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触れる優しさの温度
『高嶺ちゃん』
そう呼んでくれる声はいつも優しくて。
向けてくれる笑顔はいつも温かで。
差し伸べてくれる手の温かさは、何よりも愛しくて、大切なものだ。
それに、今までどれだけ救われてきただろうか。
そして自分は、どれだけ、返せているのだろうか……。
◇
久方ぶりに風邪を引き、寝込んでしまった倉前・高嶺は自室のベッドの中でぼんやりと目を覚ました。
高めの位置にある天井がやけに近く感じるのは、視界がぼんやりとして目に映るものが常とは違って見えるからだろう。
「……だる」
昨夜よりも熱は幾分下がったものの、まだ鈍い頭痛や身体のだるさ、加えて関節の痛みは続いていた。
はぁ、とも、うー、ともつかない溜め息をついた高嶺は、首だけ動かして時計を見る。
短い針と長い針はそれぞれ、17時の位置を指している。もう夕方になったのだ。
(こんなに寝るのって久しぶりだ……)
朝の8時に一度目を覚まして、少しのお粥と薬を身体に入れたあと、12時まで寝てまた起きて朝と同じ食事をしまた寝て。
今日の夕方になるまでにたっぷり8時間は寝ている。これからまた、夜も早い時間に寝るのだろう。
『きちんと食べて、お薬飲んで、たくさん寝る。これが大事なの』
そう言っていた従姉妹の倉前・沙樹の言葉を思い浮かべて、ふと笑みが零れた。
そういえば、霞がかった夢の中で彼女の微笑んでいる顔を見たような気がする。
(どんな夢だったかな……)
考えてみるが、夢をはっきりと覚えていることの方が稀だ。高嶺は思い出そうとするのはすぐやめて、少し起きるか、と思いゆっくりと身体を起こした。
長い時間寝ていた所為で、背中が痛い。動かしていなかった体をほぐすように、伸びをする。
「はぁ」と気抜けした声を発しながら、ぱたりと両手を下ろした。
すると、コンコン、と控えめに扉がノックされる。
「はい」と答えると、「お嬢様。沙樹さんがいらしてます」と使用人の声が返ってきた。
「入ってもらって」
そう返事をすると、扉が開く音と共にひょっこりと沙樹が顔を出した。
「こんにちは高嶺ちゃん。お邪魔します」
ふんわりと笑って律儀に言う沙樹に、高嶺は自然と笑みを零す。
「それでは私は失礼します」と言って仕事場に戻る使用人に、沙樹はぺこりとお辞儀を返し、高嶺は「ありがとう」と声をかけた。
沙樹は後ろ手に部屋の扉を閉めてから高嶺の傍で来ると、ちょこんと彼女の脇に座った。そして心配した面持ちで「具合どう?」と問いかけた。
「うん。もう大分いい。熱はまだ、平熱とは言えないけど」
明日には学校に行けるかな、と言う高嶺に、沙樹は無理しちゃ駄目だからねと釘を刺す。
そして膝の上に乗せていた鞄を開けると、ノート一冊とプリント数枚を取り出した。
「これが、今日の古典の授業のノート。あと、総会のお知らせのプリントと、グラマーの課題」
一つ一つ言いながら、高嶺に見せる。
「机の上に置いていていい?」
「うん。ありがとう、助かるよ」
「お安い御用です」
くすくすと笑いながら、沙樹は立ち上がって高嶺の机の上にそれらを置いた。
「グラマーの課題が心なしか多いように見えたのは熱のせい?」
「残念ながら熱のせいじゃないわね。ばっちり5枚丸まるあるの。問題もびっしり」
うー、と嫌そうに顔を歪めた高嶺の隣に、沙樹は苦笑しつつ腰を降ろす。
「提出は月曜だから。土日挟むのが救いかな」
「確か化学も何か出てたよな……」
勉強は嫌いではない。けれど課題を多く出されて嬉しいということはない。
化学と英語(特にグラマー)といえば、二人のクラス担当の教師は鬼のように課題を出すことで有名だった。
ぱったりと身体を折り曲げた高嶺を見て沙樹はその頭をぽんぽんと撫でる。
「まぁまだ身体は本調子じゃないんだし。元気になってから課題のことは考えるといいよ」
「……うん、そうする」
顔を上げて、こっくりと高嶺は頷いた。
「あ、そうだ」
ぽん、と両手を合わせてそう呟いた沙樹は、またごそごそと鞄の中を探り出した。
「?」
何だろう、と思い高嶺が見ていると、「これをね、持ってきたの」と言って銀色の魔法瓶とプラスチックのコップを取り出した。
きょとんとした顔になった高嶺に、沙樹はにっこりと笑う。
「蜂蜜ゆず湯。家で作ってきたの」
喉にいいし、身体も温まるかなと思って。
そう言った沙樹は、「飲める?」と小首を傾げて高嶺に訊いた。
「うん、飲める。……ありがとう」
高嶺は微笑みながら礼を言った。
そしてこぽこぽと音を立ててコップに注がれる黄金色の液体を見る。
懐かしいな、とぼんやりと思った。
「……小さいときに、お祖母さまが作ってくれたっけ」
