|
恐怖 逆おはぎの怪
始まりは約一週間前の張り紙からであった。
「オハギ、作リマス」
古風な朱色の墨で書かれた半紙が、閑古鳥が友人の店「開眼凡才亭」の戸口に張り出されたいた。場所は何処をどう読んだとしても凡才亭の台所。日時は一週間後という、開催間近の話であった。
それを読んだ数人は面白そうに首をかしげ、あるいは興味もなさそうに上から下まで半紙を眺め、またある者は詳細を確かめようと、立て付けの悪い扉の奧へと消えた。そんな事が一週間の間に何日か続いた頃、それを竹藪の奧から見ている者が一人いた。
「ごめんください」
呼び鈴代わりの騒がしい音に、ツブサと小菰が振り返る。待っていましたとばかりに両手を会わせて、小菰が楽しそうに寄ってきた。歩くたびに下駄の愛らしい音が店内に広がり、心なしか客の口角も上がる。
「だぁれも来ないから、ちょっと心配していたのさぁ。良く来てくれたよ。ささ、そこらに座っててもらえるかぃ」
目で扉の向こうを示して、振り返れば自分の他にも来客がいたのだと、今初めて知った。勧められた椅子に腰を下ろして、やって来た数人をゆるりと眺める。
しかし、彼等はまだ知らない。これから作られるお萩が、とある事件を連れてくることに――
餅米をこね終え、あんこをにおえた七重は珍しい重労働に疲れていた。シュラインも爽やかに笑って、おみやげで持ってきた汐吹き昆布を皿に盛り、小菰がくれた急須に七重のおみやげの桜茶と、自らの高級緑茶を振り入れた。愛用の割烹着をたたんで鞄の側におく。
「出来上がりが楽しみね。早く餅米冷えないかしら」
「はい」
「文目ちゃんも、楽しみね」
「うん」
お萩楽しみだね、と呟いた文目の言葉に七重は小さく首を傾げた。
「そういえば、どうしてお萩なんでしょう」
「あ、それはね」
文目が得意げに笑う。小菰にその由来を聞いたのだろう。
「春だとほんとは牡丹餅だけどお萩が小さくて、あたしや、お客さんみたいな小さい子でもたべやすいしいっぱいつくれるからだって。それとね、見た目が可愛いからって」
はにかんだ笑いにシュラインが可愛い、と呟く。
「あとね、ここだけのお話、牡丹餅はあんこの粉をまぶすでしょう。すり鉢のつかってた瀬戸大将がわれて、いま天狗さまになおしてもらってるから、こなが作れなかったのもあるんだよ」
「そうだったんだ」
「うん」
何故割れたのかは聞かないが、妖怪は気まぐれだから、あんこをつぶされるよりもとろろをすられたかったのかも知れない。
桃色の桜茶をシュラインが出し、三人で湯のみを持ち上げる。口を付けようとしたところに、騒々しい足音が聞こえてきた。
「大変だよぉ」
突然駆け込んできた小菰が、息を切らせて手招きした。短い廊下を渡って台所へ導くその背が珍しく取り乱しているのを見て、文目が問いかけた。
「どうしたの」
「口で説明するのは、ちょっと難しいというか何というか……」
少しだけ口ごもって、戸を引き開けた。中はあんこの甘い匂いとその中で困った仮面を付けて立ちつくすツブサがいただけである。餅米のボールを腕に抱いている。
「どうしたの」
シュラインが駆け寄ると流しの近くにあったあんこのボールが空になっている。先に作ってよせておいたあんこは無事であったが、そのほかはすっかり姿が見えない。
「みた、とおりどす」
悲しげに首を傾げたツブサの仮面にはいつの間にか悲の文字が彫られていた。
丸いちゃぶ台に静かに腰を下ろして、ツブサはしょんぼりと背を丸めている。あんこが何処かへ行ってしまったことより、シュラインと七重をもてなせなくなったことが悲しいようだ。
慰めるように小菰が皆に茶を回す。
