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祝福の名を
この世に生を息吹いたものの中で、己の名を持つものはすべからく、その名の意図に言霊を持つ。
生まれながらの運命により、それを呪いと位置づけるものもあれば、祝福と位置づけるものもあるだろう。
例えば、1日に終わりを告げ、ベッドの中に潜り込んだとき。
例えば、都会の雑踏で見知らぬ誰かと擦れ違い、遠ざかっていく気配を背中に感じているとき。
ふと、思い当たり、思案することがあるのだった。
ここまでの己の半生は果たして、呪いを成したのだろうか。それとも、祝福を成したのだろうか──などと。
「改めて見てみると、なかなかに広いのですね──この礼拝堂は。あなたがここに住まうようになってからは、どれくらいの年月が経ちましたか、キャロル」
「さあ、どうだろう……数えてみたことはないよ、モーリス」
起き抜けて、煙草を銜えながら香りの高いアッサムティを淹れる。平素ならば日銭を得るための気まぐれなアルバイトに出掛けている時間だったが、世間はゴールデンウィークと云う大型連休に突入したらしい。この期間の間にがっちりと給金を得ておきたいと考えたたくさんの勤労学生たちにシフトを奪われて、忙しいはずのシーズンにキャロルは思わぬ休息を得ていた。
「あなたの顔色を、日の光りのもとで伺うことができる機会も珍しい。もっと良く見せてください──まるで、光りに透けて、向こう側が見えてしまうようだ」
「生憎、俺は悪霊やゴーストの類ではないから……な」
「それよりもずっと性質が悪い」
「日の光りは随分と、恋人の言葉を辛辣にさせるようだ」
今は廃れ、この教会に祈りを捧げに訪れるものは無い。少なくとも、キャロル──アドニス・キャロルがここを住いとするようになってからは、無かった。
長い時間をかけて色あせていった大きなステンドグラスから、穏やかな昼の光りが差し込んでいる。もしもキャロルが、今の自分の面持ちを鏡に映してみることがあれば、恋人の皮肉にも合点がいっただろう。白磁のようにきめ細やかな彼の肌は痛々しいほどに真っ白で、淹れたアッサムのカップを手渡す右手の甲にはうっすらと青白い血管が透き通っていた。
その手指を見つめてから、モーリス・ラジアルは無言のまま、その持ち主の顔へと窘めるような視線を流す。「あなたが、『あなた』と云う存在だから、致し方のないことかもしれませんが──透き通り過ぎた肌は、陶酔と共に……少し不安を掻き立てられてしまいます」
果たして、そう云うものなのだろうかと。キャロルは片目を眇めながら、改めてまじまじと自分の手首を翳して見つめる。大振りながらも薄い手の平には、なるほど『自分』でなければ訝しんでもおかしくないだろう青白さで、細い血管が浮かび上がっていた。
「──これは、確かに。俺がモーリスだったとしても苦言を呈しただろうな」
「ゴールデンウィークの休暇は、巡り合わせの必然です。きちんと釘を刺しておかないと、あなたのこと。放っておくといつの間にやら、自分の立場も忘れてふらふらと日の光りの下を彷徨い歩いていってしまいますから」
「本当に、今日のモーリスは辛辣だ。──だが……巡り合わせの、必然……か」
彼の声でその言葉を聴き、また自分の声音でそれを繰り返すと、必然と云う言葉が更なる現実味を帯びて身にしみてくるから不思議だと思う。彼の言葉には、言霊が宿っている。
だから、彼が、彼の声の音で自分の名を呼ぶのは、喜ばしいことだ。キャロルはそれを『祝福』と位置づけることができる。彼が自分の名を呼ぶから、自分の生に意義が生まれた。
「何を考えているんです、キャロル?」
「モーリスのことを」
あまりにさらりと返されたその応えに、却って目をまたたかせたのはモーリスの方だった。──ハ、小さく息を吐く笑い方で両肩を竦めると、何気ない様子を装って礼拝堂の中を見回してみる。時折、彼の恋人はこんなふうに、自分自身でも気付かないまま細やかなサブライズをくれることがある。恋人は──キャロルは、今まで彼が出会ってきたどんな人物とも似通わない、新鮮な敬愛表現を見せるのだった。
「……、あれは?」
だから、ふと目についた壁、キャロルが愛用しているものであろう安楽椅子のすぐ横に小さなフォトフレームがかけられているのに気付いたとき、話題の転換をするつもりで訊ねてみた。ちょうどステンドグラスの縁が影を作っていたのと、少し距離が遠かったのとで、フレームの中に収まっているものが何なのかが見えなかった。
「ああ、携帯電話に付属しているデジタルカメラで撮ったものだ。意外に上手に撮れているだろう。ぶれていない、睫毛まではっきりと見える」
サプライズ、オン、サプライズ。
キャロルが上手に撮れたと少し嬉しげに応えたそのフォトフレームの中には、自分が──モーリスが、気怠げに微笑んでいる写真が収められていた。
「高慢そうで、冷たそうで、少し面倒くさげにしているときくらいが丁度良い。おまえの端正な顔立ちは、そんなときの微笑がとても映える」
