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異次元学園
「ううっ、暗くなってきたよぉ…怖いよぉ…本当に幽霊出たらどぉしよぉ〜…編集長〜」
か細く弱々しい、なのに何故か同情を引かない泣き声が、闇に沈みつつある音楽室から漏れた。
「静かににしなさいよっ! 外に聞こえるでしょっ!」
(何なんだよ、コイツ…編集長って誰だよ一体…)
小学生のように泣きべそをかく三下・忠(みした・ただし)を押し殺した声で叱りつけ、馬渡・日和(まわたり・ひより)とその内部に潜んだ馬渡・日向(まわたり・ひなた)は、再び周囲の気配を伺った。
つい先程、最後の夕日が消え行き、部活停止措置のため、まるで人気の無くなった特別教室棟は、まるで廃墟のような寒々しさだ。
学校からの通達を破り、停学のリスクを冒して学校に居残ったものの、日和にも日向にも(ついでに三下にも)、何かアテがある訳ではなかった。
唯一の情報と言えるのは、昼間の内に、日和と日向の姿を巧みに使い分け、尚且つ魅了の術の手まで駆使して調べた、生徒(一部職員にも)の間に流れている噂だけだった。
曰く。
夜の学校に現れるという「異次元学園」に住み着いているのは、二十数年前に学内で事故死した、少女の霊だ。
事故死というのは表向きで、実は誰かに殺されたらしい。
異次元学園に繋がる「扉」は、少女の気分次第で、廊下の突き当たりや特別教室など、どこにでも現れる。
注目すべき情報は幾つかあったものの、何せ、元々が無責任な噂である。
大部分がマンガチックな尾ひれ…
「夜中の十二時十二分に、突き当たりの鏡の前で少女の名前を三回呼ぶと、少女が現れてその人間を食い殺す」
などといった類が付いて回り、どこまでが真実を含んだ情報なのかがさっぱり分からなくなっていた。
(二十年以上も前の話だろ? 誰も正確に覚えてる訳ねーよなぁ。そもそも、そういう女子生徒が存在したのかも…)
「でも、これだけ確固たる噂が代々受け継がれてるってことは…何か、元になるような事件があったのは確かよ」
それが、今回の事件と関わりがあるのかは、まだはっきりしないけど。
ボヤく日向に、日和はそう言い聞かせる。
「あ、あの、昼間、学校の記録を調べたんですけど…確かに、二十年ちょっと前に事故死した女の子っていうのは、実在するみたいですよ」
おずおずと切り出す三下に、思わず日和が詰め寄る。
「何ですってぇ? なんでそーゆー肝心な事を早く言わないのよっ!」
思わず、三下の胸倉を掴む日和であった。
誰かに命令されたとかで、この生徒連続失踪事件を調べているという三下は、思わずひぃ、と言って小さくなった。
「す、すみませんっ、でも、あの、言い出す暇が…」
(おい、日和。大声出すな!)
日向に鋭く注意され、日和は思わず三下から手を離す。
「ええと、名前は確か、石蕗・命(つわぶき・みこと)さん。図書委員で、古い本を図書館の地下倉庫に運び込んでいる途中、倉庫の蓋が閉まって、中に閉じ込められてしまったんだそうです」
服装を整えながら、三下が言う。
(ちょっと待て? 誰も助けに来なかったのかよ。図書館だったら、司書の先生とか、誰かいるだろ?)
日向の疑問を、日和が代わって三下に告げた。
「運悪く、その日は、一学期最後の日で…学校には既に誰もいなかったそうです。彼女が発見されたのは、夏休み明けの…二学期の最初の日…」
「あ…」
(…)
その事故の悲惨さに、日和、日向共に言葉を失う。凄惨な場面が頭を過ぎり、日和は端正な顔を歪ませ、華奢な体をぶるっと震わせた。
(うーん…そりゃ、化けて出てもおかしくはない、けどなぁ)
「でも、その事件そのものは、二十年以上も前でしょ? 今になって、その子がそんなことし始めるのは、おかしいわよね?」
何か、きっかけがあるのではないか。
日和も日向も、同時にそう考えた。
失踪した生徒たち自身が、彼女の死に直接関わっている訳はない。現在高校生の彼らが、二十数年前の事件に関われるはずもない。
だとすると、何が少女の霊を凶行に駆り立てたのか?
