、どこか懐かしさを感じさせてくれました。
三日目は京都嵐山。
桜見物の後に並んだ露天商で、買った櫛を瞳子さんにプレゼントした。
はにかんだ彼女の微笑みは、とてもかわいらしかった。
四日目の万博公園。
ソメイヨシノをはじめとする九種類、約5500本もの桜が咲き誇るそこは圧巻でした。
はっとした。
それはひやりとした冷たさを感じさせた。
まるで5500本全ての桜の木の花びら全てが舞い散ったかのような花吹雪の中で、花びらと一緒に空を舞うかのように遊んだ髪を押さえながら、淡い薄紅の空間の中で夢見心地に微笑む瞳子さんが、なんだかまるでその薄紅の中に溶け込んで消えてしまうのではないかって。
だから年甲斐も無く、僕は彼女の手を握った。
強く。
強く。
強く。
キミが、僕から離れていってしまわないように。
そして僕はキミに僕の心の裡を知られてしまわないようにするかのように微笑んだ。
こんな僕の一面を知ったらキミは、幻滅するだろうか?
収まった花びらの嵐をキミは少し残念そうにしたね。
でも僕は、心の裡では安心していたんだ。
五日目。
名古屋。名城公園。
栄、という地区の駐車場に車を止めて、
それから名城線という地下鉄で、名城公園前まで行きました。
てっきり駅から下りたら名古屋城が見えるんだとばかり想っていたのですが、
お城は見えませんでした。
その疑問を綾さんに聞いたら、綾さんはくすくすと笑い出して、そしてちょっぴりと感情を出した顔で綾さんを見ると、綾さんはお城のほうを指差してくれました。
見えませんでした。
でも、公園の入り口前の、武道館とかがある前の屋台のたこ焼き屋で美味しいたこ焼きを買ってくれたので、それで帳消し、というのは、甘すぎでしょうか?
何でも愛知県武道館が出来る前まではその武道館が主流で、私も幼い頃に剣を合わせたことのある日曜剣流会の練習や、柔道などの昇段試験もそこで行われていたそうです。
結構、その日は稼ぎ時だったんだけどね、と笑った屋台の人の笑顔に思わず苦笑してしまったのは内緒。
名城公園の端にある小さな遊具で遊ぶ子どもたちを眺めながら一緒に綾さんとたこ焼きを食べて、私たちは名城公園を歩いていきます。
そこにも風車があったり、そして咲き始めた桜を一緒に見たり。
あとは自転車にも乗りました。
二人乗り用や三人乗り用などの自転車がレンタルされていて、
それを一時間500円でレンタル。
私が前で、綾さんが後ろ。
綾さんが私に大丈夫ですか? と訊くので、私は自信満々で大丈夫です、と答えたのですが、自転車が進まない。
綾さん、意外と重い?
それともこの五日間、各地の美味しいものをたくさん食べて、
…………体重計、乗ってなかったから…………
と、見たら綾さんの足がしっかりと地面にくっつけられている、という意地悪をされていました。
もちろん、仕返ししました。
どこのバカップルですか? という感じで、夜寝る時に笑ってしまったのはこの日記だけでの内緒。
でも、その夜は、本当に、いつも以上に優しかった綾さんも同じ事を考えて、同じように笑ってくれていたらな、と想いました。
だけど、本当にびっくりとしたのは、次の日、やっぱり名古屋にある名古屋港水族館の後に行った、知多半島という場所の事です。
…………顔が熱い。
これを書くのに、もう少し、時間が必要そう。姉が出たようなので、お風呂、入ってきます。
瞳子はペンを置いて、日記を閉じると、傍らに置いてあった櫛を手にとって、微笑み、そしてそれを大事そうに置いて、部屋から出て行った。
机の前、小さなガラス瓶の中に入れられたひとひらの淡い薄紅の花びらと鍵が、揺れる。
+++
名古屋港水族館。
そこは時間稼ぎの場所だった。
10時の開園と一緒にそこに入って、
14時にそこを出る。
それから隣の遊園地で1時間。
移動を入れれば、ちょうど良い時間だろうか?
