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NECK ―can't eat…can't sleep…can't CRY―
なんだか全てが夢のような気がする。
なんだか全てが悪夢のような気がする。
僕は本当にいま起きているのだろうか?
本当はまだ眠っているんじゃないのだろうか?
ここは現実ではなく夢の中で。
僕はただ、心地良くも残酷な夢をずっとみていただけなのではないだろうか?
*
文月紳一郎は眉間に皺を寄せた。
そんな彼が後見人をしている相手は、目の前に座る菊坂静である。
静はマンションで一人暮らしをしていたのだが、連絡が途絶えて様子を見に来た紳一郎はそこで驚くことになった。
最近の静は明るくなっていて安心していたというのに。
今こうして目の前に居る彼は、まったく違う。
「どうした? なにがあった?」
訪ねて来た紳一郎を見て、怪訝そうにする。
「……文月さん……どうしてここに……?」
ぼうっとした瞳でいる静は紳一郎に視線を遣っているつもりなのだが、実際は「見ていない」状態だった。
それに表情がおかしい。虚ろな笑みを浮かべたままなのだ。
紳一郎は眉間にさらに皺を寄せる。
(一体なにが原因だ……? 誰か……死んだのか?)
静は両親と共に事故に遭っている。その際に両親は死に、静だけは奇跡的に生き残った。
紳一郎が静の後見人になったのは、静が彼の親友の息子だからだ。親友に代わって静を見守ると誓ったのだ。
だが静は、ただ一人生き残った静はあの日を境に様子が変わった。
ひどく……危うくなったのだ。
細いロープの上をふらふらと歩いている綱渡りのような印象を与えていた。
些細なことでひどく落ち込んだり、そのせいで不眠に陥ったり物を食べなくなる。
精神的に安定しないのだ。
しかし最近の静は信じられないくらいに元気で明るかった。何かいいことでもあったのだろうと思っていたし、いい傾向だと感じていたのに。
「どうして笑ってる……?」
「え? 笑ってますか?」
自分がどんな表情なのか静はわかっていないようだ。
彼は自分の顔に手を遣って首を傾げる。
「……あの時は笑えなかったのに…………僕、どうやって笑ってます?」
心配になった紳一郎はしばらく静のところに住んで様子をみることにした。
学校に行ける状態ではないので休ませることにする。
静は一日のほとんどをリビングのソファに座り、外を見て過ごしていた。何かを探している感じではないが、夜になってもずっと同じ姿勢のままのことが多い。
食事も睡眠もきちんと取らず、そこに座ったままなのだ。紳一郎が訪ねてくる、どのくらい前から彼はこうだったのだろうか?
「食べないと体によくない」
と言っても。
「おなか空いてないから」
と断る。
「眠らないとダメだ」
と言っても。
「眠くないし、眠れないので」
と言う。
明らかに肉体は疲弊しているのに、静の精神状態がそれを許さないのだ。
眠ることも、食べることも、まるで禁じているようにすらみえる。
本人が無自覚でやっているので始末におえない。
無理に静を部屋に連れていくと、ほとんど使用されていないベッドが目に入った。
電池の切れた携帯電話は机の上に放置されている。
ベッドが使われていないなら、静はどこに居た?
不審そうにする紳一郎の手から離れて静はベッドの側に置いてあるパイプ椅子に腰掛ける。
なんでそんなところに座るんだという目で見る紳一郎などに構いもせず、静は窓のほうを見た。
「静」
名前を呼ぶと静は視線を向けてくる。
「……目の下にクマもある。とにかく今は薬を飲んででも眠れ」
「…………」
無言でいる静に市販の睡眠導入薬を渡す。箱をじっと見る静に、水の入ったコップを手渡した。
受け取った静はまた窓のほうを見た。紳一郎にはわけがわからない。
どうして窓ばかり見ているのだろうか? いや、窓の外を見ているのだろうが……。
「……外に何かあるのか?」
そう問うと静は目を細める。
「え? いえ、べつに」
不思議そうな口調の静は、どうやら無自覚で窓の外の景色を見ているらしかった。
わざわざイスに座ることもないだろうに。
静はふと気づいたように手の中の薬に視線を落とす。
「文月さん……」
「? なんだ?」
「僕……どうやって眠ってたんでしたっけ……?」
呟いた静の言葉は信じられないものだった。
それはすなわち。
「静……?」
「『眠る』って…………どうすればよかったんでしたっけ……」
どうすれば『眠れる』のか、静はわからなくなっているのだ。
無言でいた紳一郎は静から箱を奪うと薬を取り出し、渡す。
「これを飲んで、ベッドに横になればいい」
「…………眠くないんですけど」
「いいから」
少し強めに言うと、静はぎこちない動きで薬を飲んだ。そしてノロノロとベッドに入る。
それを見届けると紳一郎は部屋から外に出た。
*
薬はそれほど効果を発揮しなかった。静は薬の力でも二時間程度しか眠らないのだ。
食欲の減退で彼の身体は衰弱する一方だった。
だが本人にはそれがわかっていない。
紳一郎は眉間の皺に手を当てて唸る。
静は良くも悪くも全て態度に出る少年だ。感情の起伏が激しいとも言う。
いいことがあれば素直にそれは生活や本人にもあらわれる。