噂通りなら、彼女は「“気に入った生徒”を異次元の学園に引きずり込む」のだ。
しかし、聞き込みで得た行方不明の生徒たちの評判は決して芳しいものではなく、どう考えても寂しがる幽霊に気に入られるようなタイプではなかった。
だとするならば。
「その幽霊の子って、実は悪霊で、最近まで封じられてた…ってこと、なのかな…何かで封印が解けて、それでまた…」
珍しく、日和の言葉に勢いが無い。
そのような悲惨な目に遭って命果てた少女を悪霊呼ばわりするのは…例え、それが真実である可能性があったとしても、心苦しいものがあった。
(まあ、こればっかりは…本人に確かめるしかねぇな…)
「ええっ、本当に本人に会うんですかぁ…もしその幽霊の人が悪霊だったら…た、祟り殺されるじゃないですかぁ〜」
こっちまで幽霊にされるかも、止めましょうよ、という三下の泣き言を無視して、日和は日向の言葉に頷き、意を決して立ち上がった。
その途端。
「だ、誰か来る!?」
(ヤバッ! 隠れろ、日和!)
廊下をどかどかと乱暴な足音が近付いて来たのを感じ取り、日和は咄嗟に机と壁の間にしゃがみ込んだ。
だが、三下がびくりとして縮み上がり、その拍子に跳ね上がった足が椅子を蹴った。
がたん! と、その音は驚く程大きく響く。
「誰だ!」
乱暴な足音が音楽室の前で止まり、それに負けず劣らず粗雑な仕草で、ばたん! と扉が開いた。ぱっと電灯が点き、室内が明るく照らされる。
こうなっては、誤魔化し切れない。渋々、日和は立ち上がった。ついでに三下も小突いて立ち上がらせる。
(げっ…選りのも選ってコイツかよ〜)
「何でコイツ…音楽室に来るなら響センセじゃないの?」
日向がげんなりした声で嘆き、日和が誰にも聞こえない声で不平を鳴らすのも道理だった。
そこにいたのは、ごつい体を薄汚いジャージで覆った、坂田という男性体育教師だ。女子生徒の体を必要も無いのにベタベタ触りたがるので有名であり、反面、見た目が整った男子生徒には何かと辛く当たるという、教師にあるまじきメンタリティの持ち主として知られていた。
言うまでも無く、日和は体を触られ、日向はねちこい嫌がらせを受けた経験があった。どちらにせよ、好感を持てる要素は皆無の相手である。
「何だ、お前ら…ここで何してる?」
日和の姿で緩みかけた坂田の顔が、がくがく立ち上がった三下の姿を見た途端、面白いくらいに曇った。
「あ、あの、僕…」
「ご、ごめんなさい。忘れ物が見付からなくて、探してたんです。三下君にも手伝ってもらって」
三下がボロを出す前に、日和がその言葉尻を奪う。
僅かな仕草、言葉の響きに乗せ、日和は魅了の魔力を使った。
たとえ幼いとは言え、やはり「魅力」そのものの具現化と言える魔物、サキュバスでありインキュバスである存在の力は絶大だった。
不機嫌に顰められていた坂田の顔が見る間にとろんとしてきた。
「あぁ…そうか、それなら、仕方無いなぁ…」
「ごめんなさい。見付かり次第帰りますから…この事は、先生の胸にだけ、仕舞っておいて下さいね?」
(くわ〜、よく言うよコイツ…)
自分の嫌悪感と日向のツッコミをこらえつつ、日和は努めて笑顔を作った。
結局。
「あ〜! キモかった、もう!! んじゃ、気を取り直して! 行くわよ!」
(…ったく…)
「ううっ、やっぱり行くんですかぁ…」
坂田を追い払った後、面倒臭くなってきたらしい日向と泣きそうな三下を無視して、日和はがらっと廊下の扉を開け、外に出た。
「私の能力でも、次元の歪みを探知するくらいは出来るわ。噂では確か…」
(廊下の突き当たりとか、特別教室の扉とか、あと突き当たりの鏡とか、だったなぁ。行方不明の奴らのいなくなった時の状況からして、全部有り得るような)
深まりつつある闇に覆われた廊下で、日和は霊的な感覚だけを頼りにじりじり進んだ。後ろに三下が張り付いていたが、無視して『扉』を探すことに集中する。
次元と次元を繋ぐ、「歪み」とも「扉」とも表現されるものは、独特の存在感を放つ。
まるで、重力が揺らいでいるような、独特のあの不安定な感覚。ただの人間でも、多少敏感なら、何とはなしに違和感として感じるようなものだ。
まして日和のような存在には、粘度の高い液体の波のように確固たるものとして感じ取れる。
「…上? この上の階?」
(ああ、上が妙だな。空間が歪んでるみてーだ)
迷うこと無く、日和は音楽室脇の階段を駆け上った。三下も慌てて後を追う。
「! あれね!」
(おい、急げ日和、消えかけてる!)
