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「ここ……どこだろぉ……」
振り仰ぐ天井も、のっぺりと扉ひとつなく続く左右の壁も、陰気な暗がりに沈んでいる。前方にはぼんやりと非常灯がともっているようだが、なぜか行けども辿り着かない。
背後の闇がにじり寄り来る気配に鳥肌を立て、いっそう歩みを速めながら、
「もぉ、ちょっと凝りすぎだよぉ……!」
九竜・啓(くりゅう・あきら)は誰へともなく抗議の声を上げた。
彼は今、道を尋ねようと足を踏み入れた建物の“どこか”にいるという、迷子二段重ね状態であった。
■ 『けもののきもち』へようこそ! ■
思うに、ファミレス風建物がファミレスではなく、マニアックな場末のバーのような名称の動物病院だった時点で諦めるべきだったのかもしれない。
だが意志とは無関係に発動される方向音痴スキルの結果として、尖塔のある奇妙な霊園と、高級車とデコトラ混在の謎の駐車場と、一見ファミレス風の病院の三択の場合、選択の余地などありはしないのだ。
「んーと、『PMHC(ペットメンタルヘルスクリニック)……けものみち』?」
あきらは玄関ポーチを上がると小腰をかがめ、自動ドアのスモークの入っていない下半分をすかし見た。
正しくは『けもののきもち』であるところの『けものみち』は、なかなか繁盛しているようだ。男女とりまぜ、忙しく行きかう足が見える。よかった、これで日が暮れる前に家に帰れそうだ、と胸を撫で下ろすあきらである。
ドアマットに乗るやいなや、ガラス扉は滑らかに左右に分かれた。
「あのぉ、すみませぇ…………え?」
あきらは立ち止まり、それから二、三歩進んで、また立ち止まった。背後でドアが閉まる。
だだっ広い待合室には、人っ子ひとり、いなかった。
「嘘……」
思わず目をこする。
こすった視界の端に、何かが閃く。反射的に目をやると、壁際のベンチの下でぶよぶよした塊が蠢いていた。
「え!?」
ふと視線を感じて見下ろせば、半透明の赤ん坊と目があった。
「えぇっ!?」
叫ぶと同時にその裸の姿はかき消えたが、消える前にニヤリと赤ん坊らしからぬ笑みを浮かべたのが実にいやな感じだ。
「ちょ……まさか幽……? 本物とかじゃないよね……い、生きてるわけないよね? えっとほら、映画の撮影中とか」
混乱ぎみの問いに答えるように、ピシッ、パシッ、と風に吹かれた小枝が窓にぶつかるのに似た音と共に、忙しそうに歩き回る腰から下だけの人々が現れた。
「ホ、ホログラムとか使ったアトラクションだよね? 病院風お化け屋敷とかの。すごいよくできてる、けど……俺、こういうのあんまり……」
蛍光灯がチカチカとまたたきだす中で、淡いグリーンの壁に不可視の手で血文字が書きなぐられる。壁紙の模様が虫のように動きはじめた。
あきらは踵を返し――ガラス扉にべったりと両手をつけ、クリニックの中を凝視している痩せこけた少女を見て飛び上がった。ここは無理だ。他の出口を探さねば。と、奥の通路から人に似た、だが人間とはとうてい思われない形の大きな影が近づいてきた。頭にあたるであろう部分に、爛々と光を放つ二つの穴。ぐおん、と吠えながらまっすぐこちらに寄ってくる。
「も、もぉやだ……!」
あきらはとっさに右手の廊下に走り込んだ。追いすがる気配に戦慄し、やみくもに駆けに駆け、とうとう胸が痛くなって立ち止まったときには、この、延々と続く細い通路にいた。
「もぉ絶っ対、文句言ってやる。“しはいにんをよべ!”とか言ってやるぅ」
娯楽施設などではない可能性にはとっくに至っていたが、とりあえず口に出すのはやめておいた。
肩越しにそっと後ろを見る。あの影の巨人はもういない。けれどもそれに代わる闇があった。相変わらず、彼の歩みにあわせてじわりじわりと寄ってくる。後戻りは不可能、進むしかない。
「それにしても……どこまで続いてるんだろぉ」
溜息をついた、まさにそのとき。
「来るな」
「……え?」
あきらはうろうろと視線をさまよわせた。いつの間にか、ずいぶんと進んでいたようだ。非常灯はつきあたりの天井際についており、寒々とした光の中で、通路は左に折れていた。その角から、
「聞こえねェのか、来るなってんだよ」