「申し訳ないねぇ、こんな事になっちまって」
「いいえ、いいのよ。まさかあんこがこんな事になるなんて、思ってもみなかったことだし。誰も悪くないわ」
「そうです」
七重は薄く笑い、そうどすか?と首を傾げるツブサに頷いてみせる。
「落ち込むより先に、あんこを探さないと」
「そうよね、からす、の線は薄いかしら」
「そうですよね。ツブサさん、今日は誰がいるんですか」
「常連やったら、小菰と文目を入れて五人ですやろか。残りはここの二人とちごて、他の部屋にいてはります」
ツブサの言わんとすることがわかって、シュラインと七重は無意識のうちに視線を交わした。これはちょっとした探偵ごっこをすることになるかも知れない。
「とりあえず、容疑者を呼んでもらいましょうか」
きっぱりと言い切ったシュラインの背後で、丁度よく玉生が扉を開けた。
「ツブサ、注文の客が来た」
「あらあら。すんまへん、ちょぉ先に始めといてくださいな」
「わかりました。玉生くん、ちょっと来て」
ツブサが通る場所を空けて、四つん這いで玉生が入ってくる。ファスナーの付いたハイネックの黒い長袖とジーパン。それに黒眼鏡というのは、いかにも怪しい。
シュラインと七重が小菰の隣に退いて玉生をそこに座らせる。容疑者と言わんばかりの扱いに、しかし事情を知らない彼は首を傾げた。
「単刀直入にお聞きします。玉生さん、お萩が作れなくなったの御存知ですか」
「いや、今知ったが」
シュラインが密かに身を乗り出した。耳をとぎすませる。
「あんこが、なくなったんだろう?」
「そうです」
「……あー、一ついいだろうか」
ちゃぶ台の上で手を組んで、七重は重く頷いた。ツブサにあれだけ落ち込まれた身としてはなんとしてもあんこを取り戻したかった。シュラインも同じく、楽しみにしていたお萩が中断されてはなるものか、そしてもてなそうとあんなに楽しく振る舞ったツブサを落ち込ませるのは、流石に忍びない。
「疑われているのは俺だけ?」
「いいえ、他の人もリストには上がっています。とりあえず、玉生さんからお話をお聞きしたいと思いまして。質問ですが、食にこだわりはありますか」
「こだわりと言われても……あぁ、一気食いはしないたちかな。一気に食べると味が混ざるのが嫌だから。大食漢だとは、よく言われるけど」
「なるほど」
考えるように黙りこくった七重のかわりに、耳を澄ませていたシュラインが口を開けた。
「玉生くんはさっきまで店番?」
「そうですが」
「でもいつだったか、こっち覗きに来たわよね。その時、この部屋以外の道は通ってきた」
「いや、ここを」
「そう。でも残念よね」
「あぁ、お萩。ツブサも落ち込んでたし」
「やっぱり食べたかったわ、お萩」
「楽しみにしてたのになぁ」
ツブサ同様肩を落とした彼の心音は酷く安定している。落胆に嘘はないようだったが、食が好きと言うことだから自分で食べられないようにしたのも、落ち込みの原因にはなるのかも知れなかった。
七重が顔を上げる。
「お萩が魔よけに使われるのって、御存知ですか」
「仕事柄、それは知ってるけれども」
「お彼岸に作りますね。やはり赤いと魔よけに」
「待ってくれ」
言いかけた七重を制して困惑した表情で言った。
「犯人じゃないから」
「それは僕たちが判断するので、今は可能性をつぶしているんです。前々からプロに聞いてみたかったんですが、小豆は魔を遠ざけますよね。あれは、あんこになっても効果はあるんでしょうか」
「ああいった迷信に基づいたような対魔法は殆どが気構えからくるから」
「地蔵に供えられますよね」