独り言のように呟いた高嶺に、沙樹はうん、と頷く。
注ぎ終わったコップを高嶺に渡しながら、沙樹は話す。
「本家に行って体調崩しちゃったときとかね。柚子はお祖母さまの家に成っている柚子だったよね」
沙樹の話に頷きながら、高嶺は沙樹のゆず湯に口をつけた。
程よい甘さと熱さに、柚子の爽やかな香りと味。
喉を優しく通り過ぎていき、身体を温めてくれた。
蜂蜜ゆず湯を飲み干した高嶺は、ふぅと一つ息を吐くと、傍で見ていた沙樹に笑いかけた。
「ありがと。おいしかった」
温かくなった。
そう言うと、沙樹はほっとしたように微笑んで「良かった」と言った。
「……沙樹」
「なあに、高嶺ちゃん」
飲み終わったコップを弄びながら、高嶺は言う。
「今度沙樹が風邪引いて寝込んだら、あたしが看病するよ」
「ええ、高嶺ちゃんが看病?不安だなぁ」
茶化すように笑って言う沙樹に、高嶺はむーと頬を膨らませた。
「あたしだって、本を見ればお粥くらい作れるよ。……多分」
自信を持って言えないところがかなしい。が、作る努力は出来るし、そうひどい物はできないだろうとも思う。
「沙樹はいつもあたしを助けてくれるから、沙樹が弱ったときはあたしが力になる」
自分でも気づかないうちに、するりとその言葉は出てきていた。
熱のせいだろうか。常よりも頭はぼんやりとしているのに、口からは自然に言いたいことが零れてくる。
「あたしは、沙樹に色々なものを貰ってるから、それを少しずつでも返したい」
幼いときから今まで、彼女が傍に居てくれたことがどれだけ救いだっただろう。
高嶺の話すのを聞いた沙樹は、やや驚いたような顔になり、次いでひどく柔らかく目を細めた。
「……ありがとう。でもね、私だって、いつも高嶺ちゃんに助けてもらってるよ?」
「……ううん、そんなこと」
ない、と言おうとして、段々と瞼が重くなってくるのを高嶺は感じた。
まだ、言いたいことはあるのだけど。
そうもどかしく思っていると、隣からすっと手が伸びて高嶺の手に握られていたコップを取っていった。
「?」
状況がよくわからず、不思議そうな顔をして隣を見ると、コップを持った沙樹が母親のような表情で笑っていた。
「高嶺ちゃん、もう眠ったがいいみたいだね」
「んー…」
「……ちょっと長居しちゃったかな。疲れてない?」
ごめんね、と謝る沙樹に、高嶺はゆっくりと頭を振る。
「大丈夫。ゆず湯飲んで身体温まったから、眠くなってきたんだと思う」
夜眠れない時にホットミルクを飲むと眠りやすい。きっと、それと同じだと思った。
少しずつ眠りへと沈んでいきそうになるのを止めながら、高嶺はもぞもぞと布団に潜った。
ベッド脇の棚にコップを置いた沙樹は、掛け布団を高嶺の首元まで持ってくる。
「じゃぁね、高嶺ちゃん。大人しく寝るんだよ?」
布団を被った高嶺の額をぽむぽむと撫でる。
高嶺は子供扱いするなよと抗議しようとしたが、急激な眠気に襲われ、ただ「むう」と妙な声を出すことしか出来なかった。
そして落ちていきそうになる意識に抵抗しながら、言葉を紡ごうと口を動かす。
「……さき、」
「なーに」
「……今日、あり…がと」
もう半ば眠りに落ち始めた高嶺の言葉に、沙樹は「どういたしまして」とふんわりと微笑んだ。
そしてその後すぐにすーすーと穏やかな寝息を立て始めた高嶺の顔を見つめる。
「おやすみ高嶺ちゃん」
そう声をかけた後に、そっと優しく彼女の片手を手に取り握ってから片方の手で二、三度軽く手をとんとんと叩いた。
怖い夢、哀しい夢を見ないように、おまじない。
それはいつだったか、祖母がしてくれたこと。
――大丈夫、おばあちゃんが一緒にいるからね。
手の平の祖母の温もりは、祖母が離れてからも優しく残って安堵感を与えてくれた。
高嶺の手にも、その安堵感が残るよう、祈りを込めて。
「……早く元気になってね」
囁くような、愛しさを込めた沙樹の呟きに。
眠る高嶺は安心したような、無垢な寝顔を返した。
――たかねちゃん、くるしくない?
沈んでいった夢の中で。
今よりもずっと小さい従姉妹が、同じく小さい熱を出した自分の隣で泣きそうになっている。
――だいじょうぶ。
そう言うと、ほんとに?と心配そうな顔で首を傾げる。
こほ、と一つ咳をした自分の手を、小さな手がぎゅっと握ってくれた。
そうして、もう一方の手で、とんとんと手の甲を叩く。
――たかねちゃんがくるしいの、とんでけー。
幼い、優しい祈りが耳にこだまする。
――さきがいてくれるからだいじょうぶ。
――こわくないよ。つらくないよ。
その温もりが守ってくれるから。
Fin.
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