彼らが目にしたのは、四階の廊下の突き当たり、本来ならただ壁のあるべき部分に出来た、まるで緑色の水面のように見える、奇怪な「揺らぎ」だった。
向こうに、あるはずの無い、廊下の延長のような光景が広がっている。
無言で、日和はダッシュした。
次元の揺らぎは、ゆっくり消え行きつつある。背後で三下が何事か叫んだが、気にせずそのまま走る。
それは彼女が近付く間にも、何かに埋もれるようにゆっくりと消えて行く。
消える間際、間一髪で、日和は歪みの向こうにダイブした。
まるで水面に飛び込むように、彼女の小さな頭、形の良い胴体、そしてすらっとした白い脚が歪みに呑み込まれて消える。
「馬渡さん、一人じゃ…ああっ!」
慌てて後に続こうとした三下はしかし、固い壁面に弾き返されただけに終わった。
馬渡日和、そしてその別人格・日向の姿は、完全に次元の壁の向こうに消え失せていた。
「う〜、イタタタ…」
(ったく、イキナリ無茶してんじゃねーよ)
派手に転倒し、打ち付けた体の部分を摩りながら、日和は体を起こした。
どうやら、上手く行ったようだ。周囲を見回すと、明らかに今までとは様子が違う。
もうとっくに陽は落ちているはずなのに、廊下の窓からは、夕暮れ時の蜂蜜色の光が差し込んでいる。まるで、一時間以上も時間が逆戻りしたかのようだ。
何より妙なのは、内装が明らかに見慣れた学園のそれとは違うという事。
「何か、こう…古臭いわよね。昭和の香りって言うか、一昔前感って言うか…」
(これ、建て替え前のガッコなんじゃねーの? 確か、何年か前に全面改築したんだよな、ウチの学校の校舎)
言われて見れば、確かに、学園の古い写真の中などに写っている校舎と似ている気がする。
おまけに、何だか、やけに人気が無い。
ただ無人だというのではなく、外側だけ作って備品も運び込んだものの、全く人の出入りの無い建物や、或いは忘れられた廃墟のような、そんな生活感の無さだ。なのに、変に小奇麗で、所謂「荒れ果てた」ような感じは全くしない。
奇妙な空疎さ。
敢えて言うなら、そんなものに支配された空間だった。
「ここが、『異次元の学園』…」
(噂どおりなら、主がいるはず、なんだがな。そいつは…)
日和がきょろきょろした、その時だった。
「まあ、どうしたの、こんな所で? 下校時間を過ぎたら帰らないと、怒られるんじゃないの?」
気遣わしげな少女の声に、日和ははっと振り向いた。
何時の間にか、小柄な少女がそこに立っていた。
緩く編んだ三つ編みの両お下げに、眼鏡を掛けた、大人しそうな少女。今時見かけない地味なタイプだが、澄んだ綺麗な目が愛らしい。
両手に本を抱えて、彼女は不思議そうに日和を見ていた。
「あ…あ、ごめん、ちょっと、人を探して…」
(って、何言ってんだ! コイツが幽霊だろーが!)