苛立たしげな男の声とともに、床すれすれに手がひょい、と出た。しっしっと、犬でも追うように振ってみせる。見ずとも気配でわかるのか、あきらが更に一歩踏み出したとたん、
「だから、来るなって!」
鋭い舌打ちとともに、人影が曲り角からいざり出た。
九竜・啓が『けもののきもち』のどこかをさまよっている頃、休憩室では大男の助手がしょげていた。
「僕、フツーに声かけたのです……そしたら真っ青になって奥に逃げてっちゃったのです」
「ふうん?」
おばさん院長、隨豪寺・徳は伊達眼鏡を押し上げた。
「有象無象の受信具合は霊感に比例するとして、久朗に怯えるってのはおかしな話だね。もしかすると――」
「ねえねえ! 美少年はぁ?!」
突如、飛び込んできたのはパンツスーツの美女?である。
「まだいるわよね? 年の頃なら十三、四、さらさらの銀髪に青い瞳、華奢でほわんとした感じで一見女の子っぽい美貌。ああんもう採寸してコス作りたぁい! ねえ、どこ? お手洗い? 教えなさいよ、ここに入ったのは見てたんだから!」
「うるさいのです、茂市」
はしゃぐ顔馴染みを久朗がたしなめるが、自称“恋多きシャーマン”はどこ吹く風だ。
「お黙り黒わんこ。あたしの名は魔椰よ。マ・ヤ」
「僕だって久朗なのです」
「あんたなんか黒犬クロでもお釣がくるわよ」
「おかあさん、茂市がひどいのです……!」
「はいはい、やめやめ」
院長が間に入り、いつものいがみ合いを強制終了した。
「確かに来はしたんだが、あいにく遭難中でね。それにしても、ばかに詳しいじゃないか。どこに居たんだい」
「うふん、お空で優雅に和みのひ・と・と・き♪」
「……慰霊塔のてっぺんで変なもん降ろすのやめろって言ったよね、前にも」
「だってほら、今朝から三丁目で工事してるじゃない? ちょっと毛色の変わった物件、あるかなって」
「ああ、それだ」
院長は助手を顧みた。
「ここは中洲みたいなもんだからさ、“流れ”が乱れると影響がでるんだ。だから久朗がおばけに見えたんだだろう」
「見えるも何も、実際、わんこのおばけよね」
「男おばさんも確実におばけなのです」
「なぁんですってぇ!」
「だからやめろってんだよ、あんたたちは!!」
隨豪寺の大喝で、さすがの犬猿の仲も口を噤んだ。強面院長はそのまま部屋の隅のパーテーションに歩み寄る。
「私らは迷子を捜すから、魔椰――」
「ん、コネ総動員で一旦、止めさせるわ」
「ああ、頼む」
軽やかに出て行く旧友に背を向け、隨豪寺は被せていた古シーツを引っぺがし、パーテーションを取っ払う。
「……まったく、いつ見ても邪魔っけだねえ」
クリニック中に設置した防犯用監視カメラの映像が、ずらりと並んだモニタに映し出されている。それら一つ残らずにいわゆる幽霊並びにそれに準ずるものが登場しているあたり、なかなか壮絶だ。
「おかあさん、早くあの子、捜すのです」
「ああ、わかってるよ」
カメラの向うで逆さまに覗き込む女に悪態をつきながら、院長と助手は画面のチェックに取りかかった。
あきらは目をまん丸にして、声の主を見つめていた。
年恰好は彼と同じくらいだろうか。肩口あたりまでしか見えないが、上半身は裸らしい。床に腹這いになって片手で頬杖をつき、もう一方の手でその肘を支えて、角の向う側から、無理に捻るようにして身を乗り出している。非常灯の青白い光の中、見返す顔は整ってはいるものの無表情で、人形めいていた。
「えと……だ、誰?」
「誰でもいいだろ」
やけに威勢のよいがらがら声は、外見にそぐわぬ若い男のものだ。
「ったく、よく入り込めたなァ。ナマモノ向きの場所じゃねェぞここは」
「お、俺、迷っちゃって……」
「何だそりゃ。筋金入りの方向音痴だな――いや、だからこっち来んなって。食うぞ」
「食っ……き、きみ、人間じゃない……の?」
「素直だなァ、おめェ。こんな化物屋敷の奥で床に転がってるヤツがナマモノのわきゃねェだろうよ」
ナマモノ、とは生身の人間とでもいう意味らしい。自分のせりふがおかしかったのか、“少年”は腹話術の人形のように唐突に口を開け、げらげら笑った。笑いながら、続ける。
「ワニガメって知らねェかなあ。口ん中に疑似餌を持ってるでっかい亀なんだが、おめェが喋りかけてんのァ、言ってみりゃその、ベロに生えたおとりの部分さ。だから、うっかり近寄った日にゃ……バクリ!」