「……そうですか?」
「特に気に入った1枚だったから、こうして飾っている。いけないか」
「──いいえ」
昨今の携帯電話がいかに高性能とは云え、所詮はおまけのデジタルカメラである。解像度がそれほど高いわけではなかったせいか、フレームも写真も少し小さめである。シンプルな象牙色のフレームの中で口許だけを引き上げている自分の面立ちをキャロルは『端正』だと云い、その笑顔を、『映える』と云う。
あまりに完璧すぎて、返す言葉が見つからない。
「──『特に』と云うことは、他にも私を隠し撮りした写真が?」
言葉が尋問めいた響きを伴って、胸の内の動揺を伝えてしまう。決して厭う気持ちからの言葉ではなく──どちらかと云えば、柄にもなく赤面してしまうほど嬉しいこと、だった。いつ撮るのだろう。どうして自分はそれに気付かずにいたのだろう。
「隠し撮りとは、穏やかではない言い回しだ。きちんとおまえの目の前で撮影したから、こんなアングルに。──他の写真も見る?」
キャロルはそう云いながら、常はソファの役割も果たしているベッドの縁に腰をかけた。その傍らを軽く掌でぽんと叩き、モーリスの着席を促す。もう片方の手は、胸のポケットから取り出した携帯電話のボタンを弄くっていた。決して不器用と云うわけではないのだが、大きな手指の間に収まっているメタルグレーの携帯電話は妙に小さく見え、キャロルにとっては扱いづらそうにも見えた。
「──はい。この中に、おまえの知らないおまえがたくさん写っている」
「驚いた。……フォルダ分けできるくらいにたくさんストックしてあるんですか」
手渡された携帯電話のディスプレイには、デジタルカメラで撮影した画像を格納するためのフォルダがいくつか並んでいる。『M』と記されたフォルダの上でカーソルが止まっていた。M。モーリス、のMだ。
「くれぐれも、見た画像を消去してしまわないように。大切なデータだ、持ち主が悲しむ」
おどけてそう囁いた恋人の言葉には、取りあえず無視を決め込んでみる。フォルダの中身をディスプレイに表示させると、ずらりと並んだサムネイルはやはりすべてモーリスを撮った画像ばかりだった。
顎に指先を添え、新聞に目を落しているモーリス。
カーテンごし、窓の外を覗き込んで何やら喋っている途中らしいモーリス。
うなじの後ろでつややかな髪を束ね直している間、目を伏せて俯いているモーリス。
真夜中の逢瀬のあとで、明るくなりはじめた街へと──彼の場所へと、帰っていくモーリス、その後ろ姿。
こうして目の当たりにすれば、その1枚1枚が、いつどこの、どんな瞬間を切り取ったものであるのかが判る。流れていく時間の中で、すでに通り過ぎてしまった記憶たちが今こうして、自分の掌の中で蘇っては移ろっていく。
「……、こういうのも……良いものですね……」
「──長い時間を、生きてきた。これからも同じだけの……もしくはそれ以上の時間を、俺もおまえも生きるだろう。だが、たとえ一時として、同じ時間は流れない。過去を振り返るときの気持ちは変わらない。だからこうして俺は、おまえの瞬間をいくつも切り取る」
「…………」
淀みなく語り続けたキャロルの横顔を見つめた。
もっと、彼のことを知りたい。心から、そう思う。
そんな自分の思いを、どう言葉にすればいいのか──と、思案していた矢先。
眺めていたサムネイルの中に、自分の寝顔が映し出されているのを見た。
「──、今夜は先に眠ってくださいね。これはさすがに、仕置きが必要なのではないかと」
「夜行種に、それこそ無理なお願いと云うものだ」
「寝たふりでも構いませんよ? どちらにしろ、私が撮ってさしあげます。これで」
「それは俺の携帯電話だ、モーリス」
「私が贈った携帯電話ですよ、キャロル」
互いの名を呼びあうこと。
互いの存在を、祝福の意義で満たしあうこと。
携帯電話を奪い取るべく伸ばされた手から、ベッドの上を転げて逃れた。
モーリスの上半身に自分の上半身を重ねる形で、キャロルがモーリスの逃走を阻む。
「でも、……その前に、取りあえず──」
「同じことを考えていたかもしれません」
瞳同士を見つめ合わせ、ふたりは淡く微笑んだ。
ベッドシーツの上、ふたり並んで横になり、高く差し出したは携帯電話。
「ツーショットを収めておくと云うのも、きっと良いもの……ですよね……?」
白布の上で、ふたり髪を散らせながら笑って並ぶ。
そんな写真が、象牙色のフォトフレームの横に並ぶのは、それから数日後のことであった。
(了)
──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【2318/モーリス・ラジアル(もーりす・らじある)/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【4480/アドニス・キャロル(あどにす・きゃろる)/男性/719歳/元吸血鬼狩人】
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