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I guess
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──人の命を奪う瞬間の後味の悪さになんか、いつになったって慣れやしない。
いつだったか、自嘲気味にそう呟いたあの人は、同じ分家のひとだったか、それとも本家の誰かだったろうか。
──暗殺者は、依頼を受けてすらそれを遂行するまでに、ターゲットの誕生と死を知る。人間の感覚なんて曖昧なものだから、ターゲットと云う人間の存在を『認識』した瞬間が、暗殺者にとってのターゲットの『誕生』なんだ。認識生。倫理学の言葉で、そう呼ぶらしい。
認識生。
ターゲットの存在を認識した瞬間から、暗殺者の中でターゲットは存在する。
そして、存在を認識し、意識の中に誕生させたターゲットの命を、暗殺者は自らの手で、縊る。
「・‥…──でも」
歩道橋の上から見下ろした4車線道路では今日も、たくさんの車が列をなしながら、前の車の尻をじっと睨みつけている。たまにクラクションが鳴り響く。渋滞に苛ついたサラリーマンが勢いよくハンドルの真ん中を手の平で押し込んでしまうのだろう。そのクラクションの音で、また他の車の苛立ちがちょっとだけ嵩増しされる。
後味の悪さも、苛立ちも、それを認識できるだけまだましなんじゃないかと、少女は思った。歩道橋の手すりに両肘を置き、頬杖を突いたまま車道を見下ろしている。アゲハ──久良木アゲハは、色の薄いサングラスごしに目に写る景色に小さな溜め息を吐き、ヘア・ウィッグの不自然さを隠すために被った帽子の縁をつん、と指先で突いてみる。
家業を手伝う。
そんな事実そのものに関しては、不満を感じたことなどない。むしろ、自分がこうして何かしらの手伝いをすることで、自分の家族や親戚たちがきちんと任務を遂行できる確率が飛躍するのなら、喜んでその手伝いをしたいとさえ思う。でも。
いつだか耳にした、『認識生』──その言葉を脳裏に蘇らせてしまうと、ただ漠然とした不安のような感情が、胸に押し寄せてきてしまうのだった。
自分の中に認識され、生まれていったターゲットたちの、『死』を目の当たりにすることは、アゲハにはない。
彼女に与えられる任務は大抵、ターゲットたちの身辺調査やその類のものばかりである。彼らの命の幕を下ろすのは、彼女以外の一族の誰かで、それはアゲハの任務遂行の少しあとで行われるのだ。アゲハの中に生まれたターゲットたちが、不意にかき消える。その命の灯火を消され、そもそもが存在すらしなかった『何か』として、アゲハの心の中のずっと奥底に、静かに埃のように降り積もっていくばかりなのだ。
命の灯火を消すほどの後味の悪さを体感するには、現実味がなさすぎる。
クラクションをハンドルに押し込むほどの苛立ちを感じるには、焦燥感がなさすぎる。
一族の中においても、一般社会の中においても、どちらにしろ、宙ぶらりん──アゲハは自分自身のことを思い返すにあたり、常にそんな、空虚な思いが胸に漂うのを隠し切れなくなってしまうのだった。
大きな貨物車両が彼女の下を通り過ぎていく。それが巻き上げた砂塵に両目を細めて、アゲハは手すりに預けていた上半身を静かに起こす。
視界の左下のほうでできていた行列がゆっくりと動き出した。
──時間、だ。
何気ない様子を装いながら、のんびりとした歩調で歩道橋を降りていく。
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ターゲットは、依頼人の息子を殺害したと思われる無職の暴力団構成員。住所不定で、事件の直前まで連絡が取れていたはずの携帯電話は契約を解除したらしい。赤い安物のシャツを着て、人相隠しのためかセンスの悪いサングラスを装着している──要するに、チンピラだった。『アガリ』と呼ばれる、所属暴力団への上納金のことが要因で元同級生であった依頼人の息子をおびき寄せて殺したのではないかと予測される。
自ずから、やくざの道に身を投じて、友達を手にかける男の気持ちなど、アゲハには理解できない。パチンコ屋の入り口に呑み込まれていく行列と擦れ違うその瞬間、その列を構成するひとりだったターゲットのハンドバッグから──それが鍵付きであることは、歩道橋の上から観察している時に確認していた──スルリと、薄い財布を抜き取っていく。