「供養とか、まぁそういうものがあるからだと思う」
「やっぱり詳しいんですね」
寡黙でもできるだけ感心しているように頷いて、七重は玉生を見上げた。
「仕事だから」
寡黙さでは負けない玉生はこめかみを掻いて、黒眼鏡をかけ直した。
「……ありがとうございます。また呼ぶかも知れませんが、店番に戻っていただいて結構ですよ」
頷いた彼は静かに立ち上がり、それでも肩は落としたままに去っていく。扉が閉められたのをみて、シュラインが唸った。
「嘘をついた様子はなかったけど、最後の方は心音が乱れてたわね。結構疑ってたでしょ」
「それなりには」
口元に細い指を当てて、シュラインは考える。
「乱れていたのは、やはり嘘をついてるからでしょうか」
「でもあんこがなくなって悲しかったのかも知れないわ」
「まぁ、まず一人目ですからね。次行きましょう。小菰さん」
「え、あぁ、なんだい」
呆けていた小菰が我に返って返事をした。
「どうしたんですか」
「い、いやねぇ、嬉しい限りだと思ってさ」
「はぁ」
「こんなにしっかり探してくれるなんて、ちょっと思ってもみなかったからねぇ。ありがと」
にっこり艶やかに笑われ七重は照れた。シュラインがその様子を微笑ましく笑って、どういたしまして小菰に返す。
「さ、ここまで来たら最後まで行きましょ。小菰さん、他の人呼んできて」
「はいよ」
軽快に立ち上がり、奥の扉へと消えていく。残された文目が、あたしは食べてないよと首を振った。
「そうよね。文目ちゃんはずっとここにいたのよね」
「うん。姉さんも盗ってないよ」
「そうよね」
シュラインに頭を撫でられて笑った文目に、七重は問いかけた。
「文目ちゃんは、裏に抜けられる扉を知らないかな。台所の近くまで行けるやつ」
「あたしは知らない。家鳴り達なら知ってるよ」
古い家に住み着く子鬼達のことを言っているのだ。これは盲点で、七重はナルホドと唸ってしまった。シュラインが天井を見上げる。
「でも、さっきまでいたのにね、いなくなっちゃった」
「お待たせ」
いくらもしない内に小菰が戻ってきて、将棋盤を持ったままの願と有馬を連れてきた。
「ありゃ、姉さんじゃぁないですかい。こりゃまたお顔も出さずに失礼しやした。それにそっちも知った顔でやすね、坊ちゃん」
扇子でも持っていれば額を叩いて笑いそうな、咄家のような風情の願はにやりと笑った。声がくぐもっているのにシュラインは首を傾げる。
「お久しぶり。その声どうしたの」
「あいやー、ちょっと冬の残りにやられましてねぇ。ま、莫迦じゃなかったわけなんですがどうにも」
へへへと笑うその顔は僅かに火照っている。風邪を引いたらしい。確かに少々季節の違うどんぶくを羽織っていた。手には飲みかけの薬湯を持っている。
「薬屋がてめえの薬つくっちまうんだから、こりゃお笑いぐさですな」
「自業自得ッてんだ、阿呆」
二人は初対面の有馬傭一郎を見上げる。年を取った渋さの中に角張った顔。若い頃はもてたであろう荒削りではあるが整った顔が年取った言葉を吐いた。
「子供は風の子だろうが」
「もう大人ですや」
風邪のせいか薄れた元気で言い返した願が腰を下ろす。薬湯を一すすりして、座布団を引き寄せた。その隣に有馬も腰を下ろす。
「初めまして尾上七重です」
七重が有馬に頭を下げた。続いてシュラインもにこりと笑う。
「シュライン・エマよ。よろしく」
「おう。有馬傭一郎だ。馴染みがあるほうの名字で呼んでくれ」
胡座をかいたその膝に将棋盤を置く。シュラインがすかさず耳を澄ませた。
「お二人にお聞きしたいのですが」