僕は腕時計を見ながらプランの見直しをして、頷く。
「行きましょうか、瞳子さん」
「はい」
イルカのぬいぐるみを胸に抱きながら頷いた彼女。
僕は車に乗り、それから彼女に気付かれないように、南京錠が入った小さな袋を上着のポケットに入れる。
伊勢湾岸道路を通り、僕は車を走らせる。
南知多に到着したのは16時半。
そこに広がるのは菜の花の絨毯。
風に揺れる菜の花の光景は、黄色い海に波があるようだった。
静かな本当の海の波と、菜の花の揺れる音がとても奇麗で、幻想的だった。
僕の手を繋ぐ瞳子さんの手に力が篭る。
それから菜の花畑に歩いていく瞳子さんはまるで幼い子どもが親を引っ張って歩くように、感動に早足になる彼女は僕の手を引いていく。
それが嬉しくって、幸せで、くすぐったくって、愛おしい。
小さな女の子が走ってきて、
瞳子さんに見せたのは菜の花の花びらと、つくし、それにタンポポ。あとは変な虫。
女の子はどこか誇らしげに自分の名前を言って、それから、
「えっとねー、これねー、ようちえんのしゅくだいなのー。はるをみつけてきなさいって。いっぱいいっぱいはるをみつけたんだよ。えらい?」
どうやら瞳子さんは気に入られたみたい。
瞳子さんはしゃがみこんで、その子と同じ場所に自分の目線を持って行って、にこりと微笑んで、女の子の頭を撫でる。
「偉い。偉い。たくさん春を見つけられたね」
「うん♪ あ、でもね、これ、ないしょね」女の子はしゃがみこんだ瞳子さんの耳に囁いて、それで瞳子さんはくすりと笑う。
「そうだね」
そうすると女の子はにこりと笑って、鞄の中から小さなお弁当箱を取り出して、その中に入っていた、おかずを僕らに差し出してくれた。
お弁当は手付かず。どうやら食べずに春を見つけるのに夢中になっていたよう。
そのおかずは、春でいっぱい。
「たべていいよ」
瞳子さんは「うん」と頷いて、女の子がスプーンですくってくれたつくしの卵とじ、菜の花のおひたしを口に入れた。
「おにいちゃんもはい」
僕にもくれる。
僕は瞳子さんの隣にしゃがみこんで、つくしの卵とじと菜の花のおひたしを食べさせてもらう。
それはすごく美味しくって、
「美味しいよ。ありがとう」
そう言うと、女の子は嬉しそうに、くすぐったそうに笑って、春の歌を唄いながら菜の花の向うへと消えていった。
僕らは顔を見合わせあって、笑いあう。
「何となく、家族で遊びに来ているような気分になってしまいました」
瞳子さんは顔を赤くして、俯いた。
どうやら同じ事を考えていたらしい。
いつか、見たい、実現したい光景。
18時。
海平線へと続く空は薄墨色と橙色。
海は静かで、波の音は規則的。
誰かが奏でるヴァイオリンの音は、海風にかき消されること無く、広がっていく。
カモメが飛ぶ空を瞳子さんは見上げて、海風が気持ちいいと呟いた。
砂浜を一緒に二人で歩く。
波打ち際。
瞳子さんは裸足。
冷たくない?
そう訊くと、彼女は髪を揺らしながら微笑んだ。
アサリ取りに来ていた老婆が、僕らに挨拶してくれる。
僕らは微笑みながら挨拶し返して、老婆が僕を見て、温かく微笑みながら、がんばってね、と呟いたのは、きっと雰囲気で分かったのだろう。
僕は苦笑して頷く。
「綾さん、どうしたんですか?」
小首を傾げた彼女に僕は何でもないと言い、
そして目的地に到着する。
灯台の真下。フェンス。南京錠が数多くかけられている場所。
誰かが鳴らした鐘の音が、聴こえてくる。
「綾さん、ここ?」
僕はポケットから取り出した南京錠を彼女に見せる。
「ジンクス。ここのフェンスに南京錠を二人でかけると、幸せになるそうなんですよ」
瞳子さんは顔を真っ赤にして、こくりと頷く。
僕らは二人で一緒に南京錠をフェンスにかけて、そして潮の音と鐘の音が奇麗に溶け合って奏でられるそこで、空から零れ落ちてきたような橙色の光りの中で、キスをした。
何度も唇を重ね、まだ彼女の唇の柔らかみと温度を覚えている自分の唇を僕は指で触った。
それから僕はディスプレイの横に置いておいた小さな硝子の瓶を手に取る。
その中には十日目の秋田県、桧木内川堤で瞳子さんと一緒に拾った桜の花びら、一枚と、そしてあの南京錠の鍵。
僕らは二つある鍵をそれぞれ一つずつ持ち合って、
そうしていつか二人で、ジンクスをかなえたら、またそこに行って――――
それは必ず叶えよう、叶えたいと願う、二人の約束。
そして僕は、かける前にかかってきた瞳子さんからの電話に出た。
とても嬉しく心地良い、幸せな感情の色に、心を染めながら。
【fin】
++ライターより++
こんにちは、槻島綾さま。
こんにちは、千住瞳子さま。
いつもありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回は桜前線を追いかけて、というテーマでいただいたノベル、いかがでしたか?
プレイングにありましたご希望に添えていたら嬉しいと想います。
南京錠のジンクスは、本当だったりするのです。
綾さんと瞳子さんの幸せ、私も祈っております。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、本当にありがとうございました。
失礼します。
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