黒曜石のような艶やかな日和の瞳に、驚愕が閃く。
あまりにも人間的な少女の姿は、到底幽霊とは思えなかったのだ。全く「幽霊臭く」ない。足もちゃんとあるのは勿論、仕草、表情に至るまで、全く生身と変わらない。
色が青白いということも無ければ、影が無い、ということも無い。穏やかな物腰も、あまりに人間的だ。
「あなた…もしかして、石蕗命さん?」
恐る恐る、日和が尋ねる。少女は驚いたように、日和を見返した。
「どうして私の名前を知ってるの? 私、もう二十年以上も前にいなくなった人間なのに」
ニジュウネンイジョウモマエニイナクナッタニンゲンナノニ。
当たり前のように紡がれたその言葉は、冷たい水のように、日和の中に染み込んでいった。
その感情を抑え、一応の自己紹介をしてから、日和は改めて話し掛ける。
「あなたが、この、『異次元学園』に住み着いているっていう話は…」
「ええ、本当よ。居心地がいいから、ずっとここにいるの。でも、それだけ。別に特別な事が出来る訳じゃないわ。ごめんなさいね、芸の無い幽霊で」
くすくすと、命が笑う。
「え…そうなの?」
「ええ、そうよ。空っぽにしておくのも勿体ないし、危ないから。何かの拍子に、学校の中に、こっちに通じる穴が開いてしまうことがあるの。さっきみたいに」
日和と日向は、自分たちの潜った「扉」を思い出す。
「たまに、普通の生徒がこっちに入って来てしまう事があってね。霊的な感覚の無い、普通の人だと、自力では出られなくなったりするの、それで」
日和は目を瞬かせ、その内側で日向がぽかんとしていた。
つまり、これは。
「ええと、じゃあ、あなたが気に入った生徒を引きずり込むって噂は…」
「引きずり込んで、どうするの? こんな所で、生身の人間は生きていけないわ。食べ物も何にも無いのに」
彼女の微笑みが、何となく苦々しいように思えるのは、気のせいだろうか?
日和は混乱してきた。
つまり、この少女は、勝手に「異次元の学園」に迷い込んだ生徒を、元に戻してやっていたのだ。
彼女が生徒を引きずり込むという噂は…
(実際には、この子に助けられたヤツが、この子が自分を引きずり込んだってカン違いした、んだろーな…)
日向の言葉に、内心で頷く日和だった。
そう考えれば、全て辻褄が合う、のだが。
だが。
おかしい。
この少女では無いとするなら、行方不明事件は、他に犯人が存在するということになる。
それに、四人もの行方不明者を、少女がまるで知らないというということは有り得るだろうか? 二十年以上も、この学園を見て来た存在の彼女が。
(どっちにせよ、行方不明の奴らについて全く知らねえって事は無いだろ。ぼうっとしてねーで、ちゃんと訊けって!)
日向に尻を叩かれ、日和は我に返った。
そうだ。
あの行方不明事件の原因を作った者が他にいると言うのなら、そいつをとっちめなければ。
『冗談じゃないわ! あの期間限定のお菓子、苦労して手に入れて、部室に隠してあるのにっ! このままじゃ、賞味期限切れて食べられなくなっちゃうじゃない! 早いトコ部活再開してもらわなきゃ…』
(ちょ…一番の理由がそれかよ!)
極めて卑近な動機ではあるが、それだけに猛烈な怒りが湧いてきて、日和は力の入った表情で、まっすぐ少女を見た。
「私、人を探しに来たの。今ね、学校で、四人も生徒が行方不明になってる。今、学校中大騒ぎになってるわ。犯人が校内にいるかも知れないから、普通の生徒は部活動も出来ないの」
その言葉に、命は俯いた。持っていた本を、静かに、だがぎゅっと握り締める。
「あなた、何か知らない?」
空いた僅かな時間が、とんでもなく長く感じられ、そして。
「ごめんなさい」
命は腰から体を曲げ、深々と頭を下げた。
あまりに丁寧なその仕草、何よりあっさり認められたその事実に、日和も日向もぎょっとしてしまう。
(えっ…つーことは…やっぱこの子が?)