接触前後に、歩調を速めたり、態度を変えたりすると、不要に目立って感づかれる可能性がある。この時が、1番緊張する──一族の他の人間が、人を殺める瞬間に慣れることができないと懐述したのと、同じ心境なのかもしれないとアゲハは思う。
が、その緊張も、一瞬で過ぎ去っていった。人ごみに紛れ、建物と建物の間の脇道にすっとそれてしまえば、もう彼女の気配に気付く者はいないからだった。
「・‥…最近のちんぴらさんは、名刺まで持ってるんですね……」
高解像度の小型デジタルカメラで手早く、ターゲットの財布の中身を撮影していく。同じ名刺が複数枚入っていたのは、それが財布の持ち主──ターゲットのものであることを意味している。有限の建築会社の連絡先が書いてあったが、おそらくはそれが暴力団の事務所なのだろう。キャバクラで受け取ったものか、自分の彼女のものなのか、女性の名前が書かれている名刺も複数入っていた。それも全て撮影する。加えて、ぞんざいに丸めて小銭入れに入れられていたレシートの類、銀行のキャッシュカード、ショップのサービスカード、財布そのものの折り目やファスナーの荒れ方、など──。
それら全てが、ターゲットと云う人間のことを知る手がかりとなる。社会的な所属、人間関係、行きつけの店や頻度、食生活やライフテーブル、財布の扱い方に見られる性格判断など多岐に渡り、アゲハの取得したこれらの情報が一族によって分析・解析され、ターゲットの命の幕を下ろすための準備の全てになる。
そしてアゲハの中で、ターゲットが『生まれ』ていくのが、この時である。
「……いろんなひとが……いるんだ……」
結局は、その一言に尽きる。そしてその一言がアゲハの唇から漏れる瞬間が、いつも、財布と云う媒体から得られる全ての情報が彼女にとって取得されたことを意味している。
黒い光沢のあるシャツの合わせ目で、手の平をきゅ、きゅ、と何度か開き、そして閉じた時には、もうアゲハの手指にデジタルカメラの形跡はない。バッグの中やシャツのポケットにそれを入れて持ち歩いたりは決してしない。
人ごみから気配を消したのと同じくらいの自然さで、アゲハはまた、雑踏の中にするりと紛れ込んでいった。
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「ふざけんじゃねえ! てめえ、今度合ったら覚えてろ!」
「…………っ、」
自分の手から財布を奪い取った男の手が、どん、と細い両肩を押し飛ばしたので、その手をよけようと身を締める隙もなかった。びっくりして、男の──ターゲットの顔を見上げてしまった。
ターゲットはパチンコ屋の前で腹立たしそうに、ズボンのポケットを探ったり、鞄の中を漁ったりしていたところで、アゲハに声をかけられ、逆上したのだった。
「・‥…──お財布、落しましたよって……」
云っただけなのに。
無論、それを彼の鞄から抜き取ったのはアゲハ本人ではあった、が──今まで、無言のまま財布をひったくる者や、条件反射でぺこぺこと頭を下げてくるターゲットこそいたものの、覚えてろ、などと怒鳴られたのは初めての経験である。
思わず、完全に被害者な一言がぽろりと零れてしまった。
人ごみは男の怒声に、ちらりと彼やアゲハに一瞥を投じたが、またすぐにもとの雑踏に戻っていく。他人事である。が、アゲハにとっては、そちらの方が好都合である。
任務完了。
それを報告しなければならなかった。
突き飛ばされた勢いで地面に落ちたバッグを拾い上げ、中から携帯電話を取り出そうとする。少し早急すぎる報告かもしれないと思ったが、ターゲットの怒声で、いつもより目立ちすぎてしまったことを早く伝えなければならない。それに、今日の変装スタイルを省みると──鼻が詰まったような声で歌う、最近の若い子に流行のシンガーソングライターを意識したものだった──、『親切にした初対面の男に突き飛ばされてあたしびっくり!』を友達に報告するごく一般の女の子に見えないこともないかもしれない。
道の端にしゃがみこんだまま、細い指先で、短縮回線のキーを押そうとした、その時。
「大丈夫かい? 君、怪我は」
目の前に差し出された手の平の、その持ち主を見上げる。
──わ。
見知った顔が、そこにはあった。
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「ほんと、スンマセン──わざわざサイフ、拾ってくれた人に」