よく食べ、よく眠り、よく喋る。
だがその逆もあるのだ。
辛いことがあれば、静は食べることと眠ることをやめてしまう。
肉体がどれほど空腹を訴え、睡眠を欲していても静の感情がそれを拒否する。いや……静にはそんな自分の身体の悲鳴が聞こえはしないのだ。
彼は何かに心を奪われている。
そしてその何かに心を蝕まれている。
リビングで仕事をしていた紳一郎は静の部屋のほうへ視線を遣った。
薬を与えてからというもの、静は今度は部屋からほとんど出てこなくなった。
紳一郎の言いつけは一応守っている。夜になると睡眠導入薬を飲むようにしているのだ。
様子を見るために静の部屋のドアをそっと開ける。
暗闇の中で、またイスに腰掛けて外を見ているではないか。止めてもやめようとしないだろう。
他にすることもないし……静の気の済むようにさせてやろうと紳一郎は思った。
こういう時、静の父親――紳一郎の親友が生きていればどうするだろうか。
(まあ私とは違うだろうな……)
うまく言いたいことを口にできない自分とは違う。
両親がいれば……静はこうなってはいないはずだ。
机の上に投げてある薬箱。それに目を遣ってからドアを軽くノックし、紳一郎は部屋に入ってきた。
電気をつけるが、静は気にもとめない。
「静」
「……はい?」
空虚な笑みのままこちらを向く静はさらに痩せている。
それもそうだろう。紳一郎がここに住むようになる前から彼は食べ物をほとんど口にしていないのだ。
「何があった」
言いたくないだろうが、一応訊くことにする。
静は視線をさ迷わせた。
「いえ……なにもないです……」
ぼうっとした声。
紳一郎は眉間に強く皺を寄せた。自分は静の父親ではない。だが父親の代理なのだ。
静の目の前に来ると視線を合わせる。
「言いたくないのか」
「…………」
「それもいいだろう。だが、このままでは倒れてしまうぞ」
「……そうですか」
興味がないように言う静の頬を引っぱたきたくなる。だが静は繊細なのだ。叩いて言うことをきくなら最初からそうしている。
静はとても脆いコドモなのだ。
少しさがった眼鏡を押し上げて紳一郎は言う。
「とにかく夕食をとろう。こっちへ来なさい」
用意された夕食に静はやはり手をつけない。
紳一郎は嘆息しかけるのを我慢する。こちらが落胆する様を静に見せるのは有益ではない。
「少しでもいいから、口にしなさい」
「…………おなかが空かないんです」
「そうだとしても、口に入れなさい」
「………………」
スプーンを取って目の前にあるお粥を少しだけすくう。
口に運ぶ静はほんの少しだけ食べてスプーンを置いた。もういい、ということだろう。
「毎日私と一緒に食べること。今日からそれを実践する」
「……お仕事で忙しいでしょうから、いいですよ」
「私は友人の忘れ形見をむざむざ死なせる程、お人好しでも善人でもない」
はっきりと言い放ち、紳一郎は自分の食事に口をつける。仕事をきちんとこなすためにも食事だけはきちんと取ることにしているのだ。
「――――それだけは、忘れるな」
冷たく言う紳一郎の声に静は無反応だ。
紳一郎の気持ちが静に通じるとは思っていない。仕事以外の自分は口下手なのだ。
嫌われてもいい。親友の息子をむざむざ死なせるよりは、嫌われてでも何か食べさせるべきだ。
静は黙ったまま、紳一郎の食事が終わるまで座っていた。
紳一郎の食事が終わるや、「ごちそうさまでした」と小さく言って食器を片付けると部屋に戻ってしまう。
「…………」
それを見送り、紳一郎は窓の外を見遣る。空には月がぽっかりと浮かんでいた。
*
「ん……」
紳一郎は瞬きして顔をあげる。
どうやらうたた寝していたようだ。
リビングを見回し、紳一郎はわけもなく安心した。そして目の前に広げられている書類を整頓し始める。もうそろそろ自分も寝たほうがいい。
だがふいに――――気になって静の部屋に向かう。
つい先ほど安心したにも関わらず、今は物凄い不安になっていた。
ドアをノックするべきかと思ったが……寝ているならば起こしてしまうことになりかねない。
いつもの、様子をうかがう時と同じようにドアをそっと開ける。
ドアの隙間から見える静の部屋はやはり暗く、電気がつけられていなかった。
ベッドに静はいない。またイスに座っているのかとそちらに目を遣り、紳一郎はドアを大きく開けた。
「静!?」
声をかけるが返事はない。
電気をつける。
こうこうとした明かりに照らされた静の部屋には、主の姿がなかった。
紳一郎はきびすを返し、あちこちを探す。だが静はいない。
(まさか……)
そう思って玄関に向かう。
玄関に静の靴がない。それに――――。
「……これ、は……」
落ちている包帯を掴み、持ち上げる。
静が右手にしている包帯だった。両親を失った際の事故の傷跡が、静の右手首にはしっかりと刻まれている。それを隠すための包帯だ。
「どうしてこんなところに……」
ハッとして見た。
血、だ……。
一滴の血が、そこに。
「…………静?」
紳一郎の声に応える者はいない。ただ彼の握る包帯がゆらゆらと、風もないのに揺らめいていた――――。
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