いつもシビアな日向の態度も、流石に揺らいだ。動揺と疑問。
日和は、自分の心臓が自分の胸の内側を乱打する音を意識しつつ、命に向かって踏み出した。
「ねぇ…あなたなの? 本当にあなたが、そんな事したの? 何で? 理由があるんでしょ? あなた、そんな事するような子に見えないもの」
命に頭を上げさせようと、思わず手を伸ばす。
「分かっているの。関係ない人たちに、物凄く迷惑掛けてるって」
絶え入りそうに小さいが、妙にくっきり聞こえる声だった。
びくっと、伸ばした日和の手が止まる。
「でも…駄目。ごめんなさい…私どうしても…許せないの」
すうっと、命の頭が上がる。
再び現れた顔は、とても同一人物とは思えない程に、冷たく凍り付いていた。
日和が息を呑んだ瞬間、今まで眩しい程の夕日が差し込んでいた校舎が、まるで灯りを落としたかのような闇に包まれた。
はっと周囲を見回した日和の目に映ったのは、どう見ても真夜中の光景だ。消火器の表示板と非常灯だけが寒々と、リノリウムの床に反射する。
「…あなたが来たのは、あの人たちを助けるため?」
命自身も変貌を遂げていた。
今までの、生身の人間と変わらない姿から、蒼白く不気味に発光し、白い炎のような霊気を纏う禍々しい姿に。霊気に支えられるかのように、運動靴に覆われた足先は宙に浮いている。眼鏡が鏡のように冷たく輝き、表情を読み取らせない。
「どうしてなの? 何があったの? 何をそんなに怒ってるの?」
冷たく張り詰めた怒りの熾烈さが、まるで見えない津波のように押し寄せる。日和は恐怖し、思わず後ずさった。
同時に、ピンと来る。
命が、元から悪霊だったのではない。
いなくなった連中が、何かをしでかしたのだ。恐らくは、ごく無害で大人しかった幽霊に、悪霊じみた行動を執らせるまでの、とんでもない事を。
(おい、日和! 代われ!!)
「で、でも…」
(いいから!)
少女の哀れな境遇に対する同情と、いきなりの豹変ぶりへの驚きで困惑しきった日和を、半ば強引に日向が押し込めた。
一瞬で、少女が少年に代わっても、幽霊は大して驚きもせず、日向となった彼を見ている。
「なぁ。理由を教えてくれねえか? あの、いなくなった四人は、あんたに何をしたんだ?」
「…」
命は、微かに顔を上げた。
「帰って。お願いだから。関係の無い人を、傷付けたくないの…」
返ってきたのは、そんな言葉。静かで、妙に優しい。それだからこそ、背筋に冷たいものが走る。
「帰れって言われて、ホイホイ帰れねーよ。あの四人は、この『異次元の学園』にいるんだろ? 何で、そんなことしなきゃなんねーんだ? 一体、何があったんだ?」
バタン! と音がして、命の背後にあった、掃除用具を収めたロッカーが開く。木製の硬い柄を持つモップや箒が、まるで蛇の鎌首のようにゆらゆらと揺れながら、日向を狙っている。
「…あいつらの親が、私を殺したの」
ぽつりと、命が呟く。
日向の中で、日和が息を呑む。予感するものがあったのか、日向は微かに息を吐いた。
事件から、既に二十数年。この学園に在籍していた犯人たちが、親になって、その子がまた、ここに戻るのに十分な時間だ。
「あんたは誰かに殺されたんだって、噂は聞いてた。本当だったのか…」
でも、と日向は言い募る。
「悔しい、気持ちは分かる。だが、あいつらは、直接関係ないだろう? 仕返しにあいつら殺して、それであんたの気が晴れるのか?」
(そうだよ。憎しみに身を任せちゃ駄目。命さん、本当に悪霊になっちゃうよ?)
日向の内部から、日和は必死に叫んでいた。
あんな悲惨な死を迎えながら、今まで悪霊化することもなく、逆に生徒たちを助けることすらあった、優しい少女が。
過去に囚われ、悪霊に堕するなど。絶対に、見過ごす訳にはいかないと、彼女は決心した。
「それだけじゃないわ」
静かな静かな、少女の声。か細いようで、だが強い。
「学校の裏手に、私の慰霊碑があるの。あいつら、それを足で蹴って壊したわ。ゲラゲラ笑いながら、ね」
日向、日和共に、言葉を失う。
命は更に続けた。
「あいつらが、そのことを知ってた訳じゃないのは分かるわ。軽いイタズラのつもりだったんでしょうね…」
命の声は、あくまで穏やかだった。
「でも、私は、あいつらの親にずっとイジメられてた。挙句に殺された。苦しかったわ。誰も助けてなんかくれなかったの」
日向は何か言いかけて口を開け、だが何も言えず俯く、といったことを繰り返した。それは、内側の日和も同じだ。
