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<東京怪談ノベル(シングル)>


桜か桃か、風邪の妙薬

 校庭の桜が満開を迎えて、刻一刻と花びらが散りゆくさまを見守るだけになってしまった、そんな春真っ盛りな頃。
 春という季節は穏やかな印象を受けがちだが、実は天気の移り変わりが激しく嵐をもたらす季節でもある。
 今年は例年と比べ気温の変動も激しく、暖かい陽気が訪れたと思いきや寒雨が降ることもあって、なかなか暖房器具を仕舞えなかったり衣替えに戸惑う日々が続いている。
 すると当然体調管理も難しくなり、季節外れの風邪を引き込む生徒は珍しくなかった。
 もちろん彼女も例に漏れず……。
「っ、くちん!」
 授業中、急に出たくしゃみに優名はそっと辺りを窺いつつ内心で首を傾げた。同時に悪寒に襲われたのだ。
(おかしいなぁ。今朝は何ともなかったのに……)
 だが優名の中で体調は本格的に狂い始めていた。
 背中はぞわぞわするのに顔はどんどん火照ってくる。
(どうしよ……熱が出てきたみたい……)
 急に心細くなってきた優名は休み時間に入るなり、あまり気が進まなかったが足早に保健室へと向かった。


「あら、38度あるわね。このままだともっと上がるかもしれないわ。大学病院へ行きましょうか」
 保健の先生から告げられた言葉に内心では必死に首を振っていた優名だったが、身体は鉛を含んだように重くちっとも言うことをきかなかった。
「大丈夫よ。解熱剤の一本も打ってもらえばすぐに引いちゃうわ」
 にっこり笑って元気づけようとしてくれるが、優名には熱が下がることよりも注射を打つことのほうがよっぽど恐怖だった。
 口をぱくぱくさせて「注射はいやなんですっ」と訴えてみるが、実際には声にならないばかりか真っ赤な顔で苦しげに喘いでいるように見えたらしく、先生は優名の背を擦りながら励ました。
「つらいのね。大丈夫よ、少しの辛抱だから」
 すぐさま大学病院に連絡を入れてくれたおかげで、優名の身柄はものの五分程度で診察室へと送られたのであった。
 診察をしてくれた穏やかな声音の医師や、天使のような微笑みで介助をしてくれる看護士さんには何の罪もない。
 たとえ逃げ腰になる優名の身体を背後からがっちりとホールドされても(誇張しすぎ)、細く艶光りした尖端よりピュッと雫を飛ばしながら嫣然と笑みを浮かべていたとしても(妄想しすぎ)、彼らは純粋に患者の治療に当たっていたにすぎないのだ。
 優名に恨み辛みなぞあるはずがない。
 ほんの一瞬の出来事が今世紀最大の恐怖に巡りあったかのような風情を漂わせ、優名は潤んだ瞳のまま病院を後にしたのだった。
 医師から二、三日様子をみたほうがいいだろうと言われた優名は、欠席届への署名を促され寮で静養することになった。
 それではと、院内にも常設されている生協で簡単に食事ができるよう食糧品を買うことにした。
 お粥の類いはもちろん、先程めいっぱい頑張った自分にご褒美として桃の缶詰とアイスクリームも買って、ようやく気持ちが落ち着いてくると、寮まで車で送ろうという病院側の気遣いを丁寧に辞退した優名は、のんびりと、というよりふわふわとした足取りで歩き出した。
 注射を打ったからといってすぐに熱が下がるわけではないのに、何故歩いて帰ろうと思ったのか。
 早く帰宅して身体を休めることが一番であるはずが、苦手な状況下に置かれて気分が滅入っていたせいなのか、それとも毒気に侵された身体が自然の空気を欲したのか、優名自身は特に何かを思っての行動ではなかった。
 やがて校庭の桜並木が見えてきた。
 カサカサと鳴る手荷物の袋の音が風の吹きつける程度を量っている。
 優名の視界には桜の花びらの風に舞う姿が幻想的な印象を伴って映し出されていた。
(もうすぐ、みんな散っちゃうのよね……)
 熱に浮かされた瞳で木々を見上げ、唇には淡く笑みを浮かべて散りゆくさまをうっとりと眺める。
 白くほんのりとピンクに色づいている花々が気のせいか少しずつ赤みを増しているかのようだ。
 やがて風が渦巻くように吹き、濃く色づいた花びらを巻き上げ始めた。
 優名は乱舞する花びらの中を軽やかな足取りのまま進んでいく。
 優名の髪に、肩に、頬に、さらりと触れていく花びらたち。
 まるで優しく愛撫するかのように優名を包み込み、離れたあとは地へと伏していったのだった。