今、アゲハは、ぽかんと小さく口を開いたまま、じっとターゲットを見つめている。
見つめて、しまっている。
「判ってもらえば、僕はそれで構わない。勿論、こちらのお嬢さんが、それで良いと云ってくれるなら、だが」
「え、あ、は、はい。良いです、悪くないです」
お嬢さん、と云う言葉が指し示すのが自分のことだと気付いたとき、アゲハはとっさにそう答えた──少し鼻の詰まったような甘い声で。
「テメエのサイフの管理もテメエで出来ないようじゃ駄目っすね。気をつけますわ」
そう言い残し、アゲハへ向けてぺこんと最後に頭を下げたあとで、ターゲットは彼女と、彼女の見知った男──十ヶ崎正へと背中を向けた。そしてそのまま、パチンコ屋のドアをくぐろうとして──やはり止め、とばかり、背筋を伸ばしたまま大通りの雑踏へと消えていく。
『大丈夫かい? 君、怪我は』
そんな声を掛けてきた男が、自分の知りあい──十ヶ崎であることを知った瞬間、かなりの場数を踏んできた筈のアゲハも、ぐっと心臓が咽喉のすぐ奥までせり上がってきたのを感じた。
『女の子を突き飛ばしたまま立ち去っていくなんて。許せないな』
おろりと彷徨ったアゲハの手を力強く引き、十ヶ崎は彼女を立ち上がらせる。アゲハは、気が気でなく──まさか相手が、自分の正体に気付きはしまいかと──帽子を、少し深めに被り直した。
『君、少し待っていて。僕は今の男をここに連れて戻って来るから』
──なんてこと! これ以上目立ちたくありません!
が、そんな本音を、アゲハがそのまま告げられる由もなく。
十ヶ崎はアゲハの返答も聞かぬまま、堂々と眼前のパチンコ屋の中へと足を踏み入れていったのだった。
そしてどう云うわけか、己の言葉と1寸違えることもなく。
ほんの少し、逡巡するほどの時間のうちに、ターゲットはのこのこと十ヶ崎について、店の外へとやってきたのだ。
パチンコ屋の店員は、きっと十ヶ崎のことを、刑事だか何かだと思ったに違いない。
そして、ターゲットにしても、然りであったろう。
「──あ、あのぅ。ホントにぃ、ありがとうございましたぁ」
ふたり並んで、ちんぴらの後ろ姿を見送りつづけるのは、あまりにも間が抜け過ぎた図である。早々にこの場を立ち去りたいと、アゲハは相変わらずの鼻詰まり口調で十ヶ崎にそう告げた。
「いや、礼を云われるほどのことでもない。僕は純粋に、ああ云った輩が許せないだけだから──」
ぴ、とスーツの合わせを引っ張り、十ヶ崎はアゲハに向かってそう応えた。「君も知ってるだろう」
どきん。
漸く収まりかけていたアゲハの鼓動が、また大きく彼女の胸を打った。
「勤勉に奉職する姿は美しいものだが、だからと云って──あまり危険な事に首を突っ込んだらいけないよ」
──ばれている。
すっかり、しっかり、くっきりと──十ヶ崎に、自分の正体を見抜かれている。
「特にああ云うタイプの男は、自分の自尊心が傷つけられた事を根に持つタイプだろうから。夜の独り歩きには、充分気をつけるように──わかった?」
にっこり。
サングラスの奥で引きつったアゲハの表情と、あまりに爽やかに彼女に微笑みかける十ヶ崎の笑顔は、まったくもって相反するものであった。
ばれているんだか、ばれていないんだか、良くわからない──現れた時の清々しさ同様、やはり颯爽とその場を後にしていく十ヶ崎の後ろ姿を見送りながら、アゲハはただただ立ち尽くすしかない。
「──でも、結果的には……」
鼻詰まり系女子、イコール、久良木アゲハ。
ばれてしまったとしか、云いようがないのかもしれない。
握りしめたまま手の平の中にあった携帯電話が、ヴヴヴヴ、と小さく震え出した。
任務完了の旨を報告するはずのアゲハからの着信がないことを訝しんでのことかもしれない。
なんて報告すればいい?
任務完了。
データ収集成功。
それと。
──ばれちゃいました、って?
駅前大通りパチンコ屋前、午前11時。
澄み晴れた春空のもとで、携帯電話を握りしめたアゲハは苦悩する。
(了)
──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【3806/久良木・アゲハ(くらき・あげは)/女性/16歳/神聖都学園1年】
【3419/十ヶ崎・正(じゅうがさき・ただし)/男性/27歳/美術館オーナー兼仲介業】
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