何を言えば良いというのか、こんな目に遭った人に。
悪い事は止めろと、そんなことをしても何にもならないのだと、薄っぺらな道徳を説くのか。何の力もないそんな言葉で。
「あいつらが、私を殺した奴らの子供だって、すぐに分かった。よく似ていたもの、悪意の持ち方、底意地の悪いやり方が」
命の話は続く。
「でもね、私を殺した連中とは、例え親子でも別人なんだって、自分に言い聞かせて来たわ。でも…でも! やっぱり、あいつらは同じだった! あの人殺しどもと!!」
命の絶叫と共に、ビュッ! と空を切って、凶器と化したモップが飛来し、日向の頬を掠めた。
刃が付いている訳でもないのに、それは命の怨念で強化されているのか、浅いが鋭い傷を残した。
戦慄に縛られ、立ち尽くすことしか、日向には出来ない。
「帰って、お願い。しばらく、迷惑かも知れないけど…。永遠に、今の状態が続く訳じゃないわ。みんなきっと、すぐ忘れて日常に戻るわ…」
私の時にそうだったみたいに、と言い添える。
「だから…お願い…帰って。わざわざ、私のことを知ってくれた人を、傷付けたくない、から…」
そう告げる彼女の背後に、凶器と化した箒が揺れる。がたりと教室の扉が開き、机と椅子が、まるで見えない誰かに保持されているかのように、宙に浮き、日向を狙った。
これは、最終警告なのだ、と日向は悟った。
これ以上言い募れば、問答無用で攻撃されるだろう。だが、だからと言ってここで諦めることも出来ない。日向はそっと、戦闘用の鉄扇を取り出そうとした。
(待って! 日向、私と代わって!!)
突然、日和が割り込んだ。
「何言ってんだ、お前じゃ戦えな…」
(いいから代わって!)
有無を言わさぬ響きに、日向は渋々折れた。美少年の姿が、一瞬にして元の美少女の姿に戻る。
日和に戻った彼女は、そのまま真っ直ぐ、命に近付いた。
「駄目。来ないで」
短く、命が警告する。どこか戸惑いのある声だった。
「命さん。私ね、正直言って、そんな奴らだったら、行方不明の連中なんてどうでもいいの」
(お、おい、何言って…)
動揺しきった日向の声が脳裏に響いたが、日和は専ら命に意識を集中していた。
「でもね。もし、あなたがそいつらを殺したら…あなた、悪霊になってしまうのよ? それがどういうことか分かる?」
怨念だけに突き動かされ、その永遠に満たされることの無い悪意の奴隷となって、生きとし生ける者全てに害を及ぼす。
日和のような魔の生まれには、そうした法則がはっきりと見えていた。
「分かるわ…でも、もうどうでもいいの。ごめんなさい」
悲しげな言葉と裏腹に、彼女の頭上の箒の先端が、日和を狙った。
「ねえ、命さん。あなたは、どうして二十年以上も、この学校にいるの? 酷い殺され方をしたのに、今まで学園の誰にも、悪い事なんか全くしなかったのは何故?」
空を切って、槍と化した箒が飛来する。
だが、日和の心臓を貫く寸前で、それはぴたりと止まり、乾いた音と共に床に転がった。
「成仏しようと思えば、出来たんでしょ? なのにわざわざ、ここに留まった。『異次元の学園』に落ち込んで、戻って来れなくなる生徒が出ないように、あえて留まったのよね?」
息もかかる程間近に来た日和に、命は顔を背ける。より一層強張る表情。
日和は、彼女の肩にそっと手を置いた。氷のように冷たい体。普段ならぎょっとして手を引っ込めただろうが、この瞬間、日和はむしろ、手に力を込めた。
「今までの話を聞いて分かった。命さん、あなた、よっぽどこの学校が好きなのね?」
ぴくり、と命の肩が動いた。
「給料がもらえる訳じゃない。誰かが褒めてくれる訳でもない。でもあなたは、二十数年もの間、この学校の生徒が酷い目に遭わないように見ていてくれた」
命が首を動かす。違う、と否定しようとしたのか。だがそれは、何だか力の無い動きであり…
「その二十年以上の歳月を、そんなクズどものために、無にしてしまって本当にいいの? 新聞に載らなくても、テレビで名前が呼ばれなくても、あなたに感謝してる生徒はきっと今まで沢山いたのに?」
(…)
日向は、まるで口を挟むことも無く、息を詰めるようにして、二人のやり取りを聞いていた。
「そんな怒りのままに悪霊になって…そして、きっとあなたに感謝してる、あなたが助けてきた人たちを裏切るの?」
日和はますます手に力を込め、命を揺さぶった。