 寮に帰り着いた優名は先程の歩みとは打って変わって鈍くなり、食堂脇に設置された自販機でお茶のペットボトルを買い込むと、その重さも手伝って身体を引きずるようにして自室のベッドに倒れ込んだ。
「もうだめ……動けな〜い」
 熱を含んだ荒い息を吐きながら、それでも何とか制服を脱ごうとして四苦八苦し、パジャマに着替えた時には完全に力尽きていた。
 買い込んだ食糧をそのままに優名の意識はどんどん遠ざかって行った。
 それからどのくらい時間が過ぎたのか、目覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。
 重い頭をのろりと動かして枕元の目覚まし時計を手に取る。
「十時……? 夜の? ……うそ〜。そんなに寝ちゃってたの?」
 ふうっと息を吐いて身体を起こす。
 汗を掻いたのか、首に髪がまとわりついて気持ち悪い。
 熱を発散するのに汗を掻くのは当たり前なので仕方ないのだが、あまりの不快さに思わず顔をしかめた。
「お風呂入りたい……でも、熱上がっちゃう……着替えよ」
 ふらつく足で部屋の明かりをつける。着替えを用意しようと部屋を見渡した時、その惨状に溜息をついた。
 制服は脱ぎ散らかしたまま、買ったものはテーブルの上に放り出したままである。
「……制服、シワになっちゃうのに、あたしってば」
 そう言って取り上げると、はらはらと落ちていくものが眼についた。
 制服をハンガーにかけてから足元を見る。
「……桜?」
 落ちている花びらをすべて拾い集めてテーブルに載せる。
「そっか、今日桜並木の傍を通ってきたもんね。……でもこんなに濃いピンク色してる花ってあったかしら?」
 しばらく花びらを試す眇めつ見つめていた優名だったが、肌に寒さを感じて慌てて立ち上がった。
「着替えなきゃ!」
 買ってあったお茶を飲んで喉を潤すと、緩慢な動作で適当に髪を結い上げた。
 その時、花びらが自分の身体から離れていくのに気づいたかどうか。
 熱で呆けた頭は感覚を鈍らせているようだった。
 春とはいえ夜はまだ肌寒い。外気に曝された滑らかな肌が拒むように悪寒を伝えてくる。
 優名は急いで汗を拭うと新しい下着とパジャマを身に付けた。
 そうして再び布団に潜ろうとして思い出す。
「薬、飲まなきゃ。……何か食べないといけないわよね」
 袋をあさってレトルトパックや缶詰を取り出しながら、ふと考えてしまう。
 弱っている時に何もかも一人でしなければならない環境が、慣れているとはいえやはり寂しいものだと。
「言っててもはじまらないことだもん、ね」
 桃缶を手にして自然と顔がほころぶ。
 ちゃんと病院へ行って注射をした自分へのご褒美だ。
 まるっといただこうと、缶切りを求め簡易キッチンに向かおうとして、ふと眼についたものに驚きの声を上げる。
「や〜ん、アイス! 忘れてた〜。溶けちゃう溶けちゃう。あ、溶けかかってるぅ」
 半泣きになりながらアイスクリームを冷凍庫に押し込んでいる優名の髪から、また一片、花びらが落ちていった。
 桜色から鮮やかなピンク色に染まって……。


終。