顔に感情が表れない分、声に出るようだ。がさつな感じの陽気さは、しかし、あきらが心細げに立ち竦むと、たちまちトーンダウンした。
「――冗談だよ、食やしねェよ。そんな泣きそうなツラすんなって。おいら、もう悪さはしねェと決めたんだ。この、何だ、おとりに誓ってな」
「ワニガメさん?」
「勝手に名前つけんなよ。さっきのは物の喩えで……まァいいけどよ。おい、座りこんでる場合じゃねェぞ」
「だって、もう疲れたよぉ〜」
実際、あきらはくたくただった。道に迷うのはいつものこととはいえ、ホラー映画少なくとも五本分の怪奇現象に追いまくられて全力疾走なんて嬉しくも楽しくもないオプションがついたのは初めてだったから、少年改めワニガメに口調は荒いが気遣うような言葉をかけられて、つい、力が抜けてしまったのだ。
「ば、ばか野郎、そんな可愛らしく甘ったれても無駄だ。おいらァ当分こっから動けねェんだから、送っちゃやれねェ。てめェの足で立ち上がって、さっさと来た道を戻んな。真面目な話、もたもたしてたら危ねェんだ」
「うー……」
「うー、じゃねェよ。どこの仔犬だ。あのなァ、今はたまたま本流と繋がってるだけで、ここいらはただの水溜りなんだ。もう潮も引き始めてるし、とっとと戻らねェと取り残されるぞ。そうなったら、おいらに食う気がなくたってこいつらはどうだかあやしいもんだぞ」
「“こいつら”?」
あきらが言い終わらぬうちに、ワニガメが体を乗り出している壁の角、非常灯に照らされた直線が、ぐにゃりと歪んだ。太い蜘蛛の足にも似たそれらが全て通路の向こう側から掛けられた指だと気がついて、ぞっと総毛立つ。形こそ人間に似ているが、くねくねとせわしない動きは頭を振りたて糸をはく芋虫にそっくりである――彼の視線を辿り、見上げたワニガメが鋭く舌打ちをした。
「ほら見ろ、舌なめずりしてやがる。さあ、早く行けよ」
おいらァもうおとりを替える気はねェんだ、ぼそりと呟かれた言葉の意味に思いを巡らす余裕は、今のあきらにはなかった。必死で逃げてきた闇の中に単身戻らねばならぬと考えただけで、体が震えて力が入らない。
「だって……」
「だって、何だよ。焦れってェな。まさか、そんなに強い光を呑んでるってのに、この程度の暗がりがおっかねェってのか?」
「ひ、光?」
「おうよ、丹田のあたりでぴかぴか睨みをきかしてやがる。一体ェ、何だ? おめェとそっくりなような、似ても似つかないような、どうにも妙な感じだ」
ワニガメが言うのは、啓のことだろう。確かに彼と入れ換われば、事はすんなり運びそうだ――が。
「……だって俺、どうしたら交代できるかよくわかんないし……!」
途方にくれたあきらが遂に涙声になる。ご馳走を予感し嬉しげにざわめく“指”を、どのようにしてかどやしつけ、引っ込ませて、ワニガメは慌てて彼に向き直った。
「わかった、わかったから泣くなよ」
「な、泣いてないっ」
「おお、その意気だ。じゃァこうしよう。喚け。そしたらたぶん、先生が気づいてくれる」
「せん、せい?」
「ああ。おっかねェおばさんだが、おいらを踏ん潰さずに残しといてくれた人だし、ナマモノ同士だし、きっと助けてくれる……そうだ、ただ叫ぶ、ってのも芸がねェし、おめェ、歌は得意か? 大声で歌えるか?」
「うた……歌うの?――うん、できるよ。何がいい?」
「何でもいいやな。おめェの歌い良いやつで、なるったけ、声が通るのを」
「うん、わかった」
不自然な、それこそナマモノには不可能な体勢で床に寝転がっている人ならざる存在に、あきらは破顔した。これ以上怖い思いをせずに、大好きな歌で解決が図れるなら願ってもない。だから、その選択肢を与えてくれたワニガメのために歌おうと思った。
あきらは立ち上がり、服の埃を払ってから、一礼した。ワニガメはもう、茶々も入れない。神妙にしている。
あきらは胸いっぱいに息を吸い、歌った。
考えるまでもなく選んだのは、永い旅路の果てに独り病を養いながら、遥かな故郷を想う歌――合唱コンクールの自由曲候補の一曲だ。「湿っぽい」という意見が多数を占めて選からは漏れたが、綺麗で、せつないこの曲は、彼のお気に入りだった。
清涼で硬質な調べは、魔窟にも似た澱んだ空間を満たしてなお収まりきらず、外へ向かって響き出た。
あきらは心を込めて歌った。救助の呼びかけとしてではなく、歌を歌として歌った。
最後のリフレインに被さるように、くすんと鼻をすする音が聞こえたような気がした。