「私は嫌。あなたに、選りにも選ってあなたに、悪霊になんかなって欲しくないの!」
いきなり周囲が明るくなり、日和ははっと顔を上げた。
煌々と照る照明の下で見える風景は、さっきまでの古い内装ではなく、明らかに見慣れた、あの神聖都学園の校舎。
(おい、日和、あいつら…)
日向に促されて校庭を見下ろした日和の目に、あたふたと無様に逃げていく、四人分の人影が見えた。
「もう…いいわ。あいつら。『異次元の学園』で、私と同じような目に遭わせておいたのだけど、もういい。どこにでも逃げればいいわ」
ぱっと、日和の顔が輝いた。
振り向いた時に見えた命は、小さな手でぐいっと手の甲で顔を拭っていた。
「ごめんね…ありがとう。もう二度とこんな事しないから」
ほとんど悲鳴のように聞こえる喜びの叫びを上げて、日和は命に抱きついた。触れた少女の体は、もう冷たくはなく、生きた少女のように温かい。
「あー、やっぱりアイツら転校しちゃったんだ」
(そりゃそーだ。居れる訳無いだろ。引越しもしたみてぇだし)
図書室で、今日の日付の新聞を広げながら、日和と日向はそんな言葉を交わしていた。
新聞の紙面には、かつて命を殺した男が、その職を…つまり、国会議員の地位を失ったことが大きく記されていた。
代々政治家の家系に生まれたこの男は、かつて命を殺した時も、その高名なる父と祖父の権力と財力とで学園と警察に圧力を掛け、事件を揉み消したらしい。
だが結局、今度の一件で週刊誌に騒がれ、人殺しと呼ばれて政治家生命を絶たれた。
学園では悪質な苛めっ子として有名だった、その息子と娘も、結局転校していった。命の慰霊碑を蹴り倒したのは、この息子の方だったらしい。
無論、この兄妹の手下だった他の二人も、その親兄弟が人殺しということが明らかになった途端、そそくさと転校していった。
彼らのイジメの犠牲になっていた生徒たちは、一様に胸を撫で下ろしたと言う。
「部活も再開したし…言うこと無しよね!」
校庭からは、運動部の掛け声が聞こえて来る。
新聞を所定の位置に戻して立ち上がり、日和は制服のポケットから小さな鍵を取り出した。
「久しぶりに会いに行ってみよっかな、命さん」
(ンなこと言って、まーた課題やってもらう気だろ)
鋭い指摘に、日和の顔が強張る。
「ちっ、違うわよ、ほ、ほんのチョット手伝ってもらうだけよ!」
(あれがチョットかよ。普通、ああいうのは『殆ど全部』って言わねえか?)
「うっ、うるさいっ!」
周囲が怪訝そうな表情で振り返るのに構わず、日和と日向は言い合いしながら、命がいるであろう場所に続く階段を駆け上って行った。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
PC
【2021/馬渡・日和(まわたり・ひより)/女性/15歳/神聖都学園中等部三年(淫魔)】
公式NPC
【 − /三下・忠(みのした・ただし)/男性/17歳/神聖都学園生徒&アトラス潜入調査員】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、ライターの愛宕山ゆかりです。この度は「異次元学園」へのご参加ありがとうございました。
記念品として、いつでも「異次元学園」に入れる「異次元教室の鍵」と、美術部の卒業生が残した、絵が実体化して使い魔になる、という「魔画(幻想生物)」を進呈いたします。
使い魔(幻想生物)の見た目と、大体の性能は自由に決められますので、お好みのペットとしてお楽しみ下さい(笑)。
さて、お預かりしたPC・馬渡日和ちゃんは、一つの肉体の中に男女両方の人格があって、姉弟のような感じ…という珍しい設定で、私としても大変描写しがいのある、面白いキャラクターでした。
最初はNPCなしで行こうかと思ったのですが、日和・日向だけだとサクサク進み過ぎるかなと思い、アクセント(?)として、公式NPCの三下忠に少しだけ足を引っ張ってもらいました(笑)。
終盤のヤマの説得シーンは、書いている私も思いがけない程に、日和ちゃんと、それに引っ張られる形の命が喋ってくれ、迫力ある場面に出来たかなと密かにほくそえんでおります。
もし、お気に召していただけたら幸いです。
それでは、またお会いできることを楽しみにしております。
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