「あんこがどっかいったんだろ? 俺達はずっと奥で将棋うってたぜ。さっきまで猫娘が覗いてたんだが、なんでかいきなりいなくなっちまってな。証人は当事者の俺達だけだ」
それだけ言って腕を組む。願が鼻をかんで、こりゃ失敬と笑った。出そうになる鼻をつまんで話し出す。
「こちらの旦那は堅物なもんで、物言いはぶっきらぼうですが、高野豆腐の顔は生まれつきらしいんでご容赦願いますや。んで、オレらがあんこを盗ったんでないかとお疑い」
面白そうに首を傾げた願に七重は頷く。
「んー、確かに証人はいませんがねぇ」
「もう一つお聞きします。この部屋を通らずに台所へ行くことはできますか」
「勝手口がありますや」
あっさりと言われて拍子抜けした七重は口を閉じた。では、先程の文目が知らず家鳴り達が知る道とは何だろう。
「ほれ、あそこ」
窓の向こうを指差されシュラインも七重も首を伸ばす。店の入り口からでは竹藪に邪魔され見えない場所に引き戸があった。横に積まれた木箱は、ぽっぴんが入っていた箱だと願が教えてくれる。中庭にもなるそこは涸れ井戸があり、クマザサとタケノコに覆われていた。
願は腕を組み合わせて説明してくれた。
「この家はくの字になってましてね。ただし外からはもう一個の入り口は竹で見えねぇと、そういうあんばいでさ。台所はくの、折れ曲がったとこあたりだから、あそこからはいるとまっすぐ向かえるんで。かわりに、こっからばっちり見えますが」
盛大なくしゃみをして、もう下がってもいいですかねと苦笑した。
「風邪、うつしちゃ悪いでしょ」
弱々しく笑った願は薬湯を飲み干して、どうぞと七重に促されて立ち上がる。有馬の膝を乗り越えようとしたところで将棋盤に足を引っかけた。盛大に駒が散る。
「てめえ」
「オレのせいじゃないですぜ。それに、旦那は勝ってたでしょ」
逃げるように皆に手を振って願は扉の奥へと消えていく。有馬が後頭部を乱暴に掻き回した。
「くそぉ」
「まぁまぁ、いいじゃぁないか旦那。ところで、あんこを隠せそうな所ってないかねぇ」
「隠そうと思えば何処だって隠せらぁな。さっきの木箱でも探したらどうだ」
小菰が袖の袂で笑って言う。
「それじゃぁ答えになってないよぉ。お客さんがせっかく真剣に探してくれてるんだからさ、力になってやっておくれな」
じろりと二人を睨むように見やった有馬は溜息をつく。頼まれると断れないたちなのだ。
「文目は盗ってないだろ」
「ちがうよ」
七重は、意外にちゃっかり食べてしまったかも知れないと疑っていたのだが、あんこの量を考えた途端にばからしくなってやめた。そうなると残りは――。
「じゃぁ、高い所じゃないか」
「なぜ」
つい尋ねたシュラインに天井を見上げた有馬は言う。
「疑われてるのは、あんこにさわってねぇ奴らだろう。なら背が高い奴らばっかりじゃねぇか。子供は、視線より高い場所は苦手なんだよ」
「そっか」
感心したようなシュラインに硬い視線をよこして、七重にもう返っていいかと目で尋ねる。七重も僅かながら感嘆して頷くと、何も言わずに将棋盤とこぼれた駒を持って去っていった。
「なるほどね。身長かぁ」
「実際、犯人よりもあんこを探したほうが早いんですけどね」
呟くように言った七重の肩にシュラインの手が置かれる。駄目駄目、と首を振っていった。
「わかってないわよ、少年。こんな面白い探偵ごっこなんて、滅多にできない経験じゃないの」
「そうさぁ。楽しい、美味しい、ツブサも喜ぶ。いいことずくめだねぇ」
小菰まではしゃいだように言う。七重は諦め半分で頷いた。
「そうそう、有馬の旦那は盗ってないよ。文目が悲しむことはしないはずさぁ。さっきだって、ひんとをくれたろう? あのぶっきらぼうだって、照れてるのさぁ」