「……あ、れ?」
ぽかりと開けた視界は、眩しいほど明るかった。
「おかあさーん、気がついたのです!」
傍らのよく響く声に、あきらは顔を向けた。気の毒なくらい白衣の似合わない、色黒でぎょろ目の大男がにこにこしていた。
「僕、もうおばけには見えないのです。ね?」
やぶからぼうにそんなことを言われ、きょとんとしていると、反対側から名刺が差し出された
「はぁい、美・少・年♪ちょっとおねーさんとコスプレしない?」
つられて受取る前に、その派手なパンツスーツの長身美女?から、大男が名刺をひったくって破り捨てた。
「病み上りに生物兵器は国際条約違反なのです。ノーモア・茂市」
「おかあさーん、クロがひどいのぉ……!」
状況がさっぱりつかめず、簡易ベッドの両側でやりあう男女を交互に見比べていたあきらを救い出したのは、乱暴にドアを開けつかつかとて入ってきた色黒強面のおばさんであった。
「うるっさいね、あんたたちは。あっち行っといで!」
一喝して二人を放り出した恐ろしいほど白衣の似合わないおばさんは、やれやれと肩をすくめると、今の怒鳴り声のあおりをくらって耳がキンキンしているあきらを見やり、二カッと笑った。
「災難だったねえ。すぐに気がついてやれなくて、ごめんよ」
「いえ……」
「うちはまあ、幽テキ御一行様の集会所みたいなものでさ。いつもは痛くも痒くもないんだが、今日はちょいとトラブっちまったようでね」
そのとき、あきらは気がついた。白衣の袖を捲り上げた両腕が、長い指の痕がくっきりとついた痣や、引掻き傷で埋まっている。刹那、思い出すのはあの芋虫もどきの指――この人が“おっかない先生”だとすると――
「わ、ワニガメさん、ワニガメさんは?!……おばさ、あの、先生、ふ、踏ん潰しちゃった?!」
「ワニガメぇ?」
一瞬めんくらった後、あああれね、とおばさんは苦笑した。
「あいつめ、人を怪獣みたいに……踏みゃしないよ、悪さ、しなかったろ?」
トラブルの元を魔椰――あの姐さんね――が止めて、あんたの歌を久朗――さっきのおっちゃんね――が聞き当てて、で、私――院長の隨豪寺でございます――が疲れて目を回したあんたを拾って来たのさ、そう語る院長に、あきらはベッドから飛び起き、遅ればせながら礼を述べた。
「ああ、いいっていいって。こっちの不手際で、怖い思いさせちまったんだから」
言いながらも、院長はいかつい顔をほころばせた。
「ワニガメは、もといた沼に帰ったよ。あんたの歌がよっぽど嬉しかったんだねえ、『ありがとう』ってさ。あれに出くわしたのが、あんたでよかったよ」
「それは……」
どういう意味ですか、と訊こうとして、あきらはやめた。当事者達が語らないことを、詮索すべきではないのだろう。だから、言い直した。
「またいつか、会えますか?」
「そいつぁ“流れ”の加減によるが、ま、今度見かけたらよろしく言っとくよ。……ん」
はたと気づいた風に、院長が言った。
「ときに、うちには何のご用?」
「あ。えと、あのぉ、実は……」
結局その日、あきらは院長運転のデコトラでご帰宅あそばしたのであった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【5201/九竜・啓(くりゅう・あきら)/男/17歳/高校生&陰陽師】
【NPC/隨豪寺・徳/女/54歳/動物心霊療法士】
【NPC/只乃・久朗/男/50歳/助手権雑用係】
【NPC/織女鹿・魔椰/男/47歳/パートタイム・シャーマン】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、九竜・啓様。
まずは納品が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
この度は『けもののきもち』ご来院、ありがとうございました。
動かし方はおまかせということで、やや暴走気味になってしまいましたが、
いかがでしたでしょうか。
あきら様が歌が上手いという設定がどうしても使いたくて、天使の歌声をご披露いただきました。
またご縁がありましたら、よろしくお願い致します。
三芭ロウ 拝
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