「何となくわかります」
七重は子供らしからぬ微苦笑で答えた。
「そう言えばシュラインさん。さっき心音がどうとか」
「言ってなかったわね。私聴力が発達してて、心音検査ができるのよ」
ウインク一つでもしそうな勢いで笑ってみせる。
「でも残念ながら、嘘をついてる様子の人はいなかったわねぇ。ホームズよろしく爪とか見てみたんだけど、やっぱりあんこもついてなかったわ。あんこはごっそりなくなってたから、爪痕で断定するのは難しいし」
「一度現場に戻りますか」
「あら、なんだかわくわくするわ」
顔を見合わせ楽しげに微笑んで、四人は立ち上がった。
現状保存というものか、誰が言い出したわけでもないのに台所はそのままの状況だった。台に乗せられたボールはそのまま。ラップをして冷蔵庫にしまった餅米もあんこもないのに、ボールから離れるとまだあんこの香りがする。
「でもあんこっていうか、なんか変なの」
空気を嗅いで、シュラインは首を傾げた。
「変、ですね」
「そうよね」
「いえ、ボールが」
七重の呟きに反応してシュラインがボールを見る。きらりと光る銀色のボールは、洗われように綺麗だった。
「そうか、あんこを盗っていったならいくらかは残るはずだわ。どうして何も残ってないのかしら」
「ねぇ」
考え出した二人に水を差したのは文目だった。七重の服の裾を掴んで、首を振っている。
「どうしたの」
「変な臭いがする。家鳴りが誰もいなくなってるよ」
「そうだねぇ。あんまり、ここにいちゃいけない気がするよ」
小菰が低い天井を見やりながら言った。不安げな表情が浮かんでいる。
「あんこで妖怪っていうのも、おかしな話」
「いや、そうでもないみたいです」
文目と小菰を振り返った七重が食器棚を見上げていた。三人が一斉に振り返ると同時にぼたりと音がする。
「棚から牡丹餅じゃないんだから」
棚のてっぺんから落ちてきたのは、探し回っていたあんこであった。だが探していたのはあんこであって、海牛に似た、生きたあんこではなかったはずなのに。
「冗談を言ってる場合じゃぁ、ないだろぉ」
「どうします」
七重があんこから目を離さずにシュラインに問いかける。ぶるぶると震え、重そうに体を引きずるあんこは見ていて気持ちのいいものではなかった。
「どうもこうも、捕まえるしかないわ。お萩にならないもの」
「あれをですか」
一瞥して、手に持つという選択肢が二人の脳内で消滅した。
「きゃぁっ」
大口を開けたあんこに文目が声を上げる。おたまでくりぬいたような大穴の奥でなにかが光った。
「ま、まずいかしら」
全員が一歩後退る。七重が腕を上げ、小菰が文目を抱きしめたまま牙をむいた。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
朗々とした退魔の声があったのはその時だ。シュラインが目を巡らした。いっぱしの妖らしくあんこがびたりと動きを止める。ふるえが止まって口を開けたままである。扉が強く引き開けられ、飛び込んできたのは玉生だった。踵を三度鳴らす。
「壱に虎いて弐に朱雀四の黒に八の鶴にて一計七策」
飛び出しと共に抜き出したのは鈍く光る短刀。地を這うような低温の声が部屋を満たした。
「十の遠の権ッ!」
右足を踏み鳴らし投げつけた短刀があんこの口へと飛び込んだ。ぴしりと鋭い音。続いてなんと、五人の目の前であんこが四散した。
「あなただったんだ」
シュラインが七重を見る。
「さっきあれの中で光っていたのは指輪でした。玉生さんを紹介されたときははめていたのに、話を聞いたときにはもうなかった。あんこの中に落としたんですね」
シュラインが小さく呟いた。
「その指輪に何かが憑いてたのね。それで、あんたはあんこを隠したんだわ。こうなるのを知っていたから」
文目が小菰の腕の中で目を丸くしている。
「そうよね、確かに玉生くんは嘘ついてない。だって、黙っていただけだものね。そりゃぁ、あんこがお化けになって食べられなくなれば嫌でも悲しいわ」
シュラインの口角が鋭く上がる。含まれた笑いに玉生が後退った。七重が一歩踏み出す。
「お店の方から、こちらに抜けられる入り口でもあるんですね」
「な、何を根拠に」
「さっきあなたの影が出てきたのは店の方じゃなくて、反対側です」
「見間違いだろ」
「番台」
玉生が大げさに肩を揺らす。呟いたのは隅から転がり出た家鳴りだった。
「番台の座布団の下にね、扉があるんだぜ」
「そうだ。勝手口の下にある倉庫まで続いてるんだ」
「坊さんはこの前見つけたんだよな」
「だよな」
玉生のこめかみを、一筋の汗が流れ落ちていった。
「なるほどね。いつもは願さんが番台に座ってるから入れなかったのに、いまは風邪をひいてるから玉生くんが店番、と」
「さらには玉生さん、僕らはあんこがなくなったなんて言ってないのに、はっきりと作れなくなった原因を言いましたよね」
すっかり言葉をなくした玉生の額は汗をかいていた。
「つまみ食いでもしようと思ったのかい。子供じゃないんだから、もぉ」
小菰が大きな溜息をついた。玉生がその場に膝をつく。悲しげな表情で顔を上げた。
「ツブサには――」
「うちに、いったいなにを期待しとりますねんやろ」
静かな声と一緒に、引き戸が閉まっていった。玉生の影を障子に残して。
「お手数かけまして、ほんに、なんてゆうたらええか」
「いいんです。一応、ちゃんとお萩も食べられるんですから」
七重とシュラインの手には笹の包みが乗っている。四散したあんこは結局口に入れられるものではなくなり、文目の提案もあって餅米であんこをくるむ逆お萩となった。頬張ればそれはそれで甘く美味しく、桜茶と合わせても緑茶と合わせても絶品。一人、食べられない者を除いては全員が美味いと口にした。
残りのおみやげを手にして、二人は凡才亭の入り口に立っている。坂の向こうからさす西日が、暖かく二人の背を照らしている。
「また、何かあったら呼んでちょうだい。願さんの言ってたその道のプロが作ったあんこ、絶品だったから」
「はいな」
たおやかに笑ったツブサに見送られ、途中まではと、七重もシュラインも横に並んで歩き出した。
「でも、どうしていきなり家鳴りが出てきたのかしら」
「あんこの妖怪が怖くて、出てこれなかったんじゃないでしょうか。玉生さんに祓われてただのあんこに戻ったとか」
「あれ、それなら私達ってけっこう修羅場だったのかもね」
「かもしれません」
「でも探偵ごっこは楽しかったね」
「そうですね」
「少年探偵みたいだったわよ」
「ありがとうございます」
感情少なに笑い、七重は坂を見下ろす。ツブサに言われた後ろ向きで坂を下りる。見上げれば東の空が藍色に染まりつつある。シュラインも楽しげに空をみやって、騙し坂を下っていった。
了
登場人物
■0086 シュライン・エマ 二六歳 女 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
□2557 尾上・七重 十四歳 男 中学生
■NPC 白樺・ツブサ
□NPC 妖狐・小菰
■NPC 妖狐・文目
□NPC 春夏冬・玉生
■NPC 有馬・傭一郎
□NPC 石輪乃・願
|
|
|